秋の澄んだ風が学園の中庭を吹き抜ける頃、マリア・エヴァンスはそれとなく周囲の様子を窺いながら回廊を歩いていた。
視線の先には、少し離れた場所からこちらを気に掛けるように一瞬足を止め、また歩き出す高貴な青年の姿がある。この国の第一王子であり立太子を控えたアルフォンス・フォン・ベルガルドだ。
先日行われた模擬戦での痛ましい事故。そして、マリアが自らの内に秘められた聖属性の治癒魔術を用いて、彼の負傷を傷跡一つ残さずに癒やしたあの日から、アルフォンスが彼女に強い関心を寄せているのは明白だった。
学園の敷地内で、彼が幾度となく自分に声をかけようとしては躊躇していることに、マリアは気付いている。
(ふふ、ついに来たわね……! 王太子アルフォンスルートの大一番イベントのフラグ!)
マリアは胸の中で小さくガッツポーズを作った。
自らが異世界転生した乙女ゲーム『黄昏のベルガルド』において、アルフォンスはメイン攻略対象の一人であり、最も気高く、そして落とし甲斐のある高嶺の花だ。自分の特別な力で彼の危機を救い、そこから強い信頼と特別な好意を勝ち取るという展開は、まさに乙女ゲームの王道と言えた。
だが、相手は次期国王となる王太子だ。いかに学園内という身分差が緩やかな場であっても、子爵令嬢に過ぎないマリアと不用意に二人きりになることは、周囲の嫉妬や外聞を考慮すれば非常に不都合が多い。アルフォンスもそれを熟知しているからこそ、葛藤し、踏み出せずにいるのだろう。
それでも、彼にはどうしても人目を避けてマリアに相談したい「個人的な用件」があるようだった。彼が意を決したようにこちらへ足を進めてきたその時、背後から不意に掛けられた爽やかな声が、二人の間の緊張を解いた。
「アルフォンス。いくら学園内だからと言って、婚約者のいる君がエヴァンス嬢と二人きりになるのはいただけないな。立場というものがあるだろう?」
歩み寄ってきたのは、ローゼンベルク公爵家の嫡男であり、アルフォンスの側近でもあるレオンハルト・フォン・ローゼンベルクだった。
完璧に整った容姿に、柔らかく穏やかな笑みをたたえた彼は、実に自然な立ち振る舞いで二人の間に割って入る。
「レオンハルト……」
不意を突かれたアルフォンスが、困惑と僅かな焦りを表情に滲ませる。マリアもまた、あと一歩で王太子との二人きりのイベントが発生したはずの機会を邪魔され、内心で小さく落胆した。
しかし、レオンハルトは二人の反応を優しく包み込むように微笑みを深め、提案を続けた。
「困っているようだね。それならば、私が同席することにしよう。神に誓って、ここで交わされる会話の内容を他所に漏らすような真似はしないと約束するよ。これなら外聞も保てるし、君も安心して話ができるだろう?」
アルフォンスは一瞬、眉をひそめて迷う素振りを見せた。彼が抱えている相談は、王家の極めて深い禁忌に触れる内容だからだ。だが、レオンハルトはアルフォンスの婚約者であるクラウディアの兄であり、将来の国を支える側近として最も信頼の置ける人物でもある。第三者の立ち会いとして、これ以上の人物は存在しなかった。
「……分かった。お前が同席してくれるなら助かる」
アルフォンスは渋々といった様子で頷いた。レオンハルトは「では、静かな場所へ移動しようか」と促し、マリアに対しても紳士的に一礼してみせる。
表向きは至極正当な礼儀と外聞を守るための介入。その洗練された気品ある振る舞いに、マリアもそれ以上文句を差し挟むことはできなかった。
こうして移動したのは、生徒会室の奥にある、滅多に人が立ち入らない小さな談話室だった。
重厚な革張りのソファにアルフォンスとマリアが対面で座り、その少し離れた壁際にレオンハルトが静かに佇む。部屋の中に落ちる静寂の中、アルフォンスは手元のお茶に一度も口をつけず、固い表情で視線を落としていた。
やがて、覚悟を決めたようにゆっくりと顔を上げる。
「……マリア嬢。今日君を呼んだのは、他でもない。ある強い希望と、相談があってのことだ」
「はい、アルフォンス殿下。私にできることであれば、何なりと」
慎み深い笑みを浮かべるマリアに対し、アルフォンスは喉を鳴らし、重々しく言葉を紡ぎ出した。
「……俺には、二人の妹がいる」
その瞬間、マリアの思考がピタリと止まった。
(……え? 妹……二人の?)
