かつては「男子会」と半ば揶揄を込めて呼ばれていた昼食の席に、特待生の少女マリア・エヴァンスが加わるようになってから、早いもので数日の月日が流れていた。最初こそ、高貴な身分の美少年たちが作り出す独特の洗練された空気に対し、平民出身の彼女はどこか遠慮がちに、借りてきた猫のように身を置いていた。しかし、持ち前の聡明さと人当たりの良さ、そして何より徹底された「聞き上手」のスキルによって、今では驚くほど自然に彼らの輪へと溶け込み、楽しげに会話のキャッチボールを交わすようになっている。ガイアスが「今日の朝練でさ!」と訓練場で起きた出来事を、身振り手振りを交えて豪快に語れば、マリアは大きな翠色の瞳を輝かせて楽しそうに相槌を打つ。銀髪の天才魔術師セレスが、他者を置き去りにするような難解な魔術理論の最先端について語り始めれば、分からないなりに真剣な面持ちで耳を傾け、適切なタイミングで感嘆の声を漏らす。そして、カイルがふと漏らす商業都市の景気や流通の話題に対しても、決して退屈そうな顔をせず、素直に深い興味を示してみせるのだ。その日の学園食堂でも、マリアは本来なら同じ境遇であるはずのクラウディアたちの元ではなく、当然のようにアルフォンスたちの座る特等席に腰を下ろしていた。周囲の上流貴族の生徒たちからは、平民の身でありながら王国の中心人物たちを独占する彼女に対し、嫉妬や羨望が混ざり合った奇異の目が向けられることも少なくない。だが、この国の第一王子であるアルフォンス自身が、彼女の存在をあまりにも自然に、かつ好意的に受け入れている以上、表立って露骨に不満や嫌がらせを口にする愚か者は存在しなかった。
「――カイル、どうかしたかい? 何か困っていることでもあるのかな」
レオンハルトのふとした問いかけに、それまでスープを口に運んでいたアルフォンスも、ふと視線を上げた。言われたカイルは食事の手を止め、フォークを皿の端に置いたまま、少しだけ考え込むように黙り込んでいた。普段の彼は、どんな突発的な話題に対しても一歩先を読み、狐のような薄笑いを浮かべて優雅な余裕を崩さない男だ。特に、彼自身の専門分野である「数字」や「利益」に関わる話であればなおのこと、冷徹なまでの冴えを見せる。そんなカイルが、今日は珍しく、その綺麗な眉間の間に浅い皺を寄せていたのだ。
「……おや。そんなに分かりやすく顔に出ていましたか」
「少しね」
レオンハルトが、すべてを見透かすような薄紫の瞳を穏やかに細めて笑うと、カイルは降参だと言わんばかりに、小さく肩をすくめて息を吐き出した。
「実は……父からテスト代わりに任されている、例の『店』のことでしてね」
「店?」
ガイアスが、口いっぱいに肉料理を頬張ったまま、不思議そうに首を傾げる。
「ええ。この王都学園から少し離れた通りに、我がグランツ商会が出している小さな茶葉と焼菓子の専門店があるんです。将来の跡取り修行の一環として、仕入れから売上管理、人員の配置に至るまで、丸ごと一店舗だけ経営を任されているんですよ」
アルフォンスは少し驚いたように目を丸くした。カイルが実家の商会の手伝いをしており、学生ながらに商売のイロハを学んでいることは知っていたが、まさか完全に一店舗の責任者として、すべての裁量を一任されているとは思っていなかったからだ。
「それは……学生の身でありながら、なかなか大変な大役だな。それで、経営の状況はあまり良くないのか?」
「いえ、決して赤字ではありません」
カイルは即座に首を振った。
「毎月の仕入れ量も適正で、不良在庫もほぼ皆無。商品の価格設定にも大きな問題はありません。純利益率を見ても、父が事前に提示してきた『最低合格ライン』の数字は、毎月きっちりとクリアし続けています」
そこまで完璧に整っているのなら、むしろ学生の初陣としては見事というほかない実績だと、アルフォンスは素直に感心する。しかしカイルは、どこか納得のいかない、釈然としない表情を崩そうとはしなかった。
「ですが……先日、父にその帳簿を提出した際、こう言われましてね。――『損を出さずに既存の店を回すだけなら、並の雇われ店長でもできる。商人としてその先を目指すのであれば、次は自分自身の力で客を増やし、新たな顧客を育ててみせろ』と」
「うわぁ……厳しい父上だな。合格点を取ってるのにさ」
ガイアスが同情を寄せるが、カイルは自嘲気味に苦笑した。
「いえ、正しい父上ですよ。商売において『現状維持』の安定というのは、一見守りとして正しく見えて、その実、緩やかな衰退の始まりでしかありませんから。商売をさらに大きく成長させるためには、常に攻めの姿勢で、新しいパイを開拓し続けなければならないのです。……分かってはいるのですが、現状の完璧な最適化から、どうやって『プラスアルファ』の客を呼び込むか、その具体的な突破口が見えずに行き詰まっていましてね」
カイルがそう言って、手元の紅茶に視線を落とした瞬間――。隣で静かに話を聞いていたマリアの、眩しい翠色の瞳が、衣服の裏側でわずかにピクリと揺れ動いた。
(――キタ……ッ!! これ、カイルルートの序盤の超重要固有イベントじゃない……!!)
