『ライフ・イズ・ビューティフル』
「お母様から電話が来ている」
文化祭ライブが終わった週明けの授業終わり。教員から呼び止められた僕は、職員室脇の面談室で保留中の携帯端末を握っていた。
僕の事情をある程度知っていたのだろう。教員はこちらで対応してもよいと言ってくれたが、僕はその電話を受けることにした。逡巡がないといえば嘘になるが、……遅かれ早かれ、関係を清算しなければならない相手ではあった。
深呼吸。震える指でゆっくりと、スピーカーのボタンに触れる。
率直に言おう。この期に及んで、僕は母と向き合うのを恐れていた。そして少しだけ、本当にほんの少しだけ、期待してしまっていた。
『母に笑って欲しかった』
伊地知先輩へ漏らした、幼い希望。その残滓が未練がましく胸を焦がした。
……そして、その僅かな熱もすぐに消えた。
電話口から放たれる感情的な喚き声。母の夢を叶える才能。コンクール。正しい演奏。散乱する罵声から拾えるその断片だけで十分だった。
あの頃に戻ったように、身体の芯が冷え切っていく。僕は最後まで、彼女へ何一つ届かせることができなかった。
「僕は、貴女の夢ではない」
自分でも意外なほど、声は大きかった。それだけで母の罵声は沈黙に変わった。ソファの肘置きを強く握り締める。
「それでも、貴女が僕に音楽を教えてくれたこと。……それだけは感謝しています。ありがとうございました」
通話を切る。ソファにもたれたまま、真っ白な天井を見上げた。
こんなものか。
こんなもののために、ピアノも、愛子さんも、僕自身さえも見捨ててしまったのか。
僕が囚われ、希って、そして最後に見捨てたもの。そのあまりの軽さに、僕は暫く動くことができなかった。
虚脱感をなんとか振り払って、面談室のドアをくぐる。その鼻先に、馴染みのある朴訥な木の香り。
「あの、あ、あばばっ、み、水木くんっ」
「おや、貴女も職員室に呼び出しですか。……まあ、ライブでは貴女もやらかしましたしね」
「だ、誰のせいだと思ってるんですか!」
慌てているのか、わたわたと身体の輪郭線をブレさせながらこちらを見上げる後藤さん。相変わらずというか、なんというか。
いつもの可愛らしい動揺っぷり。思わず口をついた軽口に、彼女は頬を染めて憤慨した。
「き、喜多さんに、水木くんのお母さんから電話が来たって聞いて、その……」
「なるほど。一言二言、言うことを言って、それで終わりです。大した話ではありません」
母からの電話と聞いて、彼女はわざわざ様子を見に来てくれたらしい。大仰に両手を掲げて見せるも、後藤さんはなおもこちらを上目で見つめる。
……僕が向き合わなかったもの、そのどうしようもない軽さ。少女の姿が滲んだ。
「水木くん」
僕の弱さに何も言わず、後藤さんはきゅっと僕を抱きしめる。しなやかな暖かさ、彼女の柔らかな重み。……弱さ。
泣き出したいほどに可笑しかった、あの歌が甦る。
『押入れより愛を込めて』。
僕達は弾き語りで出会った。
弱々しく、辿々しく、それでも諦めずかき鳴らす。そんな貴女になら、……少しだけ、寄りかかってもいいのかもしれない。
「後藤さん。貴女の弾き語りが聴きたい」
「うん。……聴いて、水木くん」
数ヶ月後。
下北沢から少し足を伸ばした、渋谷のとある公園の一角。
メジャーデビュー前の10代のアーティストのみによるロック・フェスティバル企画「未確認ライオット」。その選考に向け、我らが結束バンドを含めた若手アーティスト達が日夜鎬を削っている。
その熱を隣で感じながら鍵盤を叩く。面白そうな路上ライブを見かければ、
「未確認ライオット」の主旨として僕が出しゃばるのは筋違いだし、結束バンドのためにもならず、現実的にはこの左手も無理は効かない。
