晩秋の朝の冷たい空気。
しんと青褪め切ったホールの中心。強い照明の下、グランドピアノの白黒のコントラスト。その眼前に、かつての僕は座っていた。
指に、身体に、魂に刻み込まれた譜面の再現。あの母が求めた「正しい演奏」。それこそが僕の役目、そのための場。
つまらない。
ああ、そうだ。つまらない。ただ惰性で続けていた人間オルゴールのような演奏。そんなものはつまらない。
僕の全身全霊を此処にぶちまけてしまえば、全て御破算にしてしまえたら──
ぎちり、ぎちり。機械仕掛けの嘲笑い。
──それで?
──それで、何が変わったというのか。
「お疲れ、水木君。後藤さんは?」
「小テストの補習に引っ掛かってしまわれたようで。少し、遅れることになりそうです」
「あー、それはまあ、しょうがないわねぇ」
次の日の放課後。後藤さんと水木君とのギター練習、その第一回目。
「えっ?! そ、そんなあ!?」と、この場に居ない少女の色々な意味で悲痛な叫び声が聞こえたような気がしたような、しないような。……流石に白昼の往来でそんな声を上げる人はいないか。
後藤さんを拾うつもりだった水木君とは一旦別れて、先にSTARRYへ向かっていたんだけど、流石に男女では歩くスピードが違ったらしい。私に追いついた彼は、平板な表情のまま隣に位置取った。
昨日とは違って、二人きりで並んで歩く。後藤さんがいない時の彼は、少しだけ……でも決定的に何かが違う。STARRYまでの気まずい沈黙。それでも私は、すうっと深く息を吸い込んだ。
「えっと……。音楽やめちゃったって、本当?」
「……そう言えば、お伝えしていませんでしたね」
水木君は億劫そうに首を傾ける。
「影響がないとは言えませんが、音楽学の基礎を御教授する分には支障はないはずです」
「そうじゃなくて。その、……水木君は、結束バンドに入らないのかなって。この間のライブ、凄かったのに」
「貴女もそれか。誰も彼も物好きな」
記憶にある彼の演奏を思えば、そして何処のバンドにも属してないと知ったなら、きっと引く手数多のはず。伊地知先輩も声を掛けたに違いない。
「しかし、なるほど」
彼はうんざりした様子で溜息をひとつ。
「先日のSTARRYでのライブ、貴女もいらっしゃったのですね。逃げたライブに観客として顔を出す、その度胸は買いますが」
「うぐっ。し、仕方ないじゃない。私だって、元々謝りに行くつもりだったんだから……」
「まあ、それは既に決着が付いた話ですね」
一応はクラスメイトである僕はともかく、後藤さんのことをご存知だったのはそういうことか。
先の憂鬱もあってか、こちらに振り向きもせず皮肉を返した水木君。その辛辣さにたじろいで、思わず足が止まった。
「後藤さんから聞きましたが。貴女こそ、結束バンドには入らないのですか?」
私を追い抜いた彼は、振り向きざま、その黒曜石のような瞳を差し向ける。
「彼女達が求めているのはギターボーカルのはず。貴女はそこにもう一度加わるためにギターを学ぶのだと、僕はそう思っていたのですが」
その言葉に、心が澱んで視線が下がる。——そうなれれば、どれだけよかっただろう。でも。
「……私は、だめよ」
その黒い眼差しを受けていられず、私は無理やりに歩き出す。
「バンドは第二の家族。友情とか、恋愛とかも超越して、ともに一緒の夢を追う、「特別」な関係」
「……」
「なのに私は、先輩達に嘘ついて、大事な初ライブの直前になって逃げ出して……」
伊地知先輩やリョウ先輩が許してくれても。それでも私が逃げ出したことは、「特別」な絆を踏みにじってしまったことは、なかったことにはできない。
足音だけが雑踏のなかで響く。遠目に映る電飾は、まだ灯りを落としていた。
「それに私は、水木君みたいな「特別」には、……なれないもの」
「……」
いっそ清々しいくらいの落差に、思わず瞼をぎゅっと瞑る。
後藤さんと水木君。逃げ出した私の代わりの二人こそ、その場所には相応しかったのだから。
