お目汚し失礼します、楽しんでいただけると幸いです。
双子姫
――死んだ。
その絶対的な事実だけが、冷徹なまでに脳の片隅へ居座っていた。
ついさっきまで、俺は間違いなく現代日本で普通に生きていたはずだ。残業帰りの疲弊した夜だったか、それとも泥のように眠りこけた休日だったか。前後の記憶はひどく曖昧で霞がかかっている。だが、網膜の裏に焼き付いた視界いっぱいに迫る強烈な光の束と、全身の骨を砕くような苛烈な衝撃だけは、今も嫌に生々しかった。
そして次に意識を浮上させた時には――。
「……あー」
ひどく情けない、気の抜けた声が漏れた。
いや、正確には言葉にすらなっていない。声帯を震わせることすらままならず、喉の奥から押し出された空気が、ただの無機質な音としてこぼれ落ちただけだ。
おかしなことに、自分の身体を動かそうとしても、四肢がまるで自分の所有物ではないかのように言うことを聞かなかった。腕を上げた気でいても、視界の端でわずかに肉の塊が揺れるだけ。足も同様で、全く力が入らない。
視界も泥水の中にいるようにぼやけていた。だが、そんな中で何よりも違和感を覚えたのは、天井の位置が妙に高いことだ。
白磁を思わせる上質な石造りの天井。そこには職人の執念を感じさせる精巧な彫刻が施され、金色の細工が差し込む光を反射してきらきらと輝いている。
(病院……じゃないな。日本の一般家庭でも、絶対にあり得ん)
何度も瞬きを繰り返し、涙で歪む視界を強引にクリアにしていく。
どうにか状況を整理しようと試みた俺は、そこでようやく、決定的な狂気に気がついた。
自分の身体が、あまりにも小さい。
自分の手を確認しようと精一杯に視線を落とせば、そこに転がっていたのは、信じられないほどふっくらとした、頼りない赤ん坊の小さな手だった。
「……あう」
嘘だろ、と。冗談はよせと、思わず叫びたかった。
しかし、大人としての叫びはすべて幼児の無意味な喃語へと変換されてしまう。その代わり、目の前の残酷な現実だけが容赦なく脳髄に突きつけられた。
俺は、赤ん坊になっていた。
(――転生、か)
そんなフィクションの単語が、突飛もなく脳裏をよぎる。
現代日本で命を落とし、記憶を保持したまま全く別の人生を始める。かつて暇つぶしに読んでいた小説や漫画では、もはや擦り切れるほど手垢のついた展開だ。まさか自分がその当事者になるなど、夢にも思わなかったが。
諦めとともに視線を巡らせる。
部屋の広さは尋常ではない。床には踏むのが躊躇われるほど豪華な絨毯が敷き詰められ、周囲の調度品はどれも一目で高価だと分かる意匠の家具ばかり。窓を彩る重厚なカーテンの質感を見ても、およそ庶民の家にあるような代物ではなかった。
貴族。あるいは、それ以上の王族か。
そんな身分についての考察を頭の中で巡らせていた時、ふと、すぐ隣から微かな生命の気配を感じた。
寝返りも打てない首を、限界まで横へと向ける。
そこには、俺と同じように仰向けに寝かされている、もう一人の赤ん坊がいた。
陽光を反射する、細い銀色の髪。
彫刻のように整った小さな顔立ち。
今は静かに閉じられている、長い睫毛の乗った瞳。
大きさを比べるまでもなく、俺と完全に同い年の身体。
(兄弟……いや、双子か?)
その時、隣の赤ん坊が不快そうに小さく身じろぎし、こちらへと顔を向けた。
わずかに開かれたその瞳と、一瞬だけ視線が交錯する。
だが、互いにこれ以上の干渉はできなかった。所詮は生まれたばかりの赤ん坊同士だ。何かを伝える術もなければ、意思疎通など到底不可能だった。
俺は諦めて再び天井を見上げた。
どうやら、望むと望まざるとにかかわらず、俺の新しい人生は始まってしまったらしい。それも、とんでもなく身分の高そうな、浮世離れした場所で。
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死んだ瞬間のことだけは、はっきりと覚えている。
それはあまり思い出したくない、おぞましい痛みを伴う最期だったからだ。だからこそ、深い闇の底から再び意識を覚醒させた時、私の脳裏を最初に過ったのは、ごくシンプルな疑問だった。
(俺……生きてる?)
