君の弾き語りが聴きたい   作:待ってください

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※演奏シーンにはフィクション的な要素が含まれますのでご注意ください。


『青い春と西の空』

「うわーん! こんなの無理よー!」

 

 STARRYに併設されたスタジオに悲鳴が響く。普段の快活さが嘘のように、床に蹲って泣き伏せる赤い少女。

 

「3回目の泣きが入りましたか。今日はちょっとペースが早いな」

「ま、まだ2時間も経ってないんですけどね……」

「冷静に観察されてる! 普通に怒られるより怖いわ……!」

 

 紆余曲折あって深入りすることになってしまった、喜多さんのギター特訓。一応「雑用程度はする」とも言ったし文句はないが、少々高頻度で発生するフリーズにはどう対処したものか。

 後藤さんと共に思案していると、蹲っていた彼女は白眼を剥いた。

 

 

 

 少し経って落ち着いた喜多さんはしかし、パイプ椅子に座ったまま憂鬱そうに溜息を吐く。

 

「でも、最近ちょっとしんどいのよね……。同じことの繰り返しで、上手くなってる実感が湧かなくて。あと何キロ走ればいいのかも分からないまま、延々マラソンをさせられてる気分っていうか……」

 

行軍(マラソン)に終わりなどある訳ないじゃないですか」

「大丈夫です、喜多さんならやれます」

 

行軍! 行軍って言った! 鬼! 後藤! 水木南!」

 

 上達に終わりなどない。例えるなら、兵士が上官の命令に従い、ただ穴を掘っては埋める行為を繰り返し、何百キロの道を行進するように。人間を規格に適合した「従順な身体」へと作り替える解剖政治学の技術こそが規律・訓練(ディシプリーヌ)である。

 

 喜多さんは瞳を泥のように濁らせながら、いつか聞いた呪詛を返した。

 

「その表現、気に入っているんですか? あと、流石に冗談です」

「冗談に聞こえないし笑えないのよ!」

 

 とはいえ、彼女の人格を擦り潰し、かつての僕のような人間オルゴールにしたところで何の面白みもない。ひらひらと手のひらを返すと、喜多さんは椅子を蹴飛ばす勢いで噴き上がった。

 

「冗談……?」

「……後藤さん?」

 

 その怒り半分安堵半分の涙目は、後藤さんの冷たい困惑で恐怖に変わったのだが。それ以上いけない。

 

「そもそも、息抜きには付き合っているじゃないですか。ボーカル練習の名目で何時間カラオケボックスに詰め込まれたと……」

「それはそれよ。というか後藤さんはともかく、水木君はへ、変な曲ばっかりだったじゃない!」

「山田先輩のご推薦だったのですが。ご不満でしたか?」

 

 僕の助け舟(話題逸らし)に乗っかって、後藤さんを見なかったことにした喜多さん。けれど彼女はそれはそれで怒り出してしまった。

 選曲については、カラオケの経験がなかった僕が山田先輩に相談した結果である。実際、大いにウケそうな選曲だとは思うのだが。

 

「あんなセクハラソング、リョウ先輩が選ぶ訳ないじゃない! 先輩の名前を出せば誤魔化せるとでも思ってるの?!」

「水木くん自身、アレはダメだとは思わなかったんですか?!」

 

 ……同性の人間とのカラオケであれば。

 

『おっぱい』

『金太の大冒険』

『寝ても覚めてもランジェリー』

『乳をもげ!』etcetc……。

 

 なるほど、一曲聴いただけで先輩の所業は理解した。理解したが、相談の上で紹介された手前、それを曲げるのも何となく「負けた」気分にならないだろうか。

 よって、お二方が頬を染めて困惑するなり、卑猥な歌詞を真剣に歌い上げる僕にドン引きするなりを見たかった訳では決してない。

 

 いずれにせよ、僕はカラオケ開始早々にマイクを取り上げられたのだった。

 

 

 

「とにかく! 頑張ったらこんな風に弾けるようになる、みたいな手近な目標が欲しいのよ」

「は、はい。確かにそのほうがモチベーションも維持しやすいかも……」

「ご指摘はごもっとも。そろそろ実践練習も交えていきましょうか」

 

 収拾が付かなくなりそうな気配を感じたのか、喜多さんはパチンと手を叩いた。少し早い気もするが、……まあ、今の彼女なら大きな抜け漏れはなかろう。あれば前の過程に戻るだけだ。

 

 僕が頷くのを見るや、喜多さんはキラキラ……否、キタキタと輝きながら高々と挙手。

 

「はいはい! 後藤さんと水木君にお手本をやって見せて欲しいわ!」キターン!

