いつもの校舎の隅の物置ともまた違う、外れにある通用口のひとつ。午前中の今は陽も当たらない、湿気が籠る校舎裏。ある意味では、そこに逃げ込んだ少女の性質にも近しい陰気な場所。
精々裏方担当だろうとたかを括っていたら、まさか文化祭一日目、女子の全員がメイド服を着ての接客担当だったとは。不測の事態に思わず逃げだしてしまった後藤ひとりは、そこで半身を物理的に蕩かせながら慄いていた。
「め、迷惑かけるし、戻らなきゃ……。で、でもみんなにこんな格好見られるの、は、恥ずかし過ぎる……」
暫く頭を抱えて寝転がっていた彼女は、失望に染まった薄暗い目でおもむろに携帯端末を取り出す。そしてぶつぶつと独り言を呟きながら、そこに映るインターネットの書き込みへ現実逃避を始めた。
「久しぶりにコメント見たけど、やっぱり私の動画のコメント欄はあったかいな……。優しいコメントしかない」
以前にも述べていた、アップしているという動画のコメント欄を読みながら落涙する少女。
しかし、ヘッドドレスを靡かせ嘆いてみせる。おお、後藤ひとりよ、情けない。最後の最後には逃げないのが貴女の良いところではなかったのか?
「現実のコメントが冷たい! せ、戦略的撤退! 戦略的撤退です! というかいきなりメイド服を着ろって言われたって、誰だって困るじゃないですか!?」
それはその通り。とはいえ、彼女の場合クラスの催しの決定の場には居合わせたはず。幾らでも反対意見は述べられたのでは? などと正論は幾らでも浮かぶものの、彼女が恥ずかしがるその感情はむしろ同調できるものだった。袖に纏わり付く無駄な装飾が鬱陶しい。なるほど確かに堪忍袋の緒であったり、羞恥の感情というものは禁じ得ない。
「で、ですよね。め、メイド服なんて、私には似合わないし」
不意に溢れ出た嘆息に、後藤ひとりもまた自虐の籠った苦笑を重ねる。まったく、この重苦しい黒白の腰布が憎らしい。
けれど、何も彼女が謙遜することはない。確かにいつものジャージ姿も似合っているが、その些か愛嬌が誇張された給仕服の姿も、少女が纏えば十二分に可愛らしい。
「えっ?」
おお、見よ。桜色にしなだれる長髪を白一点で纏めるヘッドドレス。これ見よがしに豊満さを誇示する胸元を、しかしシックな黒いリボンが引き締める。さりとて、少女らしさを損ないはしないエプロンに黒いスカートのコントラスト。そして太腿の柔肌とソックスの白く眩い落差がまこと目に毒である。
彼女の素の愛らしさ、鋭さも内包した端麗さ。それと常人ではあざとくなりがちなメイド服の甘さとが、かえってお互いを引き立たせてやまない。更には、普段の垢抜けなさとのギャップもまた一塩。素晴らしい。
「そ、そうですかね? そこまで言われちゃうと、え、えへへ……」
此方の賛辞に、数瞬の間輪郭を蕩かせながら照れ臭そうに頬を掻く少女。……その数瞬後、はっ、と頬を染めて身体を掻き抱き、彼女はようやくこちらに向き直った。
「って、あっ! ま、またセクハラみたいなこと! 水木く……ん???」
……なのだが。
此方に期待した何かとは異なるものを見出したのか、瞳に明らかな疑問符を浮かべた後藤ひとり。いっそ可愛らしく首を傾けて困惑しているが、はて、何か変なものでも見たのだろうか。
「? あれ……? な、なんかおかしい? おかしいはずなんだけど、……おかしくないのが、おかしい? あ、あの、だ、……誰……?」
「後藤さん! それと……メイドさん?」
「おーい、ぼっちちゃん! やーっと見つけた……と、あの子も同じクラスの子かな?」
「……いや、虹夏、郁代。ちょっと待て」
目を白黒させつつ、おずおずこちらへ手を伸ばしては引っ込める後藤さん。
その背越しに見えるのは、丁度彼女を探しに来たらしい喜多さんと先輩方。ただし山田先輩は無駄に勘が利くらしい。彼女等を抑え、思案気に様子をうかがう仕草をした。
