恵ちゃん至上主義?   作:名無しのナナ氏

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10.不穏

 

 翔子との勉強会が始まって数日が経過した。

 結局、夜這いを仕掛けられたのはあの日だけで、それ以降はご褒美と称して、キスだったり膝枕だったり、たまにポイントを貰ったりしながら、着実にテスト勉強を進めている。

 クラスでの私の立ち位置は、相変わらず希薄なものになっていた。入学当初の影響力はどこへやら、今となっては居ても居ないような影の薄い生徒に成り下がりつつある。グループチャットもろくに返信せず疎かにしていたものだから、いつの間にか、クラスの女子のコミュニティからも外されているようだった。なにかと平田くんが気にかけてはくれているけど、私が自分から積極的に周囲と関わろうとしていないので、そこはちょっと申し訳ない。

 

 午前最後の授業が終わり、チャイムが鳴ると同時に、クラスの三バカ(池、山内、須藤)が慌ただしく教室を出ていく。私はそれを冷ややかな目で見つつ、教科書を片付けて席を立つ。彼らが喧しいのは今に始まったことじゃないけど、最近はなんだか様子が変だ。

 いつも暇そうに授業を受けていた彼らが、ここ何日かで真面目に授業を受けるようになっていた。それ自体はまあ良いことだと思う。あの三人も流石に赤点はマズいと危機感を持ったんだろう。

 けれど問題はそこじゃなくて、須藤たちは授業が終わるなり、女子の堀北さんの席に集まって勉強を教えてもらっているのだった。堀北さんと言えば、少し前に須藤たちと勉強会で罵詈雑言を浴びせたとかなんとかで、一部の女子から反感を買ったらしい。佐藤さんたちが堀北さんを虐めるとかどうとか、そんな話題で盛り上がっていたのを覚えている。思えば、それがきっかけでチャットの返信が億劫になったのかもしれない。自分があれだけ悲惨な目にあったのだ、加害者になるのは死んでもごめんだった。

 

 ともかく、あの三バカが心を入れ替えたのか、それとも退学に危機感を持ったのかは分からないにしろ、熱心に勉学に励んでいる様は異様に映った。普段の彼らを知っているDクラスの人間からすれば尚更に。

 

「恵ちゃん何食べる?」

「うーん、今日はパンケーキの気分!」

「じゃあ私もそれにしよ」

 

 途中、翔子と合流してカフェに入る。生徒で賑わっていたけど、早めに入店したので問題なく席が空いていた。手早く注文を済ませ、出来上がったそれを受け取ってその甘味を堪能する。半分ほど食べたところで、そういえば、と話を切り出す。

 

「テスト勉強間に合うと思う? 急に範囲変わったじゃん」

「ちょっと厳しいかな。睡眠時間を削ればなんとかなる範囲ではあるけど、それだと恵ちゃんのお肌に良くないし……」

 

 夜這いした本人がそれを言うか。ジト目を向けつつ、私はパンケーキを一切れ口に運ぶ。

 

「ポイントで恵ちゃんだけ日程変更してもらうよう、茶柱先生に掛け合ってみようかな。それか中間テストごと中止にしてもらうとか」

「いやいや、大げさすぎでしょ」

「そう?」

「……え、本気?」

「私は恵ちゃんのためなら、いつだって本気だけどな」

 

 大真面目に言ってのける翔子。発言通り、彼女は本気なんだろう。とはいえ、そんな仰々しい買い物をしたらポイントなんて幾らあっても足りない。ここは身の丈にあった方法でどうにか凌ぐのが良いと私は愚考する。例えば……カンニングする権利とか? いや、流石に学校が許さないか。そんな脱法が横行してしまえば、学校側も本末転倒なんだから。時々、この学校が教育機関であることを忘れそうになる。

 

「結局は地道にやるしかないってわけね」

「んー、後々のことを考えると正攻法でやるのが、やっぱり身のためにはなるけど……」

「けど?」

「可能かどうかはともかく、抜け道だったら何個かあるよ」

 

 翔子はいたずらっぽくウィンクしてみせた。

 