「僕はギターは専門外です。そして、キーボードを弾けというのであればお断りします」

「あーあー聞こえない! 喜多ちゃん疲れました! 後藤さんと水木君のセッションじゃなきゃヤダッ!」

 

 後藤さん謹製・基本コード進行反復ドリルに付き合ったとはいえ、どうせキーボードでやれという話なのだろう。

 そこまで付き合う気もない、と肩を竦めると、喜多さんは手足を振り回して駄々を捏ね始めた。餓鬼でもあるまいに……。

 

「ぐああ……その、き、喜多さん。私でよければお手本は見せますから……」

「僕如きのピアニストなど腐るほど居ます。それにお手本というなら、先輩方にこそ合わせるべきでは?」

 

「この会は先輩達にギターを披露するためじゃない」

「み、水木くんみたいな演奏ができる人は、あんまりいないと思います」

 

 健気に喜多さんを宥める嫌光性の少女にも、その駄々っ子当人は膨れっ面をするばかり。あと後藤さんも、あまり僕を過大評価されても困る。

 

「それに後藤さんも、水木君とセッションしてみたいんじゃないかしら?」

「それは……」

 

 うっ、と言葉に詰まる後藤さん。それを同意と見たのか、喜多さんは強く瞳を輝かせた。

 

 

「あのライブで見たのは、後藤さんと水木君の「特別」だもの。だからこそ、それをお手本にしたいの」

 

「お願いします!」

 

 

 その赤髪を振って、深く頭を下げた喜多さん。後藤さんもまたおずおずと僕の顔色を窺っている。その僅かに物欲しげに揺れる瞳。

 二人とも、何が僕へと執着させるのだろうか。

 

 隠した左手に、冷たく痺れが走る。だが、……僕を見上げる澄んだ青。頬を走った赤い熱。

 

 凍てつく念慮と灼けつく衝動。項垂れ、せめて揺れる目元を隠す。

 斑らに入り混じる苛立ちにも似た何かを、深く、深く、嘆息とともに吐き出した。

 

 

「はあ──……。まったく、どうしようもない」

 

 

 怯えたように息を呑む音。だが、三度繰り返す。一流の演奏家というのはいかなる外力にも演奏を曲げはしない。けれど、聴衆の無垢な喝采にだけは屈するしかないものなのだ。

 

 ぎちり。パイプ椅子を軋ませ、立ち上がる。

 

「そう言えば、先日は喜多さんを泣かせてしまったのでしたか」

「うぐっ」

 

 じとりと舐め付ければ、喜多さんは気まずそうに目を逸らした。呆れたものだが、あの時の罪滅ぼしと思えばまだ言い訳も立つだろう。

 

「……今回だけですからね」

 

 慨嘆とともにくだした承諾。少しの間を置いて、喜多さんは飛び上がった。

 

「や、やったあ! ……えっと、本当にいいの?」

「貴女は泣き喚きながらも、よく着いて来ましたからね。多少の我儘は聞いてもいいと思ったまでです」

「ぐぬぬ、一言余計なのよ……」

 

「でも、ありがとう!」

 

 自分でお願いしてきた癖に、と失笑を悪態で誤魔化す。少々げんなりしつつも、喜多さんは今度こそきらきらと笑みを咲かせた。

 

「……その、水木くん」

「こうでも言わなければ彼女は収まらないでしょう。一曲二曲、どうということはありませんよ」

 