胸元のリボンを整え、重ね着が空気を孕み広がる。その不快な感触を務めて無視して、後藤さんの隣から立ち上がる。嗚呼、自暴自棄にロングスカートの裾を持ち上げ、内心ヤケクソ気味に慇懃に傅いてみせる。
この僕が誰かと訊かれれば——。
「秀華高校一年五組所属、学籍番号N310E23。水木南と申します」
「えっ?」
「えっ?」
「えっ?」
少しの沈黙の後、校舎裏に三人分の悲鳴が響いた。
「「「……えええええええーっ!?」」」
フレンチスタイルが良い意味であざといぼっちに対して、実用性重視のヴィクトリアンスタイルか。なるほど、適度に身体の線を隠しつつ、素材のスタイルの良さが硬質な清楚さにまで昇華されている。
反面、そうした機能美的なファッションはともすれば冷たく、素っ気無い印象を与えがちなもの。けれど各所に控えめに添えられた白いエプロンドレスの装飾が冷淡さを和らげ、機能だけではない秘められた花の美しさを覗かせる。
確かに良い仕事だ。良い仕事だけど。
「──キッショ。なんで似合うんだよ」
「人聞きの悪い物言いはやめて頂けませんか?」
山田先輩による余計なお世話極まる批評、のような罵倒。それは置いておくとしても、困惑の中に黄色い声が混じる喜多さんと伊地知先輩にも自ずと苦虫が噛み潰された。
「えっ、水木君!? 本当に!? なんでメイド服なんて着てるの!?」
「しかもキッチリ着こなしてるし。念のため確認しとくけど、普段は一族の因習とかで男の子として振る舞ってる、とかじゃないんだよね?」
「何度確認した所で、僕の性別は男性です」
文化祭がまだ始まってもいないにも関わらず、ずっしりと肩に乗る疲労。それを務めて振り払おうとかぶりを振るものの、灰色の憂鬱はまったく離れてはくれなかった。
「この格好については、昔取った杵柄という奴ですね。母に感謝は一切しませんが」
「ウケる」
「ええ……? あの、ど、どうしてそんなことに……」
「……話せば少々長くなります」
無責任に揶揄を顔に浮かべた山田先輩に、こちらから盛大に身を引いた後藤さん。というか彼女は彼女で、僕が彼女のクラスメイトに呑まれる姿を見ていなかったのだろうか。
事の発端は後藤さんの定期考査対策だ。過去の試験問題を集めるための交渉相手に、二組の同級生がいたことがきっかけである。
『お姉ちゃんに聞いてみるのはいいけど、謝礼ねえ……。あっ、そうだ文化祭! 二組はメイド喫茶をやるんだけどさ……』
曰く、服飾のレンタル分で予算を大方使い果たしてしまい、碌な軽食のメニューが用意できなくなってしまったのだという。一応は飲食店であるにも関わらず、なんともはや。いくら謝礼とはいえ、文化祭の軽食を僕に調達しろと言われても普通は無理である。
『そりゃそうだよね。ごめんごめん』
『ですが』
言うだけ言ってみただけとばかりに苦笑した彼女に、しかし待ったを掛ける。
僕が所属する五組もまた軽食を売る屋台を開くというのだが、内々の話、どうも必要以上に多く材料を発注してしまったらしい。他所を笑えないどんぶり勘定ではあるものの、我々としてはむしろ好都合である。
『例えばそちらの教室に、我々五組の売り場の出張所のようなものを置く。そのような業務提携の提案はできるかもしれません』
五組としては赤字にはならないとしても、販売機会が増えるに越したことはない。二組は提供できるメニューが増え、五組は商品を捌きやすくなる。
『五組側の調整はこちらで受け持ちます。謝礼としては、悪くない提案だと思いませんか?』
交渉の結果──まあ、お互い不利益が出るような話でもない。「二組とのやり取りは水木に一任する」として、ほぼ提案通りの形で二組と五組の業務提携は成立した。そこまでは良かったのだが……。
体裁として二組の教室に五組の売り場を設ける形となり、二組との業務提携は僕に一任されている。よって、ある程度手伝って貰うのは致し方ないとしても、基本的には売り子まで僕が受け持つ必要がある。
