『ザ・テリファイング・テール・オブ・セラ・ハン・ジンジート』
──ぶつり。
一弦が切れた。
文化祭二日目のライブステージ。舞台袖で結束バンドの演奏を聴きつつ、次の演者として待機していた。そんな僕にも、異変ははっきりと認識できた。
違和感はあった。その前の『忘れてやらない』からチューニングが合わない。緊張による萎縮故かとも思っていたが、思い返せばそれを差し引いても、後藤さんはギターの扱いに難儀しているようにも見えた。
咄嗟に彼女達の機材を見やる。替えのストリングは──いや、見たところ二弦のペグも破損している。
演奏続行、できるのか。……一瞬、凍てつく焦燥が胸に落ちる。
けれど。
──みんなに見せてよ。後藤さんは、本当はすっごくカッコいいんだって!
シーケンシャルな即興、
バラバラの音が、ひとつになって音楽になる。その音色が後藤ひとりを突き動かす。彼女は足下の酒瓶を拾い上げ、弦が切れたギターの指板へと滑らせる。
「ボトルネック奏法……!」
僕も愛子さんから聞いたことがあるだけで、実際に目の前で見たのは初めてだ。
フレットを押さえるのではなく、スライドバーの位置で音程を作る。元々ギタービブラートを効かせる奏法が得意だとはいえ、ぶっつけ本番の即興、それも専用でもないただの酒瓶でこなしてしまうとは──!
どれだけの技巧と熱を秘めているのか、底が見えない。この土壇場の発想力、爆発力。やはり貴女は素晴らしい。
それだけで魅入ってしまいそうな僕の目に、確かに映った。今も恐怖を振り払えず、ぶるぶると震えて、背を冷や汗に濡らして、それでも消えない。
彼女の瞳の、青い炎。
……やる気だ。
あの八月のライブと同じ。ギターのペグが壊れようと、たとえ全部の弦が千切れようと、最後の最後まで諦めない。どんなにズタボロになろうと、彼女はステージから降りるつもりはない。
けれど、現実的には彼女のギターは直せない。少なくとも、今この場では。
ならば。
舞台袖から観客席を見やる。何故か得意満面の廣井さんはともかく──後藤さんのパフォーマンスに呆気に取られる店長、愛子さん、そしてPAさんがそこに居る。彼女らを招待していた幸運、それへの感謝も後回しに、今は走れ。
『お前、まさか飛び入りとか言うなよ』
『そんな無粋な真似はしません』
しかし、いつか無粋と断じた真似そのもの。その皮肉に、似合わない失笑は禁じ得なかった。
「後藤さんは諦めていません。彼女に最後まで弾かせてあげたい。ご協力をお願いできませんか」
軽く息を切らしながら、観客の最前列のPAさん達の下へ。背に響く喜多さんの歌声は、この曲がCメロへ差し掛かることを知らせていた。
「学生さんには手に余るでしょうし、まず私に話しに来たのは正解ですけど」
「気持ちは分かるけど、どうすんだよ。二弦までオシャカなんだぞ。無理だろ」
「僕がバッキングに入ります。喜多さんには悪いですが、今回だけボーカルに専念して貰う。あるいは、切れた二弦分の音をピアノで補う」
難色を示すPAさんに、悔しそうに歯噛みした店長。彼女達の懸念は全くもって正しい。
機材自体はなんとかなる。次の演目用に、舞台下手奥のグランドピアノが据えられている。PA側の調整は必要なはずだが、楽器そのものを動かす必要はない。
「エレキギターにピアノでバッキングかあ。面白れーじゃん、やっちゃいなよぉ少年!」
「簡単に言わないでくださいね。緊急で別の楽器が入るなんて、面倒なことこの上ないんですから」
鬼殺しを啜りつつ調子良く煽る廣井さんに、PAさんが青筋を浮かべた。彼女を補佐する普段の僕としても、決して笑い事ではない。
ピアノは音域が広い。それは利点でもあるのだが、協奏する場合に他の楽器の音域を邪魔してしまうこともある。エレキギターとは音の性質も違う。完全な代替はできない。
音量、帯域、マイク位置、ボーカルとの干渉。観客として招待したはずのPAさんに、それら全てをぶっつけ本番で差配しろと言うに等しい。
「無理を言っているのは百も承知です。それでも、どうか……」
言葉に詰まる。
──幸い、次の演者は僕だ。後は僕がやればいい。下ろしまえばいい。
ぎちり、ぎちり。胸の底に染み付いた、機械仕掛けの嘲笑い。その軋みに声が呑まれそうになる。
それでも、認められないと思ってしまった。
『好きな子の隣で、好きなように弾いてみたい』
