セレスは思わず、自らの唇を噛み締め、息を呑んだ。
――『聖属性魔術』。
それは、このベルガルド王国全土をひっくり返して探したとしても、数十年に一人生まれるか否かと言われるほど、極限の稀少性を誇る伝説の最高位属性。学園の、国家の最高幹部である一部の教師陣や、王城の奥深くの重鎮たちが、今年の特待生の中に「その適性を持つ隠し玉」を密かに把握し、特別に保護しているという、まことしやかな噂(国家機密)は、セレスも師の雑談から薄々と耳にしたことはあった。……だが、まさか、その伝説の使い手が、自分のすぐ目の前で健気に微笑んでいる、この没落寸前の貧乏子爵令嬢――マリア・エヴァンスその人であろうとは、夢にも思わなかったのだ。マリアがその光り輝く両手を、ガイアスの頬や腕の傷口へと優しくかざしていく。
その瞬間、まるで世界の時間がそこだけ綺麗に「逆再生(巻き戻し)」を始めたかのように、恐るべき現象が目の前で引き起こされた。
ガイアスの頬を流れていた赤々とした裂傷が、光が触れた瞬間にジワリと肉を繋ぎ合わせ、一秒と持たずに完全に閉じて消滅した。続いて、両腕の袖の奥に刻まれていた無数の凄まじい擦り傷や、内出血によって真っ黒に腫れ上がっていた拳の激しい打撲の痕跡も、光が優しく撫でるたびに、まるで最初からそんな傷など存在しなかったかのように、一点のシミすらも残さず、完璧に、恐ろしいほどの超高速で、ツルツルとした健康的な元の肌へと治癒されていく。
しかも、通常の治癒魔術であれば必ず生じるはずの、肉体を無理に再生させたことによる「急激な疲労感」や「引き連れたような傷跡」が、彼女の魔術の前では、ただの一ミリも残っていない。
治癒速度、再生の精度、そしてエネルギーの効率。そのすべてが、既存の最上級の医療魔術師たちの技術を遥かに超越した――紛れもない、神の領域に片足を突っ込んだ『高位治癒魔術』そのものであった。
治療を直接受けたガイアス本人も、自らの身体から一切の激痛と疲労感が綺麗サッパリと消失したことに、驚愕のあまり自分の大きな両手を何度も裏返しながら、その琥珀色の目を極限まで丸くしていた。
「す、すげえ……。なぁ、エヴァンス嬢、これ、一体どんな手品だ……っ!? 傷が消えただけじゃねえ、さっきまで鉛みたいに重かった身体が、まるで朝起きたばかりの時みたいに、めちゃくちゃ軽くなってやがる……っ!」
「ふふふ。そんなに驚かないでください、ヴァルク様」
マリアは自らの額の細かな汗を上品に拭いながら、少しだけ照れたように、はにかんだような可憐な笑みを浮かべて見せた。
「私の実家は、とても貧しいお家でしたから……。昔から、私にできることと言えば、こうして怪我をした領民の方や、困っている方をこの不思議な力で癒やしてあげることくらいしか、得意なことがなかったので…」
どこまでも謙虚で、どこまでも慎ましやかな、完璧な「聖女」の態度。だが、物陰から冷徹な魔術師の視点でその術式を完璧に脳内にスキャンし終えたセレスからすれば、彼女のその「得意なことくらい」という謙遜の言葉は、既存のすべての魔術の歴史を根底から全否定しかねないほど、十分すぎるほどに異常で、バケモノじみた領域の才能であった。十五歳という若さで、これほどまでの聖属性の出力を、詠唱の破棄に近い速度で平然とコントロールしてみせるなど、国家の最高至宝と言っても過言ではない。
「……本当に、助かった。感謝する」
ガイアスは、突き立てていた木剣を地面に置き、これまでの人生で、父親以外の人間に対してはただの一度も見せたことのないほど、深く、深く、真っ直ぐにその頭を下げて感謝を伝えた。
「俺は……ヴァルクの名を汚さないために、誰よりも強くならなきゃいけないって、そればっかり考えて焦ってて……。自分の身体の限界なんて、どうでもいいって思ってた。だけど、あんたにそうやって、自分のことみたいにボロボロになって心配してもらえて……、なんだか、胸の奥が、すっと軽くなった気がするよ。本当に……本当に、ありがとう、エヴァンス嬢」
「そんな、頭を上げてください、ヴァルク様!」
マリアは慌てて小さな両手を振って、彼の大きな身体を優しく支えようとした。
「私はただ、一生懸命に努力をされている、素敵なヴァルク様のお姿を、これ以上傷つけてほしくなかっただけなのですから……。困っている方を助けるのは、人間として、当然のことです!」