「そしてメイド喫茶の売り子がメイドじゃないのはおかしい、と二組の女子の方々に押し切られてしまいまして」
「一理あるんだか、一理しかないんだか……」
やたらと息巻いた彼女達の剣幕にたじろいでしまったのが運の尽き。中途半端にメイド服を着ただけの男、という見苦しいにも程がある格好でフロアに立つ訳にもいかず、昔取った杵柄で周囲に紛れ込める程度に取り繕った。だからこんなザマに成り果てた。
説明するにも疲労を覚えて肩を落とした僕に、伊地知先輩は呆れつつもこちらの背を撫でた。
「それで、皆さんも後藤さんを探しに来たのでしょうか」
「うん、まあ。喜多ちゃんが探るポイントが人探しとは思えなかったけど」
「ゴミ箱の中とか。ぼっちはよく入ってるね」
僕の場合、どちらかと言えば彼女を口実に抜け出してきた訳だが。あの場に居てもおもちゃにされるばかりだったからな。
こちらの話はこれくらいにして、先輩方に喜多さんも後藤さんを連れ戻しに来たようだった。……扱いには少々不満げなやどかりぼっち。膨れっ面をした彼女の頭を、山田先輩はぽんぽんと撫でて宥める。
「何言ってるんですか先輩。後藤さんは人が寄り付かなくて湿度が高くて、暗い物陰に隠れてるんです! 人で例えるなら水木君みたいな!」
「否定はしませんが、なぜ僕で例えるんですか」
「否定してください! 私のことを何だと思ってるんですか!」
そして確かに言語化すれば間違いではないものの、わざわざ僕で準える必要はないだろう。彼女を陸生の軟体動物扱いする喜多博士の物言いに、後藤さんは抗議の声を「水木くんもです!」痛ッ、痛い痛い。彼女からのアームロックも久しぶりだな。
などと戯れているうち、模擬店の開店10分前を示す予鈴が鳴る。
「さて、僕はそろそろ戻ります。折角ですし、後藤さんは皆さんと一巡りして来られては?」
策に溺れた僕はまだしも、嫌々メイド服を着せられた後藤さんに真面目に接客に付き合う義理もないしな。他校からの友人を案内していた、とでもしていればとやかくは言われまい。
「あら、水木君は来ないの?」
「一応は過去問の謝礼ですし、開店早々に持ち場を離れるのも体裁が悪いですからね」
「待てコラ」
こんな格好で外を出歩く気にもなれないしな。しかしどういう因縁の絡まりで今更女装なんぞする羽目になったのやら。
そんな慨嘆とともに踵を返した僕の腕が掴まれる。首だけ振り返ると、伊地知先輩が物言いたげに、笑みに青筋を混ぜていた。
「戻るのはいいけど、その前に。ぼっちちゃんのこと褒めてあげた?」
「既に批評は述べましたよ」
「批評って。そうじゃないでしょ」
この期に及んで分っとらんのか、このツンデレクソ野郎。なんて副音声が聞こえてくるが……本音を晒せ、か。以前も伊地知先輩に叱られていたのだった。
本音など考えるまでもなかったな。じっとりと睨め付けた先輩に苦笑を返した。そして。
自信無さそうに肩を窄めて俯いた、一人の女の子に歩み寄る。前髪の奥に隠れた、青く澄んだ瞳。羞恥に仄かに赤らんだその頬。
「後藤さん。心配されずとも、そのメイド服はとてもよくお似合いです。可愛い」
「えっ、……あっ、ふえっ? あっ、あわわっ、あの、その……」
「水木くんも、可愛いですよ?」
……。
「ウケる」
「過去の積み重ねって大事よね」
「ぼっちちゃん、流石に今それを言うのはやめてあげて。彼なりに頑張ったんだから」
あの路上ライブでの言い付け通り、南から招待された秀華高校文化祭。ステージの時間まで余裕はあるし、折角だから色々回ってみるか。
なんて軽い気持ちで喫茶店に入った所、それはあたしの度肝を抜いた。
「ぶはっ、くくっ、あはははははっ! あんた何その格好! あははははは!!」
「他のお客様にご迷惑ですので、速やかにご退店願います。服装で貴女に揶揄われる筋合いはありません」
