──CLAP、CLAP、CLAP。
どこからともなく、惜しみない拍手。
ボトルネック奏法。
酒瓶を即席のスライドバーにするとは考えましたね。貴女本来の歌い上げるようなギタービブラートの掛け方とも相性が良い。
トラブルをパフォーマンスに変える発想。弱さこそが強さ。実に貴女らしく、素晴らしい。
──かつり、かつり、靴の音。
しかし、惜しむらくは……。
どうするのですか?
「えっ……?」
暗幕の奥の深い暗がりから、演奏家はその姿を現す。
凍てつく冷気がステージを包む。決して大きな声ではないのに、フロアを貫く冷たい問い。どよめきに溢れていた聴衆みんなが、ただ一人に呑まれている。
批評家の冷徹。表情を濡羽色で隠した彼は朗々と語りかける。白い照明の瞬き、黒曜石の艶やかな輝き。
六弦の嵐よ、貴女の歌を聴けと言う。しかし。
「言うまでもなく満身創痍。一弦は千切れ、二弦もペグは壊れてしまった。あのボトルネック奏法は素晴らしい。だが果たしてあと一曲、通して
視線が足元に落ちて、指板をぎゅっと握る。いつもより弦が少ない、ギブソン・レスポール・カスタムの頼りない感触。身体を冷やす酷薄な語り。
水木くんの言葉は正しい。限られたセクションだけならなんとかなっても、練習も無しに一曲通してボトルネック奏法をやり切るなんて無茶だ。そんなの、わかっている。
演奏家は、口元だけを歪にゆがめる。
「幸い、次の演者は僕だ。だから後は任せて、降りてしまえばいい」
無理をするな。この僕にステージを譲ってしまえ。
……そんな当然の道理のような、甘い毒。
「どうするのですか? 貴女はそれでも、掻き鳴らすと言うのですか?」
それでも、それは。
「……嫌です」
まだ降りたくない。
あの十二進法の夕景で、胸に芽生えた二つの子葉。彼から貰った小さな希望。虹夏ちゃんも、リョウさんも、喜多さんも、きっとみんな同じ気持ちだ。
まだ、掻き鳴らしていたい。あなたから逃げたくない。だって、私は、私は!
私が一番、欲しいものは!
「まだ、水木くんに私の全部、聴いてもらって、ないから!」
ぎりっと歯を食いしばって、視線を演奏家に向ける。明滅する青い火花。
冷たい熱を斑らに纏った彼は──
ならば。
冷たく、熱く、優しい音。
羨むように、愛おしそうに、一歩、二歩。光る朝から……君の孤独から私へ踏み出す。
ふふ。水木くんは意地悪だ。
「僕がなんとかしますよ」
「使って、ひとりちゃん!」
背後から私の名を呼ばれて。振り向けば、喜多さんが碧く瞳を輝かせていた。リョウさんから預かったはずの、彼女のギターを差し出して。
次の演目用に準備してある、舞台下手奥のグランドピアノ。表には出て来てないけど、演奏するのに支障はない。水木くんがそのピアノでバッキングに入るなら……喜多さんのギターを借りるのが、おさまりは良いかもしれないけど。
「で、でも、それじゃ喜多さんが」
「私はボーカルに専念するわ。この子は今日だけあなたに預ける」
みんなに見せてよ。二人は本当は凄くカッコいい「特別」なんだって。
私の両手に収まった浅葱色のレスポール・ジュニア。少しだけ悔しそうに、それでも消えない憧れを湛えて、私の相棒は小さくはにかんだ。
「その代わり、ひとりちゃんって呼ばせてね?」
「は、はいっ! い、いい、いく「喜多ちゃん!」は、はいっ、喜多ちゃん!?」
「相変わらずですね、郁代さん」
「名前で呼ばないで!」
満面の眩しい笑顔が言いかけた名前を遮るも、水木くんは傍から遠慮なくコンプレックスを突き刺す。喜多さんは……喜多ちゃんは、顔を真っ赤にして噴き上がった。
トラブルの後なのに緊張感のかけらもない、いつものやりとり。二人の大事な友達が、ひとりぼっちだった私の手を取ってくれる。
「喜多さん、時間もないので手短に」
くすぐったそうに喉を鳴らした水木くんは、不意に少しだけ、ひんやりした熱を喜多ちゃんに差し向けた。バッキングのポジションを奪ってしまう彼女への謝罪、感謝。本来、語るべき言葉は山ほどあるけれど。
彼の薫陶を受けたギタリストの雛。彼女もまた、黒い森から
「先程のギターソロパート、実に見事でした。僕とは違う、貴女だけの
友人にして、教え合う師弟にして、失敗を経てもう一度歩み始めた同朋。