付け加えるなら、廣井さんとの路上ライブが話題となったことでまた一悶着あったからな。愛子さんとSICK HACKの皆様には多大なご尽力と叱責を賜ったものだ。まあ、それも過ぎた話である。
伊地知先輩からは「悪趣味」などと冷罵されたジャムセッションだが、やってみれば意外と好評だったらしい。幾つかの界隈では「裏ボス」「レイドバトル」などと失礼な反応をされつつ、盛り上がるとして歓迎されている節もある。
……乱入は歓迎される割に、独奏がイマイチ受けないのは解せないが。路上でリゲティを弾いて何が悪い。
「──開き直った後のフレーズは奇抜で中々面白い。しかし、リズムの精確性には依然難あり。裏ボス討伐ならず、残念でしたね」
『お前から乱入しといて何言ってんだ!?』
『即興でポリリズムとか乗れるかぁ!』
『クッソクッソ、演奏
喧しい。そもそも最初に僕を「レイドボス」呼ばわりしたのは貴方方ではないか。まあ、気概は十分なようなので、以降もめげずに励んで頂きたい。
「やれやれ。僕はこの辺り失礼しますが、この後も彼らの演奏を──」
ともあれ、この
「水木くーん! 凄いわ! カッコ良かった!」
「──えっ? あの、も、もしかして」
『誰、あの制服着たおばさん……』
『あれ『結束バンドおばさん』じゃない?』
『えっ……じゃああの人って、もしかして彼の知り合いとか?』
『むしろお母さんなんじゃない?』
『ええ……』
……僕としても聞き覚えがある声で、無視もできない。どういう訳か、後藤さんのお母様が我が秀華高校の制服姿でこちらに手を振っていた。
「いぇーい、元気にしてるー?」
「あー……、お母様。色々聞きたいことはありますが、まずは場所を変えましょうか」
「そ、それで、その……その格好は一体?」
「もちろん、ひとりちゃん達がフェスに出るための宣伝活動よー! 女子高生に変装すれば若い子達にも布教できるでしょ!」
道理はともかく意図はわかったが、ええ……。
言葉に詰まる僕へ、お母様は結束バンドの宣伝フライヤーを得意げに掲げた。どうやら彼女のお手製らしい。以前、僕が作ったそれを踏襲しているようで、相変わらずドラムスティックだけを持ってスンッと立ち尽くした伊地知先輩が可愛らしい。いや、そういう問題ではない。
「この後もこの辺りを一回りして宣伝しようと思ってるんだけど」
……止めるべきだろうか。お母様本人はともかく、その暴挙を知った後藤さんが受けるダメージを思えば、本来は即刻翻意を促すべきなのだろうが……。
「お待ちください、お母様」
「えー? 水木君もダメって言うの?」
「いや、……そうではなく。この渋谷で人伝に宣伝するのは効率が悪過ぎます」
大人気なく、不貞腐れたように頬を膨らませるお母様に、止める訳ではないと掌をかざす。というか、既に他の方に止められていたのか。
それはさておき。
そもそも、お母様の行動は責められるべきものなのだろうか。確かに年齢相応の振る舞いとは言い難いが、結束バンドをより広い層に広めるための、愛娘を応援するお母様なりの善意と愛情の表れではないか。
「お母様さえ宜しければ、この僕に一計があります。それなりにリスクもある策ですが……乗りますか?」
「えっ?」
カール・シュミット曰く、「例外状態」においては通常の法や規範は適用を停止される。加えて「未確認ライオット」という一種の祭典もまた文化人類学的にはハレ、すなわち非日常であり、常識的な社会秩序が逆転しうる空間と見なしてよい。ならば下手に常識に囚われ、彼女を止めてしまうことのほうが間違いだとも考えられる。
むしろ、お母様の願いを叶えることが結束バンド、そして
僕は僅かに顔を俯かせ、思わず浮かぶほくそ笑みを陰に隠した。
事が終わった後の喫茶店。
「凄いわ凄いわ! 水木君のお陰で、用意したフライヤーがすぐなくなっちゃった!」