「ぱっと思いついたのは、替え玉受験と、点数自体の売買。先生にカンニングを黙認させる、テストの配点操作、赤点ラインの緩和……とりあえずこれくらい? 後はさっき言った日程の変更とテスト自体の中止かな。多分、ポイントさえ払えばどれも実行できると思う」

「だいぶ無茶苦茶言ってない? 仮にも学校なんだし、そういうのアウトじゃないの?」

「そうとも限らないよ。世の中はね、大体お金で解決できるんだよ。この学校もそう。不都合があったら、財力に物を言わせて握り潰すのが一番手っ取り早いもの。それにここは、恵ちゃんが思ってるより、ずっと陰険な場所だから」

 

 陰険。そう聞いて腑に落ちると同時に、一抹の不安が過ぎる。もし、学校側が悪意を持って生徒に理不尽を敷いてきたら、私たちは為す術もなく翻弄され、退学を強いられるのではないか? 或いは、その逆も然り。虐めの被害者が学校に告発しても、知らぬ存ぜぬと突っぱねるばかりか、加害者が金を積めば黙認すらしてしまうのではないか、と嫌な想像を働かせてしまう私が居る。

 

 果たして、この学校は先生を含めてどこまで信用して良いのだろう。思えば、片鱗は既に見えている気がした。先週、突然テスト範囲が変更されたらしいと、私は翔子から聞いた。しかし、それを担任の茶柱先生からは一言も聞かされていない。クラスメイトたちも、その話題を口にしている様子がなく、がむしゃらにテスト勉強に励んでいる。

 

 まさか、テスト範囲が変わったことを知っているのは、Dクラスで私だけ?

 そう考えて、即座に否定する。いくらなんでもそんな訳はない。きっと、他クラスの友人や部活仲間を通して情報が入るはずだ。仮に茶柱先生が伝え忘れていたとしても、ホームルームで慌てて範囲を説明し直すだろう。

 

 だから別に、私が伝える必要なんてないよね。

 不安に揺れ、責任から逃げ出した私は、その罪悪感を胸中に押し隠す。

 

「安心して、恵ちゃんに不自由な思いはさせないから」

 

 翔子の甘やかな言葉が、今は少しだけ辛かった。

 

 

 

 

 

 

 複雑な胸中を悟らせないように、ほんの僅かに急ぎ目でパンケーキを食べ終えた私は、珍しく図書館に足を運んでいた。

 

 珍しく、というか実際に訪れたのはこれが初めてだ。普段は昼食を食べ終えても、そのままのんびりと翔子と残りの数十分を過ごすのが常であり、ましてや、勉強道具を持って図書館に行くなんて思いもしなかった。

 たまには図書館で勉強してみない? と翔子に誘われたのが発端。特段、提案を断る理由もなく、私としても他にやることがないので二つ返事で了承した。

 

 一度、教室に寄って道具を一式持ってから図書館に入る。意外にも、昼休みの図書館はテスト勉強に励む生徒でほとんど席が埋まっていた。他学年も少なくない人数がテーブルにノートを広げている。

 館内を軽く見回してみると、待ち合わせていた翔子が、胸元で控えめに手を振っているのが見える。席を確保しておいてくれたようで、隣の席が空いていた。手招きされるまま、彼女の隣に腰を下ろす。

 

「じゃあ始めよっか。分からないとこがあったら聞いてね」

「ん、りょーかい」

 

 シャーペンを手に取り、勉強を始める。範囲が変わってからも、やること自体は変わらない。基礎を整えて、応用を解く。答えが出せそうになければ翔子を頼る。暗記が主な社会と科学はひたすら書いて頭に叩き込む。ありがたいことに、テスト範囲の大まかな絞り込みは翔子がやってくれている。おかげでテストに出ない箇所は飛ばしていけるので、効率が段違いだ。私一人だったら教科書を一から十まで読み漁って、必要ない範囲も片っ端から覚えようとしていたかもしれない。翔子が優秀で助かった、と心からそう思う。

 

「翔子、ここちょっとわかんない」

「そこはねー、引っ掛け問題だから、一回式を分解して――」

 

 彼女も自分の勉強があるのに、私が頭を悩ませているとすかさずアドバイスをくれる。よほど学力に余裕があるのか、時折、翔子は頬杖を突きながらじぃーっとこちらを眺めていた。そして私がなんとか問題を解くと、自分のことみたいに嬉しそうに顔を綻ばせる。

