恵ちゃん至上主義?   作:名無しのナナ氏

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4.ペナルティ

 

 あれから2週間が経った。私は、平田くんとの偽物の恋人関係を続けている。

 

 バレなければ問題はない。しばらく間、腕を組んだりといった露骨なボディータッチを減らすだけ。彼の方からそういったスキンシップをしてくることはないし、あれは私が周囲を牽制するためにやっていただけに過ぎない。それを急にやめたとして、平田くんなら多少違和感を抱くかも知れないけど、詮索まではしてこないはずだ。ポイントを返してさえしてしまえば、あとはいつもの調子に戻ればいい。

 佐藤さんたちにも多少懐疑的に思われるだろうけど、いつどこで土岐さんに監視されているか分からない以上、平田くんと接する際はあくまで仲の良いクラスメイトとしての対応を心掛けた。解決したら、彼にはきちんと事情を説明しておくつもりだ。

 

 明日は待ちに待った5月1日。振り込まれたポイントで借金を返せば、またいつも通りの日常がやってくる。あれ以来、土岐さんからの接触はない。きっと上手く隠し通せているのだろう。どうにか気づかれずに済みそうだ。そんな風に安堵して、今日もまた午後の授業を終える。

 私はすっかり気を緩めて、普段の調子でお馴染みとなったメンツと4月最後のカフェに繰り出していた。

 

「そう言えば、軽井沢さんって結局あの人からポイント借りたの?」

 

 パレットの一角を確保して、のんびりと談笑していると思い出したように佐藤さんが話を切り出す。

 

「あー、土岐さん? まあちょっとだけ」

「いいなぁ、私も借りればよかった。もうポイントギリギリなんだよねー」

 

 使いすぎたー、とうなだれる彼女に、私も分かるーと相槌を打つ。実際、土岐さんからポイントを借りていなければとっくに節制生活を送っていたことだろう。

 

「でもま、明日からまた10万生活だし、新しいコスメでも買っちゃおうかな」

 

 気を取り直した佐藤さんが買い物の算段を立てているのが容易に分かる。爛々と目を輝かせつつ、抹茶ラテをちゅーちゅー吸っていたものだからなおさら。

 

「気前の良い学校だよね、毎月お金を配るなんて」

 

 少し不思議そうな表情で松下さんが言う。確かに、学校側から生徒に直接通貨を振り込むなんて聞いたことがない。でも他校と比較しようにも、私の知る学校についての知識はあまりに狭く浅かった。この学校が特別と言われればそうだと思うし、いや外国だと割と普通だよなんて言われたらへーそうなんだーと手のひらを返して軽く納得してしまうくらいには。

 

「生徒が不自由しないための配慮、ってやつでしょ? いいじゃん。あたしたちにとっては天国だよ」

 

 深く考えるのはやめて、近しい未来の過ごし方を夢想する。

 楽しい毎日だ。この学校に入学できて良かったと心から思う。

 

「来月は何に使おうかなぁ。可愛い服でしょ、新作の化粧品でしょ、あとは――」

 

 

 

 

 

 

「――お前たちは本当に愚かな生徒だな」

 

 聞いてた話と違う。

 

「この学校ではクラスの成績がポイントに直結する。お前らは本来振り込まれるはずだった10万ポイント全てを残らず吐き出した」

 

 そんなこと誰も教えてくれなかった。

 

「高校に上がったばかりのお前らが、無償で毎月10万も小遣いを貰えると本気でそう思い込んでいたのか? ここは養護施設じゃない。優秀な人材を育てるべく国が作った教育施設だ。ありえないだろう、常識で考えて」

 

 じゃあ最初からそう言ってよ。

 

「この学校では生徒を優秀な順に選別し、クラス分けしている。最も優秀な生徒はAに、ダメな生徒はDにな。つまりDクラスというのは落ちこぼれのお前らを寄せ集めた最後の砦というわけだ。――実に不良品らしい結果だとは思わないか?」

 

 こんなはずじゃなかった。

 

 侮蔑しきった眼差しで一瞥され、私は半ば放心状態で茶柱先生の説明を聞いていた。

 クラスが持つポイントのこと、赤点イコール即刻退学という厳しいルール、そして卒業後の進路が保証されるのはAクラスのみであるという残酷過ぎる現実。衝撃的な事実が怒涛のように押し寄せ、消化する前に胸焼けを起こしたような気分だった。理解できたのはせいぜい、多く見積もって半分ほど。

