恵ちゃん至上主義?   作:名無しのナナ氏

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 やっとの思いで寮の部屋まで戻ってくると、着替えもせずに制服のままベッドに転がった。濃い一日を通して蓄積した疲労感が、柔らかいマットレスを通して抜けていく。今日は色々と起きすぎた。しばらくは何のイベントも起きないことを願いたい。でもあるんだよな、宙ぶらりんになった問題が一つ。

 

 部屋が夕焼け色に染まっていく。何もない天井をぼんやりと眺めながら、今日の晩ごはん何食べようかな、なんて考える。考えてすぐ、いや私ポイント無いじゃんと軽く絶望した。まさか生活に窮する日が来るとは。自業自得と言われればそれまでだけど。

 

「どうしようかな」

 

 考えるのは晩ご飯をどうやって調達するか、ではなく、理不尽に言い渡された借金の残りについて。……いや、冷静になってみると悪いのは騙そうとした私の方で、土岐さんは正当な権利を行使しているだけに過ぎないのかもしれない。それでもいきなり倍額を要求するのは、やっぱり理不尽なんじゃないかと思う。

 

 これはもう、私の手には余る問題だ。

 ポイントを工面するために、これ以上クラスメイトたちから徴収するわけにはいかない。公になったら間違いなく白い目で見られる。ポイントだってもう二度と貸してもらえないだろう。せめて支払い期限だけでも延長してもらうように交渉しなければならない。

 収集がつかなくなる前に手を打とう。そう覚悟を決めて、スカートのポケットから携帯を取り出す。けれど、ホーム画面を開いたまま指が止まる。

 

「平田くんに相談したほうが良い、よね?」

 

 ただでさえ学校のルールのせいでてんやわんやな今の状況で、他クラスの生徒と金銭トラブルを起こしちゃったてへ☆ なんて言おうものなら、流石の聖人君子平田くんと言えど怒り狂って見放されかねない。それは困る。物凄く困るが……もう、私の手に負えないところまで来ているような気がしていた。自分可愛さで楽な方へ楽な方へ逃げようとした結果こんなことになってしまっているのだから、本当に救えない。

 

 今更かもしれないけど、やっぱり彼を頼ろう。そう決心して電話をかけようとした瞬間、軽快な電子音を伴って携帯が振動した。びっくりするあまり、端末が手から滑り落ちる。

 

「みぎゃっ!?」

 

 顔面直撃。尻尾を踏まれた猫みたいな悲鳴を上げて、私はベッドの上で無様に悶絶した。もう寝ながら携帯を触らないと心に誓った。

 

 涙目になりながらもなんとか復帰。平静を装って電話に出る。

 

「もしもし」

『ああよかった。土岐です。もう電話に出てくださらないんじゃないと思ってたんですよ』

 

 声の主が分かった途端、通話を切りたくなる衝動に駆られた。安易に応答してしまったことを後悔するが、もう遅い。ここで下手に切るとそれこそ取り返しのつかない事態にまで悪化する恐れがある。

 

 正直言って、まだ怖い。誠心誠意謝罪されても染み付いた恐怖が完全に消えるわけじゃない。抑揚のない口調で詰められ、見たものを引きずり込んでしまうような深く昏い眼差しで凝視され、恐れを抱かずにいられる人間がどれだけいようか。出来ることなら携帯を放り投げて布団を被ってしまいたかった。それでも私は、どうにか崖っぷちで踏み留まる。

 体を起こして、ベッドの上で正座する。なけなしの勇気を振り絞って自分を奮い立たせた。

 

「あ、あのさ。借金のことなんだけど……もう一日だけ、待ってほしい」

 

 震える声で彼女に懇願する。

 

「虫の良い話をしてるのは分かってる。悪いのは騙そうとしたあたしの方だし、ポイントが返せないのもあたしが考えなしに浪費したせいだから」

『……ええ、そうですね。軽井沢さんが節度のある生活を心掛けていれば、私がポイントをお貸しすることもなかったでしょう。加えて平田洋介くんとの関係を解消していただけていれば、返済は5000ポイントのままで済んでいました。全て貴方が招いたことです』

