そんな、精神が磨り潰されるような地獄の日々の中にあって、アルフォンスにとって唯一無二の救い、まさに泥中の中に咲く清らかな蓮の花のような存在が――婚約者であるクラウディア・フォン・ローゼンベルクであった。五年前のあのお茶会での劇的な出会い以降、二人の交流は、周囲の誰もが羨むほどに順調かつ清らかに育まれていった。時に王城の美しい庭園を肩を並べて歩き、時にお互いのお気に入りの歴史書や魔導書を交換し合い、誕生日にはお互いのことを深く考え抜いた、心のこもった贈り物を贈り合った。
どこまでも生真面目で、凛としていて、それでいてアルフォンスの前では時折少女らしい柔らかな隙を見せてくれるクラウディア。彼女と過ごす時間だけが、アルフォンスにとっては唯一、自分が「王子」という仮面を脱ぎ、一人の「アルフォンスという人間」として、息をすることを許される極上のオアシスだった。彼女の紫水晶の瞳が、自分を真っ直ぐに見つめてくれるだけで、彼の荒みかけた魂は救われるような感覚を覚えていたのだ。
そして、お互いが十三歳を迎えた年、両家の間で正式な婚約が成立した。その決定が下された日だけは、アルフォンスは生まれて初めて、神に対して心からの感謝を捧げ、部屋で一人、涙を流すほどに歓喜した。不思議なことに、あの双子は、約束通り二人の仲を邪魔するような真似は一切しなかった。それどころか、むしろ積極的に二人の関係を後押しすることすらあったのだ。
「クラウディア様は、本当にいつ見ても凛とされていて素敵な、お兄様にはもったいないくらいの上質な方ですわね」
「そうそう、お兄様がウブすぎて進展しないから、私たちが二人きりになれる秘密の場所をセッティングしてあげたよ!」
そんな不気味なセリフを吐きながら、時には大人の目を盗んで二人きりになれる完璧な機会を、裏から手際よく演出してくれた。だからこそ――アルフォンスにとっては、余計にその本意が見えず、背筋が凍るほどに怖かったのだ。彼女たちが、この完璧な婚約という盤面を利用して、将来的にクラウディアをも巻き込んだどのような大陰謀を企んでいるのか。分からないまま、不気味な沈黙を保った状態で、あっという間に五年の歳月が流れていった。
◇
過去の回想を終え、現在へと意識を戻したアルフォンスは、深く椅子にもたれかかり、天井を見上げて大きな息を吐き出した。明日から、ついに憧れの学園生活が始まる。
そこには、最愛の婚約者であるクラウディアもいる。気心の知れた優秀な義兄となるべきレオンハルトもいる。そして何より――あの恐るべき双子(エリシアとフィリア)が、そこには存在しない。王立学園への入学資格が与えられるのは、厳格に「十五歳から」と定められている。
現在、双子はまだ十三歳。つまり、彼女たちがこの学園という聖域に足を踏み入れることができるのは、最短でも「二年後」のことになるのだ。
たった二年。されど、地獄のような主従関係を生き抜いてきたアルフォンスにとっては、それは永遠にも等しい、十分すぎるほどに価値のある「奇跡の猶予期間」であった。あの監視の目から、あの理不尽な実験から、二年間だけは完全に解放されるのだ。
翌朝。まばゆい朝日に照らされた王城の壮麗な正門前には、学園へと旅立つ王子を見送るため、多くの人々が集まっていた。厳格な父である国王、涙ぐみながらハンカチを握る母の王妃、長年仕えてくれた侍従たち。そして、その中央には、一際目を引く美しさをまとったクラウディアの姿があった。ベルガルド王国の至宝たるローゼンベルク公爵令嬢である彼女もまた、アルフォンスと同じく今年から学園へと入学するのだ。同じ紺青の、けれど女性用に美しく仕立てられた制服に身を包んだ彼女は、アルフォンスの姿を認めると、頬をほんのり桜色に染めて優雅に一礼した。
「学園の地でも、どうかよろしくお願いいたします、アルフォンス様」
クラウディアが、慈愛と信頼に満ちた、極上の微笑みを向けてくれる。
ただその笑顔を目にするだけで、アルフォンスの胸の奥に溜まっていた五年間分のドス黒い澱が、一瞬にして綺麗に洗い流されていくような気がした。彼女のいる世界こそが、自分の生きるべきまっとうな現実なのだと、強く実感できる。
「ああ、こちらこそ。学園でも、僕の隣にいてくれると嬉しい、クラウディア」
アルフォンスも、これまでにないほど自然な、心からの優しい微笑みを返し、彼女の細い手をそっと握りしめた。
――しかし。そんな至福の光を切り裂くように、正門の影から、音もなく二つの銀色の影が近づいてきた。
「お兄様、無事のご出発、心よりお慶び申し上げますわ」
エリシアが、一ミリの狂いもない完璧な所作で、深々と優雅に頭を垂れる。
「学園生活、私たちの分までたっくさん楽しんできてくださいね、お兄様!」
フィリアもまた、ひまわりのような明るい笑顔で、パタパタと元気に手を振っている。