ついでに腹筋も盛大に破壊された。
周りの男の子は全員執事服に身を包むなか、一人だけメイド服を纏った水木南。その表情は珍しく、露骨に不快そうに歪んでいる。
サイドメニューの売り場を差配する南が言うには、「執事服が足りなかった」とか。それなら学生服でいいではないか、と愚痴る彼にも何やら事情があるようで、明らかに不条理な要求にも応じない訳にはいかなかったらしい。
まあコイツ、昔からなんだかんだ他人の頼みを無碍にはしないヤツだったのよね。あたしも単位や記事で助けられたっけ。
「ごめんごめん、そう睨むなって。似合ってるのは似合ってるわよ? ……あれ、南ってホントに男の子だったわよね? 世継ぎが居なくて男として育てられたとかワンチャンある?」
「今更伊地知先輩のようなことを仰らないでください」
いい加減にしろ、とプレッシャーで空気を凍らせ始めたヴィクトリアンメイド。
実際、先ほどは笑い転げたものの、南のメイド姿には本来そうであるべきであるかのように違和感がない。所々に粗野さや素人臭さも散見される執事達の中で、頭抜けた瀟洒さを醸し出す紅一点(?)。その立ち振る舞いには、最早教室全体を支配する貫禄があった。
あまりの馴染みっぷりに南のプロフィールを疑い出したあたしの背から、困惑混じりに同調する声が二つ。
「えっ、少年、いや少女……?! あれ、私今日まだそんな呑んでないよね……?」
「あの、一卵性双生児の兄妹とかいたりするんですか?」
「一卵性双生児は基本的に同性です」
あからさまに動揺しながら、手に持ったカップ酒の残りを確かめるSICK HACKの廣井さん。隣に並ぶ黒いロングドレスの女性——南の知り合いらしい彼女も訝しげに南を覗き込んでいる。
揶揄われている訳ではないものの、それはそれで心外だと南は目元を影で覆った。
「そっちはこの間のライターちゃんか」
「SICK HACKの廣井さんと……えーっと」
「愛子さん。僕のアルバイト先の店長とPAさんです」
連れの三人目、金髪長身の女性がぶっきらぼうにあたしに声をかける。
確か以前の路上ライブにも居合わせたっけ。南がお世話になっているようだけど……廣井さんはともかく、他の二人はちょっと名前が出てこない。そんなあたしに廣井さんが助け舟を出した。
「先輩はここらじゃ結構名の知れたバンドマンだったんだよ。伊地知って知らない?」
「伊地知……あっ!?」
あの伊地知星歌!?
不意に出てきた名前と目の前の女性が繋がり、思わず硬直。
「あら店長、本当に有名だったんですねぇ」
「よせよせ、昔の話だ。インディーズ止まりのちっさなバンドだったしな」
照れ臭そうに鼻を掻いた彼女の様子も目に入らず、あたしは三歩後ろに仰け反った。
取材のたびに聞き及んだ所業の数々!
後輩バンドマンへの強請り集りは数知れず!
楽器店の仕入れや商品を私物化!
挙句メジャーデビュー直前、独断でバンドを解散してメンバーを路頭に迷わせた!
「あの『御茶ノ水の
「あ゛あ゛!?」
「異名ダッサ!」
「名の知れたって、そういう意味なんですか」
「それは昔の話にしておきたい所ですよね」
「うるせーぞお前ら!?」
引退してなおバンドマン達や楽器店で恐怖と共に語り継がれる、傍若無人の権化。
白目を剥いて噴き上がった彼女を他所に、その異名を呆れ混じりに弄る三人もなかなか肝が据わっている。
……自分の格好を棚に上げて店長さんを揶揄う南。皮肉屋なあいつらしいとはいえ、そこにはどこか親しみが滲んでいた。他人を突き放す虚勢だったあの頃のそれとは違う。
あの異名で一瞬大丈夫かと不安になったけど。あいつは違う場所で、信頼できる大人を見つけたようだった。
「あと水木。ウチでもソレ着て働く気ない? 給金弾むから」
「えっ、キモ……」
「……。お断りします」
「水木君も微妙に逡巡しないでくださいね?」
……本当に信頼できるのかなあ?