 

 耳が痛い。彼女の言葉は全て正論だ。何処を切り取っても反論の余地がない。土岐さんの言う通り、これらは全部私が招いた結果なのだから。

 電話越しに淡々と声が続く。

 

『その上で、期限を延ばしてほしいと? 軽井沢さんの仰る通り、それはあまりに虫が良すぎるお話です。私としてもその提案を飲む理由はありませんね。期限はきっかり、本日の午前零時まで。契約書にもそう書いていたはずですよ』

「で、でもポイントがもう……」

『手元にポイントが無いのでしたら、ご友人に相談してみては? 平田くんでも構いませんよ。支払って頂いた分のポイントもそうやって工面なさったのでしょう? 確かに、Dクラスはポイントが支給されず困窮されている方々が多いと聞いています。あまり大勢に話を持ちかけてもクラスでの立ち位置が悪くなるのは避けられないでしょう。でしたら、他のクラスの方を当たってみては? 資金面に余裕のある生徒も居るはずですよ。……まあ、わざわざ敵方の人員に塩を送るような真似をなさる方は少数でしょうが』

 

 可能か、不可能かで言えば可能なのだろう。ただし複数のクラスメイトから金銭を借用するのはあまりに傲慢だ。この一ヶ月で築いたカーストを盾にしたとして、表面上は凌げても結果として少なくない人数から恨みを買うことになる。積み重なればそれはやがて悪意になり、私に牙を向く。あの頃に戻りたくない、その思いが弱い私に二の足を踏ませていた。

 

『とは言え、私としましても軽井沢さんが憎いわけではありません。むしろ好ましく思っています。先程の件もありますし……ではこうしましょう、今度こそ、平田洋介くんと別れていただけるのであれば、罰則分の請求は取り消します。それから念のため、虚偽申告を防ぐために私もその場に同席させてもらいますが、構いませんよね?』

「そ、れは……」

 

 単純に考えれば、破格の条件だった。ただ偽物の彼氏と別れるだけでペナルティが消えるのだから。しかし同時に、宿主の庇護下から自分の意志で離れることを意味する。それは出来ない。私は他者の影の中でしか生きられない弱い生き物、寄生虫だ。彼と別れれば私は影響力を失う。広大な砂漠にたった一人で放置されるようなものだ。そんな環境で生きていけるわけがない。怯えながら彷徨って、夜が明ければまだいい。でももし、悪意を持った存在に目をつけられたら? その結末はきっと、無惨なものだろう。

 

『どうされました? まさか、この期に及んでそれすら拒むと? これでも譲歩しているのですが……さて困りましたね。あれも嫌だこれも嫌だと申されますと、私も少々、腹を括らなければなりません』

 

 露骨な溜め息が聞こえる。状況がますます悪い方へ転がっているように思えた。携帯を握る手のひらが、じっとりと汗ばんでいる。少しずつ耳鳴りが大きくなっていた。

 

『軽井沢さん、よく聞いてくださいね。もし、本日中に借金が返済されなかった場合、私はこの件をDクラスの生徒との間で発生した金銭トラブルとして、Aクラスにおける早急に解決すべき事案として提起します。もっと簡単に言いましょうか? ――私は貴方を訴えると言っているんです』

 

 目眩がした。瞬間的に呼吸の仕方を忘れて、空気を求めた肺が悲鳴を上げる。恐る恐る浅い呼吸を繰り返して、どうにか脳みそまで酸素を行き渡らせていく。そうやってようやっと絞り出せたのは何の解決にもならない懇願の言葉だった。

 

「ま、待って、待ってよ!」

『待ちますとも、日付が変わるまでは。ですから選んでください。返済するのか、それとも彼氏と別れて罰金を帳消しにするかを』

 

 彼女はあくまで冷静に選択肢を提示している。どっちかマシか選べ、そう言われている気がした。きっとどちらを選んでも結果は変わらない。ゆっくりと破滅に近づいていく。遅いか早いかの違いでしかない。でも私にはそのどちらも受け入れがたくて、無意味な抵抗を続けた。

