かのライブから週が明けた昼休み。例の校舎の隅の物置で、後藤さんはさめざめと泣き腫らしていた。
「アルバイトですか。伺う話によるなら、貴女だけ働かない訳にもいきませんよね」
「ううっ、バンド活動がこんなに過酷だったなんて……」
ライブハウスのチケットノルマ、その他諸々の活動費捻出のため、結束バンドの面々はあのライブハウスでアルバイトに従事しているという。
その義務は新入りの彼女も例外ではないらしく、『楽しい事が待っている』筈だったバンド活動をひどくしょうもない理由で悲観していた。
暫くの間そのまま唸っていた後藤さんだったが、はっと何かに気付いたように前のめりになる。
「お、お願いします! 私はこれから体調が悪くなるので、今日のバイト、代わってください!」
「お断りします」
「そ、そんなぁっ!? こ、こんなか弱いぼっちを見捨てるんですか?!」
見捨てるも何も、アルバイトの初回から仮病に協力はできないだろう。初回でなくとも駄目だが。
というか「これから体調が悪くなる」とは一体なのなのやら。先程から鳴り響く「風邪引け風邪引け」という姑息なシャウトに相反した怒涛のギターリフ。それは相変わらず素晴らしいものだったが。
ともかく、ひとしきりかき鳴らした彼女は自棄っぱちで僕の腕に縋りついた。
「な、なら、せめて一緒について来て下さい! この間も一人だけ帰っちゃったんですから! 虹夏ちゃんの呼び出しも無視して!」
「それこそ、僕が貴女方のバンドミーティングに参加する義理もありませんし」
仰る通り、少し前に後藤さんを通して伊地知先輩から呼び出された。が、その時は
そうかぶりを振った僕の腕をかき抱いて、後藤さんはこちらを見上げる。雫となってこぼれ落ちてしまいそうな、その青い瞳。
「……」
「……わかりました。ついて行くだけですからね」
まったく、僕はこの手のアンコールには弱かった。
放課後のライブハウス・STARRY。ドアの前で右往左往する後藤さんを引き入れるのに多少手を焼いたが、それはさておき。
「ふーん、新しいバイトね。そういえば虹夏がそんなこと言ってたわ」
初出勤の新人アルバイトである後藤さん、そしてその付き添いとして並ぶ僕の前にいらっしゃるのは、伊地知先輩の姉であり、このライブハウスの経営者でもあるという伊地知星歌女史。紛らわしいので、以後店長とでも呼ぶとしよう。
彼女は記憶を辿っているのか、こちらへ胡乱な目を向ける。
僕としては後藤さんを送り届けた時点で帰ってしまってもよかったし、そのほうが後の面倒も避けられそうではある。とは言うものの、彼女の性質を思えば店長との顔繋ぎ、その手助けくらいはしてもバチは当たるまい。
「というか、アレだ。お前ら虹夏と一緒にライブやってたギターとキーボードじゃん」
「はっ、はいっ……」
「ギターちゃんはまあ、次の時にはまず前向いて弾けるようになりな。あの状況で緊張するなってのも酷だとは思うけどね」
「は、はい!」
そう思っていたのだが、引っ込み思案の少女の緊張は丸わかりだったのだろう。少々つっけんどんな助言でそれを解きほぐした店長に、後藤さんも少しだけ表情を明るくする。
「んでキーボード君は、逆にリズム組を振り回しすぎ。ベースは乗っかってたにせよ、ありゃなんだ。まるでジャズピアノじゃないか」
「ほう、御明察。ロックの体を壊さないよう、極力ジャズの要素は抑えたつもりだったのですが」
「舐めんな。基本的なリズムはまだしも、即興部分の構成はジャズそのものだったろうが。ってか、今そういう話をしてんじゃないんだけど」
対照的に、僕には呆れ混じりの苦言。
まあ、指摘自体は至極真っ当である。僕がかつて学んだ技術体系はピアノであってキーボードではないのだから、素人にお行儀の良さを期待されても困るというものだ。
