TS双子姫と乙女ゲーム世界   作:熱湯キチ郎

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消えている傷跡

「――最近のガイアスは、どうにも妙だと思わないか?」

 

賑やかなお昼休みの喧騒が響き渡る中央食堂の一角で、その疑問を最初に口にしたのは、日替わりの上品なランチプレートにフォークを滑らせていた第一王子アルフォンスであった。

高い天井の格子窓から差し込むうららかな春の陽光が、磨き上げられた長机を白々と照らし、周囲からは数多くの貴族生徒たちの華やかな談笑や食器の触れ合う音が心地よく響いている。アルフォンスとレオンハルトはいつものように向かい合って座り、優雅に昼食を摂りながら何気ない会話を交わしていたが、アルフォンスのその一言をきっかけに、レオンハルトは手にしていたグラスをピタリと止めた。

 

「アルフォンス、 君もやはり同じ違和感を抱いていたか」

 

レオンハルトは神秘的な薄紫の瞳をわずかに細め、納得したように深く頷いた。

以前のガイアスは、その行動も肉体の状態も、おそろしく分かりやすかった。毎日深夜まで常軌を逸した自主練習を繰り返している翌朝には、必ずと言っていいほど、その快活な肉体のどこかしらに「勲章」をぶら下げて教室に現れていたからだ。ある日は右腕に痛々しい擦り傷。またある日は右の額に鋭い切り傷。あるいは、剣の握り込みすぎによって両拳の皮がベロリと剥がれていることも日常茶飯事だった。だが、ここ一週間ほどの彼の様子は、明らかにそれまでと異なっていた。相変わらず彼は毎日、放課後になれば誰よりも早く、そして最後まで無人の訓練場へと向かっている。レオンハルトの調べによれば、その自主特訓の総量や負荷は、むしろ以前よりも苛烈に増えているようにさえ見えるという。――それなのに。現在の彼の肉体には、かすり傷一つ存在しないのだ。毎朝、教室に現れるガイアスの肌は、まるで何事もなかったかのように綺麗に整えられており、額の切り傷もすっかり消失している。自主練の密度が上がっているにもかかわらず、怪我だけが完全に消滅している。それが、観察眼の鋭い彼らにとっては、逆に不自然極まりない異様な事態として映り込んでいた。

 

「……単に、僕たちの心配を避けるために、服や包帯の裏に傷を巧みに隠しているだけではないか?」

 

アルフォンスは少しだけ美しい眉をひそめ、真剣な声音で推測を口にした。

 

「あのガイアスの不器用な性格だ。僕たちに『特訓を休め』と言われるのを恐れて、平気な顔をして裏で痛みに耐えながら笑っている可能性は、十分にあり得ると思う」

 

「まったく同感だね」

 

レオンハルトもまた、困ったように肩をすくめて苦笑する。

 

「僕たちが『大丈夫か?』と問い詰めたところで、本人はいつものように『がはは! 俺の身体は頑丈だから平気だ!』と、大声で笑って誤魔化す姿が容易に想像できるよ」

 

「そして、絶対に大丈夫ではないんだ」

 

「間違いなくね」

 

二人は同時に、深い、けれど友人への愛おしさが混じったため息を吐き出した。

短い付き合いではあるが、すでに彼らはガイアスという男の、あのブレない真っ直ぐな危うさを誰よりも理解していた。ガイアスは無理をする。そこに一切の悪気も、周囲を騙そうという邪悪な意図もない。ただ単に、武家の名門としての重圧を背負う彼にとって、己の限界を擦り潰してでも前へ進むことこそが「当然の義務」になってしまっているだけなのだ。

 

「一度、僕たちで放課後の彼の自主練の様子を、直接訓練場まで行って確認した方がいいかもしれないな。これ以上無茶をさせるわけにはいかない」

 

アルフォンスがそう決意を口にした、まさにその時だった。

 

「――でしたら、僕が代わりに確認してきますよ」

 

背後から、一切の抑揚のない、極めて静かで冷徹な声音が突如として割り込んできた。

二人が驚いて同時に振り返ると、そこには自分の昼食の盆を両手で平然と持った、銀髪の天才魔術師セレスが、いつもの彫刻のような無表情のまま静かに佇んでいた。深い深海を思わせる蒼色の瞳は極めて冷静で、どうやらすぐ近くの席で、彼らの会話の一部始終を静かに聞いていたらしい。

 

「セレス。君、いつの間にそこに……」

 

「お二方がわざわざ大掛かりに動いて、放課後の訓練場を直接覗き込めば、それだけで学園内は大騒ぎになります」

 

セレスはアルフォンスの驚きを無視し、淡々とした声音で論理的に説明を続けた。

 

「何しろ、この国で最も注目されている第一王子殿下と、ローゼンベルク公爵家の若き嫡男ですからね。お二人が動けば周囲の生徒や教官たちが一斉に群がり、肝心のガイアス本人も、警戒して無茶な特訓を中断するか、あるいは隠れて別の場所へ移動するだけです。……その点、私の身軽な立場であれば、誰の目にも留まることなく、自然に彼の動向を観察することが可能です」