「ふふ。お力になれたようで何よりです」
例によって物言いが大仰になったものの、とどのつまりは結束バンドの曲を僕がカバーしたというだけの話だった。「布教」というなら実演が伴わなくては画竜点睛を欠くというもの。左手も無理は効かず、所詮は小手先の児戯に過ぎないとはいえ、この手の客引きくらいには不足はなかろう。
先ほどの路上ライブの観客の噂で、お母様に結束バンドのファンとしてある程度の知名度があることは伺えた。僕自身もまことに不本意ながら、「裏ボス」などと称される程度には衆目を集めている。
そんな僕達が連れ立ってフライヤーをばら撒き、結束バンドの曲を演奏する。見た目の珍奇さも相まって、結束バンドの「未確認ライオット」へ向けた宣伝効果は倍加するはずだった。
……お母様の社会的風評を引き換えにして。
まあ、僕が今更心を痛めた所で、既に
『『結束バンドおばさん』って何……? 水木君と隣の人……えっ、ひとりちゃんのお母さん!?』
『どういう状況!? なんでおばさんが制服着てるの!?』
『〜〜ッ?!?!?!』
『ふざけんな南。私達までネタ扱いされるだろ』
『バンド名の時点で今更でしょう……痛い痛い』
『なんで! どうしてお母さんを止めてくれなかったんですか!!!』
なお、その路上演奏の様子を収めた動画がSNSで拡散されていたらしい。それを見た結束バンドの面々は控えめに言って阿鼻叫喚の様相を呈していた。とくに後藤さんはひどいもので、またしても輪郭をぐちゃぐちゃにしたまま泡を吹いて卒倒する始末。
最近はアルバイト中に人外じみた変形を見せることも少しばかり減っていたので、僕としては目論見が上手く行って微笑ましく思ったものだ。……もっとも、すぐに報復として腕を捻られたのだが。
あと、一部でお母様と僕が「結束バンド親子」と扱われるようになったのは……。
「でも、ごめんね」
「?」
「左手、怪我してたのよね。だからピアノも辞めてたのに、私のせいで無理させたみたいで」
ふと、お母様は申し訳なさそうに苦笑いする。ああいや、このポンコツは僕の自業自得であるし、今日の演奏も元々リハビリのようなもの。
そう首を振った僕に、彼女は少しだけ眉を顰めた。
「前にひとりちゃんが羨ましいって言ってたのも、そういうこと?」
「……それもあります。彼女に八つ当たりじみた真似をしたこともありました」
「ああ、いいのよ。喧嘩するほど仲が良いっていうし、私に謝らなくたっていいわ。けど……そっか」
納得した、とばかりに嘆息したお母様。
過去の痛み。その後得られたもの。僕としても、今のように音楽と向き合っていられるのは感慨深くはある。
「音楽なんて、特段好きな訳でもなかったはずなんですけどね。不思議なものだ」
「音楽が好きじゃなかったなら、水木君はどうしてピアノをやってたの?」
あの母とは似ても似つかない、おっとりした疑問符を浮かべたお母様。なんとはなしに窓の外を見やって、……春の訪れを待つ街路樹の木の芽。あの人と出会った季節が過ぎって、ふっと口元が緩んだ。
「面倒なお節介焼きが居たのです。音楽の楽しさを、息の仕方を教えてくださった方が」
騒がしくて、少し痺れて、それでも残る大切な思い出。お母様からふわりと笑みが返った。
……決して嘘じゃない。だから、そこで止めればよかったのに。伊地知先輩のあの言葉だけで、十分だったはずなのに。
そこに誰が重なるのだろう。なぜ、この人の笑みでどうしようもなく、この左手は軋むのだろう。
それでも、羨ましい。羨ましい。
初めから持ってないのに、胸が痛んだ。
「……母に、笑って欲しかった」
溢れてしまったのは、こんなにもちっぽけな願い。
