賑やかな熱気に包まれた昼休みの学園食堂は、今日も数多くの生徒たちの談笑と食器の触れ合う音で溢れかえっていた。格子窓から差し込む初夏の柔らかな陽光が長机を白々と照らす中、いつもの窓際の席で優雅に昼食を取りながら、第一王子アルフォンスはふと周囲を見回した。最近では自然と集まるようになった友人たちの定席。しかし、今日その場所に集まっている顔ぶれを見つめ、彼はふと手元の日替わりランチのフォークを止めた。
「――珍しいな」
アルフォンスがポツリと呟く。
「おや、セレス殿のことですか?」
対面に座っていた伯爵家の嫡男カイルが、手元の香ばしい丸パンを一口で小さく千切って口に運びながら、不思議そうに尋ねてきた。
「ああ、その通りだよ」
「確かに、彼がこうして定時に姿を現さないのは珍しいね」
隣の席から、ローゼンベルク公爵家の令息レオンハルトもまた、神秘的な薄紫の瞳を細めて同意した。銀髪の天才魔術師セレスは、決して社交的な性格というわけではない。むしろ一人での研究や読書を好む陰キャ気質な少年だ。だが、この昼食の時間だけは比較的きちんと顔を出し、彼らの輪に加わることが多かった。もちろん、研究の虫が騒いで時間を完全に忘れてしまうことも稀にはあるが、それでもここ最近の彼は、ガイアスや特待生のマリア・エヴァンスと行動を共にする機会が目に見えて増えていたはずだった。
「まぁ、ここ二週間ほどのセレス殿は、ずいぶんと忙しそうに走り回っていましたからねぇ」
カイルがすべてを察しているといった様子で、実に楽しそうにクスクスと笑う。
「いつもは一歩引いた場所から僕たちを冷ややかに観察しているあのセレス殿が、今度は完全に、ガイアス殿のあの凄まじい暴走ペースに引っ張り回されているようです」
「はは、言われてみれば確かにその通りだな」
アルフォンスも思わず、当時のことを思い出して目元を和ませた。ガイアスから「一緒に実習用ダンジョンへ行こう」と誘われ、あのお堅いセレスが本当に同行したと聞いた時は、一人の友人として少なからず驚かされたものだ。武人気質で実戦経験を渇望しているガイアスなら、その行動も理解できる。特待生として実力を示し、一歩でも前へ進みたいであろうマリアが同行するのも、筋が通っている。だが、効率と理論を何よりも重んじるあのセレスが、危険な初心者ダンジョンの低階層へわざわざ足を運んだというのが、何よりも意外だったのだ。
「本人は確か、彼女の聖属性魔術の術式や、その本性を暴くための『調査』だと言い張っていたけれど……」
「ははは。客観的に見ている限りじゃあ、途中から普通に、あの二人のアットホームな雰囲気に付き合わされて、ただ楽しく冒険に付き合わされているようにしか見えなかったよね」
レオンハルトが、困ったように美しい肩をすくめて苦笑する。まさにその時だった。
「――失礼します」
聞き慣れた、一切の抑揚のない冷徹な声音と共に、件の銀髪の少年が姿を現した。いつも通り一点の乱れもない完璧に整えられた制服の着こなし。いつも通りの冷ややかな彫刻を思わせる無表情。そしてその細い小脇には、いつも通り分厚い魔導書をしっかりと抱えている。
「噂をすれば、まさに主役の登場だな」
アルフォンスが顔を上げて快活に笑いかける。セレスは彼らのからかい混じりの視線に対して特に表情を変えることもなく、すたすたと流れるような足取りで空いている席へと腰を下ろした。
「……何の話でしょうか。私の悪口であれば、後ほど書面にて箇条書きで提出していただきたいのですが」
「君の話だよ、セレス。別に悪口なんて言っていないさ」
「そうですか」
相変わらず、興味があるのかないのか全く分からない、素っ気ない返事だった。だが、アルフォンスはどうしても気になっていた「本題」を切り出すべく、少しだけ身を乗り出して、その青い瞳に真剣な光を宿した。
「ところで――」
アルフォンスのその一言によって、テーブルを包んでいた穏やかな昼休みの空気が、わずかに緊張を孕んだものへと変化した。隣のレオンハルトも、楽しげにパンを齧っていたカイルも、一斉に興味深そうな眼差しをセレスへと向ける。
「君がこの二週間、命がけで続けていたという、あのマリア・エヴァンス嬢の『調査』の件だが……。一体、結果はどうだったんだい?」