 

「うんうん、ちゃんと合ってるね。よく出来ました~」

 

 人目も憚らず、翔子は私の頭を撫でた。それ見たことか、周りで勉強している生徒からの生暖かい視線が飛んできている。

 

「ちょ、恥ずいってば」

「遠慮しないで。恥ずかしがってる恵ちゃんも可愛いよ」

「か、かわ……」

 

 面と向かってそう言われると、どうしようもなく頬が熱くなる。私は金魚みたいに口をぱくぱくさせながら、早鐘を打つ胸を手で抑えた。いつにも増して羞恥心を掻き立てられているのは、周囲に人目があるからだと確信を持って言える。

 

 どぎまぎとしながら頭を撫でられ続けていると、不意に翔子はその手を下ろす。名残り惜しく思ったのも束の間、何の断りもなく彼女の手が私の太腿に触れ、ゆっくりと撫で回し始めた。

 

「っあ、ちょっと、翔子……!」

 

 咄嗟に声を抑えて、何してんのよと抗議の目を向けるも、翔子はにこにこと愉快そうに笑みを浮かべて小首を傾げる。

 

「なぁに?」

「何って、こ、こんなとこで――んっ、ぅ……!」

 

 不規則な指の動きで内股を擦られる。スカートの内部にまで入り込んで、いやらしい手つきで腿肉をふにふにと揉まれ、その度に声が漏れそうになった。声を潜めて咎めようとも、翔子は机の下でのいたずらを止める気配がない。加えて、焦らすばかりで秘部には一切触れてこないのがまたなんとも歯痒い。あくまで、彼女は私の太腿の感触を大いに堪能している。ああなるほど、わざわざ図書館に来たのはこのためか! おかしいと思った!

 

「ほら恵ちゃん。お勉強しないと」

 

 肩をぴったりと密着させ、耳元で囁く。温い吐息が耳たぶに当たってくすぐったい。私は彼女の淫靡なボディタッチを大人しく受け入れ、渋々、集中力を散らされながらノートと向き合う。

 

「ん……っふ、く……ぁ……はっ……」

 

 なぞったり、押したり、摘んだり、くすぐったり。レパートリーの強弱を巧みに使い分けて、着実に快感を蓄積させてくる翔子。ペンを固く握り、片手で口元を抑えてなんとか嬌声が漏れるのを阻止する私。それでも体がビクつくのは止められず、時折、不自然に肩が跳ねる。快楽を逃がそうにも、座っているから腰は逃がせないし、身動ぎする程度じゃ翔子の手からは逃げられない。

 当然、そんな状態で勉強が捗るわけもなく。ノートは先程からちっとも進んでいない。頭がすっかりピンク色に染められて計算どころではないのだ。

 

 私たちの様子がおかしいことを悟った生徒が、訝しげな視線を投げて一人また一人と席を立っていく。いつの間にか、私たちの周囲には不自然な空席が出来ていた。

 

「翔子……っ」

 

 そういう気分(・・・・・・)のスイッチが入りかけて、思わず彼女の名を口にする。

 自分からその先を求めかけた時、こちらに近づく集団の気配を察した。

 

「――ちょっといいかしら」

 

 不意に声をかけられ、ばっと勢いよく顔を上げて声の主を見る。堀北さんだった。傍らには池、山内、須藤の三バカトリオが顔を揃えている。

 

「ここのテーブル、使っても構わない? 他に大人数で座れる席が空いてないの」

「へっ? あ、あー……別に、いいけど」

 

 ちら、と横目で翔子にも確認を取ると、あれだけ楽しそうな表情はどこへ隠したのやら、一転して不服そうに眉をひそめてしまっている。

 

「……まあ、構いませんよ」

 

 露骨なまでに声の調子を落として、嫌々ながらも承諾した。興が冷めたのか、太腿に伸ばしていた手も引っ込めるほどに。私はほっとそれに安堵すると同時に、どうせなら最後まで、という一抹の惜しさも感じていた。まるでお預けを食らった犬の気分だ。

 堀北さんたちが席についてノートや教科書を広げ始める。いつもどこで勉強しているのかと思えば、図書館を利用していたらしい。どうりで昼休みの間は見かけないわけだ。

 