 

それは、反論の余地のないほどに完璧な正論であった。アルフォンスとレオンハルトが動けば、それはもはや単なる「友人の見舞い」ではなく、政治的・階級的な大イベントになってしまう。

 

「それに……」

 

セレスは眼鏡のブリッジを人差し指で静かに押し上げ、その蒼い瞳を、研究者特有の鋭く細いものへと変化させた。

 

「毎日あれほど過酷に肉体を破壊し尽くしているはずの男の傷が、翌朝には分子レベルで完全に消失している。……その不自然な事象の裏に、一体どのような『魔術的な絡繰り』が隠されているのか。……純粋に、一人の魔術師として、興味があります」

 

――ようやく、彼の口から本音(本質)が漏れ出た。

アルフォンスとレオンハルトは一瞬だけ呆気に取られたように顔を見合わせ、直後、同時にフッと吹き出すように笑ってしまった。実にお堅く、数字と理論を愛する彼らしい、半分は友人への不器用な心配、そしてもう半分は異常現象に対するマッドな部分の尽きない「好奇心」が混ざり合った、完璧な理由であった。

 

「分かった。それじゃあ、ガイアスの様子見は君に頼めるかい、セレス」

 

「構いません。今日の放課後の予定を一部変更し、彼の尾行と観察を最優先事項に組み込みます」

 

セレスはそう言って、アルフォンスたちの隣の席へと流れるような所作で着席し、再び自分の魔導書を開きながら片手で器用にスプーンを動かし始めた。その徹底してブレない知的な無愛想さに、アルフォンスの胸には、また一つ、王城では決して得られなかった温かな信頼の色彩が満ちていくのだった。

 

 

そして、同日の放課後。すべての日課の講義が終了すると、セレスはその宣言通り、一人で静かに、茜色に染まり始めた広大な騎士訓練場へと足を運んでいた。

彼の予想は、何から何まで完全に的中していた。すでに一般の生徒たちの全体訓練はとっくに終了しており、残っている生徒や指導教官の姿はどこにもない。だが、その無人の砂床の隅において、案の定、ガイアス・フォン・ヴァルクだけが、赤銅色の髪を激しく振り乱しながら、一人で猛烈な勢いで剣を振り続けていた。

重厚な木人への、骨の砕けるような激しい打ち込み。空間を引き裂く、数千回にも及ぶ連続の素振り。そこから間髪入れずに移行する、訓練場外周の狂気的な走り込みと、自らの肉体に過剰な負荷をかける苛烈な体力訓練。与えられた休憩時間は、ほんの数十秒の水補給のみ。全行程において、一分の手抜きもない『終始全力』の暴挙。それは、横で見ているだけのセレスの合理的な脳髄が、拒絶反応を起こして疲れ果ててしまいそうなほどに、あまりにも非効率的で、泥臭い内容であった。

 

「……本当の、馬鹿ですね、彼は」

 

物陰の柱の隙間から、その様子をじっと観察していたセレスは、思わず誰に聞こえるでもない小さな声でポツリと呟いた。それは、決して友人を見下すような蔑みの言葉ではない。あまりにも不器用で、あまりにも真っ直ぐに自分を痛めつけることしか出来ない男に対する、彼なりの最大の「呆れ」と、裏返しの「敬意」が含まれた声音であった。

しかし、ガイアスのその狂気的な肉体の駆動は、夕陽が地平線の彼方へと完全に傾き、世界のすべてを血のような橙色へと染め上げる時間になるまで、一切止まることはなかった。そして、ようやくすべての過酷なメニューを終えたガイアスが、地面に木剣を突き立てて激しく肩を上下させたその瞬間、セレスの蒼い瞳は、眼鏡の奥で鋭く見開かれた。

 

(なるほど……。アルフォンスたちの推測も、半分は外れていたというわけですか)

 

怪我がなくなったわけではない。ただ――現在(この瞬間)においては、怪我がまだ『残っている』状態なのだと、セレスは正確に理解した。

特訓を終えたガイアスの右の頬には、先ほどまでなかった鮮烈な裂傷が走っており、そこから一筋の赤々とした血が滴り落ちている。両腕の制服の袖口は激しく擦り切れ、その奥の肌には無数の凄まじい擦り傷が刻まれ、砂埃まみれの拳は真っ赤に大きく腫れ上がっていた。制服の汚れ具合も、昨日までの比ではないほどに無惨なものだ。セレスは物陰で小さく眉をひそめた。これほどの満身創痍の重傷を、毎日放置して翌朝を迎えているのだとすれば、人間の治癒能力の限界を超え、数日と持たずにその肉体は確実に内部から崩壊(ブレイク)する。……それなのに、彼は翌朝には完全に無傷の状態で教室に現れる。やはり、この後に、傷を完全に『消失』させる何らかの絶対的な外部要因が存在する。

