店内は見事なまでに整然としていた。棚に並ぶ無数の茶葉は、その産地や香りの系統、価格帯ごとに分かりやすく分類され、焼菓子も日持ちのするクッキー類と、その日のうちに食べるべき焼き立てのケーキ類とで厳格に区別されている。それぞれの手作りの値札も非常に見やすく、初めてこの店を訪れた一見の客であっても、決して迷うことがないように丁寧な説明書きが添えられていた。店内には、キビキビと動く若い男性の店員が一人と、商品の補充を行う実直そうな年配の女性店員が一人。二人はカイルが姿を現したことに気付くと、すぐさま作業の手を止めて、深く一礼した。
「カイル様、おかえりなさいませ」
「ただいま。今日は学園の友人を連れての視察だ。僕のことは気にせず、普段通りの営業を続けていてくれ」
カイルの声は穏やかだったが、その指示は極めて明確で無駄がなかった。店員たちはプロフェッショナルらしくすぐに深く頷くと、それぞれの持ち場へと戻り、客への自然な対応を再開した。マリアは、その隙のない美しい店内の様子を、ゆっくりと時間をかけて見回した。
「……素晴らしいですね。本当に、隅々までよくできた、素敵なお店です」
それは、マリアの口から出た嘘偽りのない本音であった。商品は信じられないほど見やすく、店内は埃一つなく清潔で、店員たちの動きにも一切の無駄がない。ただ安い品物を前に押し出して客を引くような下品な真似はせず、客の用途ごとに選びやすいような美しいディスプレイが徹底されている。店に一歩足を踏み入れただけで、「誰かの家への手土産に、あの綺麗な焼き菓子を選ぼうか」「少し贅沢な放課後のひと時を過ごすために、あの茶葉を買おうか」という幸福な場面が、自然と脳内に想像できた。
「お褒めいただき、ありがとうございます」
カイルはほんの少しだけ誇らしそうに唇の端を吊り上げたが、すぐにその翡翠色の瞳に、商人のシビアな陰りを宿した。
「ですが……まさにその『完璧に行き届いた状態』のままで、売上の数字が完全に伸び悩んでいるのです。これ以上の無駄は減らせない。仕入れの効率も極限まで調整してある。……でも、それだけでは新しい客は増えないのですよ」
店の奥のカウンターに置かれた、重厚な革張りの帳簿。そこには、日ごとの売上の推移や、商品ごとの細かな動きが、カイルの几帳面な文字で一分の隙もなく正確に記録されていた。そこには一切の曖昧さやどんぶり勘定は存在しない。カイルがこの店を、数字の魔術によって完璧に把握していることが、マリアにもはっきりと伝わってきた。しばらくして、カランカランとドアの鈴が鳴り、一人の年配の男性客が入ってきた。その身なりからして、学園の古参の教師らしい。男性は店内に入ると、特に迷うような素振りも見せず、特定の棚の前へとまっすぐ歩いていった。彼はいつも自らが好んで購入している、お気に入りの「香茶」を探しているようだった。しかし不運なことに、その日のその棚のスペースは、すでに売り切れて空っぽになっていた。
「おや……。ああ、今日はもう売り切れか」
老教師は非常に残念そうにぽつりと呟き、代わりの茶葉をいくつか手に取って眺めてみた。だが、少しの間迷った末に、やはりいつものお気に入りでなければ満足できないと思ったのか、結局何も購入することなく、寂しそうに店を出ていってしまった。それから間もなく、今度は上品な私服を身にまとった貴族の令嬢が来店した。彼女もまた、先ほどの老教師と全く同じ棚の前に立ち、自らの目当てだったお気に入りの茶葉が売り切れていることに気付くと、困ったように細い眉を下げ、そのまま店を後にした。さらにその後には、学園の制服を着た男子学生が、小腹を満たすための焼菓子を選びに来た。彼はいつも決まった数だけ同じ菓子をまとめ買いしているようだったが、店頭の残りの個数が自らの希望する数に足りないと分かると、少しだけ不満そうな顔をして、渋々と別の安価な商品を選んで会計を済ませていた。マリアは、カウンターの端からその一連の光景を、静かに、けれど全てを冷徹に記録するように見つめていた。
「――カイル様」
「何でしょう、エヴァンス嬢」
マリアの呼びかけに、カイルが帳簿から顔を上げる。
「あの……大変不躾な質問なのですが、このお店では、そういった『常連のお客様』が、一体何を、いつ頃の頻度で購入されているかという、個人ごとの細かな記録は取っていらっしゃいますか?」
