それから数日後の、午後のすべての授業が終了した放課後。
アルフォンスはレオンハルトと肩を並べ、石造りの重厚な中央回廊を、少しばかり神妙な面持ちで歩いていた。高いアーチ状の窓からは、茜色へと変わりつつある午後の傾いた光が長い影となって廊下に斜めに差し込み、すべてのカリキュラムを終えた生徒たちの賑やかな話し声や笑い声が、遥か遠くの校庭から風に乗って聞こえてくる。そんな平和なロケーションの中、二人の間で交わされていた話題は自然と――ここ最近、明らかにその行動や「様子」に不穏な違和感を覚えさせている、共通の友人へと向かっていた。
「――レオンハルト。……ガイアスのことなのだが」
アルフォンスが周囲に人がいないことを確認し、少しだけ声音を落として切り出すと、隣を歩いていたレオンハルトは、いつもの人を食ったような笑みを完全に消し去り、真剣な表情のまま即座に深く頷いた。
「……やはり、君も気づいていたかい、アルフォンス」
「ああ。気づかない方が無理がある。ここ数週間、彼の『訓練量』は、武家の生まれという前提を考慮しても明らかに常軌を逸して増えすぎている。昨日の座学の授業中、彼は右腕の袖の中に、痛々しい肉厚な包帯を巻いていたし、その二日前には、明らかに激しい打撲による肩の痛みに耐えるように顔をしかめていただろう。……そして極めつけは今日だ。彼の右の額のあたりに、真新しい、鋭い切り傷ができていた」
「私も全く同意見だよ。公爵家の情報網で少し調べさせてみたけれど、彼は毎日、学園の公式な騎士修練が終わった後も、ただ一人で深夜近くまで訓練場に残り、文字通りボロボロになるまで限界を超えた自主特訓を繰り返しているらしい。……このまま放置していれば、彼は遠からず、取り返しのつかない肉体的な大怪我を負って、騎士道を自ら絶ちかねないよ」
レオンハルトの声音は、いつものように穏やかで洗練されてはいたが、その紫水晶の瞳の奥底には、友人であるガイアスへの、偽りのない本物の「深い懸念と心配」がハッキリと滲み出ていた。
ガイアス・フォン・ヴァルクという少年は、誰よりも不器用で、誰よりも純粋な努力家だ。この学園の誰よりも多く剣を振り、誰よりも早く、誰も到達したことのない「武の頂」へと前へ進もうと、その短い足を必死に動かしている。その、一切の妥協のないストイックな姿勢そのものは、同じ男として、そして武を重んじる者として、深く尊敬に値するものだった。……だからこそ、周囲の人間が横から「休め」と言ったところで、簡単に止められるような生易しい問題ではないことも、二人は痛いほど理解していたのだ。
「……とはいえ、僕たちから本人に直接『少しは特訓の量を減らせ』と忠告したところで、素直に聞くと思うかい?」
「ははは……まぁ、絶対に聞きはしないだろうね」
二人は回廊の中央で、同時に顔を見合わせて、どこか諦めたような深い苦笑を漏らしてしまった。
ガイアスは決して、他人の意見を無視するような傲慢な人間ではない。むしろ、アルフォンスやレオンハルトといった、自らが認めた大切な『友人』からの真剣な忠告であれば、その場では大真面目な顔をして真っ直ぐに受け止めるだろう。……ただ、受け止めた上で、彼は最後にはいつものように「がはは! 心配すんなって! 俺の身体は頑丈だから大丈夫だ!」と豪快に笑い飛ばし、翌日には何事もなかったかのように、またボロボロの身体を引きずって、誰よりも早く訓練場へと向かう姿が、あまりにも容易に、鮮明に脳裏に想像できてしまうのだ。彼にとって、限界を超えて努力を重ねることとは、普通の人間が息をするのと同じくらい「当然の生存本能」であり、自分を限界まで追い込んで肉体を磨り潰すことこそが、唯一のアイデンティティになってしまっているのだから。
「……彼が、それほどまでに狂気的なまでに『強くなりたい』と、激しく焦る気持ちそのものは、僕にも分からなくはないんだ」
アルフォンスは足を止め、窓の外の赤く染まりゆく広大な訓練場へと、寂しげな青い視線を向けた。
「騎士団長の息子としての、凄まじい重圧もあるのだろう。だが……どれほど気高い理想を掲げたところで、自らの身体を壊してしまっては、本当に何の意味も成さなくなってしまう」
