5月2日、昼休み。
チャイムが鳴り、担当教師が教室を去ると、クラス内に弛緩した空気が漂う。衝撃的な通告を受けた昨日から一日が経ち、ポイントを増やすためにもまずは消費を抑えよう、という指針が定まったことで、授業態度は全体的に改善の傾向が見られていた。
しかし、現在のDクラスのポイントはゼロ。増やす方法が分からなければ、改善したとしても無意味なわけで、相変わらず方針に従わない生徒もいる。当然ながらクラスメイトたちから白い目で見られていたけど、本人は気にも留めず教室から足早に出ていった。名を須藤という。
ちなみに私は一応真面目に授業を受けていた。当たり前だが、学生証端末は翔子に預けているので手持ち無沙汰だ。
「軽井沢さんお昼いこー」
教科書を片付けていると、佐藤さんと松下さんがやってくる。真面目に授業を受けることになったからか、二人とも薄っすらと疲れているように見えた。かくいう私も午前の授業を通して、すっかりくたくただった。まあ、朝の時点で昨晩の疲労が体に残っていたせいで、正直言うと一刻も早く帰って眠りたかった。授業中も、何度か睡魔に襲われて船を漕ぐはめになったので、今後はセーブしてもらいたいところである。このままだと身が持たない。
「ごめん、今日はちょっと先約があって」
「えー、そうなの? ……あ、もしかしてその相手って土岐さんだったり?」
「うん。お昼一緒に食べようって誘われてさ」
これは事実だ。今朝方、登校中に翔子から昼食の誘いを受けていた。普段、お昼ご飯を食べる時は、平田くんや佐藤さんたちと食べるのが大抵であり、それは特に取り決めが有るわけではなく、雰囲気や流れが習慣となって自然と集まっていたに過ぎない。なのでメンバーはころころ変わるし、私一人で適当に済ませることもある。誰もそれに文句は言わないし、理由もなく、ただそういうものとして認識していた。今日は私が固定メンツから外れる番だったというだけ。
その旨を伝えると、松下さんは不思議そうな顔をして小首を傾げた。
「二人ってそんなに仲良かったっけ?」
「昨日からちょっとね。話してみると意外と息が合うっていうか」
「そうなんだ。私も土岐さんと話してみたいな。良ければお昼混ぜてもらえない?」
「じゃあ私もー。まだ挨拶できてないし」
「あー、どうだろ……」
松下さんの提案に佐藤さんも乗っかってくる。本来であれば、特段断る理由もなく了承するのだけど、今回に限っては私は顔を曇らせることになった。要因はもちろん、翔子である。彼女にはかなり強く執着されているので、関係性の薄い二人を同席させるとなるとへそを曲げかねない。後で割りを食うのが私である以上、こっちとしても容易く頷くわけにはいかなかった。
言葉を濁す私に、松下さんは少し目尻を下げた。
「やっぱりダメかな?」
「あたしは良いんだけどさ、あいつがなんて言うか……多分だけど、結構嫌がるかも。ごめんね?」
「いいよいいよ、気にしないで。こっちこそ無理言ってごめん」
気分を害したかも、と心配になったものの、松下さんはすぐに小さな微笑みを作って理解を示してくれた。佐藤さんは……何か言いたげな表情を浮かべている。だけど彼女が不満を口に出すことはなかった。不審がられている、のは目を見れば一目瞭然だ。私はそれに気づかないふりをして、視線を逸らす。
「恵ちゃん」
若干の気まずい空気に居心地の悪さを感じていると、廊下から待ち望んでいた声がかかる。内心ほっと息をついて、そそくさと席を立つ。
「翔子来たから、あたし行くね。また誘ってよ」
「うん。土岐さんによろしく伝えておいて」
軽く手を振って二人と別れ、手ぶらで教室を出る。ほんの一瞬、翔子は佐藤さんたちに目を向けていたようだけど、すぐに興味を失って私に視線を戻した。
「おまたせ。お昼どうする?」
「食堂で食べよっか。それより、はい、学生証返すね」
翔子は懐から学生証を取り出して、私の掌の上に置く。暫しの旅に出ていた私の端末だ。ぱっと見ただけでは特に何も変わっていないように見える。ひとまず端末をポケットにしまって歩き出す。
「なんだったの? 結局」
食堂までの道を横に並んで歩きながら、彼女に尋ねた。廊下を行き交う生徒が多いからか、今は手を繋いでいない。
「気になっちゃう?」
「当たり前でしょ。何してたのよ」
言葉だけを取るとツンとしたものだけど、実際にからかうような物言いで問うている。翔子はそれにわざとらしく腕を組んで、うむむと考え込む仕草をした。