 

 先生が去っていった後の教室は、予想通り荒れていた。

 困惑、憤怒、疑念。それらがあちこちでないまぜになっていて、雰囲気は最悪の一言に尽きる。

 

 そんな中、私はクラスメイトたちとは別の理由で身を蝕むような焦燥感に苛まれていた。

 固く握りしめた携帯の画面を凝視して唇を噛む。

 

 残高が増えていない。借金を返せるだけのポイントがない。

 

 液晶に映し出されているのは2200という無情な数字。どれだけ睨みつけてもそれが増えることはない。今朝から頻りに確認していたそれが睨むだけで増えたのなら、私は今億万長者になっているのに。

 本来、あるはずだった。勝手にそう思い込んでいた私はものの見事に騙されたわけで、そんな大金は何処にも見当たらず。このままでは借りたポイントが返せない。脳裏を過ぎるのはペナルティという脅し文句。返済が滞ればどうなってしまうのか。ろくなことにならない、その一点だけは重々承知していた。

 

 周囲が不平不満の喧騒を作り出すのを横目に、私は頭を抱える。この際、クラスのポイントがどうとか、Aクラスの恩恵がどうかなんて今の私にとって重要なことではなかった。今はただ、抱えた負債をどうやって処理するかに重きを置く。ざっくり3000ポイントを、どうやって捻出するか。ぱっと思いつくのは誰かから借りることだけど……。

 

 ちら、とクラスメイトたちの様子を窺う。

 

「これからどうすんだよ、もうポイントなんてねぇよ……」

「ふざけんなよ、クソっ。なんで俺がDクラスなんかに……!」

「先生、私たちのこと嫌いなのかな……?」

 

 こりゃダメだ。とてもポイントをねだる雰囲気じゃない。みんな意気消沈しているか気が立っているかのどちらかだ。それにポイントが支給されなかったのは皆も同じ。人に貸せるだけの人間なんてそれこそ限られている。

 

 とにかく、今はよそう。今日中に返済できればいいのだから、もうちょっと落ち着いたタイミングで話を持ちかけよう。ちらちらと周りの様子を窺いつつ、やおら教壇に立った平田くんの主張に耳を傾ける。こういう時、頼りになるリーダーシップを発揮するのが彼を恋人役に選んだ要因の一つだった。

 途中、名指しで指摘された須藤くんがそんな彼に反発するも、平田くんは憤ることなくむしろ頭を下げてみせた。

 

「――不快にさせてしまったのなら謝りたい。でもクラス皆の協力がなければ、ポイントは得られないんだ」

「……だとしても、俺を巻き込むんじゃねえ」

 

 平田くんに窘められ、不愉快そうに顔をしかめて須藤くんが教室を出ていく。ああいうタイプは苦手だ。頭の良し悪しはともかく、暴力的なのはいただけない。

 なんであんなのと同じクラスなんかに。そう心のなかで愚痴らずには居られなかった。

 

 それから平田くんはクラスメイトたちに声をかけて、放課後の対策会議に参加するよう呼びかけた。当然、私も数に含まれている。

 

「ごめんね軽井沢さん。もしよかったら、放課後の話し合いに参加してくれないかな? ポイントを増やすためにどうすべきか、皆で話し合わなくちゃならないと思うんだ」

 

 もちろんオッケー! ……と即答しようとして、言葉に詰まる。脳裏にカビのようにこびりつくのは借金の二文字。どうにかポイントを工面して、早いうちに解決してしまいたいという気持ちが焦りを生んでいた。

 

「もしかして、何か予定があったのかな? 大丈夫、無理強いはしないから安心して」

「あ、いや……なんでもないっ。もちろんあたしも参加するよ! 平田くんの頼みだし、ポイントがないのはあたしも困るもん」

「ありがとう」

 

 にっこりと笑顔を浮かべて次の生徒の元へ向かう彼を見送る。それから休み時間が終わり、授業が始まってもなお、私はぴりぴりとしたもどかしい焦燥感にせっつかれて、なかなか気が休まることはなかった。

 

 そんな状態で授業が身に入るわけもなく、あれよあれよという間に放課後を迎えていた。

 着々と会議の準備が整っていく最中、クラスメイトにゲーム機を売りつけようとしている男子の姿に便乗して、そそくさと櫛田さんの元へ歩み寄る。

 