水木くんと喜多ちゃんの、私とは違う絆。彼女は目を見開いて、言葉にならない様子でわななく。何かを堪えて泣き出さないように精一杯、ふうっと深く息を吐いて。
「まあ全体的には、相変わらずリードギターに圧されっぱなしだったのですが。今暫くは
「こんな時までちゃぶ台返しやめてよ!?」
掌を返した批評家の冷徹に、喜多ちゃんは滲んでいた眼を昏く濁らせた。いくらなんでもそれはひどいよ……。
そっぽを向いた水木くんは、彼女のその様子にくつくつと苦笑いして。
やれやれ。光るところは数あれど、まだまだギタリストとしては不完全で未完成。
「如何せん、区切りという訳にもいきませんね。今後ともよろしく」
「冗談に聞こえなくて怖いのよ、もう……」
ひらひらと諸手を掲げたツンデレクソ野郎に、苦労人の教え子はげんなり肩を落とす。……でも、それだっていつもの照れ隠し。苦笑いを零した私に、喜多ちゃんもくすりと笑みを重ねた。
なんて一頻り戯れて、喜多ちゃんの側から離れる間際。彼女の口から溢れた一言。
「それにね。……ひとりちゃんと水木君の「特別」。もう一度、一番近くで聴きたかったのよ」
影に隠した笑みは言わぬが花。
私の視界の裏にだって、青い火花。
あの子供のような駄々には──無邪気な聴衆の心からの喝采にだけは、演奏家は恭しく首を垂れ、促されるがまま鍵盤を弾くより他ない。
「宜しい」
演奏家はただそれだけ告げた。
「なんで一々ぼっちちゃんに立ちはだかるんだ。お前はラスボスか」
「このツンデレクソ野郎」
「人聞きの悪い物言いはやめて頂けませんか?」
アドリブどころではない文字通りのぶっつけ本番、細かいところは虹夏ちゃん達とも詰めなきゃいけない。ドラムとベースの二人を仰げば、しれっとした水木くんへ生温い目線が二対ほど注がれていた。
実際、水木くんは意地悪だ。いくら私が、そ、その、彼を助けたいだなんて大それたことを言ったとしても、みんなの前で半ば脅すみたいなこと言わなくていいじゃないですか!
やっぱりちょっとムカついて、水木くんの腕を捻るようにぎゅっとしがみつく。
「ぼっちちゃんのこと助けてくれるんなら文句はないけど、飛び入りとか大丈夫?」
「痛い痛い、唐突な腕ひしぎはやめてください。そこはご心配なく、貴女方の楽曲の楽譜及び進行は全て把握しています」
「キッショ」
私のアームロックに顔を顰めつつ、彼から飛び出た爆弾発言。ええ……。リョウさんがドン引きしつつ吐き捨てるのも仕方ないというか。
ま、まあでも、私が書いた曲を覚えててくれるのは……ちょっと、嬉しくもある、かな。
ちなみに後で聞いたんだけど、音響周りの調整もPAさん達に頼んであったらしい。水木くん自身、STARRYで彼女の補佐をしているから、どこを押さえないと困るかも大方当たりは付いていたそうだ。
とはいえ、こんな展開は彼にとってもまったくの予想外。たまたまPAさんを招待しておいて本当に助かったとかなんとか。
『またオフにタダ働きですか。しかも飛び入りなんて面倒なことしてくれやがりまして……。貸し一なんてモンじゃないですからねー?』
『なんであたしまで巻き込まれてるのよ?!』
『ライブの「飛び入り」なんて実際はプロレスだからな! 絶対真似するなよ!?』
『ギャハハ、いいぞぼっちちゃん! ぶちかませ少年! ブッ殺せー!!』(戦力外)
お姉さん……。そ、それはともかく。
「ふっ。ぼっちや郁代もいるんだからな。あんまり無茶するなよ、南」
「そっくりそのままお返しますよ。それはまた別の機会ということで」
「あたしは遠慮しとこうかナー……。腕が何本あっても足りなさそうだし。ま、ぼっちちゃんのエスコートは任せたぞ、色男」
以前の路上ライブを棚に上げて、不敵に笑みを浮かべたリョウさん。今のうちから疲労混じりに苦笑いした虹夏ちゃん。
最初で最後の好敵手。
同じ切なさを抱えた姉弟。
水木くんはもう一度、名残惜しく視線を交わした。
私も、もう行かなきゃ。しがみついた背の温もりから身体を離して、改めて、彼とステージの真ん中で向かい合う。
夢の蘖を見届けて、最初の願いに別れを告げて、今こそが演奏家・水木南の全盛の姿。
「あー、ええと。『なんとかする』などと言っておいてアレなんですが」
……のはずが、水木くんは決まり悪そうに襟元を弄って目を逸らした。あ、あれ……?