「……分かったよ。今度、カイルやセレスも交えて、彼が断れないような絶妙な機会を無理矢理にでも設けて、じっくりと話してみよう。……これは第一王子や公爵令息としての『説教』ではなく、ただの、彼の身体を心配している一人の『友人』としての、ささやかなお節介としてね」
「ああ、頼むよ、レオンハルト」
そう言葉を交わし合いながらも、二人とも、この問題がそんな生易しい話し合い程度ですぐに根本解決するとは、到底思っていなかった。ガイアスの持つ、あのブレない真っ直ぐな純粋さは、彼の最大の美点(チャームポイント)であり、同時に――いつか自らを破滅へと導きかねない、最大の危うさ(リスク)でもあった。今はまだ、掲示板の裏の小さな、些細な不安の種に過ぎないかもしれない。だが、もしもこのまま彼を独りで放置し続ければ、それはいつか取り返しのつかない、巨大な悲劇(イベント)の引き金になってしまうかもしれないという不気味な予感が、アルフォンスの胸の片隅を、冷たく掠めていた。
◇
――その日の、夕暮れ時。広大な学園の騎士訓練場には、もうすでに、人っ子一人として残ってはいなかった。燃え盛るような真っ赤な夕陽が地平線の彼方へと大きく傾き、大理石の地面や砂床の上に、異常なほどに長い、濃い影を何本も落としている。指導教官たちも、熱心な上級生の騎士候補生たちもとっくに全員が宿舎へと引き上げ、昼間あれほど激しく鳴り響いていた木剣や鉄剣がぶつかり合う金属音も、完全に消え去ったはずのその静寂の空間において。ただ、一人。ガイアス・フォン・ヴァルクだけが、赤銅色の髪を汗でベッタリと額に張り付かせながら、狂ったように巨大な両刃の木剣を振るい続けていた。シュッ、シュッ、と、空気を鋭く引き裂く凄まじい風切り音が、無人の訓練場に寂しく木霊する。
すでに、自らの呼吸は肺が焼け付くほどに荒い。両腕は、まるで鉛の塊を埋め込まれたかのように重く、感覚が麻痺しかけている。右肩の奥からは、動かすたびにキリキリとした、鈍い、けれど確実な拒絶の激痛が神経を突き刺してくる。――それでも。彼は、絶対に剣を止めることだけはしなかった。
(もっと……! もっと速く、もっと鋭く、もっと……誰も追いつけないほどに強くならなきゃダメだ……!!)
現ベルガルド王国最強の男、騎士団長の息子として。この『ヴァルク』の名を背負って学園に入学した以上、自分は他の誰が相手であろうとも、剣の腕でだけは絶対に、ただの一度たりとも敗北することなど許されない。
この学園には、自分の想像を遥かに超える、バケモノじみた優秀な天才たちがゴロゴロと転がっている。第一王子であるアルフォンスの全分野におけるあの完璧な品格と万能さ、公爵家のレオンハルトのすべてを見通す恐るべき智謀、セレスの常識を塗り替える圧倒的な魔術の才、カイルの大人顔負けの冷徹な商才。彼らは全員、自分には逆立ちしても手に入らない、それぞれの分野の「絶対的な強さ」をすでに完璧に有している。ならば――自分のようなただの武骨な男が、あの輝かしい四人と対等に並び立ち、彼らの『友人』として胸を張って生きるためには、この唯一の武器である『剣の道』において、誰よりも、それこそ神の領域に達するほどに、圧倒的に突き抜け、立つしかないのだ。その焦燥感とプライドだけが、彼のボロボロの肉体を裏から無理矢理に駆動させていた。
「――おらぁぁぁッッ!!」
最後の一際大きな咆哮と共に、限界を超えた渾身の唐竹割りを空間へと叩き込み、ガイアスはついに、持っていた巨大な木剣の先端を地面へと突き立て、そこへ両手を預けるようにして膝を突き、ハァハァと激しい過呼吸のような息を吐き出した。右の頬には、先ほどの限界を超えた激しい太刀風の跳ね返りによって生じた、浅い裂傷から一筋の血が滴り落ちており、両腕の制服の袖は擦り切れ、無数の擦り傷から赤黒い肉が覗いている。仕立ての良い濃紺の制服は、地面の砂埃と自らの汗によってドロドロに汚れ、包帯を巻いた手首の袖口からは、先ほどの激しい運動によって傷口が開き、ジワリと赤々とした鮮血が滲み出ていた。だが、当の本人にとっては、こんな満身創痍のボロボロの状態など、幼少期の地獄のヴァルク家の訓練に比べれば、珍しくも何ともない日常の範疇に過ぎなかった。軽い怪我や肉体の悲鳴など、武の頂を目指して鍛錬を続けていれば、いくらでも生じる「ただの勲章」に過ぎないのだから。