 後藤さんもまた僕を慮りながら、けれど喜色のほうが優るらしい。気にしないでいいと告げれば、にへら、と相好を崩した彼女。僕の演奏ごときで何が嬉しいのやら、きゃっきゃと騒ぐ少女達。……二人の笑みを見ていられず、目を背けた先。

 スタジオに何気なく置かれた、あの時のキーボード。

 

『だから煮え切らないお前が音楽をしなきゃいられなくなるまで、側で見てればいいんだよ』

 

 全く、どいつもこいつも。

 

 

「それで、後藤さんは課題に向いた曲はご存知でしょうか?」

「えっと、簡単で、短めの曲……。ちょっと古い曲なんですけど。これ、弾けますか?」

「問題はありません。バッキングと、ベースもいけるか。それらは僕が受け持ちますので、リードはお任せしても?」

「は、はい!」

 

 彼女から手渡されたギターの教本。本来の担当楽器とは異なるが、本命のお手本は後藤さんのリードギターだ。添え物側は小細工で取り繕ってしまえるだろう。

 喜多さんの担当はバッキングではあるものの、今回は練習課題だしな。

 

 相変わらず貧相な鍵盤に、観客はただ一人。デュオの相手は、ひとりぼっちでしかギターを弾けない少女。その俯きがちな瞳に宿る青い炎。

 

 

 悪くない。

 

 

 我ながら都合の良い感慨に失笑を噛み殺しつつ、鍵盤に手を置く。

 後藤さんが俄かに()()()()。悴む指先、しかし。

 

 ──ひとりのことだけ心に留めて。

 ──いとしのそれすら頭にない。

 

 ピンクの六弦、シンクロする鍵。

 深紅に染まるインプロヴィゼーション。

 

 相手するに不足はなし。六弦の嵐を手離しはしない。

 

 

 

 

 

 

「す、凄い……カッコいい!」

 

 セッションの余韻が去っていくなか、目一杯に手を鳴らす音。全身を光で満たした喜多さんが、興奮冷めやらぬとばかりに喝采をあげていた。

 

 存分に楽しんで頂いた様子で、演奏家として感謝の極み……なのだが。

 

「す、凄い眩しい……。あ、ありがとうございます!」

「私も練習頑張ったら、こんな演奏できるようになるかしら!」

 

「無理です」

「はぐうっ?!」

 

 大変申し訳ないが、事実は事実。見事に梯子を外された喜多さんは、それまでの輝きが見る影もなく暗転してしまっていた。

 これは彼女ではなく僕達側の問題なのだが。

 

「な、なんでそんな意地悪なこと言うんですか!?」

「いや、そうではなくて。先程の演奏、リードギターが走りに走るわ、アドリブの応酬やら。後半は曲の原型がほとんど無くなっていたではないですか」

「うぐっ」

 

 単純に、先ほどのセッションが色々な意味で高度過ぎて、初学者の目標としては不適切だという話だ。きわめて魅力的な放埓(インディシプリン)であることに否やはないが、お手本にならない。

 

「ご、ごめんなさい。その、水木くんが合わせてくれるのが分かって、た、楽しくて……」

「……乗った僕も悪いのですが」

 

 殊の外早く巡ってきた再演の機会に、その青い炎に思わず魅入られてしまったのだ。彼女も、他ならぬこの僕も。

 

 何となく生温くなった空気を振り払うように、咳払いをひとつ。

 

「僕としたことが失念していましたが。後藤さんは独奏だけなら、おそらく同年代でも突出した異常なギタリストですからね。いきなりそのレベルを目標に置くのはお勧めできません」

 

 こちらを睨むピンクジャージのギター(マニア)

 

 周囲と合わせられない、という重大な欠点を抱えてこそいるものの、後藤さん本来の力量は今すぐに、そして申し分なくプロのシーンで通用するはずである。

 聞けば彼女のキャリアは3年ほど。その程度の期間でここまで到達するには才覚は勿論、並大抵の練習密度ではまず不可能だ。

 

 十年以上規律・訓練を重ねたこの僕をも凌ぐ技量。後藤ひとりは天才である以上に、割と異常者の部類である。

 