 

「あ、あの、違うの! あたしは払わないって言ってるんじゃなくて、ただ時間が欲しいだけで……!」

『猶予は十分にあったはずです。高々5000ポイント、軽井沢さんであれば容易に調達できたのでは? クラスでの発言力もあるようですし、今からでも遅くないと思いますよ。多少白い目で見られるかも知れませんが、このまま両クラスを巻き込んで騒動になることに比べれば、取るに足りない些細な代償に過ぎないでしょう?』

「それは、そうかもしれないけど……」

 

 彼女の言うことはいちいちもっともだ。反論すること自体間違っている。指摘してくれる分、それは彼女なりの優しさの表れのようにすら思えてくる。悪いのは私で、そこに一考の余地はない。

 言われた通り、クラスメイトに頭を下げてでもポイントを集めれば事態の悪化はひとまず回避できるだろう。しかし、先も懸念したようにそれをやるとクラス内での私の信用はガタ落ちする。加えてついさっき正面玄関で彼女と一悶着起こしている。下手するともう噂になっている可能性すらあった。

 

 詰み、なのかもしれない。

 空回りする思考が、そんな結論を弾き出す。今からでも平田くんに泣きつけばどうにかしてくれるだろうか? いや、それは限りなく悪手だ。相手は彼との破局を望んでいる。彼をこの件に仲介させても、彼女の怒りを買うだけだろう。問答無用で学校に訴え出るはずだ。そうなれば間違いなく負けるのは私。空虚な地位も失う。なけなし信用も吹き飛ぶ。何らかの罰則も有り得るし、クラスのポイントが引かれるだけで済めば御の字。出なければ停学か、退学か。クラスメイトからは当然叱責され、罵詈雑言も浴びせられるに違いない。

 

 終わる。逃げ込んだ先で、私はまた居場所を失う。大人しく早い段階で自主退学してしまえば傷は浅くて済むかもしれない。あいつらの居るあの町に帰るのは恐ろしいけど、家族の居る自宅で引きこもれると思えば幾分もマシに思える。そう考えるとほんの少しだけ気が楽になった。

 

『とはいえ解せませんね。何故そうまでして自分の地位に拘るのです? ご友人らに事情を説明して、素直に助力を請えば良いではありませんか。平田くんと手早く別れてしまえば、ペナルティで負債が嵩むことも無かったのですよ? スクールカーストに固執していなければとっくに――――』

 

 言葉が途切れる。僅かな沈黙の後に、何故か少し悲しげな声色で彼女が囁く。

 

『ああ、そういうことだったんですね。私がもっと早く気づくべきでした』

 

 何を、と尋ねようとして言葉に詰まる。嫌な予感が背筋に悪寒となって走っていた。心臓の鼓動がどくどくと煩い。このまま弾けてしまうのではとさえ思った。

 警鐘を鳴らす本能を、そんなはずがないと脳が否定している。酷く体が震えた。腕を抱いて、必死に体を押さえつける。震えは止まらない。脳みそまで揺さぶられている気分だった。まさか、まさか。

 

『ねえ軽井沢さん、貴方もしかして――――』

 

 ――虐められていたのですか?

 

 吐き気がした。世界で今一番聞きたくなかった言葉が聞こえてしまった。認めるわけには行かない。認めてしまえば、私はただの弱い私に戻ってしまう。誰も私を知らないこの学校に逃げてきた意味がなくなってしまう。だから絶対に、認めたくない。

 

「ち、ちがう。違う! あたしは虐められてなんかない! あたしは、あたしは……」

 

 強い拒絶の意思のはずだった。けれど、次第に語気は消え入るように弱まり、目尻からはどうしようもなく涙がこぼれた。拭っても拭っても溢れ出て、スカートの上に染みとなって滲んでいく。どうすれば良いのかも分からなくなって、私は声を殺して泣くことしかできなかった。

 

