晴れ渡る空の下、学園の屋外訓練場には、勢いよく打ち合わされる木剣と鉄の打撃音が響き渡っていた。
周囲を囲む生徒たちの熱い視線と歓声を集めているのは、剣術において学年屈指の実力を誇るガイアス・フォン・バーンハートと、この国の王太子であるアルフォンス・フォン・ベルガルドだ。二人とも優れた剣術を身につけており、互いの間合いと力量を知り尽くしているからこそ成立する、極めて密度の高い攻防が繰り広げられていた。
見学者の中には、ガイアスに誘われてやってきた特待生のマリアの姿もあった。彼女の隣には、物静かな眼差しで二人を見つめるセレスが並んでいる。少し離れた場所には、興味深そうに腕を組むカイルや、どこか余裕めいた笑みを浮かべたレオンハルトの姿も混じっていた。ここ最近、マリアはガイアスたち攻略対象グループと急速に距離を縮めており、学園内での彼女の立ち位置も随分と自然なものになりつつあった。
「いい踏み込みだな、ガイアス!」
「殿下こそ、王太子としての執務をこなしながら、これだけの刃を受け止めるとは流石です!」
ガイアスが躍動感あふれる動きで間合いを詰め、アルフォンスがそれを的確に受ける。
互いの信頼があるからこそ、二人の攻防は熱を帯びていく。誰もがその見応えのある模擬戦に見惚れていた。ガイアスは親友であり主君でもあるアルフォンスを深く信頼しているからこそ、さらに一歩踏み込んだ連撃を繰り出す。アルフォンスもまた、不敵な笑みを浮かべてそれを受け止めようとした。
しかし、惨劇は予期せぬ一瞬の重なりによって引き起こされた。
前日の雨でわずかに湿り気の残る足場のぬかるみ。激しい運動によってガイアスの手に滲んだ汗。そしてアルフォンス側が発動させようとした訓練用の防御魔術の、ほんのコンマ数秒の遅れ。
それらの不運が重なり合った瞬間、ガイアスが放った鋭い一閃が、防御の隙間をすり抜けてアルフォンスの側面を深く切り裂いた。
肉を断つ嫌な感触とともに、鮮血が舞う。
訓練場の歓声が一瞬にして凍りつき、悲鳴へと変わった。
アルフォンスが地面に膝をつき、そのまま崩れ落ちる。制服の隙間から大量の血が溢れ出し、赤く染まっていく。
「殿下……!?」
木剣を落としたガイアスの顔から、一瞬で血の気が引いた。顔面蒼白となり、ただただ自分の手と、血を流して倒れるアルフォンスを見つめる。
命に関わる部位は外れたものの、それは訓練場で流れる量としてはあまりに多すぎる血だった。
現場に控えていた指導教官と治癒担当の講師が即座に駆け寄る。
ガイアスは足をもつれさせながらアルフォンスの傍らに跪いた。自分がやってしまった。親友であり、この国の王太子であるアルフォンスを、自分の手で傷つけてしまった。
「す、すまない……殿下、俺は、俺は……っ」
謝罪の言葉を口にしようとしても、喉が絞めつけられたように声がかすれ、まともな言葉にならない。
胸を刺すような痛みに耐えながら、アルフォンスは荒い呼吸の合間に、なんとか視線を上げてガイアスを見つめた。
「……気に、するな、ガイアス。これは事故だ……お前の、せいではない……」
苦しげに絞り出されたその気遣いの言葉は、しかし、ガイアスを救うどころか、より一層強い罪悪感となって彼の胸を抉った。
駆けつけた治癒魔術師が即座に手当を始め、傷口に魔術の光を当てる。
「命に別状はありません! 幸いにも主要な血管や神経は免れています。後遺症も残らず、日常生活や剣を握ることに支障も出ないでしょう」
教師の言葉に、周囲の生徒たちは安堵の息を漏らした。
だが、治癒魔術師は苦々しい表情を浮かべたまま、静かに言葉を続けた。
「ですが……これほど深く切り裂かれた傷となると、通常の治癒魔術では塞ぐのが精一杯です。恐らく、生涯消えることのない大きな傷跡が残るでしょう」
その瞬間、アルフォンスの身体がびくりと跳ね上がった。
周囲は、彼が王族としての容姿に傷がつくことや、自分自身の身体の損壊に動揺したのだと思った。
