恵ちゃん至上主義?   作:名無しのナナ氏

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※この作品はノリと勢いと叡智で構成されています


3.終わりの始まり

 

 なんで私なんだろう、と本日幾度目かの自問に対する答えは、私の足りない脳みそではついぞその日のうちに解答を導き出せなかった。

 あれからなし崩し的に解散の流れになって、自室に戻ってきてからというもの、ずっと悶々と頭を悩ませていた。大して混み合っていない店内でわざわざ相席してきたこと、そして用意されていたあの紙切れといい、土岐さんは前もって私に接触する機会を伺っていたのは間違いない。でも、それに至る理由がさっぱり見当もつかなかった。私と彼女は初対面のはずで、一度だって言葉を交わした覚えがない。少なくとも、私が記憶喪失でもない限りは。

 なぜ、どうして。疑問が疑問を呼んで堂々巡り。脳内CPUはパンク寸前で、それ以上考え込むと本当に熱が出そうだった。

 

 そうして、私は悪手と分かっていても何も見ないふりをして、布団を被る。明日の私に全てを丸投げしてすやすや眠りに落ちた――はずだった。

 

「まだ待ってるかなぁ」

 

 日付が変わり、午前零時を少し回った頃。ふと呼び出しを受けていることを思い出し、悪夢から覚めるようにして飛び起きた。慌ててパーカーを羽織り、携帯を引っ掴んで素早く静かに自室を抜け出し、そそくさとエレベーターに乗り込んだのだった。

 そのまま二度寝を決め込んでいればいいものを、そうしなかったのは後味の悪いしこりを残すと思ったのか、それとも礼儀正しかった彼女に失望されたくないと思ったからか。或いは、ポイント欲しさに目が眩んだだけかもしれない。

 これで居なかったらどう言い訳しようかな、と逃げ道を思案しつつ独特の浮遊感に身を任せる。直前まで寝落ちしていたからか、その感覚が妙に心地良い。

 程なくしてロビーに降りると、見覚えのあるシルエットが背筋をピンと立てて備え付けのベンチに座っていた。よかった、そう安堵すると同時に申し訳なさがこみ上げてくる。待たせてしまったかも知れない。

 

「あの」

 

 控えめな声量で呼びかけたつもりが、静まり返った空間の中では思ったよりも声が響く。じっと虚空を見つめていた海色の瞳が、ゆっくりと私を見据えた。遅れて、土岐さんは柔和な笑みを浮かべて立ち上がる。律儀に制服姿なのは、彼女なりの正装なのだろうか。

 

「こんばんは、軽井沢さん。夜分遅くにお呼び立てしてしまい申し訳ありません」

「あ、いや、気にしてないから謝んなくても……ってか、こっちこそごめん、なさい。時間遅れちゃって」

「構いませんよ。私も今しがた来たばかりですので」

 

 謙虚な物言いで首を振る土岐さんに、私は内心申し訳なさでいっぱいだった。逆の立場だったら小言の一つや二つぶつけていたであろう私なんかとは大違いだ。これで同年代だというのだから、益々自分という存在が酷く矮小なものに思えてならない。

 

「晩春とはいえ、少し冷えますね。立ち話もなんですし、私の部屋でお話しませんか? 軽井沢さんとしてもあまり人に聞かれたくない内容でしょうし」

 

 杞憂でしょ、と一蹴するのは簡単だった。こんな真夜中に出歩く生徒が他に居るとは思えなかったからだ。かと言って、その申し出を無下にするほどの理由もない。金銭のやり取りを他人に見聞きされることに忌避感を覚えるのも確かで、私は遠慮がちに首を縦に振った。

 

「じゃあ、お邪魔しようかな」

「はい。では参りましょう」

 

 にこやかに笑う土岐さんに連れられ、私は再びエレベーターに乗り込む。駆動する狭い空間に広がる甘やかな香りにちょっぴり緊張しつつ、1年生専用のフロアで降りる。先導する彼女の高い背中の後ろを歩きながら、連なる部屋番号を横目に流し見ていく。やがて土岐さんが足を止めたのは突き当たりの角部屋だった。

 

「どうぞ」

「お、お邪魔しまーす……」

 