 土岐さんは何も言わず、押し黙っていた。私は彼女のことを何も知らない。隠していた秘密を暴いた彼女がどういう行動に出るかなんてまるで分からない。弱みに付け込んで良いようにこき使われるならまだ良い方で。そうでない場合、人目につかない場所で暴力を振るわれたり、好きでもない相手と性行為を強要されるかもしれない。裸で土下座させてその写真をばら撒くだとか、面白半分に建物から飛び降りろと脅してくるかもしれない。また、刃物で刺されるかもしれない。

 

 そうなったら私は、今度こそ耐えられないかもしれない。

 

『軽井沢さん』

 

 声がする。優しい声だ。悪意なんか欠片も感じさせないくらいの、柔らかい物腰で名前を呼ばれる。

 

『大丈夫。私は貴方の味方だよ。絶対に傷つけたりなんかしない。だから泣かないで?』

「そんなの、信じられるわけない! あたしが今までどんな目に遭ってきたのかも知らないくせに! もう放っておいてよ!!」

 

 頭の中はすっかりぐちゃぐちゃで、ほとんど自暴自棄になっていた。それでも辛うじて電話を放り投げなかったのは、もしも彼女が本当に私の味方になってくれたとしたら、というIFを一瞬でも考えたからだろうか。そんなことはありえないと分かっているはずなのに、私は通話を切ることを選ばなかった。

 

『――少しだけ待っていて。今、逢いに行くから』

 

 それだけ告げて声が遠ざかっていく。電話の向こうで物音がしている。本当に、来るつもりだろうか。

 今だけは誰とも会いたくなかった。彼女が来ても追い返すつもりだった。けれどふと、部屋の鍵を閉めていないことを思い出す。何をされるか分からない以上、部屋に入れるわけにはいかない。

 涙で滲む視界のまま玄関に向かおうとして、ベッドの上で足がもつれてしまい盛大に床の上に体を打ちつける。携帯も手からすっぽ抜けて床の上を滑っていく。痛みと情けなさのあまり、私は立ち上がることも出来ずにただただ泣くしか出来なかった。

 

 そうこうしているうちにインターホンが鳴った。転がったままの私は自然と無視する形になる。遠くに吹っ飛んだ携帯から微かに声がしていた。またインターホンが鳴る。控えめにドアを叩く音が聞こえる。私はうつ伏せのまま、泣きじゃくっていた。――ドアが開く。

 

「軽井沢さん、来たよ」

 

 玄関から声がする。今一番聞きたくない声だ。足音が近寄ってきても、私は顔を伏せたままだった。

 

「……帰ってよ」

「ううん。貴方が安心できるまで、傍にいるから」

 

 声が近い。きっとあの金木犀の香りもしているんだろうけど、みっともなく鼻を垂らしている状態じゃ何も分からなかった。ぐず、と鼻をすすって顔を上げる。膝をついた土岐さんが微笑んでいた。

 

「お話しよっか」

 

 声のトーンも、表情すらも。どれもまるで別人のようだった。どちらが素なのかと考えて、なんとなくこっちかなと思う。理由はない。ただ、そんな気がしただけ。

 

「軽井沢さんはさ、女の子とセフレになったことある?」

「いきなり、なに……?」

 

 戸惑いつつ、私はどうにか体を起こしてその場に座り込む。

 

「ない。そんなの」

「そっか。私はあるよ、いっぱい。毎晩毎晩代わる代わる。気に入った子を見つけたら部屋に連れ込んで、飽きたらさよなら。女学院だったから女の子には事欠かなくてね、探せば簡単に次の子が見つかったから卒業まで飽きずに過ごせたよ。まあ、何人かはちょっとこじらせちゃったし、それで色々とあったんだけど……この話は別にいいか」

 

 聞いてもないのにろくでもない話題をつらつらと語られ、私は土岐さんをもはや軽蔑しつつあった。

 

「でね、ちょっと勘違いされがちなんだけど、私は別に性依存症ってわけじゃないよ? 確かに女の子とスるのは好きだし、自慰も嫌いじゃない。玩具を使うのも全然アリ。けど大前提として、そういうのはあくまでも退屈凌ぎだったんだよね」

 