セレスは、アルフォンスからの真っ直ぐな問いかけを受け、眼鏡のブリッジを中指で静かに押し上げながら、ほんの少しだけ自らの脳内の記録を整理するように沈黙した。ダンジョン実習の最中における、彼女の戦闘時の立ち回り。過酷な環境下での休憩時のふとした素顔。学園における日常生活。講義中の態度、そして周囲の生徒たちとの交友関係――。彼は一人の冷酷な魔術師として、可能な限りあらゆる角度から彼女という人間を確認し、冷徹にサンプリングし続けてきた。
そして。セレスは静かにその蒼い瞳を上げ、はっきりとした声音で告げた。
「――結論から申し上げます。マリア・エヴァンス嬢について、何一つ『問題ありませんでした』」
それは、驚くほど迷いのない、完璧な断定の言葉だった。あまりの返答の潔さに、アルフォンスは思わずパチパチと目を瞬かせた。
「そこまで……君がはっきりと断言するのか?」
「はい」
セレスは小さく、けれど力強く頷く。
「私は彼女を、文字通り至近距離で観察し続けました。不自然な魔力の乱れも、他者を害そうとする歪んだ打算の術式も、そこには一切存在しませんでした。彼女は非常に真面目で、誰よりも努力家で、礼儀正しい。そして何より……」
セレスはそこで一度言葉を区切り、窓の外に広がる初夏の青空を見つめながら、穏やかな声音で結論を述べた。
「窮地にある仲間を決して見捨てず、常に他者への純粋な思いやりを持つ、本物の善良な人物です。……マリア・エヴァンス嬢に対する私の個人的な不信感は、これをもって完全に払拭されました。『調査は終了』です」
その言葉は、彼なりの最大の賛辞であり、彼女を完全に自分たちの味方として認めたという証明に他ならなかった。アルフォンスは少し驚きながらも、深い安堵の笑みを漏らした。セレスという男は、誰よりも慎まし固く、疑い深い男だ。数字と証拠がない限り、決して軽はずみな断定を好まない。そんな彼が、ここまで一人の人間を全面的に信用し、言い切るのは極めて珍しいことだったからだ。
「なるほどね。君がそこまで太鼓判を押すというのなら、彼女は本当に信用できる、素晴らしい女性なんだろうな」
レオンハルトが、張り詰めていた空気を解くように安心したように微笑んだ。
「ええ。セレス殿の厳しい審美眼をクリアしたとなれば、本当に心根の良い方なのでしょうね。いやぁ、疑って悪かったなぁ」
カイルもまた、大げさに肩をすくめて頷く。セレスはそれらの言葉に対し、否定も反論もしなかった。かつて彼が彼女に対して抱いていた、あの正体不明の「説明できない不気味な引っ掛かり」や違和感は、この二週間の彼女のあまりにも完璧で健気な姿を見るうちに、綺麗さっぱりと消失していた。マリアを観察すればするほど、彼女の行動のすべては純粋な善意と努力で満たされていた。だからこそ、今のセレスは自らの敗北を認め、素直に彼女を「白」であると結論づけているのだ。
まさに、その平和な空気の真っ只中であった。
「――おーーい! お前ら、揃って何の話をしてるんだよ!」
食堂の入り口の方から、鼓膜を震わせるような、いつもの元気いっぱいで快活な大声が響き渡った。振り返ると、そこには大剣を背中に背負い、訓練を終えたばかりの様子でこちらへと大股で歩いてくるガイアス・フォン・ヴァルクの姿があった。その顔には、いつも通りの豪快な笑顔が浮かんでいる。ただ――。以前の彼と比べると、その佇まいには明らかな変化が生じていた。
いつもどこか張り詰めていた武人としての鋭い表情が、ここ最近は妙に柔らかく、精神的な余裕を感じさせる。何より、歩いてくるその姿全体から、どこか楽しそうな、ウキウキとしたオーラが隠しきれずに滲み出ているのだ。その決定的な変化に、観察眼の塊であるレオンハルトが真っ先に気付いた。
「おや、ガイアス。なんだか最近、ずいぶんと楽しそうじゃないか」
レオンハルトがニヤニヤとした笑みを浮かべて突っ込んだ瞬間、ガイアスの大きな身体が、まるで見えない壁に衝突したかのようにピキリと不自然に固まった。
「え? ……あ、いや、そうか? 普通だろ、普通!」
「いやいや、どう見ても普通じゃないとも」
レオンハルトはますます面白そうに、片手を頬に当てて笑う。
「以前の君よりも、明らかに朝から晩まで機嫌が良い。何かプライベートで、良いことでもあったのかい?」
「き、気のせいだろ! 俺はいつでも元気いっぱいの直情型だ!」
「ははは、そうかなぁ?」
ついに、アルフォンスまでが楽しそうに肩を震わせて笑い始めた。
「確かに、僕から見ても最近の君は、講義中も中庭を歩いている時も、ふとした瞬間にずいぶんとよく笑っている気がするよ」