「でも、私は後藤さんとフロントを組むんだし」

「彼女のように時折精神に変調を来したり、身体が物理的に変形するようになっても構わない。そこまで仰るのなら、敢えて止めはしませんが」

「ええ……」

 

「私のことをなんだと思ってるんですか!」 

 

 傍証として──恐るべき魔技の代償なのだろう。哀れ後藤さんはかの李陵の如く、心身を人ならざるものへ変ずるまでに至ってしまっている。

 

 おお、可哀想に……。

 

 冒涜的な事実はともかく、いたいけな初学者にむざむざ戻れない河を渡らせる必要はあるまい。

 

「もとい、今はもっと現実的な目標を据えましょう」

「いけしゃあしゃあと……。ええっと、じゃあ今度は割と簡単な、パワーコードだけで弾くやり方で。……あの」

「ではもう一度。……大丈夫」

 

 頬を膨らませた後藤さんは、しかし気を取り直してもう一度ギターを構える。……彼女はそのとき、僕の左手を僅かに一瞥した。

 貴女も先程は手加減無しの本気だったのに。思わず込み上げる苦笑を噛み殺そうとして、眼差しを返す目尻が下がることは禁じ得ない。

 

 彼女の瞳には未だ青い炎が灯っている。けれどその炎は先程の燃え盛るそれではなく、どこか割れ物に触れるようないじらしさがあった。

 

 

 

 先ほどよりも多少なりとも緩やかに手を止める。

 

「さっきに比べたら地味だけど、それでも十分カッコよかった!」

「えへへ、で、でもこの曲は4弦・5弦・6弦だけでも無理矢理弾けちゃうので、今の喜多さんなら直ぐに弾けるようになりますよ」

 

 今回の後藤さんは、持ち味である暴力的なまでのプレイはなりを潜めた。躊躇いがちでぎこちなく、僕から背を押してやることでおっかなびっくり走り出すリードギター。

 単なるセッションとしては物足りなさを覚えたことは否定しない。しかし、最初の夜に僕の左手をそっとなぞった、あの指のような健気さが微笑ましい。

 

 僕への気遣いを通して、後藤さんは「人と合わせる」ことを学び始めたのかもしれない。

 

「ともあれ、これなら割と現実的な短期目標か」

 

「! やりたい! 私もセッションやりたいわ! どうせなら、ボーカルも付けて先輩達にも披露しましょう!」

「グワーッ!? ……わ、分かりました。なら、今回は喜多さんがリードギターやりますか?」

「うん、私頑張るわ! 後藤さん、水木君!」

 

 セッション自体の出来はさておき、目標としては手近だろう。手本を示され、やる気満々に後藤さんの手を取った喜多さん。先ほどから至近距離で何度も猛烈な光量を浴び、嫌光性の少女は光になってしまいそうだ。

 

 

 ……どさくさ紛れに、聞き逃せない部分もあったのだが。

 

「僕も付き合う流れなんですか。今回きりと言ったはずですが」

「後藤さんだけ水木君とセッションするなんてズルい! 私だって一緒に演奏したいわ!」

「べ、ベースができる人も他にいませんし……」

「……はあ。ここまで来れば毒皿か」

 

 痩せても枯れても、か。

 

 子供っぽく手足を振る喜多さんの「特別」への憧れ。そして引け目と期待で揺れる後藤さんの瞳。それらを見つけてしまえば、ただ嘆息を返すほかないのであって。

 

 最早言葉もない僕の様子を知ってか知らずか。喜多さんは山田先輩に貸してもらったという、水色のレスポールジュニアを楽しげに取り上げたのだった。

 

 

 

「ギターにボーカルもやらなきゃいけないから、あ、頭がこんがらがって……」

「そこで一々考えていては駄目です。『Bm・G・D・A』」

「──!! ぐっ、や、やってきたことの意味は分かったけど、なんかムカつく!」

「ま、まあまあ、喜多さん。まずはゆっくりでいいですから」

 

 