マリアの脳内に、前世で幾度となくプレイし、隅々まで記憶した『黄昏のベルガルド』の知識が駆け巡る。
第一王子アルフォンス・フォン・ベルガルド。彼の家族構成は、厳格な父である国王と、心優しい王妃。そして異母弟にあたる第二王子……のはずだった。
妹? それも双子?
そんなキャラクターは、原作のどのルートにも、どんな裏設定の資料集にも存在しなかった。
急激に冷や汗が背中を伝うのを感じながら、マリアは努めて平然を装い、アルフォンスの次の言葉を待った。アルフォンスは彼女の動揺に気付く様子もなく、痛みに耐えるかのように伏し目になりながら説明を続ける。
「第一王女であるエリシアには……幼い頃の事故によって、顔に痛々しい傷跡が残ってしまっているのだ。王家の威信と彼女自身の平穏のため、その存在と傷の事実は公にされていない。普段は特殊な魔術具を用いて、その傷を人目から隠している状態だ」
アルフォンスの言葉は慎重だった。
自分が幼少期に魔術を暴走させ、実の妹の顔を傷つけてしまったという真実や、その罪悪感につけ込まれて双子と「契約」を結ばされ、五年間に及ぶ力と恐怖の中に置かれているという凄惨な内情までは明かさない。あくまで「痛ましい事故」として語っている。
だが、その声の震えや、握り締められた拳の強さから、彼がその妹の傷に対してどれほど苛烈な罪悪感と情念を抱いているかが、地の文の説明を介さずとも痛いほど伝わってきた。
「宮廷最高峰の治癒魔術師を集めても、一度定着してしまったその傷痕を消すことはできなかった。……だが、先日、君は俺の重傷を治療してくれた。痛みを取り去るだけでなく、残るはずだった傷痕までも、まるで最初から存在しなかったかのように消し去ってみせた」
アルフォンスが、縋るような強い眼差しでマリアを直視する。
「マリア嬢。君のあの神秘的な聖属性の力なら……エリシアの顔にある傷跡も、消すことができるのではないだろうか」
マリアの胸の中で、複雑な感情が渦巻いた。
原作に存在しない「双子姫」という歪み。ゲームの知識が通用しない未知のシナリオに対する本能的な恐怖と嫌悪感。
しかし、目の前で自分を必死に見つめるのは、あの誇り高き第一王子アルフォンスだ。彼がこれほどまでに感情を露わにし、誰かに縋る姿など、通常のルートではお目にかかれない。
(原作にない展開だけど……これは間違いなく、アルフォンスルートの隠された超重要イベント! ここで王家の秘密に関わり、妹の傷を治してみせれば、彼の信頼も好感度も完全に私のものになる……!)