だが、その直感はすぐに間違いだと気づかされる。
身体があまりにも小さく、世界を見上げる視界が絶望的に低い。手も足も自分の意志を裏切るようにまともに動かず、どれほど客観的に状況を分析しても、自分自身が赤ん坊であるという結論にしかならなかった。
「うー……」
言葉を紡ごうとしても、口から漏れるのは幼い唸り声だけ。
転生。そんなオカルトじみた現象、あり得るはずがないと冷笑していた。けれど、現実に五感でそれを感知している以上、受け入れるほかに選択肢はない。
私は諦めて周囲の環境を観察することにした。
横たわっているのは、シルクの天蓋がついた豪華な寝台。壁や柱には洗練された美しい装飾が施されている。部屋を行き来する人々は、見たこともないほど仕立ての良い服を纏った使用人らしき者たちばかりだ。彼らの服装や文化様式は、少なくともかつて暮らした現代日本のものではなかった。
そして、その観察の中で、どうしても気になる存在が一人いた。
正確には、一人というべきか、ひと塊というべきか。私のすぐ隣に寝かされている赤ん坊の存在だ。
きらきらと輝く銀色の髪を持つ赤ん坊。
パーツの配置が、信じられないほど私とよく似ている。
もしかして、私たちは双子なのだろうか。
その赤ん坊は、ぼんやりとした様子でこちらを見つめていた。その瞳の奥には、新生児らしからぬ、どこか理知的で賢そうな光が宿っているように見えた。
いや、赤ん坊相手に何を馬鹿な思考を巡らせているのだろう。
視線が合ったまま、数秒の静寂が流れる。
結局、どちらからも何もアプローチをかけることはできず、気まずそうに互いに視線を外した。当然だ。言葉も使えなければ、身体も満足に動かないのだから。今の私たちは、ただの無力な赤ん坊でしかない。
そうして、私の新しい人生は幕を開けた。
何もかもが分からない霧の中。ただ一つ、自分がどうやら、とてつもなく恵まれた、高い身分の環境に生まれたらしいということだけを理解しながら。
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それから、瞬きをする間に月日は流れた。
三年という時間は、ただの赤ん坊が世界を認識し、言葉を覚えるには十分すぎるほど長い。
燦々と降り注ぐ陽光を浴びて、王宮の広大な庭園では、二人の幼い少女が楽しげに追いかけっこをしていた。
走るたびにふわふわと揺れて輝く銀白色の髪。そして、南洋の海を切り取ったかのように透き通る、美しい青い瞳。どちらも瓜二つの、驚くほど整った容姿をしている。
第一王女、エリシア。
第二王女、フィリア。
それこそが、このベルガルド王国が誇る、至宝とまで称される双子姫の正体だった。
「フィリア、待って」
「えー、やだー! エリシア、つかまえてみて!」
鈴を転がしたような愛らしい声が、手入れの行き届いたバラの庭園に響き渡る。
その周囲では、控えている侍女たちが「まあまあ」と目を細め、微笑ましそうに彼女たちの様子を見守っていた。国王と王妃に目の中に入れても痛くないほど溺愛されながら育った双子は、この広大な王宮のスタッフ全員にとっても、特に大切に扱われるべき愛の結晶だった。
もっとも。当人たちにしてみれば、この状況は少々複雑な部分を孕んでいるのだが。
(いや、中身は成人男性なんだけどな……!)