勿論、分かった上で混ぜっ返しているのだが。
「あの場の主役は後藤さんでしたからね。邪道だろうが何だろうが、彼女が引き立てばそれで良かったのです」
「えっ、わ、私?!」
「やっぱり確信犯かよ。虹夏も面倒な奴を巻き込んじまったな……」
あの時の僕の目的は、後藤さんのギターの力を引き出すこと。他人の評価に一喜一憂するほど初心でもないが、彼女のギターは、あの夜の演奏は正しく評価されるべきだと思う。
まったく。僕も殊の外、あの演奏には思い入れがあったらしい。
「ジャズピアノ改め水木南と申します。その評は褒め言葉として受け取っておきますね」
「居直りやがって……。なんだこいつ」
そして僕如きの非才の身にあっては、どこかに割りを喰わせるのはやむを得まい。伊地知先輩には悪いが、これは所謂コラテラル・ダメージという奴だ。そう肩を竦めると、店長はこめかみに青筋を浮かべて軽く頬をひくつかせた。
「あーっ?! 逃げたピアノ!」
噂をすれば何とやら。頭上──このライブハウスは地下にあるため、入り口は階上となる──から響く、甲高く裏返った叫び声。後藤さんを紹介して疾く退散するつもりが、少々雑談が過ぎたようだ。
「人聞きの悪い物言いはやめて頂けませんか? あとあの夜弾いたのはキーボードです」
「やかましいわ! なんで何も言わず帰っちゃうかな?! バンドミーティングも来ないし!」
「まったく、協調性もあったもんじゃない。これだからZ世代は」
「世代も何も一学年差だし、協調性はリョウも他人のこと言えないでしょ」
揶揄に激昂しながら駆け降りてくる伊地知先輩。山田先輩も大仰な仕草で揶揄を飛ばしたものの、後者は自らを棚に上げた発言のようだった。
「返す言葉もございません。あの日は碌なご挨拶もできず、申し訳ありませんでした」
「はあ……。もういいけど、次からは一言くらい言ってよね。バンドミーティングにもちゃんと参加すること」
彼女も隣からの茶々に威勢を削がれたらしい。素直に頭を下げれば、伊地知先輩は疲労困憊したように項垂れて、深く溜息を吐いた。
「パスってありですか?」
「パス?!」
「アレだけやらかしといて今更他人面するのか」
しかし前も述べた通り、彼女達の音楽活動に乗るかどうかはまた別の話である。
どさくさ紛れにメンバー扱いしてきたドラマーへ両の掌を返してみせると、彼女は面白い程大仰に目を剥いた。ベーシストにも呆れた顔をされたものの、勝手に頭数に入れられても困る。
「おいお前ら、くっちゃべってないで働け。……で、虹夏。新人の子はどっちなの?」
「へっ?」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ我々の間に割って入った店長に、伊地知先輩はキョトンと声を漏らした。そういえば、付き添いだと自称していなかったな。
「……」
「……」
こちらに振り向いた先輩と数瞬向かい合う。彼女はその猫の眼のようにした瞳を、僕から店長へゆっくりと戻し。
「……フタリトモダヨ」
僕から顔を背ける形で、油の切れた機械の如く抑揚に乏しい声で答えた。
「……はっ! バイトの人は水木くんです!」
「いや働くのはぼっちちゃんもだから」
そんな話は聞いていない。そう抗議する間もなく、伊地知先輩の意図に遅ればせながら気付いた後藤さんも便乗して、労働を僕に押し付けようとしていた。
気持ちは分からないではないが、流石に往生際が悪すぎるのではないだろうか。
「じゃあ、後でまた話すからね! 逃げたら今度こそ許さないからね!? 」
「帰らないでください! 見捨てないでください!!」
「はよ行け」