 火照った頬を手でぱたぱたと扇いで冷ましていると、ふと堀北さんが無言で翔子に視線を向けていた。その眼差しは鋭く、表情も硬い。なんとなくだけど、堀北さんからは敵愾心のようなものを感じる。

 

「……私に何か?」

 

 驚くほど淡白な声音で翔子が尋ねる。私と接するときのそれとは違う、明らかな余所行きの声だ。

 

「いいえ。特に用はないわ」

「そうですか」

 

 会話が終わる。短いやり取りにも関わらず、明確に空気が重くなった。池たちもただならぬ雰囲気に気圧されて顔を見合わせている。

 

「ねえ、堀北さんとなんかあったわけ?」

 

 肘で翔子の脇腹を突っついてこっそりと聞いてみる。翔子は小さく頭を振り、声の音量を抑えて答える。

 

「んーん。これが初対面だよ」

「にしては敵意剥き出しなんだけど」

「さあ? なんでだろうね」

 

 心当たりはないらしい。翔子にはなくても、堀北さんにはあるということだろうか。気まずい空気が流れる中、私は居心地の悪さをやり過ごすべく勉強を再開した。

 

「おまたせ。って、あれ? なにかあった?」

 

 ノートに数式を書き始めて直ぐ、櫛田さんが合流する。彼女の後ろには背後霊のように綾小路くんが立っていた。ここもまた珍しい組み合わせだ。

 

「別に何も。それより遅いわよ、時間がないんだから早くして」

 

 堀北さんにぴしゃりと怒られ、二人は大人しく空いた席に座った。言葉の節々にトゲが感じられるのが、堀北さんが女子から煙たがられる要因の一つなんだなと実感する。

 そうして、一つのテーブルを囲むようにして勉強会が始まった。私と翔子はその場に居合わせただけだけど。

 

「ところで、軽井沢さんも堀北さんの勉強会に参加することになったの?」

 

 やおら意外そうに櫛田さんが尋ねてきた。

 

「いや、あたしは別に。たまたま翔子と勉強してただけっていうか」

「そうなんだ。あっ、それより初めましてだね。えっと、Aクラス土岐さん、でいいのかな? 私は櫛田桔梗って言います。よかったら友達になってください!」

 

 櫛田さんはタイミングを伺っていたのか、さり気なく翔子に自己紹介をする。彼女の人当たりのよい笑みを受けて、それまで若干不機嫌そうに沈黙を保っていた翔子も、一つ息を吐いてから、これまた明らかな営業スマイルを浮かべた。

 

「はい、良いですよ」

「やったっ。じゃあ連絡先交換しようよ!」

「もちろん」

 

 お互いに学生証を取り出してやり取りを済ませる。しかし、私には分かったけど、受け答えが妙に淡白だった。私と接するときのそれとは明確に温度差がある。多分、私が思ってるよりもずっと機嫌が悪い。堀北さんに割り込まれたのがそんなに嫌だったのか。

 

 挨拶はそこそこに、お互いが勉強の姿勢に入る。

 

 三バカがジジイ問題がどうとかで煩いのは多少気にはなったけど、翔子に股を弄られるよりはよっぽどマシに思えた。

 あれから翔子も真面目に勉強を教えてくれている。……くれてはいる、んだけど。

 

「じゃあ次はこの問題解いてみようか」

「えぇっと……こ、こう?」

「そう、正解。ふふっ、やっぱり恵ちゃんはやればできる子だね。えらいえらい」

 

 問題を解く度、まるで周囲に誇示するみたいにして翔子が私を甘やかす。ぴったりと体を密着させ、耳元に吐息がかかるほどの距離で囁き、ほぼ常に頭を撫でくり回している。溢れんばかりの愛情をこれでもかと見せびらかしているおかげで、櫛田さんたちが目を丸くして私たちを見ている。私はもう、顔から火が出そうと言うか、もはや爆発寸前だった。

 

「噂では聞いてたけど、本当に仲が良いんだね」

「う、噂ぁ? なにそれ」

 

 撫でられるがまま、櫛田さんに聞き返す。

 