それそのものはまったくの偶然。準備の間際を突いたちょっとした悪戯。こっそり僕のピアノと重ねた、彼女のギターの暖かな旋律。その色と熱とがこの身体に残っている。
今も必死に弾き鳴らしている。終わりになんてしてしまいたくない。そのためなら。
……歯を食いしばれ。
「助けてください。お願いします」
自身への、それよりもっと大きな何かへの不信。それをこそ呑み込んで、僕はぐっと頭を下げた。
「ほぼ初対面で厚かましいけど、あたしからもお願いします」
隣で、もう一人の影が重なった。
「guitar……じゃなくて、若い子が主役の文化祭なのに、トラブルで不完全燃焼なんてかわいそうだもの」
「……愛子さん」
「ふーん、あのクソ生意気な水木が頭下げるか。コイツらはこう言ってるけど、どうする? 『PAさん』よ」
勝手なことを言いつつ、どこか面白いものを見るような喜色を乗せた店長の声。頭を上げてください、とこちらへ呼びかける声。
ライブを安全に進行し、音を観客に届ける専門家。
「ピアノでバックに入るとして、入力は? どこから取るんです?」
「ぐっ」
「まさか考えてなかった、とか言わないでしょうね?」
「……考えます」
「今考えてもダメですよ?」
その極めて妥当な指摘に言葉が詰まる。
『いやあ、あの演奏は凄かったですねえ。私は大変でしたけど。大変でしたけど』
『大変申し訳ありませんでした』
口元に袖を当て、一見穏やかに微笑む表情。
……あの初めての夜、キーボードで半ばジャズのセッションのような演奏をした後の初対面。その時と同じように、彼女の黒い眼は全く笑っていなかった。
そして同様、最後には。
「はあ。……舞台袖に予備のマイクがあるはずです。位置は私が指示しますから、勝手に触らないでください」
PAさんは大きく嘆息した。
「またオフにタダ働きですか。しかも飛び入りなんて面倒なことしてくれやがりまして。貸し一なんてモンじゃないですからねー?」
「……ありがとうございます」
彼女はがっくりと肩を落とし、恨みがましげにこちらを睨んだ。彼女の仕事、その苦労の一端を知る僕としては、恐縮しながら平伏するより他ない。
まったく、相変わらず僕はPAさんに頭が上がらなかった。
「まあ、しゃーなしです。私だって、若い子達のライブがトラブルで終わっちゃうなんて本意じゃないんですから」
「ったく、ライブの「飛び入り」なんて実際はプロレスだからな?」
気を取り直して、というように腕を組んだSTARRYの大人達。
と、こうしている間にも『星座になれたら』のアウトロが終わり、歓声が上がった。もたもたしている時間はない。
「行きましょう。店長に愛子さんも来てください」
「えっ、あたしも?」
「店長は勿論、ぽいずんさんは水木君の保護者枠でしょう。彼が危なっかしい分、キリキリ働いて貰いますからね」
ぎょっとした様子の愛子さんだったが、何を他人事のように。実際の機材調整以外にも、教員への説明や舞台側との連絡役、場合によっては機材の移動程度はやってもらう。
彼女も元音大生である。この緊急事態に、舞台裏の事情が分かる人間が居て困ることはないのだ。
「あたしもお願いしたし、文句はないけど……やめときゃよかったかなあ」
元音大生といえば。
「せっかく助力して差し上げた卒業論文を台無しにしてくれたのです。せめて働いて返してください」
「アンタ協力して貰う気ある?」
「……少年、私は?」
「酒気帯びに機材を触らせる訳ないでしょう。邪魔ですので退いてください」
「私は!?」
「退いてください」
このクソ忙しい時に。
文化祭実行委員の仮設PA卓は舞台袖寄りにある。客席からも比較的近い位置と言えるが、今は1分1秒が惜しい。
「教諭。緊急で許可頂きたい事項があります」
「ん、水木か。……前から言ってるが、「教諭」なんて大仰な呼び方はやめなさい。あと、後ろの方々は?」
学生PAに付いていた教員は、確か次の演目が出番だったろう、と怪訝な顔をする。そして僕の後方の大人組を見て更にその怪訝さを深めた。
「『教諭』。いや『教諭』って。私が高校の時でもそんなに擦れてませんでしたよ?」
「お前やっぱり教師のこと舐め腐ってるな」
「あのね。そうやって無駄に周りを突き放して味方を減らすの、あんたの悪い癖よ?」
「教職としての立場と役割を最大限尊重した呼称でしょう。どの道今はどうでもいいです」