「……はあ」
こちらを指差し、唾を飛ばす勢いで念を押す伊地知先輩。彼女は店長の催促で渋々、必死の形相で懇願する後藤さんを引き摺ってカウンターのほうへと歩いて行った。
……後、か。面倒事の予感しかせず、正直今から気が重い。
「で、結局どうすんの? お前もここで働くなら、それは構わないけど」
「本来のアルバイトは後藤さんなのですが……」
とはいえ、この後予定がある訳でもなし。時間を潰すにしても、後藤さんのあの様子では、外に出ていくそぶりだけで泣いてしまいそうだ。
……伊地知先輩については、その気は無いと改めて伝えるだけか。
「差し支えないなら、今日一日だけお手伝いさせて頂けませんか。アレを無碍にしたとなれば、流石に後が怖そうだ」
「あー、……虹夏がすまん」
僕の申し出に事情を察したのか、店長は苦い顔で頭を抱えた。
任せられた業務はといえば、先ずはフロアの掃除。それなりに広いライブハウスとはいえ、汚れも酷くはなく、一人で済ませることも難しくないように見える。実際、山田先輩も一足先に掃き終えて手持ち無沙汰にしていた。
「今日は週始めだから楽なほう。週末とかイベントの後はそれなりに大変」
「なるほど」
「イベント終了が延びることもよくある。私や虹夏は近くに住んでるから平気だけど」
中学時代の知り合いがいない場所に進学したい。
そんな、極めて後ろ向きな理由で片道2時間掛けて通学している後藤さんを思い起こす。彼女がバイトを嫌がるのは、帰宅が更に遅くなってしまうことも一因なのかもしれない。
そんな風に屯していた所に聞こえてきた、軽妙な弦楽器の音。追い詰められ、切羽詰まった歌声がそれに乗っている。
──カクテルは~♪ 棚右端から~♪
──テキーラ ウォッカ カルーア、ラム♪
「ん?」
「後藤さんか。弾き語りでドリンクを覚えようとは、彼女らしい」
歌詞そのものはカクテルの材料の羅列に過ぎず、大した意味はない。
けれど、その旋律と歌声からは小動物──ツチノコと、メンダコ、怪獣の着ぐるみ?──小動物と言えるかはともかく、それらが半泣きしながらもえっちらおっちら酒瓶を運んでいる。まるで童話の一場面のような牧歌的な光景が連想された。
本人は全く真剣に、大変な思いで仕事を覚えようとしているのだろう。それは声色からも伝わって来るのだが、旋律の美しさとの落差がどこかシュールで、絵本の1ページのようにも聴こえる。そんなコミカルで愛嬌のある弾き語りだった。
ああ、やはり彼女は素敵だ。これでは僕のほうが先にカクテルを覚えてしまう。
微笑ましい感慨に浸っていると、隣では山田先輩がその弾き語りの技巧に目を白黒させていた。鳩が豆鉄砲を食らったようだと、なぜか僕のほうが少し誇らしい心持ちさえ覚える。
「えっ、歌はともかく、これ本当にぼっち?」
「あの時は色々悪条件が重なっていましたからね。こちらのほうが、彼女本来の実力に近いのだと思いますよ」
「あー、……なるほど。今度の後輩共は、一筋縄では行かないな」
先日の取り乱しぶりを思い出したのだろう、幾ばくか目を細めた先輩も得心が行ったと苦笑いを浮かべた。
実際、ただでさえ初めてのライブがほぼぶっつけ本番。音合わせどころか、僕も含めて当日まで顔も見知らぬバンドメンバー。先日のライブは後藤さん自身の人見知りを差し引いて尚、過酷な状況とは言わざるを得なかった。
しばらく後藤さんの演奏に聴き入っていた僕達だったが、不意に山田先輩が口を開く。
「水木は、ぼっちのこと好きなの?」
「は?」
思わず、素っ頓狂な声が出てしまった。
「だって最初から侍らせてたし、今も後方彼氏面してたし。ライブに出たのだって、ぼっちを助けるためだったでしょ」