「あのさ櫛田さん、ちょっといい?」

 

 男子と雑談していた彼女が振り返る。話していたのは……確か、綾小路くんだったっけ。女子の間で勝手に作ったイケメンランキングでそこそこの順位につけていたと記憶している。まあそれはこの際どうでもよくて。

 

「どうしたの?」

「実はポイント使いすぎて困っててさ、クラスメイトのよしみで2000ポイントくらい貸してくれない? 1000ポイントでもいいんだけど」

「うん、いいよ」

 

 いいんだ。頼み込んだ私が逆に驚いてしまう。流石の櫛田さんでもちょっとは渋るかなと思っていたけど……こうもあっさり了承されると後が心配だ。絶対他の子にたかられるよ。

 

「ありがとー。ポイント入ったら必ず返すから。じゃあ、これあたしの番号ね。よろしくー」

 

 順調な滑り出しに気を良くした私は、軽い足取りで次の人物の元へ向かう。

 

「あ、井の頭さんちょっといい? 実はポイント足りなくて困っててさぁ――」

 

 目標金額を達成するのに、然程時間は掛からなかった。こういう時、スクールカースト上位の恩恵を身に沁みて感じる。

 

 その後、私は肩の荷が一つ下りたような晴れやかな気分で会議に参加した。

 

 

 

 

 

 

 放課後の話し合いはつつがなく終了した。

 けれど、根本から問題が解決したわけじゃない。ポイントをプラスに働かせる要因は見つからないまま、とりあえず授業態度を改善していこうというざっくりとした結論に至っただけ。現状、私たちDクラスのポイントは堂々のゼロ。他クラスとの差は歴然で、失った損失を回復させる手段も判明していない。Aクラスを目指そうにも無理難題と言わざるを得ず、クラス全体のモチベーションはお世辞にも高いとは言えなかった。

 

 そんなこんなで解散の流れになったわけだけど、私は帰ろうと誘ってくれる佐藤さんたちに断りを入れて、ひとりAクラスの教室にやってきていた。普段なら特になんとも思わないが、クラスでの対立を煽るシステムを知った今では近寄ることさえ憚られた。敵情視察だと疑われたら面倒だな、と内心ヒヤヒヤしつつ廊下から目当ての人物の姿を探す。

 生徒の姿はまばらで、ほとんど帰ってしまっているようだった。これなら特定の人物を探すのに苦労しない。

 

「――何か用だろうか」

「うへぁっ!?」

 

 ぬっ、と横から大柄な生徒が現れて、私は素っ頓狂な声を上げて飛び退いた。

 

「すまない。驚かせてしまったようだな」

 

 立っていたのは毛髪のない男子生徒だった。その特徴的な頭は、校内でも何度か見かけて印象に強く残っている。

 

「それより、教室を覗いていたようだが……誰か探しているのか?」

「あー、うん。土岐さんいないかなーって。ちょっと用があったんだけど」

 

 私がそう言うと、彼は代わりに教室の中を見渡す。

 

「どうやら居ないようだ。明日で良ければ、俺から伝言を伝えるが」

「いや、軽く急ぎだし、こっちから電話掛けてみる」

「そうか」

 

 見かけによらず紳士的な態度だった。髪の毛さえあれば、そのギャップで一部の女子は落とせそうなものだが。

 めちゃくちゃ失礼なことを考えながら、私はその場を立ち去ろうとする。

 

「一つ忠告しておくが、今後は不用意に他クラスの教室を覗き見るのはやめたほうがいい。同じ学校の生徒とは言え、俺たちは敵同士だ。本人にその気がなくとも、無用な疑いを招く恐れがある。……普通の学校であれば、こんな心配をせずとも良いのだがな」

「……気をつけとく」

 

 憂う彼に背を向けてAクラスを離れる。他所のクラスの人間が敵だというのなら、その敵に借金をしてしまっている私の状況は捉え方によっては結構マズいのではなかろうか。

 

 早く済ませよう。そう思い、階段の踊り場で壁に背を預けながら、以前連絡先に登録したおいた彼女の番号をタップする。数回のコールの後、回線が繋がった。

 

『はい。土岐ですが』

「あ、もしもし? 軽井沢だけど」

『あら軽井沢さんでしたか。今日は大変な一日でしたね』

 

 電話越しに土岐さんの声に混じって僅かに話し声が聞こえる。まだ校内にいるのだろうか。

 