もしも事情を知らない普通の兄であれば、これほど愛らしく美しい妹たちに見送られて、鼻高々に旅立つことができるだろう。だが、アルフォンスの網膜には、彼女たちのその愛くるしい「仮面」の裏側に張り付いた、冷徹極まる悪魔の本性がはっきりと透けて見えていた。だからこそ、彼は素直に喜ぶことなど爪の先ほどもできず、ただ全身の細胞を警戒で尖らせる。
「……ああ。二人とも、留守中の王城を頼む。父上と母上を困らせるんじゃないぞ」
それでも、王子としての建前、そして「契約者」としての最低限の兄の役割を果たすべく、努めて冷静な声音で返答した。
よし、これで終わりだ。早く馬車に乗り込もう――そう身を翻しかけた、まさにその瞬間だった。
「――お兄様」
エリシアの、低く、けれど恐ろしいほどに透き通った声が、彼の足を完全に縫い付けた。
ハッと振り返ると、いつの間にかエリシアとフィリアの二人が、周囲の大人たちや、少し離れた場所にいるクラウディアにすらも絶対に気づかれないほどの、恐るべき隠密の歩法で、アルフォンスの耳元にまで大接近していた。
周囲の喧騒を完全に遮断するような、二人だけの、いや、三人だけの冷たい絶対空間。
双子は、全く同じタイミングで、ゾッとするほど美しい、けれど一切の感情が削ぎ落とされた「完璧な笑顔」のまま、彼の鼓膜へと呪いの囁きを滑り込ませた。
「――学園生活を満喫されるのは結構ですが……私たちのクラウディア様を、決して泣かせるような真似をしては駄目ですからね、お兄様?」
エリシアの、底冷えするような声。
「うんうん、もしもクラウディア様を泣かせたり、悲しませたりしたら――私たち、とっても『悲しい』ですからね?」
フィリアの、無邪気さを装った冷酷な追撃。二人とも、どこまでも美しく笑っていた。本当に、ただそれだけだった。そこには、明確な脅迫の単語も、具体的な命令も、激しい怒りの感情も、何一つとして含まれてはいない。――なのに。アルフォンスの背筋を、まるで氷水を直接背骨に流し込まれたかのような、凄絶な悪寒が全速力で駆け抜けていった。
彼女たちのその言葉が、具体的に一体どのような「破滅」を意味しているのかは分からない。だが、分からないからこそ、狂いそうなほどに恐ろしかった。双子は、いつもそうだった。あの日からずっと、獲物を罠にかける時は、常にこのように美しく笑いながら、優しい言葉をかけてくるのだ。そして、後になってその言葉の本当の、おぞましい意味を理解させられる。そして理解した頃には、アルフォンスにはもう、どこにも逃げ場など残されていないのだ。
「……っ、分かっている。そんな真似は、絶対にしない」
アルフォンスは、喉の渇きに耐えながら、辛うじてそれだけの言葉を絞り出した。双子は、その答えに満足したように深く頷くと、それ以上は追及することなく、すっと元の位置へと、何事もなかったかのように優雅に下がっていった。やがて、アルフォンスとクラウディアを乗せた特製の豪華な馬車が、ガタリと音を立てて動き出す。ゆっくりと車輪が回り、住み慣れた、そして地獄でもあったベルガルド王城の白い城壁が、少しずつ、確実に遠ざかっていく。窓の外を眺めれば、見送る人々の中で、ひときわ小さくなっていく銀白色の二つの影が見えた。風に揺れる銀色の髪。よく似た、可憐な笑顔。誰から見ても、愛する兄の旅立ちを寂しそうに見送る、健気な王女たちの姿。
しかし、その姿が完全に視界から消え去った瞬間、アルフォンスは座席の背もたれに深く身体を沈め、魂のすべてを吐き出すかのように、長く、深い安堵の溜息を漏らした。心から。本当に、心の底から、彼は救われていた。
(終わった……。これで、これからの二年間だけは……あの悪魔たちの支配から、完全に離れられるんだ……!)
たった二年。大人の人生からすれば瞬きほどの一瞬に過ぎないかもしれない。それでも、今のアルフォンスにとっては、自らの人間性を保つために十分すぎるほどの、黄金の自由時間だった。明日からは、誰も自分を実験台にしない、誰も自分を執事扱いにしない、普通の、まっとうな学園生活が待っている。隣には、自分を心から慕ってくれるクラウディアがいて、前を歩けば、頼もしいレオンハルトがいる。ようやく、王子としてではなく、一人の少年としての「普通の時間」を過ごすことができるかもしれない。そんな、ささやかで、けれど何よりも眩しい期待が、彼の胸の中で風船のように大きく膨らんでいく。遠ざかる王城を振り返るのをやめ、アルフォンスは、輝かしい未来の待つ前方に向け、その強い双眸を向けたのだった。――そして、彼はまだ、何も知らなかった。
今からわずか二年後。あの双子が十五歳を迎え、この王立学園へと平然と入学し、彼が築き上げた平穏な人間関係のすべてを、ひいてはベルガルド王国全土をも巻き込むような、前代未聞の「大騒動」を引き起こすことになるということを。今はまだ、ただその事実を知らぬまま。夕暮れの光に包まれた「束の間の自由」だけが、確かに彼の、小さな手の中にあった。