「僕が全力で弾き鳴らせるのは、此度を含めて三曲ほど。そして困ったことに、この後僕自身の演目があります」
「えっ? ……あっ!?」
五月の最初のライブでも、あの路上ライブでも、水木くんは三曲弾くのが限界だった。それだけで立っていられないくらい疲弊してしまっていた。
水木くんの演目はもともと三曲。それでギリギリだったのに、一曲分をここで使うことになってしまった。……私を、助けるために。
今更それに気付いて、思わずひゅっと息を呑む。ど、どうしよう!? これじゃ私達はよくても、水木くんが!?
「そんな?! だ、大丈夫なんですか!?」
「大丈夫ではないです。が、まあ聞いてください」
胸の奥がきゅっと締まって、おろおろと彼に縋り付く。そんな私の気も知らないで、むしろその様子が微笑ましい。イタズラが成功したなんて言いたそうに、水木くんはくつくつ喉を鳴らした。
……やっぱり、水木くんは意地悪だ。私ばかり焦ってるのがヘンみたいじゃないですか。
僕は貴女が羨ましいと、水木くんは心底可笑しそうに言葉を紡ぐ。……手向けだ、餞だなどと格好付けたことも考えましたが、貴女の
「なのでこの際、往生際悪く足掻くことにしました」
役目も夢もなくなって、もう誰かのために鍵盤を叩く必要なんてなくなっても、それでも。
「僕は演奏家でありたい。貴女の隣で弾き鳴らしたい」
貴女のために、僕のために。
僕は貴女で、貴女は僕だから。
包帯のような嘘を解いた、水木くんの本当の願い。
ちょっぴり照れ臭いけれど、ふわふわと夢見心地でもあるけれど。見上げれば、夜空のような黒曜石が愛おしい。きらきら星みたいにそこに映った、私の瞳の蒼い
いつか、弾き鳴らさずにはいられない夜が来る。
だから。──水木くんは穏やかに笑みを浮かべる。
「助けてください、後藤さん」
私が一番欲しかったもの。
ひんやりした温もりが、私をぎゅっと抱きしめた。
There is no one can understand me truly.
I do not go out and I will keep silence.
Everyone is mania in general.