「後藤さん、ストップストップ。バッキングなのにリードを置いていかないでください」

「ご、ごめんなさい。ううっ、他人にゆっくりでいいなんて言っておきながら……わ、私が生首(ゆっくり)になってお詫びを……!」

「ゆっくりぼっちですか、可哀想に」

「ほっこりしてる場合じゃないでしょ! 後藤さんもそんなことしなくていいから!」

 

 

「水木くんだって、何だかんだアドリブで喜多さんを振り回してるじゃないですか!」

「な、なんかおかしいと思ったら! そんなの私に合わせられる訳ないじゃない!」

「喜多さんも()()()()()()()なってきましたし、暇だな、と。……痛い痛い、両腕は勘弁してください」

 

 

 

 

 喜多さん発案のセッションが七転八倒を繰り返しながらも、なんとか形になりつつある頃。

 

 練習に疲れ果て──普段の独奏と、今のようなセッションとでは勝手が違うのだろう。椅子にへばりつくように身体を蕩かした後藤さんと、机に大袈裟に突っ伏した喜多さん。

 その死屍累々をスタジオに残し、僕はSTARRYの外の階段に一人腰掛けていた。

 

 陽は既に沈み掛け、初夏の大気の火照りも大分冷め始めている。この数時間休みを挟みながら、誤魔化し誤魔化し動かしていた左手。それもそろそろ軋みが無視できなくなりつつあった。

 

 そのポンコツの内にある、缶コーヒーの冷たさに一息付きながら。

 

「僕にご用件があるなら、出て来られたらいかがですか?」

「ううっ、あの、飲み物2本、買っちゃった、んですけど……」

 

 少しだけ開いたドアの端でちらちらと揺れる桃色の髪。行っては戻り、決心しては踏み出せない。小動物が隠れているようで、今少し眺めていたかったが……引っ込み思案の少女をそのままにしては、流石に可哀想か。

 

 気まずそうに姿を現した後藤さんの両手には、それぞれコーラの缶が見える。ああ、なるほど。僕を気遣って飲み物を用意したつもりが、空回りしてしまったと。

 そのいじらしさに頬が緩む。僕は階段から腰を上げて、おずおずとこちらへ登ってくる彼女へ右手を差し出した。

 

「これも飲むに飲めませんからね。頂きましょうか」

「うう、す、すみません……」

「いいえ、ありがとうございます」

 

 面目なさそうに肩を落とした後藤さん。それに小さく苦笑しながら、渡された缶のプルタブを開け一口。炭酸の発泡が喉を焼く、その些か過剰な刺激。

 いや、疲労で鈍る思考に釘を刺すには、このくらいが丁度良いのかもしれない。

 

「ええっと。ひ、左手、大丈夫……ですか?」

「何ともないとは言えませんが。まあ、騙し騙しやってみますよ」

 

 コーラの炭酸に少々苦戦していると、右隣に腰を下ろした少女は躊躇いがちに、恐る恐るこちらを見上げた。あまり晒すものでも無いので、軽く化粧をして取り繕ってはいるものの。

 

 甲に歪に刻まれた醜い古傷。拍動に伴って、冷たい雨のような疼きが伝う。

 

「あの、その……」

「……」

 

 問いの機先を制すれば、後藤さんはしょんぼりと眉を下げる。言葉は喉の奥に引っ込んでしまった。

 

「ごめんなさい。しかし、あまり気持ちのいい話でもありませんから」

 

 彼女が何を聞きたいかは分かっていた。そして当然の問いだとも思うが、……僕もまた、言葉が出てこない。あの地面がなくなって落ちていくような感覚から、目を逸らした。

 

 ぎこちない沈黙。彼女の隣に腰を下ろす。

 

「喜多さんはどうされていますか?」

「えっ、あっ、はい。スタジオで休んでるみたいです。やっぱり、ちょっと根詰め過ぎ、かも」

 

 誤魔化しといえばそれまでだが、喜多さんの様子は気になるところではあった。後藤さんもへばっていたように見えたものの、経験差の分、彼女のほうが回復は早かったらしい。

 改めて思う。結果的に僕が主導することになった喜多さんのギター特訓、しかし。

 

「彼女には、謝らなければいけませんね」

 