マリアは内面の混乱を完璧に押し隠し、慈愛に満ちた表情を作って静かに微笑んだ。
「殿下の御心痛、お察しいたします。……実際に傷を拝見してみないことには、確実に治せると断言することはできません。ですが、殿下のときと同様の傷痕であれば、私の聖属性治癒によって消し去ることができる可能性は、非常に高いと考えられます」
その言葉を聞いた瞬間、アルフォンスの顔に劇的な変化が訪れた。
それまでの重苦しい絶望と焦燥が嘘のように吹き飛び、溢れんばかりの希望と安堵がその瞳に宿る。
「本当か……! ああ、感謝する、マリア嬢……!」
感極まったように身を乗り出すアルフォンス。その様子を、壁際に立つレオンハルトはただ静かに、一切の感情を読ませない穏やかな表情で見つめていた。
「では、近いうちに時間を作り、君を王城へ招待しよう。休校日を利用すれば、学園の目を盗むこともできる」
アルフォンスの提案に、マリアは一瞬だけ躊躇した。子身分の自分が、公にされていない王女の治療のために密かに王城へ赴くのは、あまりにも危険が大きい。
そこへ、今まで黙っていたレオンハルトが滑らかな足取りで歩み寄ってきた。
「ではアルフォンス、私と公爵家の馬車を同行者として使いなさい。我が家の付き添いという建前にすれば、エヴァンス嬢が王城に招かれても不自然ではない。彼女の礼儀作法や身元についても、ローゼンベルク公爵家が保証する形を取れば外聞も守れるだろう」
「レオンハルト……そこまで気を使ってくれるのか。かたじけない」
「気にする必要はないよ。王家の安寧と、エヴァンス嬢の安全のためだ。……エヴァンス嬢、王城での振る舞いや慣習に不安があれば、私がすべてサポートしよう。安心して私を頼ってほしい」
レオンハルトが優しく微笑みかけると、マリアは感動したように胸を打たれた。
「ありがとうございます、レオンハルト様! よろしくお願いいたします」
完璧なエスコート。王太子からの絶大な信頼と、公爵家令息からの全面的なバックアップ。マリアは自らが物語の特別な主人公であることを再確認し、胸を躍らせていた。
◆
数日後。学園の休日を利用し、マリアはレオンハルトの手配した絢爛豪華な馬車に乗り込み、王都の中心にそびえる王城へと向かっていた。
馬車が巨大な城門を潜り抜け、広大な敷地へと足を踏み入れるにつれ、マリアはその圧倒的な格式と威容に息を呑んだ。重厚な石造りの回廊、精巧な装飾が施された調度品、整然と並ぶ近衛兵たち。
(すごい……ここが王城……! まさに王太子ルートのクライマックスにふさわしい場所ね)
馬車を降り、アルフォンスの案内のもとで城の奥深くへと進んでいく。
だが、歩みを進めるにつれて、先導するアルフォンスの背中が目に見えて硬直していくことにマリアは気付いた。彼の口数は極端に減り、その顔色は蒼白と言っていいほど青ざめている。まるで、これから恐ろしい処刑場へ向かうかのような異様につめたい緊張感。
(アルフォンス殿下、よっぽど妹さんの傷のことを気に病んでいるのね……。大丈夫、私がちゃんと治してあげますからね)
マリアは彼の緊張をそう解釈し、優しく見守ることにした。まさかアルフォンスが恐れているのが「妹の傷」ではなく「妹そのもの」であるとは、夢にも思っていなかった。
やがて、人通りの途絶えた離宮の最深部にある、重厚な扉の前に到着した。
アルフォンスが意を決したように息を吐き、扉をノックする。
「エリシア、フィリア。入るぞ」
静かに扉が開かれ、部屋の中に足を踏み入れた瞬間、マリアは思わず息を忘れた。
陽光が差し込む優雅な室内の中央に、二人の少女が並んで立っていた。
一筋の濁りもない、神秘的なまでに透き通った銀白の髪。
深く澄み渡る、どこか浮世離れした青い瞳。
陶器のように滑らかな肌と、完璧な黄金比で構成された美しい顔立ち。
ひとりは落ち着いた気品を漂わせる第一王女エリシア・フォン・ベルガルド。もうひとりは、可憐で愛らしい微笑みをたたえる第二王女フィリア・フォン・ベルガルド。
二人は寸分の狂いもない洗練された動作でドレスの裾を持ち上げ、完璧なカーテシーを披露した。
「「お初にお目にかかります、マリア・エヴァンス様」」
鈴を転がすような、二重奏の美声。
まるで絵本の中から飛び出してきたかのような完璧な「お姫様」の姿に、マリアの心臓が強く跳ね上がった。
(な、なにこの美少女たち……!? 綺麗すぎる……!)