夕陽の橙色の残光の中、彼女の口から放たれたその声音には、一切の淀みも、邪悪な偽りも感じられなかった。聖属性特有の、周囲の、そして相手の精神を内側から穏やかにリラックスさせる特殊な魔力の波動(精神安定効果)も、無意識のうちに優しく作用しているのだろう。ガイアスの険しかった武人としての硬い表情は、気付けば自然と、冬が明けた春の雪解けのように柔らかく緩んでおり、彼の中にあった特待生や平民に対する「上流貴族としての警戒心や壁」は、この瞬間に完全に霧散していた。それは、洗脳や魅了といったおぞましい強制魔術などでは断じてない。ただ単に、自らの満身創痍の心を、最も完璧なタイミングで、最も完璧な優しさによって救い上げられたことによる――一人の多感な少年としての、極めて正常で、極めて純粋な「好意(リスペクト)」の芽生えであった。
「……あんたは、本当に、良い子だな」
ガイアスは、心の底からの率直な本音を、ポツリと口にした。
「それに……俺の知る誰よりも、凄まじい本物の魔術師だ」
「……っ。そ、そんなに褒められますと、私、どうしていいか分からなくなってしまいます……!」
マリアはまるで本物の初心な少女のように、両頬をリンゴのように真っ赤に染め上げ、恥ずかしそうに視線を泳がせた。それは、まだ激しい恋の炎などではない。けれど、二人の間に、誰にも壊すことの出来ない強固な『信頼の第一歩』が、確かに刻まれた歴史的な瞬間であった。
――そして。その、夕陽の影に隠れたレンガ壁の完璧な死角の裏側で。セレスは、静かに、音もなく自らの眼鏡の位置を中指で元の位置へと直し、その蒼い瞳に、底知れない冷徹な光を宿していた。
(――マリア・エヴァンス。没落子爵令嬢の特待生、ですか。……これは、僕たちの当初の予想を遥かに超える、とんでもない『特級の異分子』を、学園は招き入れてしまったようですね)
この発見が、これから自分たち五人の少年の関係性に、そしてこの国家のパワーバランスに、一体どれほど巨大な経済的・政治的波紋を呼び起こすことになるのか。セレスは自らの知的な脳髄のノートに、その未知の計算式を静かに書き加えながら、音もなくその場から霧のように気配を消し去り、宿舎へと引き上げていくのだった。
◇
翌朝。全校生徒の朝食の時間が完全に終了した直後の、寄宿舎の奥深くに設けられた、大理石の暖炉が静かに燃える一等クラスの談話室において。
アルフォンスとレオンハルトの二人は、重厚な革張りのソファに腰掛け、少しばかり緊張した面持ちで、対面に座るセレスが口を開くのをじっと待っていた。すべては、昨日の放課後の「ガイアスの様子見」に関する、約束通りの極秘報告を聞くためである。
「――結論から、簡潔に申し上げます」
セレスは席へ着くなり、一切の無駄な社交辞令を省き、いつもの淡々としたトーンのまま冷徹に告げた。
「我が友、ガイアス・フォン・ヴァルクは――やはり、私や皆様の予想を遥かに超えて、相変わらず裏で
その言葉を聞いた瞬間、アルフォンスとレオンハルトの二人は、同時に「はぁ……」と深い、深いお揃いの大きなため息を吐き出し、自らの右手の掌で額をペシャリと押さえた。
「やはり、そうだったか……」
「やれやれ、予想通りすぎて、もはや笑いも出てこないねえ」
「いえ、むしろ皆様の想像よりも事態は酷いです」
セレスは表情一つ崩さずに、昨日の訓練場でのガイアスの狂気的なノルマの数値を淡々と報告していく。
「骨は軋み、筋肉の繊維は断裂しかけ、皮膚は砂埃と血でドロドロ。あれをあと三日も放置していれば、彼は今頃、右腕の筋肉を完全に破壊して二度と鉄剣を握れなくなっていたでしょうね。……ただし、彼が自らの怪覚を放置して、翌朝まで放置しているわけではありませんでした。そこには、完璧な『外部からの治癒プロセス』が介入していました」
「……外部からの、治癒プロセス?」
アルフォンスが青い瞳を怪訝そうに細め、身を乗り出すようにして問いかける。
「はい。放課後の校舎裏において、あの特待生代表の少女――マリア・エヴァンス嬢が、彼のすべての重傷を、その都度、その場で完璧に治療(リセット)しています」
一瞬。静かな談話室の空間に、水を打ったかのような完全な「沈黙」が、すとんと落ちてきた。
「……エヴァンス嬢が、ガイアスの傷を……?」
レオンハルトが、いつもの人を食ったような笑みを完全に消し去り、本気で驚いたように細い目を大きく見開いた。
「彼女に……それほどまでに高度な、医療魔術や治癒魔術の、特殊な適性や才能が隠されていたというのかい?」
「単なる、一般的な『治癒魔術』などという低次元のレベルではありません」
そこで初めて、セレスの普段は鉄格子のようにつんのめっていた硬い声音の中に、一人の研究者としての、隠しきれない異常なまでの「熱」と「狂気」が、ハッキリと混ざり込んだ。