「モールで手を繋いで買い物してるところを見かけたーとか、食べさせ合いしてるのを見たーとか、あと寮の部屋から一緒に出てくるのを見たーって話も出てたかな。一部の女の子の間じゃ、平田くんが軽井沢さんを寝取られたんじゃないかって話が変な方向に飛躍してて……」

 

 ちょっぴり頬を赤く染めて遠慮がちに櫛田さんは言う。円満に別れたはずの平田くんが何故か脳破壊されたことになっているのは置いておいて、女子の間で私たちの関係が知られつつあるらしい。そりゃまあ、人目も憚らずこんなこと(頭を撫でる、手を繋ぐ等)をやってれば噂されるのも当然の帰結だった。

 

「どうなんだよ、実際。軽井沢と土岐ちゃんって付き合ってんの?」

「あれか? 百合ってやつなのか?」

 

 興奮気味に山内と池が身を乗り出す。女子同士の恋愛に物珍しさを感じているのか、やたらと興味を示してくる。正直言ってキモい。鼻息荒くしてるところが特に。

 

「あたしと翔子は――」

 

 言葉が切れる。喉の奥につっかえたように、後に続く言葉が出てこない。私たちの関係性を象徴する具体的な名称が思い浮かんでこない。私たちは、なんなのだろう。

 

 友達、ではない。キスをしたり性行為をしたり、そんな間柄を友達とは呼ばない。

 

 じゃあセフレ? 惜しい気がするけど、違う。身体の関係で済ませるにはあまりに複雑だ。

 

 寄生虫と宿主? 却下。論外。ってか言えるわけがない。

 

 なら、恋人? それもしっくりこない。翔子はともかく、私に彼女への恋愛感情、ましてや愛情を明確に自覚していないからだ。けれど好ましくはある。

 

 残ったのは、結婚相手? 確かにプロポーズはされた。されたけど……肝心の私が保留している。理由はやっぱり、私が翔子への愛を知らないから。

 

 結局、私たちはどういう関係なんだろう。

 

「――運命共同体、とでも言いましょうか」

 

 撫でていた手を止めて、翔子が静かに答える。すとん、とその答えが小気味よく腑に落ちた。欠けていたパズルのピースがはまるように、求めていたそれが胸の内にぴったりと収まる。

 

「まあ、お付き合いしているわけではないのですが」

「ってしてないのかよ!?」

「でも死ぬ時は一緒って約束してくれましたよ」

「いや重くね!?」

 

 池がツッコミを入れていると、近くに座っていた男子生徒が声を上げた。

 

「おいお前ら、図書館でぎゃーぎゃー騒ぐなよ。集中できねぇだろうが」

 

 尤もな言い分にぐうの音も出なかった。けれど、池たちはへらへらとしながらちっとも反省した様子を見せない。

 

「おっと悪い悪い。つい興奮しすぎちまったぜ。やっぱ時代は百合だよな~、お前もそう思うだろ?」

「なんでこっちに振ってくんだよ、知らねえよンなこと。……つーか、お前らもしかしてDクラスか?」

 

 嘲笑を浮かべて男子生徒が私たちを一瞥した。明らかにDクラスそのものを見下した態度に、須藤が苛立ったように声を荒げる。

 

「だったらなんだよ。Dで悪ぃかよ」

「気に障ったんなら謝るぜ? 俺はCクラスの山脇ってんだ、一年同士仲良くしようや」

 

 ニヤついた顔で山脇と名乗った男子は、同じテーブルについていた生徒たちを一瞥して言葉を続ける。

 

「ただなあ、お前らみたいな底辺の不良品と一緒に勉強してると、俺らまで同類だと思われちまうからな。いやいや、俺は別にいいんだけどよ?」

「ンだとコラ!?」

 

 分かりやすい挑発に、青筋を浮かべた須藤が椅子を慣らして立ち上がった。今にも掴みかかりそうな勢いに、私はびくっと肩を跳ねさせて縮こまる。これだから喧嘩っ早い人種は嫌いだ。

 

「おいおい怒んなって。事実を言ったまでだろ? それに暴力行為なんて学校に知られたら査定にも響くぜ? つっても、お前らは減らすだけのポイントもねえんだったな。となると退学になっちまうかもなぁ」