「まあねー。えっと、それよりポイントのことなんだけどさ、返せる目処がついたから番号教えてくんない?」

『ええ、構いませんよ。それにしても、Dクラスの方々はポイントが振り込まれなかったと聞いていたものですから、少々心配していましたが……杞憂だったみたいですね』

 

 クラスメイトにたかって捻出したのは伏せておいたほうが良いだろう。土岐さんも薄々察しているかも知れないけど、下手に口を滑らせるよりはマシだ。借金を借金で返すなんて、とても褒められたやり方ではないのだから。

 

『ところで、番号はどうやってお伝えすれば良いのでしょう?』

「え? いや、フツーにメッセージアプリでいいけど……あ、登録してないっけ」

 

 友だち登録してないとこういうとき面倒なんだよね。そう思うと同時に、文明の利器の恩恵にどっぷりと浸かっている自分がいかに快適に過ごせているかを遠巻きに自覚した。携帯が無くなったら手持ち無沙汰で死んでしまうのではなかろうか。

 

『でしたら、何処かで落ち合いませんか? 軽井沢さんは今どちらに?』

「まだ校舎に居るけど」

『では正面玄関でお待ちいただいても? 私もすぐ参りますので』

「わかった。じゃ、また後で」

 

 通話を切り、そのままの足取りで正面玄関に向かう。靴を履き替えてしばらく外の空気を吸っていると、ぱたぱたと生徒が駆け寄ってくる。土岐さんだ。

 

「すみません。お待たせしました」

 

 小脇に丸めたポスター? と金色に輝くトロフィーを抱えた姿で私の隣に並ぶ。

 

「別に気にしてないって。……また何かの賞? それ」

「ええ、まあ。部室まで受け取りに行くだけだったのですが……顧問の先生が甚く感銘を受けたとのことで、少しお話が長引いてしまいまして」

 

 困った風に笑う土岐さんは、なんだかちょっぴりやつれている気がした。些細な変化かもしれないけど、目元に薄く隈ができているようにも見える。そう言えば以前、勧誘が多くて困っていると言っていたのを思い出す。

 

「それより、トークンキーの件でしたね。発行しますので少々お待ちください」

 

 そう言うやいなや、彼女は抱えていた表彰状とトロフィーを足元に置いた。汚れがつくのを気にした様子もなく、そのまま端末を操作し始める。貴重品ゆえ、傷や汚れが付くのを嫌いそうなものだけど、意外にも土岐さんはあまり頓着しないタイプらしい。

 

「直置きしていいの?」

「構いませんよ。こんなものに価値なんて無いですから」

 

 尋ねてみれば、貴重なトロフィーをこんなもの呼ばわりである。まあ仮に貰ったとしてもインテリアとして飾るか、サスペンスドラマで鈍器として凶器代わりに使われるのがオチだろう。かと言って処分するわけにもいかないだろうし、そう考えると邪魔に思うのもわからなくはない。

 私には縁のない代物だろうけど、と冷めた感情を抱きつつ、共有されたキーを入力して片手間に送金を済ませる。

 

「……はい。ちゃんと返したから、一応確認しといてよ」

「ええ、確かに」

 

 端末に目を落とした土岐さんを見て、問題なさそうだと判断した私は心晴れやかに彼女に背中を向けた。これで心置きなくクラスのポイントの件に注力できるというもの。

 

「じゃあ用件済んだし、あたし帰るね」

「軽井沢さん」

 

 数歩歩いたところで呼び止められる。顔をしかめて半身振り返れば、能面のような無表情で土岐さんが私を見つめていた。正体不明の怪異にでも遭遇したみたいに、全身に怖気が走る。無意識のうちに体を強張らせる私に、彼女は平坦な声色で言う。

 

「足りませんよ」

「……え? いや、だって今、振り込んだでしょ?」

「はい。確かに5000ポイント頂戴しました」

 

 彼女が一歩、距離を詰める。私は半歩、後ずさる。

 

「だったらよくない? 5000借りて、5000返したんだから。変な言いがかりつけないでよね」

「言いがかりだなんてとんでもない。私は正当な権利で残りの支払いを請求しているだけです」

「請求って……全部払ったって言ってるじゃん!」

「全部? いいえ、軽井沢さんが返済したのはまだ半分です。もう5000ポイント、今日中に支払って貰わなくては」

「な、何言ってんのよ。あたしが借りたのは5000ポイントだけのはずじゃ……」

 