 振り返って見てもやはり、僕が良い指南役だとは口が裂けても言えなかった。

 

「えっ?……えっ!?」

 

 ……僕なりに自戒を込めた呟きだったのだが。じっとり彼女へ横目をむけるも、後藤さんは信じられないとばかりにかぶりを振った。

 

「だ、だって、喜多さんをまるで()()()の家畜を見るような残酷な目で扱いてた水木くんが、あ、謝るなんて……!」

「人聞きの悪い物言いはやめて頂けませんか?」

 

 そこまで言われる筋合いはないし、一緒に規律・訓練を施していた貴女が言えたことか。僕とて、自分の非を認めるくらいはする。

 彼女の失礼な反応に慨嘆しながら、右手のコーラを一口煽った。

 

「喜多さんに課した訓練は、僕の幼少期のそれを元にしたものです。フリーズの頻度はともかく、喜多さんもよく喰らい付いていましたが」

「あはは……。でも、水木くんは小さな頃から、あんな練習してたんですね」

「ええ。ただ、僕にとっては当たり前でも、彼女や貴女には、果たしてそれで良かったのか」

 

 三つ子の魂百まで、とでもいうのか。当時の僕は辟易としつつも当然のものだと思っていたし、彼女達の血肉にもなっているはずだが、およそ現代的ではないこともまた事実なのだろう。

 

「もっと楽しく、負担も少ないやり方があったのかもしれません。それは僕の力不足だ」

「……確かに、私も大変でした。最近は動画を上げる気力も湧かないし」

「動画?」

「えっ? あっ、そ、その、ちょっとした、趣味で! 大したものじゃないんですけどっ」

 

 ふわ、と疲労が滲む欠伸を零した後藤さん。少々気になる単語が引っかかったが、……情報端末を持ち歩かない僕には縁のない話だしな。

 とはいえ、後で喜多さんに探して貰うのはありかもしれない。

 

 こほん、とひとつ咳払い。後藤さんは俯いたまま小さく微笑む。

 

「喜多さんも大変そうだったけど、でもすごくキラキラしてて、楽しそうでした」

「……」

「「特別」になりたいって……水木くんに、憧れてるから」

 

 「特別」か、まったく。それを僕に見出すのは間違っていると、あの時まさにこの階段で伝えたはずなのだがな。

 キラキラという表現はともかく。確かに、あんなに鮮やかで騒がしい日々は久しぶりだった。

 

 孤独に音と鍵盤の対応関係を身体へ刻んだかつての僕。しかし、今の僕達の周りには沢山の音が溢れていた。

 皆がお互いのために頭を悩ませ、必死に弦や鍵盤を弾いたこの数週間。それは先ずこの僕にとって、存外に充実した時間だったのかもしれない。

 

「私も夢みたいでした。ちょっと前まで、ひとりぼっちだったのに」

 

 ぽつりぽつりと零れた後藤さんの独白。

 

「誰かと一緒にセッションするのって、こんなに大変で、こんなに楽しいんだって。私、全然知らなかった」

 

 彼女が眼を細めたのは、決して疲労だけではないのだろう。

 

 先ほどとは違った穏やかな静寂、夕陽と瞳のコントラスト。青い春と西の空。それらすべてをその身に映して、後藤さんはすうっと深呼吸した。

 

 

「水木くんは、……なんで、私達の練習にここまで付き合ってくれたんですか? 」

 

 

 ……何を今更。

 

「元々巻き込んだのは貴女じゃないですか」

「うっ、それは、そうですけど。でも、……怪我のこと以外でも、ピアノを弾くの嫌がってた気がして」

 

 失笑に苦みを混ぜた底意地の悪い答え。彼女は言葉を詰まらせ、眉尻を下げてしまった。

 まったく今更の話なのだが、……それでも今は貴女に、喜多さんの我儘に感謝している。店長の言う通り、側で彼女達を見ていて良かった。

 

 何処からか響く、ウェストミンスターの鐘。今日という日が終わっていく音。

 

「僕のピアノが、貴女や喜多さんのどこかに残るというのなら。……それは、望外の慰めなんですよ」

 