 促され、玄関に立ち入ると真っ先にこれまた甘いバニラの香りが漂ってくる。鼻当たりのしつこくない、軽めの匂いだった。何かの芳香剤の匂いだろうか。

 靴を脱ぎ、通されたリビングにおいてあった来客用のクッションに座る。

 

「今温かいココアを入れますね」

「あ、えっと、お、お構いなく」

「ふふ。そう畏まらないでください。同学年なんですから」

 

 ……なんて、彼女はそう言うけれど中々に難しい話だ。同期だと頭の中で理解していても、こうして実際に相対してみると彼女の礼儀正しさや品性を前にして、無意識のうちに不慣れな敬語で受け答えしてしまう。失礼のないようにと、自然と背筋も伸びるわけだ。

 キッチンで彼女がお湯を沸かしている間、手持ち無沙汰となった私はまるで借りてきた猫みたいに大人しく縮こまっていた。ここで堂々と携帯をいじる度胸はなく、精々がリビングのあちこちに視線を飛ばすくらいなもの。

 小綺麗な部屋だった。まだ入学して1ヶ月経っていないとは言え、何人かのクラスメイトらの自室を比較しても全体的にモノが少ないほうだろう。家具のほとんどが備え付けで、クッションやカーペットなどの最低限のものを除けば、小物すらあまり見当たらない。俗に言うミニマリストというやつだろうか。

 しかし、無個性というわけではない。ベッド脇に置かれたサイドテーブルの上には、手のひらサイズのアロマストーンが見える。バニラの香りを漂わせているのはあれで間違いないだろう。加えて、存在感のある木製シェルフには本が数冊と、何かの表彰状と金色に輝くトロフィーが幾つか飾られていた。

 

「――気になりますか?」

 

 まじまじとそれを眺めていると、飲み物を入れ終えた土岐さんが傍に立っていた。湯気を立てるマグカップを受け取って、まあちょっと、と苦笑いを返す。

 

「私はああ言うの縁がなかったから」

 

 自嘲を含んだ言い方をしたものだから、土岐さんは少し困ったような笑みを見せる。

 

「何かに秀でる必要はないと思いますよ」

 

 諭すような口調で、何処か遠い目をした彼女が対面に正座する。

 

「優秀だからといって、誰しもが幸福になれるとは限りません」

 

 物悲しげに土岐さんは目を伏せる。出来た人間が何を偉そうに、などと口が裂けても言えなかった。思い詰めた表情で細く息を吐く彼女に、私は何も言葉をかけられないままで。

 

「……ごめんなさい、なんだか変な空気にしてしまいましたね」

「いいっていいって。気にしてないから」

 

 気の利いたセリフの一つも言えないことへの贖罪代わりに出来ることと言えば、これくらいが限界だった。私は別に、ドラマの主人公などではないのだ。

 お互いに温かいココアで一息ついて、土岐さんが会話を切り出す。

 

「それより、本題に入りましょうか。あまり軽井沢さんに夜更しさせるわけにもいきませんし」

 

 私としては内心、寝坊してもいいやの精神だったのだが、健全な高校生としては寝坊なんてしないに越したことはないと言われればぐうの音も出ない。

 

「まずポイントのご融資についてですが……軽井沢さんとしては、幾らほどあれば足りそうですか?」

 

 言われて、少し考える。

 

 次の支給日は5月1日。残高は2万と少しで、あと2週間弱はそれで暮らしていかなければならない。慎ましく過ごすなら申し分ない額だとは思う。しかし、私にはスクールカーストの上位に立たなければならない事情があるので、少しでも自分を強く見せる必要がある。羽振り良く見せて、見栄を張るわけだ。そうなると今の手持ちでは少々心許ない。彼氏役の平田くんから借金する手もあるけど、彼はこの学校で唯一私の過去を打ち明けた相手。お人好しな性格というのは分かっているものの、流石にまだ知り合って日が浅い。この段階であまり金銭のやり取りは持ち込みたくなかった。愛想を尽かされて関係を解消されるのだけは絶対に避けたい。

 

 となると、後はクラスメイトの誰かから借りるしか無い。いつもつるんでる佐藤さんたちに頼み込むのはナシ。彼女たちも私ほどじゃないがポイントに余裕はないだろうし、何よりせっかく出来上がりつつあるグループのメンバーにたかるのは私の信用に関わる。カーストを維持するには仲間からの信用が大事だ。後は消去法で他のクラスメイト……例えば櫛田さんなんかは頼めば簡単に貸してくれそうだし、程々に節約もしていそうだから候補に上がる。他には気の弱そうな井の頭さん辺りか、心苦しいけど強気で行けば多分押し切れるだろう。