その問いかけが放たれた瞬間、カイルの翡翠色の視線が、わずかに鋭い光を帯びて細められた。
「……商品ごとの総売上と、曜日や時間帯ごとの大まかな購入数のデータは、当然すべて記録していますよ。ただ、個人ごとの購買傾向……つまり『誰が何を買ったか』という個別のプライベートなデータまでは、流石に取っていませんね。それが何か?」
そこまで答えて、カイルはふと自らの言葉を止め、何かに気付いたようにハッと息を呑んだ。マリアが今、何を言おうとしているのか。その優れた商人の脳細胞が、彼女の言葉の意図を半ば強制的に察したのだ。
「もしよろしければ……その常連のお客様たちのための『いつもの一杯(取り置き)』を、あらかじめお店側で用意しておくのはいかがでしょうか」
マリアは、原作ゲームで主人公がカイルに授けた伝説の助言の言葉を、脳内で慎重に反芻しながら、一言一言を丁寧に紡ぎ出した。
「毎週同じ曜日の同じ時間帯に来られるお客様や、常に同じ特定の品物だけを選ばれるお客様がいらっしゃるのであれば……その方が来店されるであろう時間に合わせて、あらかじめその商品の在庫を、ほんの少量だけ裏に取り置いておくのです。そして、そのお客様が来店された瞬間に、店員が笑顔でこうお伝えするんですよ。――『本日も、お客様のための“いつものお品”を、あらかじめご用意して綺麗に取っておきましたよ』と」
「……取り置き、ですか。個人の客に対して?」
「はい。ただの機械的な売り買いの場所ではなく、『自分の顔や好みを特別に覚えていて、大切にしてくれるお店』なのだと知れば、お客様は間違いなくそのお店のファンになり、また何度でも足を運びたいと思ってくださるはずです。顧客としての帰属意識を育てるのですわ」
カイルは、完全に言葉を失ったように黙り込んでしまった。マリアは、彼に考える隙を十分に与えながら、さらに言葉を重ねていく。
「それに、いつも求めているお気に入りの品が必ず手に入るという絶対的な『安心感』があれば、お客様の心には心理的な余裕が生まれます。そうなれば、『いつものお茶に合う、新しい季節の焼菓子も一つ試してみようかしら』と、他の商品にも自然と手を伸ばしていただきやすくなると思うのです。お店側からの無理な押し売りではなく……ほんの少しだけ、その方の好みに合わせた新しい選択肢を提案してあげるくらいの間隔で」
店内に、しばしの重苦しい静作が落ちた。カイルはしばらくの間、売り切れて空っぽになった棚をじっと見つめ、それから手元の帳簿の数字へと、狂ったように視線を往復させた。
商品単位での個別の利益。在庫の回転率の推移。売れ残った場合の廃棄リスク。特定の客のために取り置くことによる、他の一見客への機会損失の可能性。そして、個人ごとの顧客データを細かく記録するための、現場の店員たちの追加の手間とコスト――。おそらく、今彼の頭の中にある「数字の迷宮」では、何百、何千という緻密な計算式が一瞬にして組み替えられ、凄まじい速度で稼働しているのだろう。
「――なるほど」
やがて、カイルは静かに、けれどどこか震えるような声音で呟いた。
「商品を起点としたマクロな視点ではなく、顧客の行動を起点としたミクロな視点で需要を予測する。個々の客にとっての『この店でなければならない理由』を確実に確保し、店を利用するという行為そのものを生活の一部として習慣化させる……。大商会の大規模な店舗では手間がかかりすぎて不可能な、この小さな規模の専門店だからこそ絶大な効果を発揮する、極めてニッチで強力なリピート戦略ですね」
マリアは、自らの狙い通りに彼が覚醒したのを確認し、深く頷いてみせた。
「はい。素人の私ですが、一人の買い手としては、そうしていただけたらとても嬉しいな、と思いました」
「……極めて合理的です」
カイルの翡翠色の瞳に、これまでにない、本物の「怪物商人」としてのギラついた鋭い光が宿った。
「ただし、これをいきなり全商品、全顧客に対して全面導入するのはリスクが高すぎます。取り置きの商品が万が一売れ残れば、それらはすべて純損失に繋がりますからね。……まずは、先ほどのように購買傾向が完全に安定していることが目視で確認できた、極めて優良な常連客数名だけを厳選し、向こう二週間ほどの間、現場で試験的に運用してみることにしましょう」
マリアちゃんは乙女ゲームをやりこんだ一般人のため台本を読み上げてるだけです。