「後方……? アレは、自分が高く評価したものを貶されるのが気に入らなかっただけです。侍らせる云々は冗談に決まっているでしょう」
「ベジータみたいなこと言ってる」
そのザマに何を思ったか、面白そうにこちらを弄ってくる山田先輩。何を勘違いしているのか知らないが、演奏の邪魔をしないで頂きたい。
後藤さんのギターを高く評価しているのは事実だが、だからと言って惚れた腫れた、という話にはなるまい。彼女に失礼だ。
という僕の返答を雑に流した彼女は、しかしべそをかきながらギターを弾き語る後藤さんの姿を興味深そうに眺めている。
「はいはい。でも、実際変な奴だよね、ぼっち」
「凄腕のギタリストであるかと思えば、みんなの前ではその腕を全く発揮できない。観客に背を向け、震えている癖に──」
「逃げなかったね、最後の最後。……水木がぼっちのこと好きなの、分かるかも」
背筋を走る冷気と、胸で軋みを上げる熱。どちらからともなく、視線が交わる。
後藤ひとり。
確かに、変と言えば変な人物だ。初めて会ったあの時もそうだった。彼女ほどのギターの腕前を以ってすれば──実のところ厄介な制約条件はあったのだが──本来、そのささやかな願いは容易く叶えられたはずなのだ。
そんな彼女は、なのに薄暗く埃被った物置でしか歌えない。どんなに優れた人物であっても、側から見れば一見些細な、しかし本人にとっては切実な悩みや弱さを抱えている。
そして彼女は震えながら、それでもギターを手放さなかった。
「でも、分かってる? ぼっちは……」
「仕事しろ。んでリョウと……水木も、手伝いとはいえここで働いてる以上はボサッとするな。掃除終わったんなら受付の準備な」
「……いや、いいか。じゃあ説明するから、こっち」
問い掛けは店長の叱責によって途切れた。
その金色の瞳を面白くなさそうに顰めた山田先輩だったが、元々大した意味合いもなかったのだろう。僕について来るよう促し、入り口の受付へと歩を進めた。
開場してライブが始まり、そろそろチケットを求める足も落ち着いてきた頃。山田先輩と共に淡々とチケットを切る作業を進めていた僕の下に、店長が足を運んできた。
「うわっ、何の愛想も何もないなこいつら」
余計なお世話である。
「まあいいや、こっちはあたしでやっとくから、下でライブ聴いてていいよ。今日のバンド、クオリティ高いから勉強しな」
「分かった、ありがとう店長。水木も来なよ」
店長は僕達の様子に嫌な顔を浮かべつつも、山田先輩と僕にフロアに降りるよう促した。実際、バンドとして活動している先輩方や後藤さんにとっては、勉強場所としての側面もあるのだろう。
ただ個人的には、あまり食指が動かなかった。
「僕は遠慮しておきますよ」
「そうか。こいつの面倒はこっちで見とくから、行っといでリョウ」
「……うん。後、よろしく」
店長の言を否定する訳ではない。今演奏しているバンドも、今少しの洗練が加わればメジャーデビューも十分狙える。そのくらいのクオリティはある。
しかし、それも今の僕にはどうでもいい。一応は自分から申し出た仕事を放り出してまで、フロアに降りるほどの興味は湧かなかった。
山田先輩は僕を放置することに多少逡巡したようだが、直ぐにこちらへ背を向けた。彼女と入れ替わりに、店長が隣に腰を下ろす。
「さてと、今日は悪かったなキーボード君。日割りの給料は出すからさ」
「ジャズピアノ、もとい水木です。お気になさらず。流れとはいえ、僕から申し出た話ですから」
「実際、手際が良くて助かったよ。ギターちゃんは慣れるまでちょっと時間掛かりそうだし」
接客業はあまり経験がなく、上手く行かないこともあるだろうとは思っていたが。臨時のアルバイトとしては、概ね彼女のお眼鏡には適ったらしい。