 

 そう結論づけて、土岐さんから借りるにしても、それほど大きな額は必要ないかなと判断した。

 

「2000ポイントくらいあれば十分かなぁ」

「……その程度でよろしいのですか? もっと大きめの数字でも構いませんよ」

 

 やや意外そうな表情を浮かべて、彼女は食い下がった。

 

「いや、あんまり大金借りても土岐さんが困るでしょ」

「ご心配なさらずとも、元手には余裕がありますので」

 

 土岐さんはにっこりと微笑みながら、ポケットから取り出した端末を操作して液晶をこちらへ向ける。映し出されていたのは見慣れた個人預金の画面であり、特に変わった点は内容に見えた。

 

 ――387000ポイント。

 

「は……?」

 

 目が滑る。見間違いかと思い、何度も数字を反芻する。しかし、目を凝らそうとも見えてくるのは現実離れした金額。初期配布された10万ポイントを有に超える大金が明記されていた。日に日に、無為に消費されていく私たちとは違って、加算されなければたどり着けない額を、何故?

 

「こんな大金、どうやって……」

「お教えしても良いのですが、今はまだ、企業秘密とだけ申しておきましょう」

 

 桜色の薄い唇に人差し指を添えて、彼女は蠱惑的に嗤ってみせた。ぞくり、と背筋が粟立つ。得体の知れなさに本能が恐怖を抱かせる。

 

「ああでも、詐欺行為に及んだわけではありませんよ? あくまでもこの学校のルールの範疇です」

 

 おかげで不自由なく暮らせています、と土岐さんは携帯をテーブルの上に置く。

 

「さて、これを踏まえたうえでもう一度お尋ねしますが……幾らほどご融資すればよろしいですか? 1万でも2万でも、お好きな額をどうぞ」

「い、いや、うちら知り合ったばっかだし、2000ポイントでいいって」

「まあ。謙虚なのは美徳ではありますが、2000なんて無いようなものでしょう? 余れば返済に充てればよいのですから、何も遠慮しなくていいんですよ」

「そう言われても……」

 

 立場が逆転している。どうして貸し与える側の人間がこうも食い下がってくるのか。ニコニコと、不敵な笑みを絶やさない彼女を前に、私は言いようのない焦燥感を感じていた。

 歯切れ悪く言葉を濁す私に対し、土岐さんは言葉を続ける。

 

「それに、来月になればまたポイントが入るでしょう? 1万ポイント借りたとして、十分返せるのでは?」

「確かにそうだけどさ……」

「何も心配することはありませんのに」

 

 土岐さんの言う通り、5月に入ればポイントは支給されるだろう。多少多めに借りたとしても、何ら問題はない。むしろ、後の2週間を節制せずに過ごせるというのは魅力的だ。私がまごついているのは、ただ彼女との信頼関係の浅さに起因している。これが平田くんであれば喜んで提案に飛びついていただろう。

 けどまあ、相手が良いというのであれば、渋り続けるのも悪く思えた。

 

「じゃあ、5000ポイントくらい貸してほしいんだけど」

 

 結局、考え抜いた末にその数字を出した。桁が一つ少ないのは大金を借りることに抵抗があった……というのはちょっぴりあるものの、それぐらいあれば2週間は余裕で乗り切れると踏んだからである。

 

「分かりました。では、そのように致しましょう」

 

 土岐さんもそれ以上食い下がる様子はなく、あとは端末でポイントのやり取りをするだけ。大して親しくもない他クラスの生徒と交渉するのは不安だったけど、終わってみれば明日から待っているのは再びポイントに余裕のある生活。

 明日こそカラオケにでも行こう、そう考えて私も携帯を取り出す。

 

「ですが、融資するにあたって一点、条件をつけさせてください」

 

 流れが変わった。声のトーンを一つ落として、彼女は私を見定めるような視線を向ける。

 

「条件? なんで今になってそんなこと」

「ふふっ、そう身構えないでください。条件と言っても簡単なものです。ポイントを融資するに値する人物かどうかを査定するための、謂わば試験とでも言いましょうか」

 