その大人達は大人達で、自身らの素行の悪さを棚に上げて僕から一歩後退っていた。大変余計なお世話である。
とくにPAさんは「朝起きられなかった」というふざけた理由で一年持たず中退したそうで、他人のことを言えたものではない。
というか、本当にそんなことを言っている場合ではないのだ。……拙い、もう伊地知先輩のMCが始まっている。ガシガシと髪を乱暴に梳り、彼女らの言葉に渋い顔をする教員に端的に告げる。
「詳細は省いて結論だけ言います。貴方方は素人です。退いてください」
「は?」
「言い方ァ!?」
「お前実は結構テンパってるな!?」
「違うんです! 今やってるギターの子がトラブルなんです! コイツ言い方が最悪なだけで悪気はないんです!」
僕の頭をぐいぐいと無理矢理押し下げる店長と愛子さん。確かに焦って表現が多少直裁になった自覚はあるが、それらは単なる事実の確認ではないか。
面倒なことに、文化祭実行委員達は目を剥いて硬直。はあ、相手がプロじゃないからこそクライアントへの説明は必要なんですからね、とPAさんは嘆息した。実に心外である。
「私は彼の知人の音響エンジニアでして。彼は弦が切れたギターの穴を埋めるために、ピアノでバッキングへ回りたいと言ってます。その対応は皆さんにはちょっと厳しいと思うので、よろしければ私が指示を出そうかと」
「……ええと、それはありがたいですが。本当にできるんですか?」
「貴方は許可するだけでいいです。早くそこを退いてください」
「アンタちょっと黙ってろ」
この期に及んでなおも言い淀む煮え切らない教員。今少し強い圧迫が必要かと踏み込もうとする僕を、愛子さんは強引に抑え込んだ。
そんなこちらの様子にPAさんは頭を抱えつつ、しかしくすりと苦笑を浮かべた。
「まあ、普通は難しいんですけど。彼なら責任を持ってやってくれると思いますよ? だって……」
『助けたい人が、いるんです』
こちらの喧々諤々を切り裂いた、後藤さんのマイクパフォーマンス。
『そ、その人は、私のクソみたいな弾き語りを聴きたがるような、意地悪な人です』
「女の子には優しくしてくださいって言いましたよね」
「……最近は、彼女はそういう弾き語りはあまりされなくなりましたよ」
そういう問題じゃない、というPAさんの視線は努めて無視する。
その間にも、後藤さんの震えが伝わる、切実な言葉達は零れ落ちる。それが誰に向かっていたかは言うまでもなかった。
『へこたれても、ベソかいても、めげずにギターを弾いてる。そんな私の歌が好きだって言ってくれた人です』
『僕もひとりぼっちじゃないかもしれない。そう言って、笑ってくれた人です』
──。
あの光る朝が脳裏に過ぎって。
一瞬、ほんの一瞬だけ。暗幕の向こうで縮こまりながら、それでもステージの中心で必死に語る少女に、目を奪われてしまった。
その数瞬の放心から意識を引き戻す、震えながら零れ落ちる声。
「まさか、まさかguitarheroさんが南を……! なんて巡り合わせ、guitarheroさんが至高すぎる……!」
「そのギター何某とは何ですか。大の大人にいきなり泣き出されても困るんですが」
意味不明に感極まった愛子さんが、肩を戦慄かせながら目元を押さえている。どうやら後藤さんを指しているらしく、
マイクパフォーマンスが時間稼ぎになっているとはいえ、ふざけている場合ではない。
『ひとりぼっちだった私を、骨身を削って、痛い思いをしてまで、助けてくれた人です』
「ホント、あの最初のライブはクッソ気障でしたよねー。実際、あの距離感でまだくっ付いてないの最早ムカつくんですけど」
「ぼっちちゃんをまた泣かせたら今度こそ殺すぞ」
「貴女は後藤さんの親でも何でもないでしょう。なぜ殺害予告をされなければいけないんですか」
僕達が最初に音を交わした、六弦の嵐と出会った仮初の秩序。蕩けたような後藤さんの語りを、意趣返しとばかりにPAさんが目敏く拾う。くそ、膨大な貸しがあるからと言って好き勝手宣いやがって。
更には肩に万力の如く食い込む店長の指。彼女は血涙を流しながらギリギリと歯ぎしりしていた。
彼女だけ視線の気色が違うというか、憎しみと嫉妬と羨望が色濃く感じられるのは気のせいだろうか。未成年との不純な交友は犯罪である。
「あんたそのネタやめなさいよ!?」
