部屋を包む張り詰めた空気の中、第一王女エリシア・フォン・ベルガルドの細い指先が、その首に巻かれていたチョーカー型の特殊な魔術具へと掛けられた。
静寂を破り、極小の魔力光とともにカチリと小さく硬質なかみ合わせが外れる音が響く。魔術具が滑り落ちるように取り外された瞬間、そこに現れたものに、室内にいた者たちは息を呑んだ。
可憐で完璧な姫君の右頬から顎にかけて刻まれていたのは、赤く引きつり、いびつに定着してしまった古い傷跡だった。
命に関わるような大きなものではない。だが、透き通るような白銀の髪と宝石のような美しい素肌を持つ王女の顔に残るものとしては、あまりにも痛々しく、惨烈な刻印だった。
「っ……」
側で静観していたレオンハルトの眉がかすかに歪み、マリア・エヴァンスは思わず口元を手で覆った。想像していた以上の、はっきりと主張する大きな傷。
そして何より、その傷跡を凝視したまま凍りついていたのは、第一王子アルフォンスだった。
幼い頃の己の魔術事故によって刻んでしまった、実の妹の顔の傷。
この五年もの間、自分を恐怖と罪悪感の底に突き落とし、自らを「悪魔の契約」という目に見えぬ鎖で縛りつけ続けてきた生々しい罪の証明。
アルフォンスの指先が白くなるほど硬く握り締められ、激しい罪の意識がその全身を震わせる。
そんな部屋の重苦しい沈黙を破ったのは、当事者であるはずのエリシアだった。
彼女は傷痕を隠そうともせず、ふんわりとした可憐な笑みをその唇に浮かべたまま、心底申し訳なさそうに小首をかしげた。
「驚かせてしまいましたでしょうか……?」
声には何一つ暗い影も、恨みの一片すら含まれていない。どこまでも健気で儚げな第一王女の演技。隣に立つ第二王女フィリアもまた、痛々しそうに姉の袖をぎゅっと掴み、潤んだ瞳でマリアを見上げる。
「マリア様……ご覧の通り、エリシアのお顔にはこんなに痛々しいお傷が残ってしまっているのです。どうか……どうか助けてあげてくださいな」
痛切な妹の願いと、気丈に微笑む姉。
完璧すぎるお姫様たちの姿にハッと我に返ったマリアは、慌てて首を振った。
「い、いえ……! 大丈夫です。いま、治療を始めますね」
マリアは深呼吸をし、エリシアの前に一歩踏み出した。
呼吸を整え、体内の魔力を研ぎ澄ませていく。彼女の手元から解き放たれたのは、先日の訓練場でも見せた純白の柔らかな光だ。聖属性の魔力が温かな波となって広がり、エリシアの右頬を包み込んでいく。
アルフォンスは息を殺し、祈るような眼差しでその光を見つめていた。
治癒魔術師たちの手を幾度尽くしても消えることのなかった、完全に定着した古い組織の歪み。だが、マリアの放つ聖属性の光は、まるで時の針を巻き戻すかのように、皮膚の底に固まった歪みをひとつひとつ優しく解き解していった。
(ふうん……これが『聖属性』)
光に包まれながら、エリシアは痛み一つ見せず、ただ静かにマリアの魔力の波長とその構造を観察していた。
肌の表面を撫でるような感覚とともに、魔力がどのように細胞へ干渉し、肉体を再構成していくのか。その未知の性質を冷静に解析していく。
隣でエリシアの手を固く握りしめているフィリアもまた、心配そうに胸元に手を当てたポーズを取りながら、その深青の瞳の奥で光の粒子をじっと見つめていた。
やがて、室内を照らしていた神秘的な光が、潮が引くようにゆっくりと消えていく。
そこにあったのは——。
一切の赤みも、歪みも、傷跡の残滓すら存在しない、白磁のように滑らかで美しいエリシアの頬だった。
「……消えた」
室内に落ちた沈黙を破ったのは、絞り出すようなアルフォンスの震える声だった。
信じられないものを見るように、絶句したまま立ち尽くしている。
フィリアがそっと手を伸ばし、姉の頬に触れた。滑らかな感触に、パッと花が咲いたような笑顔を浮かべる。
「すごいです、マリア様! エリシアのお傷が……本当に、跡形もなく消えていますわ!」
エリシアも用意されていた手鏡を手に取り、自分の頬をうっとりと見つめると、淑やかに深々と頭を下げた。
「本当に……ありがとうございます、マリア様。まるで夢のようですわ」
「は、はい……お役に立てて、本当に良かったです!」
マリアは胸をなでおろし、安堵の笑みを浮かべた。
(やった……! 大成功だわ!)