 青い眼差しが夕陽に混じって滲む。

 僕がかつて積み重ねたもの。潰えてしまった夢の残骸。それでも彼女達へ何か伝わるのなら。

 

 そう言い訳するのは、間違いなく弱さのはずだった。

 

「それにこうも言いました。貴女の弾き語りに伴奏できるなら、たとえこの手が砕けようと──痛い痛い」

「だからあんなの弾きませんからね! やっぱり水木くんは、意地悪ですっ!」

 

 都合のいい考えを揶揄で押し流せば、頬を赤橙で染めた少女。彼女はこちらの左手を取って、強く握り込んだ。何時ぞやのような鈍痛に顔を顰めつつ、けれどそれが可笑しい。

 隣で頬を膨らませていた後藤さんも、そのうち堪えきれずに吹き出した。小さな笑い声が、雑踏の陰に隠れて重なる。

 

 白く無垢な指が伸びて……改めて、僕の左手は少女の掌に収まった。

 

「水木くんの、意地悪」

 

 少しだけ震えた声。……あの時も、こうして手を握ってくれたのだった。後藤さんにされるがまま、彼女のどこか懐かしい木の芳りが誘うままに瞼が落ちる。

 

 あの六弦の嵐に似つかわしくない、だからこそ修練が伺える柔らかな指先。その指はしなやかに傷をなぞり、冷たく強張った僕の手をほぐした。

 たどたどしく、朴訥でこそばゆい感触。そのいじらしいおっかなびっくりさは、やはり後藤さんとのセッションにそっくりだった。

 

 

 もう少しだけでいいから、あの夕陽が沈まないでいて欲しかった。

 

 

 

 

 

「それにしても、喜多ちゃんから呼び出しかあ。リョウ、なにか知ってる?」

「水木にカラオケのオススメ曲は紹介した」

「お前らマジ舐めるなよ」

「解せぬ。……まあ、行けばわかるんじゃない?」

「それもそうだね。お疲れ、喜多ちゃん!……って、あれ」

 

 結束バンドの全体練習前。喜多さんからいつもより早めに呼び出された先輩方がスタジオのドアを開く。もっとも、僕達はそれより更に早く準備していたのだが。

 

「喜多とぼっちはいいとして、水木も?」

「……色々ありましてね。今回限りの出血大サービスですよ」

「やっぱ米※CLUBじゃん」

 

 こちらを呆れ混じりに揶揄する山田先輩には、反論の術もなくキーボードの前で顔を背ける他ない。目を丸くしている伊地知先輩はともかく、山田先輩には喜多さんの呼び出しの趣旨も概ね察せられていた様だな。

 

 僕のことはさておくとして。スタジオ中央のマイクの前で、珍しく肩に力が入った様子の喜多さん。

 反対側でギターを構える後藤さんに目を遣れば、彼女はゆっくりと五弦とフレットを撫ぜる。そのN.hの音階を引き継ぐように、こちらも鍵盤を軽くグリッサンド。

 

「後藤さん、水木君」

 

 僕達の準備はできている。後は、貴女の今の全てをぶつければいい。少しだけこちらを仰ぎ見て、彼女は笑顔とともに瞳を輝かせた。

 

 喜多さんは正面の先輩方へと向き直る。

 

 

「後藤さんと先輩方のご好意で、私は結束バンドにもう一度入れて頂きました。でも」

 

 

 後藤さんが、伊地知先輩が、山田先輩が頷く。

 

「私自身のケジメとして、ギターボーカル練習してきました。結束バンドの一員だって、胸を張って言えるようになるために」

 

 ……その後ろ姿が眩しく見えた。

 

「聴いてください、『フラッシュバック』」

 

 

 まだまだか弱く、頼りない赤いつむじ風。けれど確かに喜多さんが踏み出した、再出発の第一歩。それはまさに彼女が放つ光のようで……。

 

 

 赤の少女が弦を止めれば、暖かな喝采が上がった。

 