「あとはもうちょい愛想が良ければ文句ないんだけど」
「ご容赦ください」
「即答かよコイツ」
業務に直接関係しない要求にはお応え致しかねる。
「それでお前、虹夏のバンドに入る気ってある?」
軽口の合間、数瞬の切れ目。差し向けられた、切れ長の赤い瞳。
「さっきみたいな強引な勧誘すんな、とは言っとくけど。正直、虹夏の気持ちも分かるんだよ」
「所詮ジャズピアノなのでは?」
「茶化すな」
僕の揶揄に不機嫌そうに眉を顰めた彼女は、目を閉じて溜息をひとつ。タバコいい? などと形だけ確認しつつ、口元の紙巻き煙草に火を灯した。
「あのライブのシンデレラがギターちゃんなら、魔法使いは間違いなくお前だった。技量もそうだが、あの子が持ってるポテンシャルを引き出して、
ふう、と吐息に合わせて紫煙が広がる。煙の味に浸るように虚空を見上げながら、店長はどこか陶然とあの演奏を物語った。
「その才能、埋もれさせとくには惜しい。こんな商売やってると、どうしてもそう思っちまうんだよ」
「先輩方と後藤さんの力ですよ。そして僕はもう、ピアノに触れるつもりもない」
「なら、お前があの場に立ったのはなんでだ」
「あの子に何かを見出したから、お前は鍵盤を叩いた。そうじゃないのか」
店長の口元でわずかに揺れる残火。紫煙の匂いに思わず、僅かに目を逸らした。
「確かに、僕は弾き鳴らさずにはいられなかった」
彼女の指摘は正しい。
即興演奏だのジャズピアノがどうだのとは、後からの理屈でしかなかった。後藤さんが怯えながらも必死にライブに出ようと震えるその姿を見て、どうしようもなく心惹かれた。
あの時もそうだった。
身体が、指が、何か大きなものにおのずから動かされる感覚。「正しい演奏」、それこそが僕の役目だったはずなのに。
『そこに南がいないなら、まず水木南の演奏として正しくない』
あの時はそんなもの、どうでもよかった。
「それだけでいいと思えた」
「……『それだけでいい』、か」
傍で独白に耳を傾ける店長の赤い瞳。それが何によってか潤んで、揺らいだ。その揺らぐものを支えるためか、それともその揺らぎに身を任せ、どこかに戻っていくのだろうか。もう一度深く紫煙をくゆらせ、その眼を閉じた。
──それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い!
きっとこの人もそうだったのだろう。その確信だけで胸が震え、僅かに目頭が熱くなる。
しかし、所詮は午前0時で解ける魔法。一夜限りの御伽話に過ぎない。
「どうでもいい訳ないだろう。……僕は間違えてしまった」
左手が冷たく痺れる。血液が凍り、結晶が神経を突き刺す。電灯から橙色が消え失せ、過去が脳髄を内側から刺す。
胸に芽生えた二つの子葉。
かつての僕の幼い希望。
向き合わなければならなかったものから、僕は目を背けてしまった。正しい演奏ではいられなかった。あの人とも、もう二度と会えなくなった。
そんな僕が、今更どの面を下げて鍵盤を叩くというのだろうか。
頭上で、軽く音が弾ける。
「……何のおつもりで?」
「ホント可愛げのねーやつだな。──決めた。お前、これからも此処で働け」
隣から振り下ろされる手刀。思わず腕で受けると、店長からは呆れたような叱責が飛んできた。その理不尽さに、毒気と冷気もどこかへ霧散してしまった。
「お前が何をやったのかは知らんし、敢えては聞かん。ただ」
彼女はすっくと立ち上がって、呆気に取られた僕を見下ろした。
「『バンドがあって、仲間がいて、そこに夢が存在して』。『私の世界はそれで十分。それだけでいい』──今は、また違う想いもあるけどな」
「……」