当て付けに飛び火させた愛子さんからの拳骨。それが及ぶ前に、僕は半歩だけ身を引いた。
ああもう、こんな無駄な問答をしている暇はないというのに。ダメな大人共に絡まれ憤慨する僕とは裏腹に、文化祭実行委員達と教員からはどこか納得したように生暖かい視線が注がれる。
「あー。だからあんな必死に私達を退かそうと」
「青春だなあ、水木。しかし人に向かって『素人』とは感心しないぞ」
「今の状況での率直な評価を述べたまでです。それで許可するんですか、しないんですか」
「お前なあ。……PAさん、すみませんがご協力お願いできますか。それと水木、お前は後で生徒指導室に来い。ちょっとは先生を信用しろ」
御託はいいからさっさと許可を寄越せ。そう教員を睨め付ければ、彼は呆れ返りながらもPAさんを卓へ入れる。最初からそうしていれば、僕もこんなザマを晒さずに済んだものを。
被害は小さいとは言えないものの、なんとか最低限の根回しは済んだ。後はPAさんの作業のために、今少しだけ時間を稼ぎたいが……それも兼ねて、少女の意志を最後に確認しておくとしよう。
──よって、じわりとこの身から漏れ出す冷気。それは後藤さんのMCのせいで、方々から散々に弄られた八つ当たりでは決してない。断じてそうではない。
なんにせよ、後は僕が彼女を支えるのみだ。僕自身が望んだとおりに。
「詳細な指示は後で出します。今は後藤さんの所へ行ってあげてください」
「行け、水木! あそこでぼっちちゃんを一人にする気か!」
「今度こそ、あんたが望んだ通りに弾き鳴らしなさい!」
語るに及ばず。
背を押す大人達の声に弾かれるままに、僕は後藤さんの下へ踏み出す……その前に。
PAさん、店長、そして愛子さん。こんな僕を見捨てず、見守り、助けてくれた大人達へ、くるりと振り返る。
時間がなかったので言っていなかったが、僕が全力で弾き鳴らせるのは概ね三曲。後藤さんのバッキングの分、僕一人だとこの次の僕自身の演目を消化できない。
「よって次の演目には、おそらく後藤さんに入って頂く形になります。PAさん、調整お願いしますね」
「どさくさ紛れに何言ってるんですか!?」
「お前滅茶苦茶しやがるな!?」
「あーもう、早よ行けクソ餓鬼!」
くはは、毒を喰らわば皿までである。
壇上から、後藤さんが呼んでいる。置いていかないでと、私の歌を聴いてほしいと訴える。
彼女の我儘な願いこそが演奏家の希望。そして道標なのだから。
もう僕は振り返らない。
「ありがとうございました」
「……」
そして文字通り全てのリソースを使い果たした僕は、舞台袖の奥でゴミのように崩れ落ちていた。否、梱包材の山に倒れ込んだこのザマは、まさにゴミそのものである。
発泡スチロールの無機な柔らかささえ、今の僕にはとりあえず救いだ。
「うわー、真っ白に燃え尽きてる」
「彼自身の演目でも大暴れだったもんねえ。無茶しやがって……」
「バルトークに『きらきら星』の即興変奏、シメがぼっちと混じってアジカン。セトリ意味不明でウケる」
どこか引き気味に苦笑いする、結束バンドの薄情な面々。とくに山田先輩の言い振りはまったく不本意である。
後藤さんとの即興デュオは流石に想定外だが、『きらきら星』はこの曲で通じ合ったふたりさんへの返礼。そして観客の置いてけぼり振りでは全曲オリジナル曲をやった貴女方も五十歩百歩である。文化祭でバルトークを弾いて何が悪い。
その後藤さんはといえば。
「アババババ、ワタシハステージデナンテコトヲ……」
「ぼっちがダンボールから染み出てる。ヤドカリぼっちと組み合わせるとは、やるな」
「引き篭もってるんだか、外に出てるんだか……。ほーら、次の人の迷惑になるから出てきなさいぼっちちゃん」
彼女もまた、ステージの上での暴走っぷりから我に帰ったらしい。僕の隣でダンボール箱に籠り、その上で身体を液状化させていた。まるで塩を撒かれたカタツムリである。おお、可哀想に……。
「大丈夫よひとりちゃん! 水木君とはもう学校公認なんだから!」キターン‼︎
「退学します! 絶対退学してやる!」
喜多さんの善意100%の煽りに、ダンボールの中から悲痛な叫び声が響く。
しかし、そのマイクパフォーマンスのせいで、僕も主に大人組と件の素人PA共から甚大な被害を被ったのだ。少しは反省して欲しい。