「――『聖属性魔術』です。彼女は、王国でも数十年に一人しか生まれないとされる、あの失われた伝説の光の属性の、間違いなく本物の完全なる使い手でした。私はこの目で、彼女の手から溢れ出た白亜の光が、ガイアスのあらゆる裂傷や打撲を、一瞬にして『跡形もなく消滅させる』高位のプロセスを、完璧にスキャンして確認しました」
そのセレスの断言に対し、アルフォンスとレオンハルトの二人が見せたリアクションは、完全に同じものであった。
「聖属性……!?」
「彼女が……あの没落子爵家の少女が、本当に……?」
信じられない。いや、常識的に考えて、到底すぐには受け入れられるはずのない、あまりにも衝撃的な大事実であった。聖属性魔術。それは、教会の最高幹部である枢機卿や、王城の奥深くで国家の最高権力を握る一握りの大バケモノたちの中にだけ、稀に奇跡のように発現すると言われている、まさに国家の運命をも左右しかねないほどの「絶対的な戦略兵器(至宝)」に等しい才能なのだ。それが――自分たちと全く同じ年齢の、あの小さく華奢な特待生の少女の身に宿っている。その事実が持つ、今後の経済的・政治的な意味の重さを、智謀のレオンハルトの脳髄は、瞬時に数千通りの計算式で弾き出していた。しかし――そんな大人たちのドロドロした政治的な思惑とは完全に別の場所で。第一王子アルフォンスは、その驚愕の事実の裏側に隠された、友人への確かな「救い」に対して、胸の奥底からホッと、本当に安心したような穏やかな安堵の息を、小さく吐き出していた。
「……そうか。……それなら、本当に良かった」
アルフォンスの青い瞳に、いつもの穏やかで慈悲深い光が、優しく蘇ってくる。
「ガイアスが、誰にも言えずに一人でボロボロの傷を隠して、放置して無茶を続けているわけではなかったんだね。……そのエヴァンス嬢という優しい少女が、裏で彼の頑固な身体を、その都度完璧に救ってくれていたというのなら……。友人として、これほどありがたいことはない」
「ふふふ。そうだね、アルフォンス」
レオンハルトもまた、自らの美しい前髪を軽くかき上げながら、いつもの柔らかな調整役としての微笑みを取り戻した。
「理由がどうあれ、彼女が僕たちの共通の友人であるガイアスの窮地を、その優れた才能で何度も救ってくれたことは紛れもない客観的事実だ。……それなら、僕たちからも、彼女に対して何らかの形で、きちんと誠実な『礼』を言わなければならないね」
「ああ、全く同感だ」
アルフォンスも、力強く何度も頷いた。
「今度、学園の講堂や回廊で彼女の姿を見かける機会があれば、王子としてではなく、ただの一人の友人として、彼女に心からの感謝の言葉を、きちんと直接伝えよう」
自分の大切な友人を、その不思議な光の力で救い、支えてくれた、善良で、健気で、非常に優秀な特待生の少女。感謝の言葉を伝えるのは、人間として、そして人の上に立つ王族として、あまりにも「当然の責務」であった。
その後、朝礼のチャイムの音が響き渡ると、三人はそれぞれの本日の授業カリキュラムへと向かうため、談話室のソファから何気ない様子で席を立ち、光の差し込む回廊へとそれぞれの歩みを進めていった。
――この、春の爽やかな終わりの時点においては。
アルフォンスたち五人の少年(攻略対象)の目には、マリア・エヴァンスという少女の存在は、ただの「少しばかり身分は低いが、驚くほど親切で、礼儀正しく、文武両道で友人を助けてくれた善良な特待生」として、完璧に映り込んでいた。……少なくとも、彼らの澄み切った瞳には、そのように、一点の曇りもない美しい姿にしか見えていなかった。だが。彼らは、まだ――何一つとして知る由はなかった。彼女が放った、あのあまりにも美しく、あまりにも優しき『聖属性魔術』の光そのものが。やがて、アルフォンス自身がこの五年間、王城の奥深くで血を吐くような思いで必死に蓋をし、隠し続けてきた、あの
そして――マリア・エヴァンスという、前世の記憶を脳内に完璧に有した、計算高い「捕食者のエゴ」を宿す転生者の少女が。自分たち五人の、そしてこの国家全土のすべての『運命の歯車』を、跡形もなくドロドロに狂わせ、破滅へと塗り替えていく、最も恐るべき存在(ヒロイン)になっていくということを。
美しい、穏やかな学園生活の陽光の裏側で。彼らのあずかり知らぬ場所で、すべてを破滅へと導くタソベルのゲームシナリオの「第一章の精巧な歯車」は、今、不気味な、けれど確実な重量音を立てて――ガチリ、と、次の盤面へと回り始めていた。