特待生の少女マリア・エヴァンスが、規格外の『聖属性魔術』を用いて、満身創痍のガイアスを密かに、かつ完璧に治療している――。銀髪の天才魔術師セレスがもたらしたその衝撃的な事実が、アルフォンスたちの間で共有されてから、早いもので一か月ほどの月日が流れていた。季節はうららかな春から、木々の緑が瑞々しく輝く初夏へと移り変わり、生徒たちの制服もどこか軽やかなものへと衣替えしている。賑やかな熱気に包まれた昼休みの学園食堂。その一角にある、陽光が穏やかに差し込むいつもの長机で、アルフォンスは友人たちと並んで昼食を摂っていた。
もっとも、今日この席に集まっているのは、いつもより一人少ない四人だけである。第一王子アルフォンス。ローゼンベルク公爵令息レオンハルト。魔導の申し子セレス。そして、伯爵家の嫡男であり、どこか軽妙で奔放な佇まいを崩さないカイル。――そこには、普段なら誰よりも大声を上げ、大皿の肉料理を豪快に平らげているはずの話題の中心人物、ガイアス・フォン・ヴァルクの姿だけがぽっかりと抜け落ちていた。
「……さて。では、皆様が揃ったところで、定例の報告を結論から申し上げます」
セレスは端正な手つきで眼鏡のブリッジを押し上げると、手にしていたスープスプーンを静かに置き、抑揚のない冷徹な声音で切り出した。
「我が友、ガイアス・フォン・ヴァルクの動向についてですが。……彼は相変わらずです」
「おや。それは、僕たちにとって『良い意味』の相変わらずなのかな?」
レオンハルトが薄紫の瞳を悪戯っぽく細め、上質な紅茶のカップを傾けながら苦笑する。
「極めて『悪い意味』です」
セレスの即答だった。その一切の猶予もない切れ味鋭い断言に、隣で肉料理を口に運んでいたカイルが、危うく吹き出しそうになって激しく咳き込んだ。
「相変わらずの狂気的な訓練漬けですよ。日課の講義が終わるや否や、彼はほぼ毎日、一目散に無人の訓練場へと向かい、己の肉体を限界まで追い込んでいます」
「はは、想像通りだな」
アルフォンスは困ったように肩をすくめ、深い、けれどどこか愛おしそうなため息を吐き出した。
むしろ、その言葉を聞いて一同の胸に去来したのは、奇妙な「安心感」であった。あの猪突猛進を絵に描いたようなガイアスが、急に大人しくなって特訓をやめる方が、彼らにとっては不自然極まりない天変地異のように感じられるからだ。
「ですが」
セレスはそこで一度言葉を区切り、蒼い瞳の奥に鋭い観察者の光を宿した。
「以前の彼と比べ、明確な『違い』が生じているのもまた事実です。……ここ最近のガイアスは、過酷な自主訓練を終えた後、ほぼ百パーセントに近い極めて高い確率で、あのマリア・エヴァンス嬢と接触しています」
その言葉が放たれた瞬間、長机を囲む三人の眉が、同時にピクリと動いた。
「ふむ……。やはり、例の『手当て(治療)』のためかい?」
アルフォンスが尋ねる。
「当初は、それだけだと思っていました」
セレスは静かに首を振る。
「ですが、最近は単なる治療の領域に留まりません。放課後の校舎裏だけでなく、昼休みの図書館の片隅、賑わう食堂の喧騒の中、放課後の中庭の木陰、あるいは講義の短い休憩時間や、移動の回廊に至るまで……。実に対照的なあの二人が、親しげに肩を並べて会話を交わしている姿が、学園内のあらゆる場所で頻繁に目撃されているのです」
「へぇ……!」
カイルが面白そうに唇の端を吊り上げ、身を乗り出してきた。
「これはこれは、なんとも意外な話が飛び出してきましたね。あの脳味噌まで筋肉で出来ているようなガイアス殿が、女性相手にそこまで急速に距離を詰めるタイプだとは、到底思えませんでしたから」
「意外か?」
アルフォンスが、カイルのその独特な食いつきぶりに苦笑しながら尋ねる。
「かなり意外ですよ、殿下。ガイアス殿は確かに人懐っこく、身分に関わらず誰とでも気さくに接する好漢ですが、それはあくまで『男同士の武骨な友情』においてのみです。異性を相手に、特別扱いをして自ら進んで空間を共有するような器用な真似ができる男じゃありません。彼にとっては、女の子の手を握るよりも、大剣の柄を握っている時間の方が遥かに恋人に近いはずですからね」
「ふふ、確かに。あのガイアスにも、ようやく待ち望んだ『春』が訪れたということかな」
アルフォンスが、どこか兄のような温かな眼差しで笑う。
「案外、本当にそうかもしれないね」
レオンハルトもまた、優雅な所作で頷き、微笑みを深めた。
「彼が剣以外の存在――それも可憐な女性を意識し、その隣を心地よい居場所として選ぶ日が来るとは、一人の友人として実に驚きであり、喜ばしいことだよ」
カイルに至っては、すでに「今度盛大にからかってやろう」とでも言いたげな、悪戯っぽい笑みを浮かべて楽しそうにしている。アルフォンスたち三人にとっては、それはあくまで、武骨な友人に訪れた微笑ましい「年相応のロマンス」として、肯定的に受け止められていた。――だが。ただ一人、その術式の裏側を、客観的な数字と魔力伝導率の観点から見つめ続けていたセレスだけは、決して納得のいかない表情のまま、沈黙を守っていた。
「……本当に、そうでしょうか」