「ケヤキモールに行ってたのは教えられるけど……」
「え、授業サボったわけ?」
「問題ないよ。真嶋先生にポイント払って公欠扱いにしてもらったから」
ほえー、と私は素直に関心を示した。授業をサボタージュしてもチャラに出来ることに、では無く、ただの電子マネーだと思っていたポイントにそんな用途があったのかということにである。そして思う、仮にも教師が生徒のサボりをそれで黙認していいんだと。それが通用するのなら、もし4月時点でDクラスの生徒にその話が出回っていれば、或いはクラスのポイントが残っていたかもしれない。学校側としては渋い顔をしそうだけど。
「ポイントってそんなことにも使えるんだ」
「別に普通だと思うよ。都合が悪かったらお金握らせるなんてしょっちゅうだったし」
「……なんか凄いこと聞いちゃった気がする。え、てかあんたって本当にお金持ちだったの?」
驚きのあまりつい声のボリュームが大きくなってしまう。改めて、まじまじと翔子の全身を眺める。そりゃそうか、と淡白な感想が浮かんだ。逆にこれで実は貧困に喘いでいたとしたら、彼女は役者が向いていると思う。さぞ立派な女優に成れるに違いない。
「うん。お祖父様が大地主でね。土地が大体……2000坪くらい持ってるって言ってたかな。別荘も幾つかあるから、長期休暇の時はそこで家族と過ごすの。あと、お父様は製薬会社の社長なんだ。普段は仕事で忙しくて、あんまり家に帰ってこれないんだけどね。それから、私も将来はお父様の会社を継ぐことになってて――」
嬉しそうに声の調子を上げて饒舌に話す翔子の隣で、一般庶民の私はスケールの違いに衝撃を受けて、呆然と目を見開いていた。
2000坪の大地主? 製薬会社の社長? 将来は会社を継ぐ? 話の規模が大きすぎて自分の価値観が揺らぐのを感じる。え、そんな大金持ちの御令嬢に求婚されたの私? 玉の輿大成功じゃん。
実は既に人生逆転劇が始まっていたことに、動揺のあまり腰を抜かしそうになる。見てるか中学時代の私。未来は明るいぞ私。でも上手く行き過ぎてなんか怖いぞ私。
「そうだっ、卒業したら私の家族に会ってみない? 恵ちゃんは可愛いから、お母様が特に喜ぶと思うの!」
「いいけど、流石に気が早いわよ。あたしたちまだ1年じゃん」
「未来のお話はいつしても良いものだよ。それに、高校生の3年なんてあっという間に過ぎちゃうよ、きっと」
「……ま、楽しみにしとく」
数年後の未来なんて、今の私にはあまりに遠いことのように思える。翔子との関係性が変化してから、まだ2日目。なのにどうにも時間の進みが遅く感じていた。彼女との時間を大事に噛み締めているからか、それとも、神様が灰色だった私の過去を取り戻せるように、指先で秒針を止めてくれているのかは分からない。それでも今はただ、翔子からの大きな大きな愛を返せるように、不器用なりに頑張ってみようと思う。
まず手始めに、過保護な彼女の好物でも聞いてみようじゃないか。
◆
茶柱先生による短いHRが終わり、放課後が訪れると同時に、私は机に突っ伏した。
昼食後に訪れた耐え難い睡魔により、意識が落ちそうになるのを寸前で何度も堪え、ようやっと午後の授業から解放される。がっくんがっくんと船を漕いでいた様は、端から見ればヘドバンでもしているみたいに映ったことだろう。これが4月時点であれば、遠慮なく夢の世界に旅立っていたのだけど、今後はそういうわけにはいかない。授業態度を改めて、それを維持しなければポイントが増えたとしても元に戻る。居眠りするな、なんてことは出来て当たり前のことだと分かっていても、これがなかなかどうして難しい。ちなみに須藤くんは爆睡していた。なんて羨ましい。
授業から解放されたクラスメイトたちは銘々、帰り支度を始めている。クラス会議は昨日の時点で一旦区切りを迎えている。皆で知恵を巡らせても、ポイントを増やす方法は結局見つからなかったので、各自妙案を思いついたら平田くんか櫛田さんに報告することになっていた。
このまま机に伏せていると本当に寝落ちしかねないので、渋々体を起こす。伏せ目がちに周囲の様子を窺うと、部活動組を除いてまだ大半の生徒が教室に残っていた。その中には平田くんの姿もある。一瞬だけ躊躇う気持ちが芽生えて、顔を背けそうになる。それでも一度やると決めた以上、腹を括って私は席を立つ。正直、気が進まないしこれが正解なのかも分からない。だけど、翔子を裏切るようなマネはしたくなかった。