「凄い、凄いよ! ちゃんとギターボーカルできてたよ喜多ちゃん!」

「一月も経ってないのに、よくここまで」

 

 満面の笑みとともに手を叩く伊地知先輩。その隣で山田先輩も感心したように目を細めた。彼女は喜多さんに歩み寄り、おもむろにその手を取る。

 

 練習を重ねて、固く、傷も付かなくなった指。

 

「頑張ったんだね、喜多。──ううん、郁代」

「は、はいっ。あっ……ありがとうございます!」

 

 喜多さんは感動のあまり言葉を詰まらせ、大きく頭を下げた。その目尻には小さく雫が浮かんですらいる。音楽を始めたきっかけである憧れの先輩、その当人からの最大級の賛辞なのだからさもあらん。

 

「あと、ぼっちはバッキングだったんだ。勉強になったでしょ」

「あっ、はい……。喜多さんや水木くんに合わせるのが、最初は難しくて。でも、今も下手ですけど、少しずつみんなの音が聴けるようになってきました」

「ぼっちちゃんも、最初ここで合わせた時からすっごく上手くなったよねえ」

 

 同じく恐縮しきりの後藤さんも、伊地知先輩の感慨深い賞賛には照れ臭そうに顔を蕩かせている。

 

 事実この数週間ほどで、彼女は周囲にそれなりに合わせられるようになっていた。本来の力量とはまだまだ落差はあるものの、こちらを引き摺り回すか、萎縮するしかなかった最初からは見違えるほどに。

 

「でも郁代もぼっちも、まだまだ水木に助けられてる。もっと頑張れ、私達も助けるから」

「は、はい、わかってます」

「頑張ります、リョウ先輩!」

「こういう時だけ先輩風吹かすんだから。でもまあ、あたし達も負けてられないよ」

 

 キリッと指を立てた山田先輩の総評。その調子の良さに半目を向けながらも、伊地知先輩の口元は穏やかに弧を描いていた。

 

 紆余曲折あったものの、これで僕もお役御免かな。

 

 

「で、水木。──ふざけんなクソ野郎

 

 

「「えっ!?」」

「お二方と比べて随分な評価ですね?」

 

 スタジオを後にしようとした僕の背に突き刺さる、二対の極寒の視線。

 

「無駄に高度な遊びしやがって。おちょくってんのか」

「ホント、フィンガードラムってならまだしも。なんで()()()()()()()()()()ドラムパートまでそれっぽくでっち上げてるのさ」

「喜多さんが予想以上に頑張られたお陰で、僕も多少「手が空き」ましてね」

 

 諸手を挙げて白を切る僕に、先輩方は瞳を黒く塗り潰した。ベースとドラム、彼女達の本業でお遊びに走ったのだから然もありなん。

 

 折角の喜多さんの晴れ舞台で打ち込みというのも少々つまらない。リード/バッキングと異質な音質であり、ベース、つまりリズムを担うという点ではキーボードでも事情は同じだ。

 流石にドラム同等とは行かなかったが、鍵盤楽器特有の音域の広さと和音の融通さによって、その効果をある程度代替することは不可能ではなかった。

 

「な、なんか今日は違うなと思ったら、そ、そんなことやってたの……?!」

「先輩方にはご不満な出来でしょうが、僕としてはなかなか面白い余興でしたよ」

 

 最低限のレベルに仕上げられなければ、お蔵入りさせるつもりだった。所詮はその程度の手慰みである。

 

「舐めやがって……」

「ぼっち、郁代。やれ」

 

 そのはずなのだが、しかし伊地知先輩の瞳からは色が完全に消え去った。盛大に青筋を浮かべた山田先輩が、仕草で首を掻っ切る。それを合図に、いつの間にか左右から伸びた手脚が僕の四肢を拘束。

 怨嗟を込めて放たれた、ツープラトンのサブミッション!

 

 

「痛ッ、痛い痛い。この間もそうですが、両腕はやめてください」

「リョウ先輩の命令だから仕方ないわ! よくもあんなクッソキツい訓練仕込んでくれたわね!」

「しょうがないです! 水木くんだって十分異常者じゃないですか!」

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