「折角だしご一緒していいですか? 南がお世話になってるみたいですし」
「僕を記事のネタの出汁にしないで下さいね」
「ち、違うわよ!? 下衆の勘繰りやめてくれる!?」
「いいけど、記事にするのはやめてね? 志麻に怒られるから」
……取材とまではいかずとも、廣井さんと顔馴染みになっておいて損はあるまい。その程度の下心はあったんだけど。
南の余計な茶々はともかく、席に着いたあたし達。スケベ心とはまた別に、ちょっと気になることもあったのだ。
「それで、廣井さんは南と何処で知り合ったんですか?」
「あっ……えっと、その……」
というのも、あの路上ライブの裏話。南がそれをやるのはいいとして、廣井さんが出張ってくるとなれば話が変わってくる。
実力はさておき、学生ピアニストとインディーズとはいえ人気バンドのリーダー。彼女がわざわざ南と競演する義理はないし、あいつもピアノをやめていたはず。となれば、そもそも二人には接点がないように思う。
そんなあたしの単純な疑問に、なぜか廣井さんは心底気まずそうに目線を外して。
「ぼっちちゃん達のライブの後キーボード弾いてるのを見かけて、ジャムセッション吹っかけました! ごめんなさい!」
見事な平身低頭とともにぶっちゃけた。……あー。
「本当は水木君もみんなが羨ましかったんでしょうね。そんな折に廣井さんから、今の彼の限界を否応なく突き付けられたと」
「ったく。アイツもアイツだけど、お前も要らんことしやがって」
「怪我してるなんて知らなかったんですよぉ! あんな演奏聴かされたら、ピアノやめるなんて勿体無いって誰でも思うでしょ!?」
つまりはPAさんが苦笑混じりに纏めた通り。あのライブの後、あれだけ疲弊していた南の様子を思えば、ジャムセッションの顛末も分かるというもの。どうせあいつのことだ、左手の怪我も隠していたんだろう。
とはいえ結果だけ見れば、怪我人を引き摺り出して甚振ったような形ではある。彼女が路上ライブに競演したのも、それを負い目に感じたからか。
言わんこっちゃないと白い目を向けた店長さんに、廣井さんは悲痛な叫び声を上げた。
……いやまあ、その。
「南に関してはあたしが一番悪いので……」
「そっちはそっちで何があったんだよ」
「自分のこと話しませんからねぇ、水木君」
それを言い出すと、あたしも他人の事は言えなくなる訳で。予想外の所から裏返った刃に、あたしは居心地悪く肩を縮こませた。
こちらから尋ねたんだし、廣井さんは南を助けてもくれたんだし。あたしだけだんまりってのも気が引けるっていうか。
気が引けるんだけど、え、えーと……。
「隠れてライブに連れ回してたのがバレて、音大自主退学になりました……」
「えっ? あのごめん、少年って今高一だよね? ……中学生?」
「昼間から特殊性癖を曝け出すのはちょっと」
「下衆の勘繰りやめてくれる!? 純粋な親切心だったんですけど!」
揃ってドン引きする三人に、逆ギレ気味に席を蹴飛ばした。普通にアウトだなんて百も承知だし、何なら南が「折れた」直接の要因があたしだったってのも分かっとるわ!