その圧倒的な美貌に見とれつつも、マリアの胸の奥底で、冷たい違和感が渦を巻いた。
こんなにも圧倒的な存在感を持つキャラクターが、なぜ原作のゲームに一回も登場しなかったのか。単なる背景やモブとしては絶対に処理できないほどの「主人公性」を秘めた存在。
本能的な警戒心が警鐘を鳴らす中、マリアは慌てて淑女の礼を返した。
「お、初めにお目にかかります、エリシア殿下、フィリア殿下。子爵令嬢のマリア・エヴァンスと申します」
挨拶が終わると、アルフォンスが緊張で掠れた声を絞り出した。
「二人に話したいことがある。……先日、俺が訓練中に負傷したことは知っているな? その際、ここにいるマリア嬢の……特殊な聖属性の治癒魔術によって、俺の傷は完全に塞がり、傷跡すら残らずに治癒したのだ」
アルフォンスは言葉を選びながら、慎重に説明を進める。彼の体はかすかに震えていた。
彼にとって、エリシアの傷は自らを縛りつける絶対的な鎖だ。双子がこの「救い」を簡単に受け入れるはずがない、何か恐ろしい拒絶や反撃が来るのではないか、と全身の生気を削るような思いで身構えていた。
「マリア嬢の力なら……エリシア、お前の顔の傷も、跡形もなく消し去ることができるかもしれない。だから、一度彼女に傷を見てもらえないだろうか」
静寂が部屋を支配した。
アルフォンスは固唾をのんで双子の反応を待つ。
しかし、返ってきた反応は、アルフォンスの予想を完全に裏切るものだった。
第一王女エリシアは、少しだけ驚いたように可憐な長いまつ毛を伏せ、それからふんわりとした、どこまでも優しく儚げな微笑みを浮かべた。
「まあ……お兄様のあのお怪我を、綺麗に治してくださったのですか。なんと素晴らしい力なのでしょう」
隣に立つ第二王女フィリアも、姉の袖をぎゅっと掴みながら、心底嬉しそうに目を輝かせる。
「ええ、エリシア! お兄様がそこまで仰るなんて、本当によかったわね。エリシアの痛々しいお傷が治るかもしれないなんて、私もとっても嬉しいわ!」
何一つ毒のない、心からの感謝と無邪気な喜び。完璧な「善良なるお姫様」としての振る舞い。
エリシアはマリアに向き直り、淑やかに頭を下げた。
「お兄様がそこまで仰るのでしたら……ぜひ、エヴァンス様にお願いしてもよろしいでしょうか?」
「——ッ!?」
アルフォンスの息が止まった。
脳裏が混乱で真っ白に染まる。
(なぜだ……? なぜ抵抗しない!? なぜそんなに簡単に受け入れる!? なぜ……なぜ笑っているんだ!?)
五年間、あの傷を盾にして自分を冷酷に支配し続けてきた双子が、何の抵抗もなく治療を了承した。そのあまりにもあっさりとした対応が、アルフォンスにとっては救いなどではなく、底知れない不気味な底なし沼のように思えた。
双子の真意が全く読めない。だが、目の前の二人はどこまでも愛らしく、兄を想う健気な妹として完璧に振る舞っている。
エリシアは静かな歩調でマリアへと近づき、小さく微笑んだ。
「では、エヴァンス様。私の傷を……見ていただいてもよろしいでしょうか」
マリアはゴクリと唾を呑み込み、力強く頷いた。
「はい、拝見いたします」
息を詰まらせるアルフォンス。隣で寄り添うフィリア。そして、すべてを黙認するように静観するレオンハルト。
部屋にいる全員の視線が集中する中、エリシアは白く細い指先を伸ばし、自らの顔の半分を覆い、長年傷跡を隠し続けてきた特殊な魔術具へと、そっと手をかけた。