「あのライブの時。ギターは後ろを向いてたし、ところどころ音がバラけてもいたけど。なぜか、凄く引き込まれた。体が震えて、音楽に押し流されて、観客席まで一体になるような……これが「特別」なんだって」
音楽のことはまだよくわからない。けれど、きっと一生忘れない、忘れられないライブだった。みんなが渾然一体になってどこかへ駆け出すような、心からの震えが身体を突き動かすような体験。
あの振動、あの熱気と色彩。それに比べれば、いつも聴いていた音楽なんて偽物だ。ただ切り取られて、束ねられた電子音の重なりでしかない。
「それは後藤さんのギターあってのことだ。山田先輩の、伊地知先輩の力だ。僕の存在など微々たるものに過ぎない」
「違うわ。後藤さんだってそう言ってたもの。あの演奏はあなたがいなきゃできなかった」
知らず知らず、段々と言葉に熱が籠る。なのに、水木君は煩わしそうに謙遜するばかり。
でもそれは間違っている。あのライブの要は間違いなく彼だった。後藤さんは水木君をこそ頼みにしていて、……そこに私はいなかった。
「あなたはピアノっていう他の誰も持ってないものを持ってる。だから、他の誰とも隔絶していられる」
思えば、水木君は最初から「特別」だった。
一見丁寧に振る舞っていても、後藤さん以外の誰にも心を開かなかった。
その在り方がすべて正しいとは思わない。でも、周りの目を気にして、それに合わせていなければいられない私とは違う。水木君にはそうやって、一人きりでいられるだけの「特別」な何かがあるんだと思った。
その「特別」が知りたくて——普通でしかない私は失敗した。
「私と違って、あなたはそういう「特別」な人なんでしょう?」
だから、私にあなたの代わりなんてできない。
彼の答えを振り切って、聞きたくなくて。
見覚えのある看板。地下への薄暗い階段。傾き始めた陽の光が、僅かに差し込んでいる。
「「特別」」
階段を降りる私の背から、声が響く。
「貴女は音楽活動を些か高尚に捉え過ぎているきらいがありますが、それはいいでしょう」
最終的には個人の価値観の問題になりますしね。
水木君は階上から、振り返った私を見下ろす。その表情は影になって窺えない。けれど彼の声は聞いたことがないくらいに低く、平板だった。
「しかし、僕については大いに認識を誤っている。僕は「特別」などと呼ばれるべき御大層なものでは決してない」
「そ、そんなことない。水木君は……」
「──黙れ」
その冷たさに慄きながら、それでも反論しようと彼を見上げる。そんな私を押し留めたのは声ではない何か。静かに落とされた冷たい言葉、それ以上に凍て付いたもの。
「僕は失敗した人間だ」
初夏の太陽の熱が青褪め、空気が揺らぐように歪む。ひゅっ、と喉から呼気が溢れる。
「貴女のような尊ぶべき普通では居られず、しかし僕自身の役目に留まることも儘ならなかった」
「えっ……?」
「貴女の議論に従うのなら。……そんな僕のようなつまらない人間は、落伍者だとか、負け犬などと呼ばれるものなのだ」
陽射しから橙色が消えて、階段が灰に染まる。吐息が白く凍って、肩が震えて止まらない。影が差した表情の中、昏い光を湛えた彼の瞳。私は何か触れてはいけない場所に触れてしまったのだ。
自らを落伍者と蔑んだ水木君は、口元だけをいびつに歪ませた。
「大体、貴女が「特別」だというあのライブも、客観的に見ればくだらないものだ」
後藤さんとのやり取りに見た暖かな人間性。けれど、あの冷たい倦怠は拭い去られてはいない。
こちらへ二歩、三歩、彼はおもむろに歩み寄る。身体を冷やし固める演奏家の冷徹が、階下の私をも包み込む。
規格化を行う制裁。
あの演奏に普遍的な法規はなく、拍節拍子の格子もなく、コード化された骨子もない。無軌道に撹乱された一小節の猥雑な連なり、故にそれは放埒であり、逸脱であり、無規律であり、即ち。
「正しい演奏ではない」
あの六弦の嵐に蹴散らされ、皆が七転八倒の内に引き摺り回される無様な演奏。あの母ならばそう述べたはずだ。
……やめてよ。