 つらつらと彼女は語る。なんだか雲行きが怪しくなってきたぞ、と今まさに警鐘のベルが鳴り響こうとしていた。

 

「――平田洋介くんと別れてください」

 

 頭の中が真っ白になった。絶句とはこのことで、もはや言葉も出てこない。脳が言葉を理解するのを拒否しているようだった。

 

「交際しているのでしょう? 明日にでも別れてくださいね。この場で確約していただけるのでしたら、直ちにポイントを振り込みます」

「ち、ちょっと待って! はあ? 意味わかんないんだけど!」

 

 理由もわからず、怒りだけがふつふつと湧き上がってくる。怒り、動揺、そして困惑に翻弄された私は、突拍子もない発言を口にした彼女に衝動のまま言葉をぶつけた。

 

「いきなりなんなわけ? 平田くんと別れろって、あんたに関係ないでしょ。何様のつもりよ!」

「ええ、そうですね。私と彼は無関係です。挨拶すらした覚えがありません。ですが、彼と貴方は交際関係にある。私にはそれが許せないのです」

 

 許せない、ときた。意味がわからない。許せないのは外野から別れろと命令される私のセリフだった。

 

「何も難しいことはないはずですが。ただ関係を解消して元に戻る。まだ入学して日が浅いですし、お遊びのようなもので薄っぺらな仲なのでしょう? 幼馴染というわけでもなさそうですので、どうです? 一時の気の迷いだったということで。お優しい平田くんのことですから、彼も納得してくれるはずですよ」

「知った風な口聞かないで! 何も知らないくせに……!」

「それはどうでしょうか。少なくとも、お二方が愛し合ってなど居ないのは理解しているつもりです」

 

 激昂する私なんてどこ吹く風と言った感じで、土岐さんは余裕そうな態度を崩さずにココアを口に含む。何を根拠にそんなことを嘯くのか、今の私にはてんで理解できなかった。

 

「性行為は済ませましたか?」

「は、はあ? な、なんでそんなことあんたに教えなきゃならないのよ」

 

 急に突っ込んだ質問を投げられて、思わず情けないくらいに狼狽えてしまう。その様子がさぞおかしかったのか、土岐さんはくすくすと静かに笑った。

 

「あらあら、軽井沢さんは分かりやすいですね。その様子だとキスもまだみたいで何より」

「勝手に決めつけないでよ。キスくらいしたわよ!」

 

 嘘である。偽装恋愛とは言え、そこまでロールプレイするに至っていない。平田くんは優しい性格とは言え、自分からキスをねだるほど気を許した覚えはない。あくまで彼を宿主としてその庇護下に入っているだけ。

 

「ここ数日、お二人を観察させてもらっていたのですが……腕を組んだり、手を繋いだり。実に健全なお付き合いをされているようですね」

「……なにそれ、ストーカーじゃん。キモいって」

「む……ちょっと傷つきました」

 

 頬を膨らませる彼女に、私はもはや愛想を感じるどころかむしろ身の危険すら感じていた。礼儀正しく品性のある同期かと思えば、他人の関係に口出ししてくるストーカー女だったとは。

 露骨に警戒心を剥き出しにする私に対し、彼女はそれはともかくと話を続ける。

 

「端から見れば、仲睦まじく見えることでしょう。しかし、私に言わせれば些か義務感が強いと言わざるを得ませんね」

「どういう意味?」

「露骨なんですよ、アピールが」

 

 マグカップを置いて、彼女は言う。

 

「人の目がある時は密着して関係性をひけらかしつつも、周囲の目が無くなった途端に距離感が戻る。寮に戻っても互いの部屋を行き来することもなければ、あっさりと部屋に帰るばかり。二人っきりでデートを楽しむ様子もなく、いつもクラスメイトたちと一緒。加えてアピールはいつも軽井沢さんから行っている。……本当に付き合っているのですか? 私にはどうも、彼に守って――」

「付き合ってるわよ!!」

 

 言葉を被せるように怒鳴って、はっと我に返る。

 

「本当に、付き合ってるから……」

「……そこまで仰るのであれば、ひとまずそういうことにしておきましょう」

 

 懐疑的な視線を向けられ、私は俯くしかなかった。こんな人に私の事情は明かせない。もう墓穴を掘るのはごめんだった。

 

「では改めて、平田くんと別れてください。そうでなければ融資はできません」

 