 性事情を恥ずかしげもなく暴露していく彼女だったけど、その瞳はとても真っ直ぐなものだった。思い出に浸りながら楽しげに話す土岐さんは、やがてその心の通った目で私を見据えた。

 

「私はね、心の底から愛せる運命の人を探してたの」

 

 胸に手を当てて、彼女が目を伏せる。そして慈しむような表情と声音で言葉の続きを綴っていく。

 

「私からの愛を全部受け取ってくれて、その人からも私にいっぱいの愛を返してくれる。そんな世界でたった一人の運命の人を――――そして、貴方を見つけた」

 

 彼女はそっと、私の手を取った。

 

「軽井沢恵さん。私は、貴方に一目惚れしました。私からの愛を受け取ってください。いつか私に愛を返してください。貴方の全てを愛します。いつか私の全てを愛してください。貴方の人生を委ねてください。いつか私の人生を共に歩んでください。いつか、いつか、私と一緒に死んでください」

 

 慈愛に満ちた優しい顔で愛が語られる。重ねられた手を通して、私まで温かくなっていくのを感じた。傷ついて傷ついて、ぼろぼろになっていた心が形を取り戻していく。他でもない、彼女の手で、彼女の言葉で。

 

「――私は貴方を愛しています」

 

 その日、私は人生で初めてプロポーズされた。

 

「……なんて、ちょっと重かったかな? 今すぐにとは言わないよ。ゆっくりでいいの。どんなにゆっくりでもいいから、いつか私を愛して欲しいってだけ」

 

 柔和な笑みを浮かべているはずの彼女の顔が、滲んでよく見えない。代わりに彼女の温かい手をきゅっと握り返して存在を確かめる。

 

「急にこんなこと言ってごめんね。びっくりしたでしょ?」

「どうして、あたしなの?」

 

 震えっぱなしで、少し枯れてきた喉も厭わずに問いかける。どうして、と。

 

「入学してから一週間くらい経った頃、たまたま廊下ですれ違ったの。思わず目を奪われて、ずっと目が離せなかった。胸がドキドキしっぱなしで、直ぐにでも抱きしめてしまいたかった。そんなの、今までの人生で初めて。一目惚れだったの。それからどんな子なんだろうって遠巻きに観察してたらなんだか平田くんとくっつき始めて……取られちゃうかもって気が気じゃなかったんだよ?」

 

 熱に浮かされたような調子で土岐さんは答えた。一目惚れだった、と。

 散々人の悪意に弄ばれた人生を過ごしてきたものだから、すっかり心はその気になって舞い上がってしまう。こんなにも純粋な告白を受けたのは初めてだから、仕方ないと言えば仕方ないような気もしてくる。全身が妙にむず痒くて、顔から火が出そうなくらい火照ってきていた。

 

「ねえ軽井沢さん。私が貴方を守ってあげる」

「え……?」

 

 気恥ずかしさのあまり視線を逸らしていると、あまりにも自然に魅力的な提案が飛んでくる。

 

「もし貴方が虐められそうになっても、必ず私が救ってみせる。どんな手を使ってでも」

 

 彼女は力強く私の手を握ったまま、真剣な眼差しで決意を口にする。先程のプロポーズもまだ消化できていないというのに、彼女は私を惑わせる言葉ばかりを選んで言っているんじゃないだろうかと勘ぐってしまう。

 

「安心して。こう見えても護身術はひと通り習ってたから。多少荒っぽいことも出来るんだよ?」

「そんなこと、急に言われても……」

「信用できない?」

 

 こくり、と私は控えめ頷いた。それでも、平和主義者な平田くんよりも根本的な解決をしてくれる可能性は十分にあった。二の足を踏ませているのは既に平田くんに話を通して彼氏を演じてもらっているという事実と、土岐さんはAクラスの生徒でいつでも駆けつけてくれるわけじゃないという点だけ。それがなければ、と私の心境は土岐さんへと傾きつつあった。

 胸中が揺れ惑う私に、彼女は懐から二つ折りにされた一枚の紙を取り出して見せる。

 

「これ、借金の契約書。ちょっと見ててね」

 