「平田くんちょっといい?」
教室を出た彼の後を追いかけて、その背中に声をかける。
「軽井沢さん? どうかしたのかい?」
半身振り返って、平田くんは相変わらず穏やかな顔を向けてくる。彼の人柄が現れる爽やかで優しい微笑みを前に、私はどうしようもなく居た堪れない気分になった。なにせ、彼のその優しさに漬け込んで結んだ契約を、私のわがままで反故にしようというのだから。
「あ、あのさ。この後、時間ある? 大事な話があるんだけど……」
「……わかった。でもこれからサッカー部の方に顔を出さなくちゃいけなくて、その後でも構わないかな?」
「もちろん、全然いいよ。無理言ってごめんね」
急に話を持ちかけたにも関わらず、平田くんは嫌な顔一つせずに二つ返事で頷く。水のように清らかというか、その真っ直ぐな性格は今の私にはあまりに眩しく見えていた。
「場所はそうだな……校舎裏で待っててもらえるかい? あそこなら人通りもないから、落ち着いて話せると思う」
「うん、わかった。待ってるね」
「僕も部活が終わったらすぐに連絡するよ。それじゃまた」
手を振って平田くんを見送る。その背中が、生徒の往来の中に消えていくまで見届けて、私は所在なくなった手を下ろし、固く握った。まだ始まってもいないのに緊張している。それを明確に理解すると、不安という暗雲が胸中に影を差す。
「恵ちゃん」
正面から生徒の波を縫って翔子がやってくる。彼女の声を聞き、姿を視界に捉えると途端に心の影が晴れていった。
「翔子、あたしさ……平田くんと、ちゃんと話してくるから」
たどたどしく打ち明けると、翔子は口元に微笑を浮かべて私の手を優しく握った。
「そっか。頑張れそう?」
「多分。……でも、ちょっと怖い」
「無理しないでね。もしダメそうなら、私に任せてくれても良いんだよ」
「ううん、大丈夫。どの道、あたしがやらなくちゃいけないことだし。だから翔子はさ、信じて待っててくんない? これくらい、あたしが頑張んなきゃ」
心配させないように、私は不出来な笑みを作る。あまりにもバレバレな作り物の笑顔を見て、翔子も、しょうがないなあという風な苦笑を返してきた。やっぱり彼女には見透かされてしまう。
「恵ちゃんが頑張るなら、ご褒美を用意しないとだね」
翔子は嬉しそうに眉を上げて、私の手を少し引いて体を寄せる。
「終わったら、私の部屋で待ってるよ」
そっと顔を近づけて、甘く耳打ちされる。廊下の喧騒がその時だけ停止したような気がして、彼女の囁きだけがしっかりと耳に残る。静かな微笑みの裏に、何処か妖艶な色を滲ませて翔子が手を解く。止まっていた時間が動き出した。
「頑張ってね」
最後に軽く私の頬を撫でると、翔子は身を翻して去っていった。僅かに残った彼女の金木犀の残り香が鼻先を掠める。その甘く懐かしく、何処か気を惹かれる香りは、私の決心を確かなものにした。
平田くんと別れよう。そう、弱い心に誓いを立てた。
◆
校舎の壁に寄りかかりながら、空と雲がオレンジに焼けていくのを眺めていた。頬を吹き撫でる風の心地良さに目を細める。遠く、グラウンドに響いていた掛け声はもうしていない。先ほど、平田くんから部活が終わった旨の連絡が来ていた。そろそろやってくる頃合いだろう。
木々の枝葉が風に揺れる。海辺の潮騒にも似た喧騒に混じって、規則性のある足音が近づいてきた。砂利を踏む音に、私はそこへ目を向ける。
「おまたせ、軽井沢さん」
少し息を切らした平田くんが、額に薄らと汗を滲ませてこちらへ駆け寄る。急いで来てくれたのか、彼は上下ジャージのままで首に白いタオルを掛けていた。
「ううん、あたしもさっき来たばっかだから」
私は軽く微笑みを浮かべてそう言いながら、壁から体を離して彼の前に立つ。
「急に呼び出すことになっちゃってごめん。でも、大事なことだから直接会って話したくてさ」
「うん、聞くよ。僕で良ければ、なんだって話してほしい。軽井沢さんは、僕の大切なクラスメイトだからね」
「……ありがと」
平田くんのような整った顔立ちの男子に、爽やかな笑みで歯の浮くようなセリフを言われて嬉しくならない女子はいないだろう。例も漏れず、私もそれを少し嬉しくは思ったものの、だからといって恋心にまで発展することはなかった。もし、彼との関係がただのクラスメイトであったのなら、或いは心を奪われていたかもしれない。けれど今は、私の隣にある特等席には過保護なあいつが座っている。彼に心を動かされる未来は、きっと訪れない。