声にならない懇願など取り合いもせず、演奏家は決定していた。己の音楽など所詮全く意味のない、くだらないものなのだと。
彼は再度繰り返す。
「僕は失敗した人間だ」
『失敗を謝罪できることは幸せですよ』
そうであるなら。彼の失敗は謝ることすら許されない、決して取り返しの付かない瑕疵。
「どうでもいい。そう言って、あの人の夢も、僕自身の役目も全て投げ出した負け犬だ」
彼はもう私を見てはいない。ぎちり、ぎちり。歯車が軋むような嘲笑い。
彼は彼自身を、私が「特別」を見出した人を、私に見せつけるように足蹴にしていた。冷たい激情を撒き散らしながら、私が見出した「特別」を踏み躙っていた。
「僕が今更あんな演奏をしたからと言って──」
──何が変わったというのか。
でも。それでも、そんなの、そんなこと──
「やめてよっ!!」
灰色の景色を切り裂く破裂音。
足がすくむような冷たさ。指を動かすことすら難儀する強張り。それでも、私は彼の下に駆け上がった。見ていられなかった。
「ば、馬鹿にするなっ……!」
身を切る冷気に頬が染まる。息をするのも辛くて、ガタガタ歯が震えて涙が出てくる。それでも唸りを上げる感情のまま、私は腕を振り切った。
夢から覚めたように、呆然と私を見返した水木君。彼が纏う冷気に、仄かに熱が入り混じった。
「あの演奏を、私にはできないあの「特別」な演奏を! 水木南を馬鹿にするな!!」
煮えたぎった激情のまま彼の胸ぐらを掴み、睨み上げる。「特別」な彼への妬み、嫉み、劣等感、敗北感。そして何より、もうこの想いを隠してはいられなかった。
「「関係ない」なんて、そんなこと言わせない。……私は、あの演奏の場にいる筈だった、逃げ出したギターなんだから!」
私の言葉は不条理で、水木君には理解できなかったと思う。けれど身体から血が吹き出るように、私は感情のまま叫ばずにはいられなかった。
「私だって、リョウ先輩とバンドをやりたくて、何度も、何度も何度も練習したわ! でもさっぱり上手くならなくて! ボンボンって変な音しか出なくて!」
「せめて先輩達に謝りに行こうって会場に行ったら、貴方達がいて!」
「……あんな、心が震えるような演奏を聞いて。私が居る筈だった場所には後藤さんと水木君がいて、でもそれは当然で」
「何度練習してもやっぱりまともな音は出なくって。あなたみたいな演奏は、私には一生できないんだって……」
捲し立てる勢いはすぐに消え失せた。私自身、情けなくって仕方がない。ただ震えながら二人への羨望を、私自身への失望を吐き出すことしかできない。立っていられなくて、彼の胸元へ縋り付く。
分かってる。
間違ってるのは私で、正しいのは水木君だ。その冷たい批評に反論なんてできない。彼の過去に私が立ち入る権利なんてない。ましてギターを始めて一ヶ月の素人と、水木君達の演奏を比べることそのものがちゃんちゃらおかしい。
だけど私の身勝手な叫びは、そういうことじゃないんだ。彼も、それはわかってくれていた。
「「特別」……貴女自身のありたい姿、自己実現の可能性。貴女はその鏡像を僕に見出し──僕はそれを踏み躙った」
だから貴女は怒り、嘆き悲しんでいる。
平板で低く響いて、でも暖かな理解の言葉。頭がぐらぐらして、支えがなければ倒れてしまう。
どうしてだろう。もう悲しい訳じゃないのに、もう許せない訳じゃないのに。肩が震えて、頬を伝う熱が止まらないのは。
「あなたに失敗しただなんて、あの演奏をくだらないなんて言われたら、わ、私、もうどうすればいいか、わからないじゃない……!」
言葉にならない言葉が溢れ出る。触れる胸の鼓動に、もう冷たさは感じない。誰がなんと言おうと、
私が落ち着くには多少なりとも時間が必要だった。……彼がその感情を咀嚼するのにも。
「本当にごめんなさい……」
「いえ。……先程のは僕が悪い」
「そんな、逃げ出した癖に私の勝手な都合ばかり押し付けて。水木君は悪くない」
どれくらい時間が経ったのだろうか。