三年が経過した今でも、前世が男性だった二人の魂は、現在の境遇に完全には馴染みきっていなかった。
フリルとレースで装飾された窮屈なドレスを着せられることも。毎朝、時間をかけて髪を艶やかに整えられることも。すれ違う大人たちから「まあ、なんて可愛いお姫様でしょう」と称賛されることも。そのすべてが、前世の男としてのプライドに障るというか、とにかく気恥ずかしくて仕方がない。
それでも、幼児の脳と身体というものは、環境への適応能力が恐ろしいほど高かった。
気付けば、ドレスの裾を器用に捌き、当たり前のように気品ある姫としての所作で生活してしまっている。魂の抵抗も、肉体の本能には勝てないらしい。
そんな、ある日の午後のことだった。
「エリシア、フィリア。少しこちらへおいでなさい」
優雅に二人を呼ぶ声の主は、彼女たちの母親である王妃だった。
二人は揃って足を止め、ちょこんと首を傾げて顔を上げる。王妃は慈愛に満ちた表情で優しく微笑んでいた。
「今日はね、あなたたちに大切な人に会ってもらいます」
大切な人、というワードに、双子は内心で首を傾げた。王族の「大切な人」といえば、他国の要人か、あるいは有力貴族か。
そんな大人の警戒心を抱きつつも、外見は三歳の子供である二人は、大人しくその後に従った。
案内されたのは、王宮の奥まった場所にある重厚な応接室だった。
先立って侍従が扉を開く。磨き上げられた大理石の床を踏み越えた先、部屋の中央には、一人の少年が直立不動で立っていた。
輝くような金髪に、深い碧眼。
すでに完成されつつある、見事なまでに整った顔立ち。
年齢は五歳ほどだろうか。年相応の瑞々しい幼さを残しながらも、その立ち姿からは不思議と凛とした気品が感じられる。
「アルフォンス」
王妃が優しく声をかけると、その少年――アルフォンスは、緊張で強張った様子で、さらに小さな背筋をピンと伸ばした。
「あなたの妹たちですよ。仲良くしてあげてくださいね」
妹、という言葉を耳にした瞬間、エリシアとフィリアは合点がいった。
この少年が、噂に聞く自分たちの兄なのだ。第一王子アルフォンス。この国の正統なる第一王位継承者であり、将来、ベルガルド王国を背負って立つ存在。
一方のアルフォンスは、目の前の双子を見て、その大きな碧眼を丸くしていた。
以前から双子の妹が生まれたという話は聞いていたし、遠目に姿を見たことはあった。だが、こうして同じ部屋で、間近に顔を合わせる機会は一度もなかったのだ。
そして今、目の前には、自分と同じ王の血を引き、見事な銀髪を揺らす二人の小さな妹たちがいる。
「かわいい……」
あまりの愛らしさに当てられたのか、アルフォンスの口から、ぽろりと本音が漏れ出た。
それを聞いた王妃がクスクスと上品に袖で口元を隠して笑う。
当のエリシアとフィリアは、冷めた目でこっそりと顔を見合わせていた。
(ほう、これが噂の兄貴か。別に悪い奴じゃなさそうだな)
それが、前世が男である二人の、ひどく率直で現実的な感想だった。いくら血の繋がった兄だと言われても、前世の記憶がある彼女たちにとっては、今日初めて会った五歳の男の子に過ぎない。特別な感慨など沸くはずもなかった。
しかし、兄であるアルフォンスの胸中は、彼女たちの冷徹な思考とは真逆の熱量で満たされていた。
視線の先にある、自分よりも一回りも二回りも小さな、壊れ物のような妹たち。
白くて柔らかそうな頬、お人形のように愛らしい仕草。
守ってあげたい。兄として、全力でこの子たちを愛し、仲良くなりたい。
そんな純粋で猛烈な庇護欲と責任感が、小さな胸の中で爆発的に膨らんでいく。
「よ、よろしくね、二人とも」
アルフォンスは顔を真っ赤にしながら、勇気を振り絞って声をかけた。
その言葉に、まずはエリシアが不思議そうに首を傾げる。すかさず、フィリアもまったく同じ角度でその動きを模倣した。
そして、二人の小さな唇が、完全にシンクロして開かれる。
「「よろしくおにいさま」」
鈴を二つ同時に鳴らしたような、可憐で幼い声が重なった。
その瞬間、アルフォンスの脳裏には雷が落ちたような衝撃が走った。彼は内心で、神に誓うかのような強い決意を固めていた。
(僕は、世界一の良い兄になる。この可愛い妹たちに、絶対に慕われる最高の兄になってみせる!)
そんな、目の前の兄が勝手に滾らせている熱い決意など、双子姫は知る由もない。
二人はただ、「なんかお兄ちゃんが急に真剣な顔になったな」と、不思議そうに小さな顔を見上げているだけだった。
穏やかで、満ち足りた午後。
王宮の窓からは優しい陽光が差し込み、家族の温かな笑顔が部屋を満たしている。
誰も知らない。
この、ありふれた家族の小さな出会いが、やがて彼らの運命の歯車を狂わせ、世界の人生を大きく変えていくトリガーになることを。
今はただ、激動の未来を隠蔽するように、王族の穏やかな日常だけが、静かに流れていた。
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今は書き溜めてあるので予約投稿で崩しつつ書き溜めを増やしています。
週一ペースで頑張りますね。