けれどこちとら痩せても枯れても腐っても、音楽で飯を喰う末席の一人なのだ。あの日芽生えた二つの子葉に、確かに希望を見出したのだ。
「クラシック以外何も知らない癖に、音楽を『呼吸のようだ』『息苦しい』だなんて言われて、放っとける訳ないじゃない!」
──あんたみたいな奴に少しでも綺麗な音楽を伝えること。あんたが今やって魅せたみたいな音楽を、みんなに伝えること。
それだけは間違いだったとは思わない。居直って切って見せた啖呵に、彼女達が注ぐ視線の色が変わった。そんなあたしを宥める──一応は険のこもった、けれど苦笑を隠せていない少年の声。
「他のお客様のご迷惑になりますので、大声での会話はお控えください。まあ、こういう方なのです」
「ぐっ、あんたが纏めんな」
「だから恩人ってワケか。……それには同感だ。たかが15のガキが一人で音楽に幻滅してるなんて気に食わん」
あたしが蹴飛ばした座席を戻しつつ、他人事のように肩を竦めた南。フォロー入れてるのは分かるけど、なんかムカつくわね……。
生意気なのは相変わらずのクソガキを、店長さんは愉快そうに笑い飛ばす。南もまた揶揄を受け流しつつ、不敵にその口角を上げた。
「廣井さんにした所で、僕の煮え切らなさが元ですから。どちらにせよ、あの路上ライブで決着は付けたつもりですよ」
「少年……」
「ああ、それと」
これ以上は野暮というもの、と彼は自らの幕引きをそう誇った。あの夕景こそが演奏家・水木南の集大成。それが全てだと言われてしまえば、あたし達としては負い目も引け目も呑み込むしかない。
ほっと胸を撫で下ろした廣井さんに、けれど南は冷たく付け加えた。
「泣いたクソ餓鬼呼ばわりには、今でも納得いかないんですよね。ご自身が天才だからと言って、お高く止まっているんじゃあないぞ」
「そっち!? だからそこまでは言ってないじゃん!?」
どこかで聞いた悪態と共に、季節外れで見当外れな極寒の冷気が廣井さんを突き刺す。彼女は唐突に向けられた刃に半泣きで震え上がった。
「冗談です。流石に僕とて、御礼参りをもう一回は無いですよ」
「ひどい! 冗談に聞こえないよぉ!?」
「だからお前そういうのやめろっての」
かと思えばけろりと前言を翻したクソ野郎。あんた冗談の方向性ちょっと変わったわね……。
前から時折纏っていた冷徹な雰囲気を、南は今や物理的に空気を凍らせる一発芸にまで昇華させたらしい。どんな昇華だ。
「けれど、彼のような人に綺麗な音楽を伝えるのが夢、ですか」
喧々諤々と騒ぐ廣井さん達を他所に、PAさんはあたしが吐いた啖呵をなぞるように呟く。……生温かくニヤけた目が居心地悪く感じて、逸らした視線の先には洒脱な仕草で水を給仕する南。
「水木君が色々拗らせるのも分かる気がします。実際どうだったんです?」
「洒落になってないんだけど。単なる腐れ縁の、クソ生意気な弟分でしかなかったわよ」
「人聞きの悪い物言いはやめて頂けませんか?」
袖で口元を隠して忍び笑いする彼女に、はあ、とため息と共に頬杖を付く。そういう見方をされかねないってのは言い返せないけども。
下世話な邪推に悪態を返せば、南もまた面倒臭そうに諸手を挙げた。
「取材と称して妙なジャンルのライブに連れ回されたり、要らない知識ばかり吹き込まれたり。……僕が知らなかった息の仕方を教えて下さった」
あたしを黒曜石の眼に映して、躊躇うように息を止める。その時あいつは……一瞬だけ、あの頃の幼い南に戻ったように見えた。
そして。
「彼女はそういう類のお人好しだった。ただそれだけなのです」
懐かしそうに、少しだけ寂しそうに。胸の奥に何かを仕舞って、あの頃の演奏家はただそれだけ告げた。仄かに痛みを湛えた微笑み。
ああ、そっか。
ふっと、今更生まれた寂寞を小さく笑い飛ばす。
南がひそかに懐いた想い。それは周りに頼れる大人が居なかった彼の、幼い憧れ以上のものではなかったはず。そしてそれに目を瞑ることが、大人として正しい在り方だった。
だからあたしとあんたは、もうさよなら。
ごめんね、南。でも。
「その出立ちだと、ちょっと格好が付かないっていうか」
「……」
ひどく感傷たっぷりな感慨も、あいつが身に纏う可憐なエプロンドレスが台無しにしていた。
いや似合っていると言えば似合っているんだけど、回想の儚い少年と目の前のメイドがどうにも認知不協和を起こすというか。
「少年、や、自棄酒なら付き合うからさ?」
「おい、酒はやめろ。……お前も元気出せって。ぼっちちゃんが居るだろ」
「あの、ぽいずんさん。流石に可哀想では」
「ご、ごめんて。そこまで凹むとは思わなかったんだってば」
「……こんな服二度と着るものか」
あまりと言えばあんまりなオチ。みんなにガチで気遣われた南は、歳を取った目を窪ませてがっくりと項垂れた。
ちょっとひどいことも言ったけど、それも笑い飛ばして思い出にしなさい。さよなら。あたしもどこかで、どうにかやっていくから。
さよなら、そうするよ。