「げ、殿下まで一緒になってからかうの、やめてくださいよ!?」
ガイアスは耳まで真っ赤にしながら、慌てて大きな両手をブンブンと振って否定する。そこへ、カイルが待ってましたと言わんばかりの凶悪な笑顔で追撃を仕掛けた。
「なるほど、なるほど……」
カイルはわざとらしく何度も深く頷いてみせる。
「これがいわゆる、世間一般で噂される『青春』というやつなのでしょうかねぇ。あぁ、甘酸っぱくて実に羨ましい限りです!」
「違うッ!!」
即座に、食堂の天井が落ちんばかりの全力の否定が飛んできた。だが、その叫び声を上げたガイアスの顔は、すでに沸騰したヤカンのように真っ赤に染まり上がっている。その状態の彼がどれほど大声を上げて否定したところで、周囲に対する説得力はただの一ミリも存在しなかった。
「違うって……一体、何が違うのですかねぇ?」
カイルがさらにニヤニヤと笑いながら顔を近づける。
「そ、それは……! その、つまり、だな……ッ!」
ガイアスは大きな口をパクパクと金魚のように開閉させ、完全に言葉に詰まってしまった。そのあまりにも不器用で分かりやすすぎる純情な反応に、ついに耐えきれなくなったアルフォンスを筆頭に、全員がドッと盛大に吹き出したのだった。
◇
ひとしきりガイアスをからかって大笑いした後のテーブルでは、会話の流れは自然と、その原因であるマリア・エヴァンスの話題へと移り変わっていった。そして――ガイアス自身は、全くと言っていいほど無自覚であった。自分が今、友人たちの前で、どれほど熱烈にマリアの事ばかりを喋り続けているかということに。
「いや、本当にさ! エヴァンス嬢はさ、見かけによらずもの凄まじい努力家なんだよ!」
「へえ、そうなんだ」
カイルが適当に相槌を打つ。
「ああ! 毎日のすべての授業が終わった後だって、平民の特待生だからって周囲に負けないように、一人で図書館の隅で必死に勉強してるしな!」
「ふむふむ」
レオンハルトが紅茶を啜りながら頷く。
「それに、例の治癒魔術なんて特にすごいんだぞ! 俺のこの頑丈な身体の傷を、一瞬で跡形もなく綺麗さっぱり治しちまうんだ。あれは本物の天才だ!」
「なるほどねぇ」
アルフォンスが微笑む。
「あと……とにかく、めちゃくちゃ優しいんだよ」
「ほう」
セレスが静かに眼鏡の奥の目を動かす。
「中庭とか廊下でさ、困ってる下級生や、魔力のコントロールが上手くいかなくて泣いてる平民の奴とかを見ると、自分のことを後回しにしてでも放っておけない性分らしくてさ。本当に、あいつは……」
気付けば。ガイアスが席に着いてから、すでに十分以上の時間が経過していた。そしてその十分間、彼の口から飛び出してきた言葉は、文字通り「エヴァンス嬢が」「マリアが」という、彼女に関する全肯定の絶賛と惚気話しか存在していなかったのだ。
最初に、その空間の甘酸っぱさに耐えきれなくなったのは、やはりアルフォンスだった。彼は口元を片手で必死に押さえ、ククク、と肩を激しく震わせている。レオンハルトもまた、普段の優雅なポーカーフェイスをどこかへ置き忘れたように、全力で笑いを堪えて顔を背けていた。カイルにいたっては、もはや隠す気すらなく、お腹を抱えて完全に面白がっている。あの冷徹極まりないはずのセレスでさえ、呆れたように、けれどどこか温かいものでも見るかのように、ほんの少しだけその綺麗な口元を緩めていた。
「な、何だよ、お前らさっきから……! 人が真面目に喋ってるのに、なんでそんなニヤニヤしてんだよ!」
ガイアスがようやく周囲の異常な空気に気付き、戸惑ったように眉をひそめる。アルフォンスは溢れ出そうになる笑いを必死に堪え、涙目のまま、優しく諭すように言った。
「いや……本当にすまない、ガイアス。ただね……」
「あ?」
「君――本当にさっきから、マリアの話しかしていないなと思ってね」
一瞬の、静寂。そして。
「……あ」
数秒のタイムラグを経て、ようやく、ようやく本人も自らの犯した暴挙(無自覚な熱弁)の内容を正確に理解した。直後、ガイアスの顔面は、髪の毛の赤銅色をも軽く超越するほどの凄まじいトマト色へと一瞬で変貌を遂げた。
「う、うわあああーーーッ! 違う、これはただ、あいつの優秀さをだな……!」「はいはい、ごちそうさまでした!」
テーブルの上は、今度こそ完全に、これまでで最も大きな笑いの渦に包まれたのだった。