 そう言うと、徐ろに土岐さんは立ち上がってベランダの戸を開けた。解かれた手から温もりが逃げていくのを、私は少し名残り惜しく思った。

 夕日を正面に受けながら、彼女は手にした契約書を突然ビリビリに破り始めた。破いて破いて細切れになったそれは、やがて風に乗って夕焼け空の向こうに消えていく。土岐さんは振り返って、ふっと微笑んだ。

 

「コピーは取ってないからあれで終わり。ペナルティも無かったことにする。ポイントも後で返しておくね」

 

 戸を閉めて、彼女は再び私の前で膝をつく。土岐さんは高身長だから膝をついたくらいじゃ目線の高さは大して減らなかった。

 

「本当にごめん。貴方を誰かに取られたくなかったから、焦って強引な手段取っちゃったの。初めから素直にアプローチしてれば、軽井沢さんを泣かせずに済んだかもしれないのに。不器用な女でごめんね」

 

 申し訳なさそうに少し目を伏せて彼女が謝る。それに思うところがないわけではない。けど、相手の抱く感情を知ってしまった今は、ちっぽけな怒りすらも湧き上がってはこなかった。

 

「それで、どお? 私のこと受け入れてくれる?」

 

 普通に考えれば受け入れる理由はない。だって彼女はまだまだ浅い関係性で、平田くんとの関係を継続していれば最低限の地位も維持できるし、クラスも同じで動きやすいように思える。それでも、或いはと考えてしまう。より良い未来を掴めるのはどちらなのかと、私は今それぞれを天秤に乗せて一世一代の決断を迫られていた。

 

「もし嫌だって言ったら、どうするつもり?」

「うーん……とりあえず一回ベッドに縛り付けて快楽落ちさせるかな。やっと運命の人に逢えたんだし、私もここで逃がしたくないよ。あ、自主退学しても勝手に付いてくからね。いずれご家族にもご挨拶しないとだし」

 

 まずい。平田くんを取った際のデメリットが果てしなく大きい。選ぶはずが実質一択を突きつけられている。YESかNOではなく、OKしか選択肢が用意されていない。こうなってはもう腹を括るしか無い。涙を拭いて、顔を上げる。

 

「……本当に守ってくれるの?」

「もちろん。絶対に、何があっても。誰であろうと」

 

 毅然とした姿勢を見せる土岐さんに、私も応えるべきだと思った。崖っぷちに立たされた挙句、選択の余地がないのならいっそとことん振り切れてしまおう。彼女なら私がたどり着けない景色まで手を引いて連れて行ってくれるはずだ。

 その時に広がっている光景を、どうせなら彼女と見てみたいと思った。

 

「――わかった」

 

 私は、土岐翔子という存在に寄生する。

 

「土岐さんのことを愛せるかは、私もわかんない。人を愛するのも正直よくわかんない。でも、努力はしてみる。……それでもいい?」

「うん。いいよ。少しずつ、愛を返してくれれば」

 

 ふわ、と微かに金木犀の香りした。白い手が伸びる。覆い被さるように、彼女はそっと私を抱きしめた。

 

「今までよく頑張ったね。えらいえらい」

 

 耳元で甘く囁かれる。やっと、報われたような気がした。そよ風みたいな優しい手つきで彼女は何度も私の頭を撫でている。少しだけ止まっていた涙が、どうしようもなくまた溢れ始めた。

 

「もう大丈夫だよ。私が貴方を守ってあげる。誰にも傷つけさせない」

 

 彼女の声を聞いていると安心している自分が居た。胸元に顔を押し付けて、私も彼女の背中に手を回す。ぎゅっと、離れないように抱きしめた。抑えきれない声が次第に漏れていく。その度に、頭を撫でられる。癒えない傷跡が剥がれ落ちていく。そんな気がした。

 

「いっぱい泣いていいの。辛かったもんね?」

 

 私は年甲斐もなく嗚咽をあげて泣きじゃくる。今まで堪えていたものを吐き出すように、子供みたいに泣いていた。

 

「よしよし」

 

 あの頃の自分の分まで、たくさんたくさん泣いたんだ。

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