どういう経緯か、今更とくに興味もない。ただ単なる事実として、父親と呼ぶべき人間はいつの間にか家から居なくなっていた。母も今にしてみれば、僕への罪悪感のようなものがあったのかもしれない。
「中学へ上がる頃には既に折り合いは悪くて、ただの疎ましい存在になっていたはずなのに」
人っこ一人いない伽藍堂の家。打鍵だけが響く温度のない部屋。愛子さんと出会った頃には、自学自習の時間が増えていた。母の顔を見ることなど、ほとんどなくなっていた。
けれど最初はそうではなかったはずだ。
「幼い頃見たはずの、ぼやけて思い出せなくなった笑顔。それがもう一度見たかった」
正しい演奏、それこそが僕が果たすべき役目。ピアノとはそのための手段であり、僕を閉じ込める檻であり、……母と僕との、ただひとつの繋がりだった。
それを果たしたら、母は僕を見てくれる。かつての僕には、そんな希望しかなかったのだ。
「ごめんなさい。……おかしいですよね」
ぎちり、ぎちり。機械仕掛けの嘲笑い。疎んでいるのに、求めずにはいられない。救いようもなくアンヴィヴァレントな感情。
無駄な吐露の繰り返し。伊地知先輩にせよ、お母様にせよ、こんな独白を聞かされたところでどうしろというのか。俯いたままくすみ始めた視界。そこから僕を呼び戻したのはお母様の声だった。
「おかしくなんてないわ」
見上げれば、強い意思を秘めて揺れるお母様の瞳。穏やかに微笑みながらも、後藤さんにも少し似通ったまなざし。
「家族だからって、何から何まで全部好きってワケじゃないもの。私もお父さんのことは好きだけど、「おいこらー!」ってなることもあるし」
「……そうなんですか?」
「そりゃそうよ。夫婦って言ったって人間だもの」
冗談まじりに拳を振り上げて、目尻を上げて見せるお母様。話していても穏やかな彼女が怒る場面など、あまり想像が付かなかった。
「お給金とかねー、二人も子供作っといて「窓際」なんて開き直ってんじゃないわよ」
「……」
……そんな風に笑顔で毒を吐かれると、こちらとしては何も言えないのだが。
「結婚した時も、売れない癖にバンドに未練タラタラで。バンドか私、どっちか選べって迫ってようやっと覚悟を決めたくらいなんだから」
「それは何とも」
未練たらしさで言えば、僕とて他人のことは言えない。後藤さんもなんだかんだ、この人の御息女なのか。
それが表に出ていたのだろう。煮え切らない男は嫌われるわよー? なんて軽口を叩かれれば、耳が痛いと苦笑いする他ない。そんな笑みでも、幾らかは気が晴れるものだとは初めて知った。
「ひとりちゃんのことだってそう。あの子のことは大好きだけど、よく分かんなくなることもしょっちゅうだもの」
「……」
「まあ、ひとりちゃんはお母さん……あの子のお婆ちゃんの血筋だと思うけどね。私だって若い頃は正直、お母さんはなんか変だし恥ずかしいって思ってた」
お母様は、少しばかり疲労の滲むため息とともに苦笑を深めた。流石にご祖母様のことは存じ上げないが──後藤さんのような、一般的には奇行とされる挙動を日常的に繰り返すような方なら──その気持ちも、分からないではない。
僕とて、母との関係に辟易していたこともまた偽らざる本音なのだから。
「たとえ家族だったとしても、好きだけどイヤになることだってある。ならその逆で、嫌いなはずの相手に、それでも笑ってほしいって思うことだってあるんじゃないかしら」
「……そうですね」
好意と嫌悪は白黒はっきりと割り切れるようなものではないし、その割り切れない気持ちを否定する必要もない。お母様はそう言ってくださっていた。
……それを心から呑み込める日はまだ先かもしれない。けれど、少しだけ胸の息苦しさが解れた。そう感じるのは、僕の気のせいだろうか。
「でも、そっか。水木君があんなにピアノが上手なのは、お母さんのためだったのね」