You don’t have time to sleep for to know others……
足下に転がった灰色のボール。
否、本来は明るい赤色をしているのだろう。僕の視界は見慣れたままに色褪せている。どうやら教室と見えるその部屋の角に、桃色の髪の幼い少女が一人。部屋の真ん中で他の幼子が伸ばした人差し指を、物欲しそうに眺めている。
このボールは、どうやら彼女が落とした物のようだった。
「落としましたよ、お嬢さん」
「……」
いかにも引っ込み思案と見える少女。それが年齢差のある男性に声を掛けられれば、普通なら怯えてしまいそうなものではある。しかし彼女は物怖じする様子もなく、僕が差し出したボールを受け取った。
察するに、少女にとって僕は見慣れた存在であるらしい。いや、見たところ幼稚園児らしい彼女が、この僕と出会うはずもないのだが。
「行かないのですか。子供は皆で遊ぶものだと、相場が決まっているものです」
「……私なんかが、あそこに行っちゃいけないから」
「そんなこと、誰も思ってはいませんよ」
まあ、彼女となにやらの縁がなければ、そもそも僕がこの場に立っているはずもない。そして実際の所、僕は彼女を──大分成長した姿ではあるが、よく見聞きはしていたのだ。
隣に並んだ少女への呆れと共に、冷たい事実で突き放す。人間は僕達が思うほど、他人に大した興味を持たない。だからこそ周囲の大人は、この僕のザマを是認、ないしは黙認した。
まして、無邪気な子供なら尚更だろう。
声を掛けるのは怖い、でも一緒に遊びたい。
そんな一歩を踏み出せなかった臆病者。なんと虚しく、愚かな願いだろうか。
「いや、それは僕のことか」
「……そう、なんですか?」
「ええ。母の笑顔が見たいなら、最初からそうと言えば良かったのだ」
ぎちり、ぎちり。機械仕掛けの嘲笑い。
親が子に笑い掛けるなど当たり前のことで、元より条件などない。そのはずなのに、それを求めてはいけないと思い込んでいた。愛して欲しいと求めることを恐れていた。
挙句、手を差し伸べてくれたお節介焼きさえ、その亀裂へ突き落とした。だから言ったのだ、あの人と出会ったのは間違いだったと。
「そういう臆病者だから、最初の願いすら蓋をしたまま忘れてしまった。だから、僕はこんなザマに成り果てた」
畢竟、中途半端に見栄を張るからこうなる。痩せっぽちの餓鬼は餓鬼らしく、泣き喚くなり何なりすればよかったのだ。そうすればあの母とて、少なくとも諦めはついただろうに。
まったく、伊地知虹夏は賢明だった。我ながら他人事のように……最早他人事以外の何物でもないのだが、ともかく僕はそう吐き捨てた。
「それで、いいんですか?」
「別に。未練なんて誰もが抱えて、いつの間にか消えているものでしょう」
少女の問いを一笑に伏す。
臆病者が手を伸ばせなかった。そういう未練としても女々しい類のこの僕が、顧みられることは決してない。本来、わずかな苦笑とともに噛み殺される程度のものだ。
「今の水木くんはいいよ。でもあなたは、「冷たいほうの水木くん」は、それでいいんですか?」
「……阿呆め。流石に女々し過ぎるだろう」
だというのに、あのクソ野郎。
手前の未練やら後悔やら嫉妬やら、諸々さっさと切り捨てれば良い物を、この僕という形で目の前の小さな少女にぶつけていた訳である。反吐が出る惰弱さであり、その形象が僕であることもまた気に入らない。
そもそもこのおかしな場というもの自体、あの餓鬼の不甲斐なさによって成り立っているようだった。
いや、所謂乖離とはそういうものだ。わかってはいるが、だとしてもこちらが何も思わないという道理もない。腹立たしい煮え切らなさに、今更ながらぎちりと歯を噛み鳴らした。
「貴女も、僕のことなど忘れてしまえ」
「わ、私は、あなたの冷たい音楽に救われたから。だから、その冷たいほうのあなたも助けてあげたかった」
当たり散らすように吐き捨てた僕を、それでも彼女はその大きな瞳で見上げた。この灰色に濁った追憶の中で、色鮮やかに透き通った青だけが揺れている。
……ふん。阿呆はこちらか。
この期に及んで虚勢を張るのも馬鹿馬鹿しい。我ながら全く度し難い性質だ。
僕の演奏を受け取って、彼女が返した想いと色。それへの最後の
「貴女に手を貸したのはあの男だ。この僕ではありません。そして、……僕は既に報われている」
「……でも」
「もういいんです。あの伊地知虹夏が、僕の未練を溶かしてしまった」
母の笑顔は塗り潰されたままだったけれど。
代わりに、もっと素敵な心を貰えた。
『えらいぞ』
あの向日葵のような少女の笑み。
彼女はこの僕を見て、同じ痛みを抱いてくれた。誰にも知られないまま、ひとりぼっちで消えていくはずの僕を、伊地知虹夏は見つけてくれた。
そして今、貴女も。
「十分です。これ以上は何も要らない」
たかが十年と少し、賽の河原で積み上げた。その程度の餓鬼には過ぎた手向けだろう。
ぎちり、ぎちり。後藤ひとりに笑ってやった。
さて、これで一応の義理も果たした。
とくに思い残すことはないはずだが、今暫くはこの後奏は続くらしい。再び腰を上げた僕を見上げて、少女は静かに問う。
「ピアノ、嫌いだったんですか?」
「どうでしょうね。それすら分からなかったというのもあるし、鍵盤を少しずつ征服する感覚。それは嫌いではなかった」
「できないことができるようになる楽しさ。それは、わかるよ」
「あとは何だかんだ、ピアノは母との繋がりで、切り離すことができなかった。それこそ、自ら手を砕くくらいしなければ」
「……そっか」
目線を遠くへ。
僕の皮肉に、少女は少し悲しそうに、……いつものように、その眉尻を下げて笑った。
Discipline is never an end in itself, only a means to an end.