恥ずかしいやら、情けないやら。顔を両手で覆った私に、水木君はハンカチを差し出した。……頬を僅かに腫らした彼の声色は、何とも気まずそうなものだったけど。
その言い合いに苦笑しつつ、水木君は階上へ一言。
「水掛け論はさておき。そろそろ出て来られたらいかがですか?」
「ば、バレたっ!?」
「あちゃー、ちょっと声が大きかったかあ」
「喜多もなかなかロック」
い、いつから聞かれてたんだろう。声を上げたのは後藤さんと伊地知先輩、そしてリョウ先輩。
みんなは気まずそうに──リョウ先輩は全く動じていなさそうだったけど、とにかく階段の影からぞろぞろと姿を現した。
「盗み聞きとは感心しませんね。大方、悪い先輩方に誑かされでもしましたか?」
「悪いバンドマンには言われたくない」
「盗み聞きも何も、あたしん家の玄関先なんだけど」
くつくつ喉を鳴らす彼に、それぞれ胡乱な顔をした先輩達。……眉目秀麗な男の子が頬を腫らして、隣で女の子が泣いているのは、うーん、確かに悪いバンドマンそのもの。実際には私が絡んでいたようなものなんだけど。
「ぼっちちゃん、喜多ちゃんに言いたいこと、あるんでしょ?」
「はっ、はい!」
軽口のやりあいもそこそこに、伊地知先輩は隅にいた後藤さんの背を押した。こくりと小さく頷いて、彼女は私の隣へ駆け降りてくる。
陽射しに赤橙が増すなか、その青く輝く瞳が綺麗だった。
「あの、喜多さんの指、固くなってました。き、昨日のバイトの時の」
「えっ……」
「喜多さん、今まですっごく練習したんじゃないですか? 悔しいって思うくらい、練習、したんですよね?」
思わず手を見やる。弦を押さえるために、皮が剥けて治ってが重なって固くなった指。いくつかの指は絆創膏が貼ってある。……私のこれまでの練習で唯一形になったもの。
「でも、そんなの。上手くできなきゃ……」
「意味がないなんて、ないです! 私もあの時の演奏、下手クソだったし……」
後藤さんは自信なく目を伏せて、でも。
「でも、水木くんは言ってました。人に合わせたお上手な演奏なんて、く、クソ喰らえだって!」
「「正しくない」というか、ロックじゃないっていうのはそう。でも私は結構気に入ってる」
その瞳が強く輝くのと一緒に、リョウ先輩も私達の側に歩み下りて、くすりと微笑む。その表情はどこまでも優しい。
人に合わせた、お上手な演奏などクソ喰らえ。
確かにあのライブはその通りだった。誰も彼もが無我夢中で、誰かに合わせる余裕なんて誰にもなくて、なのにそれがひとつの生物であるかのように──だからこそ「特別」なんだ。
私も、そんなふうになれるのかな。
「水木もそうなんだろ」
「ええ、まあ。喜多さんがあまり過大な評価を仰るものだから、つい露悪的になってしまった」
「このクソ野郎が」
いつの間にか一歩退いた彼の、この白々しいことこの上ない言い草。リョウ先輩をはじめ、みんなの冷たい視線が突き刺さるも、水木君は飄々と肩を竦めるのみだった。
ぷるぷると首を振って、気を取り直した後藤さん。伊地知先輩はその肩をそっと抱き寄せた。
「私だって、楽しかったです。聴いてくれた喜多さんも、そう思ってくれて嬉しかったです!」
「ドラムは大変だったんだよー? まあ、喜多ちゃんがそんなに思い詰めるまで響いてたんなら、あたしの苦労も報われるってものだよね」
「そんな喜多ちゃんにこそ、結束バンドを盛り上げてもらえると嬉しいんだけどな」
だから。すうっと大きく息を吸って。
「私達と一緒に、もう一回バンド、しませんかっ!?」
もう一人の「特別」は私に手を差し伸べた。
「わ、私、ギター弾けないし。み、水木君の代わりにも、なれないのよ……?」
「そこはさ、ぼっちちゃん達が教えるって話だったよね?」
「は、はい!」
「メンバーが増えてくれるとノルマが減って助かる。喜多は喜多のペースでいい。あんなのと自分を比べなくて大丈夫」
一度緩んでしまった涙腺がまた熱を帯びた。許されるなら、私にもあんな「特別」ができるなら。私だって、結束バンドのみんなとバンドをやりたい……!