マリアの脳内に、前世の記憶――乙女ゲーム『黄昏のベルガルド』の膨大な知識が、鮮烈な濁流となって蘇る。ゲームの原作では、カイルが商売の壁にぶつかって困っているという噂を耳にした主人公が、放課後に彼の経営する店を自ら訪れる。そして、数字ばかりに囚われている彼の視野を広げ、現場の「常連客」の心理に目を向けるよう健気な助言を与えるのだ。それをきっかけに、カイルは主人公をただの平民と見下すのをやめ、自分の人生における「有能なビジネスパートナー」として初めて認める、極めて重要な好感度フラグイベントであった。マリア自身、現実の本格的な商売や経済学に詳しいわけではない。――ただ、彼女は「答え」を知っている。この場面において、カイルという合理的で疑い深い男の心を最も効率的に射抜くべき最適なセリフと、それが彼の元へどう届くかを、ゲームの画面越しに何度も検証してきたのだから。
「……あの、カイル様」
マリアは、あくまで出しゃばりすぎないよう、いつもの慎ましやかで控えめな態度を装いながら、そっと細い口を開いた。
「差し支えなければ……一度、そのカイル様が管理されているお店を、私に見せていただいてもよろしいでしょうか?」
カイルが、想定外の人物からの提案に、意外そうにその翡翠色の目を瞬かせた。
「僕の管理している店を、ですか? エヴァンス嬢が?」
「はい。私は平民の生まれですし、商売の難しい仕組みや数字のことは、何一つ詳しくありません。けれど……だからこそ、純粋な『一人の買い手(お客様)』の立場としてお店を見せていただければ、何か小さなお手伝いや、新しい気付きを見つけることができるかもしれません」
どこまでも謙虚で、自らを一歩引いた場所に置いた言い方だった。けれど、カイルはその提案をすぐに否定したり、鼻で笑ったりはしなかった。彼のような本物の商人にとって、「客のリアルな目線(ニーズ)」というのは、帳簿に並ぶ冷たい数字と同じくらい、あるいはそれ以上に重要で価値のある情報源であることを、誰よりも理解しているからだ。
「……分かりました。本日の放課後でよければ、喜んでご案内しましょう」
カイルのその言葉に、マリアはホッとしたように柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます、カイル様」
それを見ていたガイアスは、「へへ、なんか面白そうなことが始まりそうだな!」と自分のことのように嬉しそうに笑い、セレスは眼鏡の奥の瞳で黙って二人のやり取りを見つめていた。レオンハルトは興味深そうに手元の紅茶へと優雅に口をつけ、アルフォンスもまた、あのカイルが一体どのような素晴らしい店を運営しているのか、一人の友人として少しばかり興味を惹かれていたのだった。
そして、放課後。マリアはカイルと肩を並べて、夕暮れの心地よい風が吹く学園の正門を後にした。カイルの店は、学園から少し離れた、けれど学生や教師たちが帰路の途中でよく行き交う、人通りの多い大通りから一本入った場所にあった。決して派手で大きな店構えではない。淡い上質な木目の看板に、最高級の茶葉と焼菓子を扱っていることが一目で分かる、簡素ながらも洗練された商会の紋章が美しく彫り込まれた、小ぢんまりとした隠れ家のような佇まいの店舗だった。
カイルが真鍮のドアノブを回して扉を開けると、チリンと涼やかな鈴の音と共に、店内から香ばしく焼き上げられたクッキーの甘い香りと、丁寧に乾燥された上質な茶葉の芳醇な匂いが、心地よく混ざり合って鼻腔をくすぐった。