「テメェ……!」

 

 須藤が拳を強く握る。彼の怒りが臨界点に達しようとしていた。巻き込まれたらどうしよう、と不安になって、私は翔子の制服の袖をきゅっと掴んだ。ざわつく心を少しでも落ち着かせようと、彼女の顔を見上げる。――色のない瞳で、表情を欠落させた翔子が彼らを見ていた。

 

「翔子……?」

 

 彼女は袖を掴んでいた私の手を優しく解くと、耳元に顔を寄せた。

 

「ちょっと、行ってくるね」

 

 そう言って、翔子は影のように物音一つ立てずにゆらりと立ち上がる。一歩、山脇へ距離を詰める。異様な雰囲気を漂わせる翔子に、一斉に周囲の視線が向く。

 

「……なんだよ、お前は」

 

 男子生徒並みの身長を誇る彼女に見下され、表情を一転して強張らせた山脇が後ずさる。

 幽鬼を連想させる不気味な気配を振り撒く翔子は、何を言うでもなく無言のまま立ち塞がっている。図書館全体が、異様な静寂に支配されていた。

 

「――今、恵ちゃんのこと馬鹿にしましたか?」

 

 自ら沈黙を破った翔子が、脈絡もなく問いを投げる。

 

「は……? 誰だよ、そいつ」

「恵ちゃんは恵ちゃんです。私の愛しい人、最愛の人、私だけの運命の人」

 

 また一歩、距離が詰まる。狼狽える山脇は後ずさって、背後の本棚まで追い詰められた。

 

「私の恵ちゃんを侮辱する権利は誰にもありません。なのに、底辺だとか不良品だとか……なんなんですか、貴方は? 上から目線で何様のつもりです? 恵ちゃんを有象無象(あんなの)と一緒にしないでください。恵ちゃんは特別なんです。恵ちゃんは貴方みたいなクズが口汚く誹謗中傷して良い存在じゃないんです。恵ちゃんは神様が私と巡り合わせてくれた奇跡の存在なんです。この世で最も完成された何一つ欠点のない愛の結晶です。世界中の人間が尊ぶべきただ一人の女の子なんです。それを、それなのに、クズの分際で、よくも、よくも、恵ちゃんを、よくも――」

 

 完全に開き切った瞳孔で山脇を見下ろしながら、底冷えするような声色で憎しみを滲ませた言葉を吐く。まるで録音された抑揚のない機械音声を再生しているみたいだった。

 どう見たって尋常ではない様子に、山脇はすっかり腰を抜かし、須藤すらも怒りを鎮火させて困惑している。

 

「お、おい。なんか、ヤバくねぇか?」

 

 表情を引きつらせた池が、僅かに腰を浮かしてそそくさと退散しようとする。山内も同様に機会を伺っているようだった。てっきり櫛田さん辺りが仲裁するかと思っていたけど、その様子はない。堀北さんも険呑な雰囲気に圧倒されてしまっており、もはや誰も翔子を止められる人物がいない。もし、このまま彼女を止めなければどうなってしまうのか。私の知らない暴力性を発露させるのか、或いは、と心の何処かで何かを期待している自分がいる。

 

「軽井沢」

「え?」

 

 不意に呼びかけてきたのは、それまで沈黙を保っていた綾小路くんだった。彼の目に怯えはなく、冷静さを損なうことなく私に問う。

 

「止められるか?」

「……わかんないわよ。あんな翔子、初めて見たし……」

 

 翔子を見る。次の瞬間にも凶行に及びかねない危うさを感じた。にも関わらず、彼は私に止めろと言う。あまりに無茶振りだ。

 渋る私から目を逸らさず、綾小路くんは言葉を重ねる。

 

「男のオレたちが仲裁に入っても、却って怪我をさせるかもしれない。あの様子だと、言葉が届くのは軽井沢だけだ。お前も、相方が暴力事件を起こすのは避けたいだろ?」

「……うん」

 

 翔子を止められるのは、私だけ。そう考えると、自分が特別な何かに思えた。

 ゆっくりと、山脇の首に白い細腕が迫る。あれは絞首刑の縄だ。翔子は今、罪人に処刑を執行しようとしている。けれどそれは、私が望んだことじゃない。

 私は席を立って、彼女に駆け寄った。

 