「反省するのはあなたですよ水木君。仕事だったら違約金請求してもいいくらいですからね」
「……業務契約上の依頼ではないので、違約金は発生しないのでは?」
「ホントに請求しますよ」
……左手の疼痛からくる、正直かなりしんどい虚脱感。それを努めて誤魔化そうと軽口を叩けば、今回の被害者ことPAさんは顔中に青筋を立てた。まったく、美人がお怒りになると大変恐ろしい。
まあ、箱に篭って震える少女の願いと我儘。それを守れたのであれば、この左手と損害賠償請求の対価としては十分なのだろう。
「勝手に納得しないでくださいね」
「相変わらずだな、テメーは。……まあ、一人で抱え込んで勝手に腐ってた頃よりは、よっぽどマシな面してるよ」
冷たいのか、生暖かいのか。二人から向けられるなんとも形容しがたい視線から逃れるべく、僕はスチロールを折りつつ無理矢理立ち上がった。
で、今回巻き込んだもう一人の大人、愛子さんがやけに静かである。一言くらい挨拶しておきたかったが、彼女はもう帰ってしまったのか──。
「あっ、あの、あっ、あばばっ、な、なななっ」
「guitar……じゃなくて、後藤さんありがとう、本当にありがとう……! 南を、南をどうかよろしくね……!!」
「すみません、お姉さんちょっと落ち着いて。ほぼ初対面の人にガン詰めされるとぼっちちゃん死んじゃうんで」
「何をトチ狂っているんですか愛子さん。店長でもあるまいし」
「お前のためじゃクソ餓鬼が……!」
「おい、それどういう意味だ」
隣で同じくなんとか箱から這い出た少女は、なぜか瞳を感涙に潤ませた愛子さんに抱きつかれていた。伊地知先輩が仰る通り、後藤さんがまた分裂しかけている。
お二方には睨まれたが、ただでさえ疲労困憊しているのだ。これ以上面倒事を増やすのはやめて頂きたい。
「やれやれ、じゃあぼっちちゃんも落ち着いたし、引き上げますか」
「この後、後夜祭もありますけど、先輩達はどうされますか?」
「ぜ、絶対イヤですっ! 今度こそ晒し首にされちゃう!!」
「あはは……。まあ、あたし達はここの生徒じゃないしね」
喜多さんが出した後夜祭に反応して、伊地知先輩に縋り付いた後藤さん。僕としても、「晒し首」が大袈裟とも言い切れない程度にはやらかしているからな。とっとと立ち去って有耶無耶にしてしまいたい所だ。
「じゃ、片付けたら打ち上げだな。……ライターちゃんも来いよ。ガキの成長って眩しいな……」
「ライターちゃんはやめて。……ありがとう、ありがとうguitarheroさん……」
袖で顔を覆う愛子さんは一々余計なお世話である。
それはともかく、店長が音頭を取った打ち上げ、というのは聞き逃せない。八月のライブの時は、廣井さんとのセッションで打ち上げに参加できなかったからな。一人暮らしの貧乏学生としては、タダ飯の機会はあればあるだけよい。
……のだが。
「水木君は居残りですよ? ちゃんと先生に説教されてきてください」
「……えー」
「えーじゃありません。あなたはもうちょっと社会性というものを身に付けないとダメです」
PAさんは無情にも、僕にお預けを宣告した。あの時は緊急事態であり、文化祭で多少無礼を働いた程度で内申点を下げられることもあるまい。ならばお互い時間の無駄だと思うのだが、PAさんからはそういうところですよ、と釘を刺されてしまった。解せぬ。
やれやれ。まあ、途中参加は認めてくださるようだし、この体調でこの場にいても撤収作業の役には立つまい。とっととお叱りを拝聴してくるか。
ああ、最後に一言だけ。
「後藤さん。色々ありましたが、今日は楽しかった」
手向けだなんだと、小賢しく考えていたのが馬鹿馬鹿しい。
旅路を共には行けなくとも、いつもそばには居れなくとも、彼女が求めるなら僕は弾き鳴らさずにはいられない。彼女の隣で弾き鳴らしたい。貴女の、そして僕の我儘な願いこそが僕達の希望だ。
「またやりましょう」
「えっ、あっ、はい。……はいっ!」
後藤さんの驚いたような、そして珍しく、子供のように朗らかな笑顔。腕に残る柔らかな抱擁の残り香。
僕は結局、それだけで他には何も要らないのだ。
「もうやらないでくださいね」
「全然懲りてないなコイツ」
「……あれ? 先輩? 少年? みんな?」
「うわああん! 私だけ置いていかないでよぉ!」
体育館裏で泣き腫らしていた廣井さんは、後で僕が回収した。このクソ疲れている時に。