「だけどお前が感じただろうそれは、あたしもそうだった。いや、きっと全てのロックンローラーがそうなんだ。それさえあれば、何も怖くないんだ」
それだけは、きっと間違いなんかじゃない。
彼女の経歴は知らない。彼女が何を以て音楽に関わり、何を以てライブハウスのオーナーに収まったのかはわからない。けれど、そこには確かにその道の先達としての膂力と矜持があった。
「というか、だ」
「紛いなりにも音楽で飯食ってる身として、たかが15のガキが勝手に幻滅して腐ってるのは気に食わん!」
「ここはあたしが作ったあたしの城だ。ウチに来たからにはキッチリ楽しんで帰ってもらう。それは観客もバンドマンも、スタッフも同じ事だ」
腕を組み、気炎と共に放たれた啖呵。
「だから煮え切らないお前が音楽をしなきゃいられなくなるまで、側で見てればいいんだよ。好きなんだろ? ギターちゃんのこと」
あまりに直裁な物言い。店長はニヤリと、勝ち誇るような笑みを浮かべる。矮小な僕に対するロックンロールの勝利だった。
「キザなこと言うよね、店長」
「山田先輩」
「チッ、似合わないことやってんのは分かってるよ」
階下から現れた山田先輩。クスクスと可笑しそうに口元を隠した彼女に、店長はバツが悪そうに顔を赤らめて目を逸らした。そのまま椅子に座り込んで、声もなく呻いている。
揶揄する気にはなれなかった。先輩もその様子に、仕方ないとばかりに柔らかく微笑む。
「私も水木が入ってくれると助かるかな。お前がいるとライブが聴ける時間が増える」
「おいコラ、リョウ」
直ぐさまサボり宣言をかます辺り、先輩も中々の御仁のようではあったが。青筋を浮かべた店長を放って、金色の眼差しが此方を見据えた。
「私と虹夏だけじゃ、あんな演奏はできない。悔しいけど、ぼっちがあの演奏の中心だった。……でも、ぼっちが頑張れたのは水木がいたから」
「私達にはぼっちが要る。なら、お前も要る」
彼女も大概油断ならない相手だったとはいえ、結果的には脇役にしてしまったことも否めないか。そしてそれは、その技量や感性に相応するはずのプライドをいたく刺激したらしい。
僅かに唇を噛み、真っ直ぐ刃を向ける山田先輩。それは嫌いではないし、そして。
「後藤さんが要るから僕も要る、か」
失笑が漏れる。
なるほど、それは僕には説得的だ。僕はあの演奏が最後で良かったし、今更ピアニストとしての面目もない。だが──
『私を結束バンドに引き込んでおいて、水木くんだけ満足して、行っちゃうなんて嫌です! 意地悪です!』
あの子にそう言われてしまったのだから。
繰り返すが、演奏家とは聴衆の無邪気な喝采の前には全く無力なものなのだ。
「このツンデレクソ野郎」
「ああハイハイ、分かった分かった。堂々と惚気やがって」
だというのに、そのあからさまに白けた空気は何なのか。思わず閉口した僕に、山田先輩はその眼光を鋭くする。
「あと、あそこまで好き勝手しておいて今更勝ち逃げは許さない」
「後ろから刺すベースが言えたことですか。まあ、刺激的なセッションではありましたがね」
「言ってろ。直に乗せてみせる」
面倒くさそうに舌を鳴らしつつも、山田リョウは蠱惑的に笑みを深める。そのまま、こちらに背を向けて階段を降りていった。……好敵手、ね。
思いがけず因縁が出来てしまった訳で、眩しいものを見るような隣からの視線も居心地が悪い。しかし、胸に残るこの熱の余韻は悪くはなかった。
「ってな訳で、正式にバイトとして働くことになった水木南君だ。みんな、よろしくしてやってくれ」
その日のライブがすべて終わった後。スタッフ一同を呼び集めた店長は、僕の肩をバシバシと叩きながら一方的に通告した。今更異存はないが、発表前に一言くらい言っては頂けないだろうか。