「あ、ありがとう、ございますっ……! 私、頑張る。頑張るから……!」
雫が溢れてしまうのも構わず、私は精一杯、みんなに頭を下げたのだった。
「でも、ぎ、ギターで変な音しか出ないなんて、ありますかね?」
「ベースか何かと間違えてたりして」
「いやあ、そんなまさか。私だって6弦あるのがギターだってことくらい分かってますよ」
「……ろ、六弦のベース、あります」
「えっ?!」
「多弦ベース。ちょっと見せて」
「あっ……」
「そ、そんなあ……!? お小遣い一年分と前借りしたお年玉がぁ……というか、この一ヶ月全部無駄……?!」
階下で演じられる取り留めのないスラップスティック──と言い切るには、些か重い事実が判明した訳だが。僕はそれを、なんとはなしに見下ろしている。
喜多郁代。程度は違えど僕と同じように失敗をして、けれど僕とは違って、もう一度踏み出した少女。身体から血を吹き出すようなあの赤い叫び。その色と熱──「特別」な何か。
「ただまあ、前途は多難なようで……む」
「お疲れ。ほっぺ、大丈夫?」
その余韻に浸っていた僕の頬に、不意に走る心地よい冷たさ。
振り向くと、階段の上から悪戯そうにはにかんだ伊地知先輩。彼女はいつの間に買ってきていたのか、アイスコーヒーの缶を僕の頬に押し当てていた。そういえば、喜多さんに張られていたのだったな。
「お気になさらず。彼女の気持ちは理解できましたしね」
「雨降って地固まる、かな。喜多ちゃんも戻ってきてよかったよ。で、水木君はどうすんの?」
「どうもしません。喜多さんの練習を手伝って、彼女が一通りギターを弾けるようになったら、それで終わりです」
「ふーん」
どうすると言われても、やはりその言外の誘いに乗る気にはなれなかった。
頬に当てた缶よりも冷たく、左手の傷が疼く。一言に失敗と言っても、その程度や性質はそれぞれ別個のものであって。当然、取り返しのつかない誤りもあるはずだった。
そぞろな会話の後の、数瞬の沈黙。
「あのね。水木君が怒った気持ち、ちょっと分かるよ」
伊地知先輩は僅かに笑みに苦味を混ぜる。
「君だって過去の経緯があって、思う所もあるのが当たり前なんだから。どんな切実な思いだったとしても、それを一方的に押し付けられたら不愉快に決まってるよね」
「……お見苦しいところをお見せしました」
「ううん、あたしも反省してる。喜多ちゃんのこと言えないしさ」
思わず顔を伏せる。僕自身、ある種の激情に呑まれていたのだ。
僕は喜多さんからの期待に耐えられなかった。「特別」という鏡像を求める、
だから僕は彼女が言う「特別」なるもの、無邪気な少女が胸に懐く鏡像の正体を、その目の前で暴いた。
まったく我ながら恥知らずで、酷薄で、情けない話である。
よくもまあ己を演奏家などと騙ったものだ。
苦虫を噛み潰す僕を他所に、先日の勧誘を思い出したのだろう。伊地知先輩のほうが申し訳なさそうに眉を下げ、……しかし、その目に少しだけ力が籠った。
「でも、そうだとしても。あのライブは、あたし達にとっても特別なものだから」
「「あたし達の演奏」をくだらないなんて言うのは、次は水木君でも許さないからね」
あの演奏は僕だけのものではない。既に先輩方や後藤さんにとっても「特別」なものになっているそれを、僕は悪様に貶した。
本意ではないとはいえ……いや、本意ではない悪意からの言葉であったからこそ、彼女は怒っているのかもしれない。
「確かに、失言でした。二度とは言いません」
気付けば僕は、伊地知先輩に心から頭を下げていた。彼女はそれに大袈裟に、満足そうに頷く。
「なら、よし! あたしだってあんな演奏、またやりたいって思ってる。次までには、あたしも水木君について行けるくらい上手くなってるから」
「物好きなものだ。まあ、アレは色々極端なセッションでしたからね」
「ふふ。じゃあ、いつまでもここで駄弁ってるのもあれだしね。はいはいみんな、とりあえず中に入ろうよ!」
先輩は手を叩いて、階下のバンドメンバー達に声を掛けた。
先程ようやく揃った筈なのに……深みを増す夕陽の赤。それが照らし出す色取り取りの色彩は、僕の眼にはやたらと馴染むように見えた。
ここまで読んで頂き、本当にありがとうございます。
励みになりますので、よろしければ感想、評価など頂けましたら大変嬉しいです。
以降、推敲等のため少し投稿ペースを落とそうと思いますので、よろしくお願いします。