「別に孝行話などではありません。結局、母の夢を叶えることはできませんでしたから」
しかしお母様の呟きには、断りを入れておかなければならなかった。……伊地知先輩には、白旗を上げる他なかったけれど。
置き去りにしたものと向き合って、僕が鍵盤に手を置くことに最早躊躇いはない。それでも、僕は母が望むような正しい演奏家にはなれなかった。それもまた否定し得ない事実だった。
僕が最後に見捨てたもの。その救いがたい軽さ。
「そうね。詳しい事情は知らないし、水木君に下手な慰めは通用しないわよね」
僕の頑なさに、困ったように微笑んだお母様。けれどやはり後藤さんの御母堂なのだろう、その青い瞳から意志の輝きは失われない。
不意に、彼女は向かい合った机の向こうから立ち上がって、空いていた隣の席に腰掛ける。
「……えっ?」
「けど結果は結果。それまでの過程は、それはそれで、なかったことにはならないと思うの」
君のお母さんが羨ましい。息子さんが何年も何年も、ただ自分のためにピアノを弾いてくれたんだもの。
戸惑いを隠せない僕に、隣で柔らかく微笑んだお母様の……お母さんの手が伸びて。
「頑張ったのね、水木君。えらいわ」
くしゃりと、その微笑みのような感触が髪を撫ぜる。後藤さんよりも少し固い、暖かな年月を経た指先が肩を抱く。
違う。
僕はあくまで自分の望みのために動いていた。それだけでしかなかった。僕の努力なんて結局、全て失敗に終わったものだ。
そう言いたかった。
「……」
けれど、最後に残った機械のような意固地さは、お母様の掌の感触が溶かしてしまった。声は声にならず、全身の震えへと拡散してしまった。
くしゃくしゃと頭を撫でる、暖かで、重くて、はっきりした感触。かつて僕が背を向けたもの。心の奥底で求めずにはいられなくて、けれど置き去りにしてしまった笑顔。
『えらいぞ』
伊地知先輩の笑顔が重なる。
母ではない。しかしあの母よりもっと、もっと素敵なお母さんがくっきりと鮮明に笑う。
僕の演奏で喜んでくれた。褒めてくれた。
ぎちり、ぎちり。機械仕掛けの苦笑い。
まったく、仕方のない餓鬼だ。
だが、まあ……よかったな。
「すみません。お見苦しい所をお見せしました」
「いいの、いいの。ウチは女の子ばかりだし、息子ってどういうものか興味あったのよね」
しばらくして、喫茶店の出口。頬と目元を真っ赤にしたまま恐縮しきりの僕に、お母様はくすくすと微笑んだ。
「いっそ、ホントに息子になっちゃう? 水木君みたいな出来息子なら私達も歓迎なんだけど」
「流石に話が早過ぎます。後藤さんの意思を尊重してあげて下さい」
「あら、水木君的にはOKなのね?」
私達が居なくなった後も、ふたりに水木君も居ればひとりちゃんもなんとかなると思うし。破れ鍋に綴じ蓋って奴よね、などとボソボソ独り言をするお母様。「破れ鍋に綴じ蓋」とはどういう意味ですか。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか。……ねえ。もし良かったら、ウチに夕食食べに来ない?」
「えっ……?」
「なんて、ごめんごめん。流石に八景は遠いわよね」
少し遠慮がちに僕を誘う、どこか不安そうなお母様の眼差し。夏休み最後の日、同じように僕を誘ってくれた後藤さんの青い瞳と似ている。
まったく、僕は彼女達には敵わないのだろう。
「……いや。ご迷惑でなければ、ご一緒させてください」
「いいの?」
「はい。この後の予定もありませんから。……お母様の料理がまた食べたくなりました」
僕は役目を果たせなかった。
正しい演奏家にはなれなかった。
母の笑顔は、塗り潰されたままだった。
欲しいものすべて、僕は取りこぼしてしまったけれど。
それでも。