規律はそれ自体が目的ではなく、ある目的のための手段に過ぎない。ピアノも音楽も、やはり僕にとってはあくまで手段だった。それ以上でもそれ以下でもない。
受け入れ難い返答だろうが、依然としてこの僕の率直な感慨だ。どうせ誰に伝わる訳でもなし、取り繕うこともないだろう。
『後藤さんの弾き語りですね。あれは最高です』
だからそんな顔をしてくれるな。あの男はまた別の答えを持っている。
それにしても、目の前の灰色の光景。子供達が賑やかに遊ぶ様子をぽつりと眺めている。隣の少女の未練とばかり思っていたが、それだけでもないのかもしれない。
『嘘吐き! 約束したじゃないか!』
──幼い頃のあの約束。
コンクールで入選したという噂を聞いて、僕に音楽祭の伴奏を頼んでくれたクラスメイト達。その頃から逸れ者だった僕は、どうしても優勝したいのだと縋る彼らに形だけ根負けして、その伴奏を引き受けたのだ。
……結局、次のコンクールの調整のためと言って、反故にしてしまった。
「伴奏してあげたかったな。そうすれば、彼らと友達になれたかもしれなかったのに」
「……」
「貴女もこんなつまらない未練を残す前に、あの指へ止まりに行くといい」
寄せては返す波のごとく、折り重なった過去の情景。この幾分冗長なアウトロにも終わりが見えた。一歩を踏み出せなかった僕を置いて、彼女は一歩踏み出していく。それが綺麗な別れ。
……だというのに。
「水木くん。こ、このゆび、とまれっ!」
「……」
少女は僕に、人差し指を高く掲げた。
……この期に及んで、この子は一体何をやっているのか。呆れを隠さないまま見下ろせば、彼女は顔を赤く染めた。
「と、……とまれっ!」
「『友達になれたかもしれない』とは言いましたが、今更それが欲しいとは言っていません」
我ながら大人気ない。しかし別に彼女も見た目通りのものではないし、この白昼夢で誰に憚る訳でもなし。ましてあの男のような、少女の奇行を愛でる悪趣味もない。
この僕はあれらの糞餓鬼共とは違う。
居直るようだが、そんな傲岸不遜さもまた僕を成す仮面のひとつだ。
「な、なんか、……いつもの水木くんよりもっと意地悪ですね」
「あれでも、あの人や貴女方のお陰で丸くなったほうです。僕としては噴飯物だが」
「……」
僕の悪態に身を引く少女をせせら笑えば、彼女はむくれて、むしろ強く指をこちらに突き出した。変な所で強情なお嬢様である。
あの指へ止まりに行けない臆病者。そんな貴女でなければ、同じく臆病者の負け犬が救われたりはしなかっただろう。
結局、僕も彼女に絆されてしまうのか。少々癪だが、この期に及んで虚勢を張るのも馬鹿馬鹿しい。そう自分で言ったばかりだった。
まったく、どいつもこいつも。……最後の仮面を捨てて、軽く口角を軋ませた。
傷ひとつないまっさらな左手。それを少女の人差し指へ伸ばして。
「とまった」
そして傷跡が走る左手を離して、僕は彼女に背を向けた。氷が溶けてなくなるように。
「さようなら。後藤ひとり」
「さよなら、冷たいほうの水木くん」
ぎちり、ぎちり。機械仕掛けの嘲笑い。まったく、我ながら笑うのが下手クソなことだ。
僕が渡したボールを抱えて、こちらを寂しげに見送る少女。僕は後ろ手を振るばかりで、振り向くこともしなければ、……いつかのように、彼女が背に縋ることもなかった。
まあ、最後に彼女と話せたのは良かったさ。僕もまた、本当は貴女が羨ましかったから。
左手の内に僅かに残った、彼女の手の温もり。……しかし、なんともはや。僕がこれまで見てきた景色とは。
こんなにも色鮮やかだったのか。