低く、地を這うような静かな声だった。そのあまりにも冷ややかなトーンに、賑やかだった三人の視線が、一斉にセレスへと集まる。セレスは眼鏡の奥の蒼い瞳を少しだけ泳がせ、自らの脳内に蓄積された違和感を言語化するように、慎重に言葉を選びながら続けた。
「確かに、ガイアスは単純です」
「おいおい、本人がその場にいたら大目玉を食らうぞ」
アルフォンスが苦笑を漏らすが、セレスは表情一つ変えずに平然と言い放った。
「客観的な事実です。ですが彼は、あそこまで『急速に』他人に対して無防備に心を開き、自らの境界線の内側へ招き入れる人物ではありません。……ましてや、それが初めて出会ったばかりの、異性の特待生相手であるならば、なおのこと不自然です」
その言葉の奥にある「本質」を、セレスは敢えて飲み込んだ。彼の天才的な直感が、脳髄の裏側をチリチリと突き刺すような、説明のつかない強烈な違和感を捉えて離さないのだ。伝説の『聖属性魔術』。人体の限界を凌駕する、異常すぎるほどの高位治癒能力。そして――それらを踏み台にするかのように、あまりにも完璧なタイミングで、あまりにも急速に深まっていく二人の信頼関係。
それらの事象が、もしそれぞれ「単独」で起きているのであれば、ただの奇跡や幸運、相性の良さとして処理できたかもしれない。だが、そのすべてがまるで精密にプログラミングされた時計の歯車のように、一寸の狂いもなく重なり合っている。その「完璧さ」が、セレスにとっては妙に引っ掛かるのだ。
「……少し、考えすぎじゃないかい、セレス」
レオンハルトが、その冷徹な友人の頑なな態度を宥めるように、穏やかで優しい声音で言った。
「君の探究心が、その珍しい聖属性という存在に対して、過剰な警戒心を抱かせているだけかもしれない。彼女はただの、心優しい特待生の少女だよ」
「……そう、かもしれません」
セレスはそれ以上、反論することはしなかった。自らの中でも、この感情の正体が掴みきれていなかったからだ。これは、大切な友人を素性の知れない女に奪われかけていることへの、不器用な『嫉妬』なのか。あるいは、王国の治安を揺るがしかねない異分子に対する、魔術師としての『警戒』なのか。それとも、未知の術式に対する純粋な『探究心』なのか。自分でもまだ分からない。だからこそ――彼は、自らの目で直接、その答えを確かめたかった。
◇
数日後。
セレスは自らの講義の空き時間や放課後を利用し、単独でマリア・エヴァンスという少女の本格的な「観察(調査)」を開始していた。
例えば、厳粛な大講堂で行われるハイレベルな座学の授業中。彼女の授業態度は、非の打ち所がないほどに優秀であった。難解な古代魔導言語に関する教師の突飛な質問に対しても、的確かつ簡潔な模範解答を淀みなく返す。その知識の理解速度は、並の上流貴族の秀才たちを遥かに凌駕していた。それでいて、決して周囲を見下すような出しゃばった真似はせず、常に一歩引いた慎ましさを保ちながらも、確固たる天才としての存在感を放っている。
例えば、放課後の厳かな静寂が満ちる図書館。彼女は周囲の目を引く華やかな貴族令嬢たちとは一線を画し、一人で熱心に分厚い魔導書を読み込み、ノートにペンを走らせていた。『特待生』という最高峰の肩書に少しでも甘えるような様子は、微塵も感じられない。
例えば、大勢の生徒で行き交う食堂の昼時。彼女は自らの平民出身という身分を卑下することなく、かと言って卑屈になることもなく、誰に対しても平等に、朗らかな笑顔で会話を交わしていた。同じ境遇にある平民出身の特待生たちとも、あるいは普段は平民を見下しているはずの高慢な上流貴族の令嬢たちとも、気付けば自然に、まるで魔法のように打ち解けていた。中庭の噴水広場では、魔力の暴走に泣いていた頼りない下級生へ、優しく手を差し伸べてその魔力を宥めてやり、教師陣からの評価も、学生たちからの評判も、何から何までが絶頂を極めている。どこをどう切り取っても、欠点らしい欠点が、ただの一つも見当たらないのだ。
「……完璧すぎる」
物陰から、その一連の美しい光景をじっと見つめていたセレスは、自らの眼鏡の奥で蒼い瞳を険しく細め、小さく、吐き捨てるように呟いた。人間なのだから、誰しもに何らかの「欠点」があって当然なのだ。短気、怠惰、傲慢、あるいは他者に対する醜い嫉妬。聖人君子に見える人間であっても、裏を返せば何かしらの歪みや、割り切れないエゴを抱えて生きている。それが生物としての自然な姿だ。だが、マリア・エヴァンスという少女の行動ロジックには、それらのノイズが一切存在しない。――まるで、あらかじめ定められた『理想的なヒロイン』という役割を、徹底的に完璧に演じ続けているかのように。そして、その「演じている」という極めて不穏な感想を脳内に抱いたその瞬間。セレスは自分自身の中に生じた、名状しがたい奇妙な「違和感」に激しく戸惑うことになった。演じている? なぜ、自分は根拠もないのに、初対面の無辜の少女に対してこれほどまでに歪んだ、邪悪な疑いの目を向けてしまうのか。客観的なデータは何一つない。彼女はただ、誰もが憧れるような素晴らしい善人であるだけではないか。それなのに――彼の合理的な灰色の脳細胞は、彼女のあの眩しすぎる翠色の瞳の裏側に、何とも言えない不気味な「底知れなさ」を感じて、どうしても視線を逸らすことが出来なかった。