しかし、違った。
アルフォンスの脳裏を支配したのは、自分自身の傷の痛みではなく、幼い頃の悪夢のような記憶だった。
——幼少期、自らの魔術の暴走によって、実の妹であるエリシアの顔に深く残してしまった傷。
王族としての誇りも、兄としての立場も失いかけたあの瞬間。隠された傷跡と、それを盾にして自分を言葉で縛り続けてきた双子。
五年間の恐怖と、逃れられない契約。
双子姫の、どこか冷たく美しく恐ろしい微笑みが、脳裏に鮮烈に蘇る。
傷跡が、残る。
アルフォンスの顔から血の気が完全に引いていく。傷の痛みなどどうでもよかった。
彼を恐怖させ、内面から打ち砕こうとしているのは、自分自身に傷が残ることではなく、あの日のエリシアの顔に刻まれた、消えることのない罪の記憶そのものだった。
全身を襲う激しい震え。アルフォンスは青ざめた唇を震わせ、浅い息を繰り返す。
「傷跡が……残る……」
その呟きは、絶望に満ちていた。
ガイアスはその姿を見て、自分の過ちが王太子の心まで深く打ち砕いてしまったのだと誤解し、唇を血が出るほど噛み締めた。
少し離れた場所で状況を見守っていたセレスは、アルフォンスの見せた過剰なまでの拒絶反応に、僅かな違和感を覚える。それは単なる痛みの恐怖や容姿へのこだわりではない、もっと根深いトラウマに突き動かされた反応に見えた。だが、その真の理由まではセレスにも分からなかった。
自分を責める焦燥と罪悪感の中で、ガイアスの頭に雷が落ちたような衝撃が走る。
以前、自身が怪我を負った際、マリアが施してくれた不思議な治癒魔術の光。
ただ痛みを和らげるだけの通常の治癒魔術とは違う、あたたかく包み込むような光。そして、何事もなかったかのように綺麗に消え去った傷痕。
ガイアスは弾かれたようにセレスを振り返った。
セレスもまた、ガイアスが何を言おうとしているのかを察し、一瞬だけ視線を鋭くした。マリアの持つ聖属性の治癒能力は、学園内でも公にされていない極めて秘匿性の高い力だ。安易に表沙汰にすれば、どのような厄介ごとに巻き込まれるか分からない。
だが、いま眼の前で倒れているのは、王太子アルフォンスであり、自分たちの親友だ。
葛藤を吹き飛ばすように、ガイアスはマリアの元へと駆け寄った。
「マリア! 頼む、アルフォンスを……殿下を助けてくれ!」
「えっ……? ガイアス様……?」
ガイアスはマリアの肩を掴み込み、なりふり構わず必死の表情で頭を下げた。
「俺のせいなんだ……! 頼む、お前のあの力で助けてやってくれ……!」
突然の申し出に、マリアは目を見開いた。
周囲には教師も多くの生徒もいる。ここで聖属性を使えば、自分の能力が完全に露見してしまう。
しかし、一瞬の思考の後に、マリアの中で計算と覚悟が組み上がった。これは王太子であるアルフォンスの攻略における、決定的かつ重要なイベントだ。彼を救うことができれば、好感度は跳ね上がり、自分を頼り切っているガイアスからの信頼も完璧なものになる。
マリアは覚悟を決めたように力強く頷いた。
「分かりました、ガイアス様。私に任せてください」
マリアは倒れ伏すアルフォンスの前に静かに膝をついた。
アルフォンスは荒い息をつきながら、朦朧とした意識の中で目の前に現れた少女を見つめている。
セレスがすばやく動き、動揺する周囲の生徒や教師たちの前に立ち塞がった。
「ここからは彼女の特殊な治癒術を行う。混乱を避けるため、一定の距離を保ってくれ」
セレスの威厳ある言葉に、教師たちも気圧されて引き下がる。
マリアは両手を重ね、アルフォンスの深く切り裂かれた傷口にかざした。
息を整え、魔術を練り上げる。すると、彼女の手元から柔らかで神秘的な、純白の光が溢れ出した。
周囲の空気が一変する。
ただの温かさではない、精神の奥底まで洗い流すような圧倒的な清涼感が訓練場を包み込んだ。通常の治癒魔術とは明らかに違う力。
光がアルフォンスの傷口を優しく包み込んでいく。