セレスは自らの気配と魔力を極限まで希薄にコントロールしながら、重い足取りで訓練場を後にしたガイアスの後ろ姿を、適切な距離を保ったまま静かに追跡し始めた。

やがて、夕暮れの残光が寂しく差し込む、古い石壁に囲まれた校舎裏の、人気のない狭い小道へと差し掛かったその時。前方をトボトボと歩いていたガイアスの足が、不意にピタリと止まった。小道の角の向こう側から、こちらへと真っ直ぐに向かって歩いてくる、一人の小柄な少女の影が出現したからだ。肩のあたりまで綺麗に切り揃えられた、淡い上品な栗色の髪。そしてその奥で、最高級の宝石のように神秘的に輝く、大きな翠色の瞳。……マリア・エヴァンス。先日の入学式において、圧倒的な実力を見せつけて首席突破を果たした、あの異例の没落貧乏子爵令嬢の特待生であった。セレスは即座に、近くの分厚いレンガ壁の死角へとその身を滑り込ませ、息を殺した。観察は続行である。

マリアは、前方から歩いてくるガイアスの無惨な姿を視界に捉えた瞬間、まるで世界がひっくり返ったかのようにその美しい翠の目を大きく見開いた。

 

「ヴ、ヴァルク様……っ!? 一体どうされたのですか、そのあまりにもひどいお怪我は……っ!!」

 

「……ん? ああ、これか」

 

ガイアスは、正面から泣き出しそうな顔で駆け寄ってきたマリアの剣幕に少しだけ気圧されながら、自らの右頬の血を、大きな手の甲で無造作に拭った。

 

「いや、大したことはない。毎日のいつもの自主練で、ちょっとばかり派手に身体を動かしすぎただ。寮に戻って寝れば、すぐに治るさ」

 

「『大したことはありません』、ではないですっ!」

 

普段の彼女の、あの鈴を転がしたかのような、どこまでも大人しく健気な声音からは想像もつかないほど、珍しく芯の強い、烈烈とした口調が遮るように放たれた。だが、その強い言葉の裏側には、相手を激しく責め立てるようなトゲは一ミリも存在しない。そこにあるのは、ただひたすらに、目の前で傷ついている男に対する、身を削るような純粋な「心配」と「悲しみ」の感情だけであった。

 

「このような痛々しい傷を放置して、そのまま寮へ戻るなど、絶対に許されませんよっ!」

 

「は、はあ……。いや、でも、本当に俺の身体は頑丈にできてて、ヴァルク家の男としちゃあこれくらい――」

 

「あります、大問題です!」

 

マリアは真っ直ぐに、吸い込まれそうなほどの翠の瞳でガイアスの顔を真正面から見つめ、その華奢な一歩をさらに前へと踏み出した。

 

「そのままでは絶対に、いけません……。お願いです、ヴァルク様。私に……ほんの少しだけ、そのお怪我の手当てをさせてくださいませんか?」

 

「いや、そこまで見ず知らずの特待生に、わざわざ手を汚してもらうほどじゃあ――」

 

「――お願いしますっ。私に、あなたを助けさせてください……!」

 

完全に、押し切られた。戦場においては不撓不屈の猛者となるはずのガイアスも、王城のドロドロした貴族の社交界に慣れていない純朴な武人だ。目の前の、自分よりも遥かに小柄で、今にも涙をポロポロと零しそうなほどに自分を心配してくれている可憐な少女の「真摯な眼差し」と「小さなお願い」の圧倒的な圧力の前に、完全に防戦一方となり、困ったように大きな手を後ろ頭へと回してガリガリと掻いた。

 

「……あ、圧倒されるなぁ。……分かったよ。そこまで言ってくれるんなら、お言葉に甘えて、少しだけ頼むよ」

 

「はい……っ! ありがとうございます、ヴァルク様!」

 

マリアは、張り詰めていた緊張が解けたように、パッと世界が開花するような、無垢で美しい天使の微笑みをその唇に浮かべた。そして、彼女はおもむろに、自らの両手を胸の前で祈るように静かに組み、そっと目を閉じた。

――その瞬間。物陰からその光景をミリ単位で凝視していたセレスの表情が、凍りついたように一変した。

 

(――ッ!? なんだ……この、異質すぎる魔力のうねりは……っ!?)

 

セレスの眼鏡の奥の蒼い網膜に、それまで経験したことのない、凄まじい密度のエネルギーの奔流が映り込んできた。それは、通常の火や水、風や地といった、この世界にありふれた四大属性の魔力とは、根本的にその「構造」も「波形」も異なる、極めて清らかで、底知れないほどに濃厚なエネルギーの集積。セレスはこれまでの人生において、本物のその魔力を直接視覚で捉えたことは、ただの一度もなかった。……いや、ただの一度だけ、師である現・宮廷最高峰魔術師の書庫の奥深くに眠っていた、千年前の古代の失われた文献の、掠れたインクの記述の中にだけ、その存在を確認したことがあった。

次の瞬間、マリアの組まれた小さな両手の隙間から、世界の夜闇を優しく押し返すかのような、圧倒的に柔らかな『白亜の光』が、湯気のように、ドクドクと溢れ出してきた。

 

「……まさか、本当に実在したというのですか……っ!」

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