「――よくも、よくも、よくも……ッ!」

「し、翔子っ!」

 

 喉元に届きかけた寸前で、翔子の身体がぴたりと硬直する。首だけを向けて彼女が私を見据えた。色のない瞳に、薄っすらと光が戻る。

 

「もう、いいってば。あたしは大丈夫だから」

 

 彼女の手を取って、自分から指を絡ませた。翔子がその雪のように白く潔白な手を汚してしまわないよう、しっかりと握る。翔子は躊躇いながらも、繋いだ手を解くことはなかった。

 

「でも、この男は恵ちゃんに――」

「だーかーらー! あたしがいいって言ったらいいの!」

 

 なおも未練がましく制裁を下そうとする翔子の言葉を遮って、私は強引に彼女の手を引っ張って放心状態の山脇から距離を取らせる。

 

「はいちゅうもーく!」

 

 私が翔子を引き剥がすなり、タイミングを図ったように女子生徒が割って入ってきた。特徴的なそのストロベリーブロンドの長髪は、どこかで見覚えがある。確かBクラスの生徒だったっけ。

 

「これ以上騒ぎを大きくするなら、学校に報告しちゃうけど? 特に暴力行為なんて、クラスの査定に大きく響くんじゃないかな?」

 

 ぱん、と一際強く拍手を打ち、注目を一挙に集めたその女子生徒の登場によって、不穏に張り詰めていた空気がリセットされる。

 

「それからあなたも、あんまり相手を脅かそうとしない!」

「む……なんですか貴方は。部外者にとやかく言われる筋合いはありません。私はただ恵ちゃんのために――」

「もー! 翔子も突っかからないでよ! ほら、とっとと戻るわよ!」

 

 ぐいぐいと翔子の腕を引き、ノート類を片付けてしまう。流石にこのまま勉強を再開できるほど図太い神経は持ち合わせていない。

 

「それから君たちも、あんまり度が過ぎた挑発行為は学校側に報告するからね!」

「わ、悪い。悪かったよ一之瀬。俺が悪かった。に、二度とこんなことはしねぇ」

 

 顔を青くした山脇が捲し立てるようにそう言うと、慌ててその場から走り去っていく。同じCクラスと思われる生徒も彼の後を追い、ひとまず図書館に平穏が戻る。

 

「君たちも図書館ではお静かにっ。以上!」

 

 綺麗に締め括って、髪を揺らしながら彼女も元の席に帰っていく。

 

「なんか、ごめん。翔子も悪気はないんだけどさ」

「彼女に悪気はなくても、もし暴力沙汰になっていたら、連帯責任でお互いに被害を被っていたでしょうね。今後は見え透いた挑発に乗らないことをお勧めするわ」

 

 一応、形だけでも謝罪はしたものの、堀北さんの呆れ果てたような物言いに若干後悔する。なんていうか、一々癇に障る言い方をしないと気が済まないらしい。上から目線な態度に、僅かな苛立ちを感じた私だったが、これ以上事を荒立てるのはごめんだったので、不愉快な気分を顔に出さないようにしつつ道具を小脇に抱えた。

 

「このまま続けるのも何だし、うちら戻るから」

 

 翔子の手を引いてその場を立ち去ろうとする。そこでふと、カフェで懸念し、捨て去ったはずの事柄を思い出した。須藤たちが今しがた勉強していた範囲は、変更前のものだ。もしも、私がここでそれを伝えなければ、彼らはいつそれを知る機会が訪れるのだろう。万が一、当日まで知る由がないとしたら――それは、後味の悪い後悔となって、私の胸中にヘドロのようにいつまでもこびり付く。翔子と過ごす未来の日常に、そんな禍根は持ち越したくはなかった。

 

 確認を取るなら、今しかない。そんな直感めいた何かが私の背中を後押しする。

 

「あのさ、お詫びになるかどうかわかんないんだけど、一個だけ伝えとく」

 

 半身振り返って、どうせなら杞憂であれと願いながら堀北さんに尋ねる。

 

「――テスト範囲変わったって話、聞いた?」

 

 その場の全員が、一様に瞠目する。

 ああ、嫌な予感が的中してしまった。

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