 そうして、ここに着地する。正直に言ってしまえば、もうポイントとかどうでも良くなってきていた。ポイントなんて少し節約すれば良いだけの話で、平田くんと別れることのデメリットと釣り合うわけがない。安穏とした生活を死守するためなら、ポイントが枯渇しようと構うものか。

 

 この話は聞かなかったことにして、部屋に戻ろう――天啓が降ってきたのはその時だ。天啓と言えば耳触りが良いけど、実際脳裏に浮かんだのは悪い考えだった。

 

「…………わかったわよ」

 

 平田くんと関係を解消することなく、ポイントの融資を受ける。そんな都合の良い選択を可能にする妙案が私の覚悟を後押しした。

 

「別れるから、ポイント貸してよ」

 

 物わかりの良くなった私に何を思うのか、土岐さんはほんの少し真顔で考え込む仕草を見せて、また今日で見慣れた微笑みを戻す。それから手繰り寄せた鞄から一枚の用紙とボールペンを取り出して、私の前にそれを置いた。長ったらしい文章と、名前を記入する項目がある。ずいぶんと用意が良い。

 

「念のため、この契約書にもサインを」

「……返さないって思ってるわけ?」

「まさか。金銭に等しい学校の通貨をやり取りするわけですから、何か問題が起きた際に口約束だと言った言わないで面倒になっちゃいますので。保険みたいなものですよ」

 

 彼女の理屈は通っている。たかが数千ポイントで何をそこまでと思わなくもないけど、言い分自体は至極正当だ。若干の怠さを感じつつ、細かい文字がびっしりと印字された書面に軽く目を通しておく。

 

「この、ペナルティって?」

 

 ふと気になった部分を指差す。

 

 ――債務者による契約違反、及び期日を過ぎても完済されなかった場合、融資者の判断でペナルティが発生する。

 

 不穏な一文だ。契約違反が何を指しているのか、ペナルティの具体的な内容は何なのか、曖昧にぼかされている。上下の文章に目を凝らしても、何処にも明記されていないのは不自然なように思えた。

 

「軽井沢さんは気になさらなくて結構ですよ。約束、守ってくださるのでしょう?」

「そりゃあ、もちろん」

「でしたら何の問題もありません。お貸した分をそのまま返していただければ、それで」

 

 はぐらかされた。探られると痛い腹でもあるのか、と入念に文章を読み込んだものの、小難しい言い回しや単語ばかりでちっとも頭に入ってこない。たまに読み方がわからない漢字も混じってるし。

 しかしまあ、難しく考え過ぎなのかもしれない。彼女の言う通り、貸した分をそのまま返せば済むだけの話なのだ。ペナルティとやらに抵触するような真似をしなければ何も危惧する必要はない……はず。

 最後にもう一度だけ、全体を読み直してから自分の名前をサインする。

 

「はい」

「ありがとうございます。じゃあ、口座に振り込みますので、トークンキーの発行をお願いしますね」

 

 言われた通り、携帯を操作して一時的なトークンキーを発行。それから程なくして5000ポイントの入金を確認した。

 

「ありがと。1日になったら返すから」

「ええ。何か気になったことがありましたら、いつでも連絡してくださいね。あ、個人的な世間話でも全然構いませんよ」

 

 気が向いたらね、と軽く流して立ち上がる。まだココアは半分以上残っていたけど、これ以上長居する気はなかった。それに多分、貰った連絡先も掛ける未来は訪れないだろう。登録はしてあるけど、今回の一件が終われば削除するつもりだった。

 

「お部屋までお送りしましょうか?」

「いいよ。近いし」

 

 玄関で靴を履く。自室とさほど距離があるわけじゃなかったから、踵は履き潰した。今はとにかく、部屋に戻って休みたい。

 

「軽井沢さん」

 

 ドアノブに手をかけたところで、背中に声がかかる。

 

「――嘘、吐かないでくださいね」

 

 私は逃げるように廊下へ身を滑らせた。背後で閉まる扉の音も聞こえないくらい、心臓の音が煩く喚いている。自室に逃げ込んで、鍵を閉めた。それからどうやって朝まで過ごしたかは、よく覚えていない。

 

 夜が明けて、私はなんでもない風に平田くんと登校した。

 

 彼との関係は、まだ続いている。

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