首元のタオルで額の汗を拭った平田くんが、じっと耳を傾ける体勢に入ったのを見て、私は一度深呼吸を入れてから、頭の中で用意していた言葉を切り出す。
「あたしと、別れてほしいの」
一陣の風が抜き抜ける。唐突過ぎる宣告を受けて、平田くんは信じられないとばかりに大きく目を見開いた。瞳が揺れ、明らかな動揺を示している。対して私は、自分でも不思議なほどに平静を保っていた。
もう後戻りはできない。私は平田くんではなく、翔子に寄生することを選んだ。それは他の誰でもない、私自身の自由意志によるものだった。
「それは……誰かに、何か言われたのかい?」
動揺を抑え、真剣な眼差しで平田くんが尋ねる。それが私を慮っての問いかけだということは、今までの彼を見ていれば誰にでも分かること。ふるふると首を横に振って、私は彼の疑問を否定する。
「そうじゃないの。これはあくまで、あたしが決めたことだから」
息を吐く。脳裏に翔子の笑顔が過った。私を守ってくれる、甘やかしたがりな彼女。私だけに見せてくれるあの屈託ない表情と甘ったるい声が、傷ついていた私の心を癒して、支えてくれる。それがどれだけ嬉しいことかは、まだあいつには伝えていないけれど。
「出会ったんだ。あたしを守ってくれる、あたしだけを見てくれる人に。でも、あたしは弱い生き物だから、寄生先は片方しか選べない」
寄生虫は、宿主が死ねば共に死滅する。だからこそ、私は平田くんよりも強い宿主である翔子に命を預ける覚悟を決めた。彼女の強さは未だ未知数だ。けれど、強さだけを理由に寄生したわけじゃない。初めての感情を向けられてしまったが故に、誘蛾灯のように誘われてしまったからだ。こんな傷物の弱虫に愛情を抱くだなんて、世界中を探しても翔子以外見つからないに違いなかった。
それがたとえ、一時の気の迷いだったとしても、構わないとさえ思っている自分がいる。
「勝手なこと言ってるのは、自分でも分かってるの。本当にごめん。平田くんの優しさに漬け込んで、偽の彼氏まで演じてもらったのに。あたしのわがままでこんな勝手な……だけど、それでも……あたしは、あいつの隣に居たい」
真っ直ぐに彼を見据えて、思いの丈を伝える。
「だから、ごめんなさい平田くん。あたしと別れてください」
深く、深く、あたしは頭を下げた。固く目を閉じる。風が止んで、痛いくらいの静寂が身を刺す。それでも、頭を下げたまま彼の言葉を待った。
「顔を上げて、軽井沢さん」
至って普段通りの、落ち着いた声色で彼は促す。恐る恐る頭を上げて、彼を見る。平田くんは怒っているわけでも、呆れているわけでもなく、ただ静かに口元に微笑を浮かべていた。
「君の想いは伝わった。僕は、軽井沢さんの考えを尊重するよ。――僕たちの関係は、今日限りで終わりだ」
平田くんはそう言って、ふっと柔らかく笑った。嫌味のない、爽やかな微笑みに私は僅かに瞠目してしまう。
正直、一発くらい叩かれるつもりで来ていた。罵声を浴びせられても仕方ないとさえ思っていたものだから、思わず拍子抜けしてしまった。それくらい、身勝手なお願いだと確信を持っていたから。
「い、いいの? あ、いや、平田くんを疑ってるわけじゃないんだけどさ。なんていうか、その、短い間だったけど結構振り回しちゃったし……」
「僕は気にしてないよ。むしろ新鮮な気分で、ちょっと楽しかったかな」
ははは、と軽やかに笑ってすら見せる彼に、張り詰めていた緊張感が自然と解けていた。
「ともかく、これで僕らの関係性は元に戻るわけだけど、元より軽井沢さんとは同じクラスの仲間だ。何かあれば、いつでも頼ってほしい。それは変わらないよ。もちろん、君の過去も言い触らしたりなんかしない」
「……本当にありがとう、平田くん」
心の底からお礼を述べると、彼は少し照れたように指で頬を掻いた。ああその表情、クラスの女子が見たらイチコロだよ。
「暗くなってきたね。そろそろ帰ろうか」
「うん」
促されて、寮までの帰路を一緒に歩く。気負わないクラスメイトとの他愛もない雑談に花を咲かせながら、私は翔子の待つ寮へ戻った。
「――おかえり恵ちゃん。お風呂にする? ご飯にする? それとも……わ・た・し?」
彼女の部屋に入った私を待っていたのは、裸体にエプロンだけを身に纏った宿主のあられもない姿だった。
…………寄生先、ミスったかも。