「はあっ!? お姉ちゃんいつの間に?!」
「まだ営業時間だ、店長と呼べ。それにお前にとっても悪い話じゃないだろ?」
「そ、そうだけど。なんか釈然としないなぁ……!」
あまりに唐突な展開に素っ頓狂な声を上げた伊地知先輩にも、店長はまるで悪びれない様子でニヤつくばかり。先輩にとっても不都合な話ではないためか、文句も今ひとつ歯切れが悪い。
「み、水木くん……!」
「ああ、後藤さん。別にシフトを代わったりはしませんのでそのつもりで」
「水木」
「山田先輩も同じですから」
「ちょ、ちょっと水木君。話が見えないというか、どういう経緯でそうなったのさ」
露骨な期待を目に浮かべた難儀な二人は捨て置くとして、店長と話しても埒が明かないと思ったのだろう。こちらへ水を向けた伊地知先輩、彼女には悪いが。
「先輩ロックンローラーから薫陶を頂いた。それだけですよ」
なんとなく、あの時間は語らないままにしておきたかった。
さて。気の重さは未だあるが、こうなった以上は一応なりとも答えなければ不誠実というものか。未だ困惑しきりの先輩に向き直る。
「それで、貴女方のバンドへのお誘いについて」
「その、お姉ちゃんは「今はそっとしておいてやれ」って言ってたけど。どうしても駄目かな」
深呼吸をひとつ。……赤い瞳は姉譲りか。
「僕は先の演奏でそこそこ満足してしまったのです。今は、あれが最後でいいと思う程度には」
あの色と熱とで十分すぎる。今の僕の率直な答え。
伊地知先輩は尚言い募ることはしなかったが、それでも諦めきれないらしい。ぎりと歯を食いしばって、僕を見つめ返している。
「……あの、虹夏ちゃん。そ、その……」
「虹夏。店長も言ってたでしょ、あんまり無理強いするもんじゃないって」
「ぼっちちゃんに、リョウまで」
まったく、こんな逸れピアニストのどこに拘ることがあるのやら。内心で少しばかりの苦笑を堪えていると、割って入ったのは後藤さんと、意外にも山田先輩だった。
「水木は「今は」としか言ってない。このクソ野郎が「入れてください」と泣いて懇願するようなバンドになればいい。ね、ぼっち」
「あっ、は、はい! 水木くんが、音楽がないと居られなくなるような、そんなバンドに、し、しましょう!」
実に清々しい笑顔を浮かべた山田先輩。盛大に悪意が込められたその物言いに若干引きつつ、後藤さんも繰り返した、あの夜の言葉。
さりげなく視線を合わせれば、彼女は困ったように眉尻を下げた。この左手。他人に口外したいことではなかったものの、彼女が言うなら仕方がない。
そう思っていたが、どうやら後藤さんには気を遣わせてしまったらしい。ならばこちらも多少の歩み寄りは必要だろう。店長への義理もある。
「その代わりというのも変ですが、雑用程度なら何時でもお呼びください。「傍で見ていろ」とも言われましたし、後藤さんも心配ですしね」
「み、水木くん……!」
「まったく、このツンデレクソ野郎」
「はあ。分かった、分かったよ。「今は」それでいい」
「でも、リョウやぼっちちゃんの言う通りだからね。首を洗って待っててよね」
きっとそうなることはない、今も左手から走る冷たい痺れ。けれどもこの時だけは、その痺れを感じないふりをしていたかった。
なお、後日談として。
直後、昼間の予言通りに熱を出した後藤さん。彼女をご自宅まで送り届け、更には彼女が当初入るはずだったシフト全てを代わる羽目になった。
『これから体調が悪くなるので、バイトを代わってください!』
後藤さんの言が図らずも実現してしまったのは嘆けばいいのやら、笑えばいいのやら。
彼女を送り届ける際にも色々あったのだが、これを語るのはまた別の機会とさせて頂きたい。