その瞬間、アルフォンスを苛んでいた痛みが急速に引いていった。それだけではない。引き裂かれた肉が驚くべき速度で復元し、真っ赤に染まっていた傷口がみるみるうちに塞がっていく。
そして——。
光が収まった時、そこには傷跡どころか、赤みすら一切残っていない、滑らかな皮膚だけが残されていた。
「そんな……跡形もなく……!?」
教師が絶句し、見守っていた生徒たちからどよめきが巻き起こる。完全に消えた傷。通常の治癒ではあり得ない奇跡だった。
アルフォンスは起き上がり、自分の脇腹に手を当てた。
破れた制服の隙間から見える皮膚を何度も撫でる。
痛くない。傷がない。そして、医師が残ると言ったはずの傷跡すら、影も形もない。
「私の……傷が……? 跡すら、残っていない……?」
アルフォンスは呆然と自らの手を見つめ、それから目の前で少し息を荒らせながら微笑むマリアを見つめた。
自分を救ってくれた少女。だが、今のアルフォンスの頭の中に浮かんだのは、ただの感謝だけではなかった。
彼女の力なら。
傷跡すら完全に消し去ってしまう、この奇跡のような力なら。
エリシアの傷も、消せるのではないか。
何年もの間、彼を苦しめ続けてきた黒い絶望の霧の中に、一筋の光が差し込んだ。
エリシアの傷が治れば。あの傷跡が消え去れば。自分はエリシアへの罪悪感から解放され、双子姫とのあの不条理で絶対的な契約からも逃れることができるかもしれない。
アルフォンスの中で、マリアという存在の意味が決定的に変わった。
彼女はただの愛らしい特待生ではない。自分を過去のトラウマと、双子という絶対的な支配者から解き放ってくれる可能性を秘めた存在となったのだ。
その横で、ガイアスが深く頭を下げた。
「……殿下。俺の軽率な一撃のせいだ。本当に、すまなかった」
ガイアスの声は激しく震えていた。怪我が治ったとはいえ、自分が主君に刃を向け、危険に晒した事実は変わらない。強い罪悪感が彼の肩を重く押し潰していた。
アルフォンスはハッとして意識を現実に戻すと、ガイアスの肩に優しく手を置いた。
「言ったはずだ、ガイアス。これは事故だ。お前が自分を責める必要はない。……こうして無事だったのだから」
「ですが……!」
なおも自分を許せないでいるガイアスに対し、マリアが柔らかい笑顔を向けながら優しく声をかけた。
「ガイアス様。殿下もおっしゃっているのですから、ご自分を責めすぎないでください。ガイアス様が無事で、殿下も元通りになられたことが一番なのですから」
「マリア……」
自分を責め立てる暗闇の中で投げかけられた温かい言葉に、ガイアスは救われたような表情を浮かべた。この場でマリアは、アルフォンスとガイアスの双方に、消えることのない強い印象を残すこととなった。
一方、その光景を少し離れた場所から静かに見つめていたセレスは、顎に手を当てて深く思考を巡らせていた。
通常の治癒では傷跡まで完全に消すことは難しい。それをマリアは容易くやってのけた。
セレスの中で、マリアの持つ聖属性への興味と信頼がさらに強まっていく。だが、その完璧すぎる力に秘められた副作用の存在にまで思い至る者は、まだ誰もいなかった。
その日の夜。
王太子の執務室で、アルフォンスは一人、自分の脇腹を見つめていた。
服をめくり、昼間切り裂かれたはずの皮膚を指先で撫でる。何度確かめても、傷跡はない。
マリアの放った温かな光。
エリシアの隠された傷。
前髪で顔を隠し、冷ややかな笑みを浮かべる双子の姿。
五年間にわたって自分を縛り続けてきた契約。
すべてが、頭の中で一つに繋がっていく。
「彼女なら……もしかすると……」
アルフォンスの胸の中で、初めてマリアに対する個人的な願いが芽生えていた。
それは救済への縋りであり、一人の少女への淡い恋心の始まりでもあった。そして何より、双子との契約という呪縛から逃れるための、唯一の希望だった。
ここから一話ずつ少し短め、展開早めで進めていきます。