「……ふぅ、よし。今日のノルマ、一万回……完了、だ」
自らの肉体の限界までの追い込みに、どこか満足げな、獰猛な武人としての笑みを浮かべ、ガイアスは突き立てていた木剣を拾い上げると、ゆっくりと重い腰を上げて訓練場を後にした。
◇
学園の校舎の裏側に位置する、深い森へと続く小道は、夕暮れの残光に包まれて非常に静まり返っていた。濃い橙色と紫色のグラデーションに染め上げられた古い石壁が、世界の終わりを予感させるようなノスタルジックな雰囲気を醸し出し、人気のない狭い小道には、ただ冷たい夜の始まりを告げる秋の風の音だけが、サラサラと寂しく流れている。このまま誰もいない道を通り、静かに自分の寄宿舎へ戻って、誰にも見つからないように部屋で一人で傷の手当てをすればいい。……ガイアスがそんな当たり前のことを頭の中でぼんやりと考え、重い足取りでトボトボと歩みを進めていた、まさにその時だった。ガサリ、と、前方の低木が不自然に揺れ、小道の角の向こう側から、こちらへと歩いてくる一人の小柄な人影が、不意に姿を現した。夕暮れの風にふわりと優しく揺れる、淡い上品な栗色の髪。その奥で、夕陽の光を浴びてまるで極上のエメラルドのように怪しく、そして大きく輝く、神秘的な翠色の瞳。つい先日、大講堂の壇上において、全校生徒の偏見の視線を一身に浴びながら、完璧なスピーチを披露してみせた、あの異例の特待生代表の少女――マリア・エヴァンスであった。
マリアもまた、前方から歩いてくる巨大なガイアスの影に気づき、ハッと息を呑んでその愛らしい足をその場に止めた。そして――彼女の大きく美しい翠の視線が、ガイアスの右頬を流れる一筋の鮮血、ボロボロに擦り切れて血の滲んだ両腕の袖口、そして土埃でドロドロに汚れた無惨な制服のお姿へと向かい、それらを完全に捉えた、まさに次の瞬間だった。彼女の大きな瞳が、まるで世界がひっくり返ったかのように、驚きと深い悲しみの色で激しく見開かれた。
「――まぁっ……!? ヴ、ヴァルク様……っ!? 一体、どうされたのですか、そのひどいお怪我は……っ!!」
それは、今にも泣き出してしまいそうなほどに純粋な、驚きと、そして自らの身を削るかのような深い心配の感情がこれでもかと滲み出た、鈴を転がしたような健気な少女の悲鳴だった。マリアは、手に持っていた自らの通学鞄をその場にパサリと落とすことすら厭わず、ドレスの裾を翻しながら、小道を全速力で、迷いなくガイアスの満身創痍の身体へと向かって駆け寄ってきた。
燃え盛るような、すべてをドロドロに溶かす血のような夕陽の光に照らされた、校舎裏の誰もいない絶対的な秘密の空間。生まれて初めて、肉親(父親)以外の人間から、己の傷に対してこれほどまでに純粋で、これほどまでに必死な「涙ながらの心配の言葉」を正面から向けられたガイアスは、その場で巨大な木剣を握りしめたまま、雷に打たれたかのように、ただ呆然と戸惑いながら立ち尽くすことしか出来なくなっていた。
――そして。そんな、絵画のように美しい「
(――キタキタキタキタァァァッッ!! ガイアスルートの超重要フラグ、校舎裏での『満身創痍の看病イベント』!! 待ってました、この脳筋肉体派の単純男! ここで私が聖女ムーブで傷を癒やして涙を流してあげれば、こいつの好感度は一気に初期段階から限界突破して私だけの『忠犬』に堕ちるのよ……!!)
そんな、誰の目にも触れることのない、ドス黒く計算高い捕食者のエゴが裏で渦巻いていることなど、純朴なガイアスは知る由もなかった。穏やかで、優しく、誰もが平和を信じて疑わなかったこの学園生活の裏側で――まだアルフォンスたち主役(攻略対象)の誰も気づいていない、世界の運命を狂わせる破滅への精巧な歯車が、今、不気味な音を立てて、静かに、けれど確実に回り始めていた。
近づいてくる不穏な影…