 意味がわからない。話が合わない。彼女の言っている理屈が理解できない。打ち込んだ数字はあっているはず。借りた額に対してちゃんと全額返済したはず。どうして、どうして――――まさか。

 

「本来であればそうでした。しかし契約違反が発生したため、契約書に従いペナルティとしてその倍額(・・)を請求させていただきます」

 

 ようやっと思い至る。たった一度の、致命的な悪手。

 

「嘘、ついたよね」

 

 目の前に彼女が立っている。無機質な表情で、昏い水底の瞳が、瞳孔を開き切った目玉が、私だけを静かに呪っていた。喉の奥から細い悲鳴が漏れる。

 

「あの日、(わたし)が言ったこと覚えてる? 嘘つかないでねって、ちゃんと言ったよね? どうして嘘ついたの?」

「ち、違う。嘘なんかついてない!」

「それも嘘。嘘ばっかり。嘘つき」

 

 抑揚のない口調で彼女は私を咎める。私は恐怖のあまり体を震わせて、子供みたいに否定することしか出来なかった。

 

「私、平田くんに聞いたんだ」

 

 ず、と端麗な顔が寄せられる。吐息がかかるほどの距離。昏い瞳孔の中に、今にも泣き出しそうな自分が映っていた。

 

「そうしたら彼、正直に答えてくれたよ。うん、そうだよって」

 

 隠さななきゃよかった。相談すればよかった。融資を受けるべきじゃなかった。

 ――別れればよかった?

 

 思考がどんどん負に落ちていく。今になってやっと、自分が悪手を重ねてきたのかを思い知る。じわ、と滲む視界の中で、私は自分の過ちを後悔した。全ての選択肢を間違った結果がこれなのだと、過去の自分が薄ら笑う。私はただ、平穏が欲しかっただけなのに。

 

「ねえ、なんで嘘ついたの? どうして騙すの? 誤魔化さないでよ」

 

 腕を掴まれる。咄嗟に振り解こうとしても、万力のような握力で締め付けられてどうにもできない。

 

「痛っ……!」

 

 骨が軋むほど締め上げられ、鋭い痛みに悲鳴じみた声を上げる。このまま枝のように折られてしまうのではないか、そう思った時、不意に腕を掴んでいた白い手がぱっと離れる。その勢いで私は飛び退くように彼女と距離を取った。土岐さんはこれに追い縋るでもなく、我に返ったような表情で自分の手を一瞥して、苦々しげに唇を噛んでいた。

 はあ、と彼女は重々しく溜め息を吐いて、それから私に深く、深く頭を下げた。

 

「――ごめんなさい。つい熱くなってしまいました」

 

 さっきまでの光景が嘘のように、顔を上げた彼女の面持ちは後悔と悲壮に満ちていた。

 

「あの、お怪我はありませんか?」

 

 白い手が伸び、私に触れようとする。反射的に掴まれていた腕を庇う仕草を見せると、土岐さんは小さく吐息を漏らして、行き場を失ったその手を力なく引っ込めた。もう一度、深く頭を下げて彼女が謝罪する。

 

「本当に、ごめんなさい。ここまで怖がらせるつもりはなかったんです……と言っても、今更信じてもらえないかも知れませんが」

 

 端正な顔立ちを悲哀に染めて、土岐さんは周囲を一瞥した。釣られて私も目を向けると、少なくない人数の野次馬が遠巻きに事態を眺めている。見られている、と思うと途端に気恥ずかしくなってきて、私は乱暴にブレザーの袖で目元を拭った。

 

「……少々人目を引いてしまいましたね。ひとまず寮へ戻りましょう。お話の続きはまた後で」

 

 控えめな笑みを作って彼女は私にそう告げると、足元の荷物を拾い上げてこちらに背中を向ける。

 

「私は先に戻ることにします。少し、頭を冷やさなくてはなりませんから」

 

 注目を集めながら、土岐さんはやや足早にその場を立ち去った。見物していた野次馬たちも、用は済んだとばかりに興味を失いまばらに散っていく。

 

「……なんなのよ、もう」

 

 独り言つ。すっかり霧散した恐怖に、身の軽さのありがたみを再確認する。それでも、心身ともに疲弊しきった身体がリフレッシュされるわけでもなく、私は重い足取りで寮への帰路につく。

 

 5月1日は、まだ終わっていない。

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