内心でマリアは歓喜の叫びをあげていた。原作に存在しない不気味な双子姫という障害。だが、その最大の秘密を自分の力で解決してみせたのだ。これで王太子アルフォンスからの信頼と好感度は決定的なものになったと、彼女は固く確信していた。
一方、アルフォンスは未だ言葉を失ったまま、エリシアの綺麗な顔を見つめていた。
五年間、片時も頭から離れることのなかった、ドス黒く重苦しい罪の証。
それが今、完全に消え去った。
肩の荷が下りたと表現するにはあまりにも巨大すぎる変化に、彼の頭脳は追いついていなかった。
「お兄様」
静かな声が、固まっていたアルフォンスを打った。
呼びかけたのはエリシアだ。その瞳には相変わらず可憐な光が宿っているが、アルフォンスの背筋には無意識の寒気が走る。
「学園へお戻りになられる前に……少しだけ、三人でお話しさせていただけませんでしょうか?」
フィリアも隣で楽しそうに首を傾げた。
「ええ、お兄様と、私たちだけで。三人で話すなんて、久しぶりですものね?」
アルフォンスの胸に、一瞬で鋭い恐怖が蘇る。
傷が消えた。救われた。しかし、だからこそこの二人「悪魔」が次に何を言い出すのかが分からない。
だが、妹たちの申し出をここで拒絶する理由など存在しなかった。
「……分かった」
かすかに掠れた声で頷いたアルフォンスは、気力を振り絞ってマリアとレオンハルトの方へと振り返った。
「その前に……マリア嬢とレオンハルトに、礼を言わせてほしい。一旦、別室へ移動させてくれ」
「ええ、もちろんですわ」「私たちはここで待っていますね」
双子はどこまでも素直に、愛らしい笑顔で見送った。
◆
重厚な木製の扉が閉まり、隣の談話室へ入った瞬間。
それまでかろうじて王太子としての威厳を保っていたアルフォンスの緊張が、崩れ去るように解けた。
「マリア……っ」
アルフォンスは弾かれたようにマリアへ向き直った。
溢れ出す感謝、絶望からの解放感、そして長年の苦しみから救われたという強烈な歓喜。あまりにも巨大な感情の波が押し寄せ、視界が涙で滲む。
「ありがとう……! 本当に……本当に、ありがとう……!」
感謝の言葉すらまともに紡げず、衝動のままにアルフォンスはマリアの細い身体を強く抱きしめていた。
あまりの出来事に、マリアは一瞬目を見開いて硬直する。
しかし、腕の中で子供のように身体を震わせている王太子の温度を感じ取った瞬間、彼女の唇の端が密かに吊り上がった。
(素晴らしいわ……! この抱擁、この震え……完全に落ちたわね! これでアルフォンスルートは私の勝ち確定よ!)
深い手応えと勝利の確信に酔いしれるマリア。
しかし、その甘美な空気は、すぐ側に立つ青年の静かな制止によって打ち切られた。
「アルフォンス。気持ちは分かるけど、未婚の令嬢にそのような振る舞いは、王太子としていただけないね」
レオンハルト・フォン・ローゼンベルクの、いつになく冷ややかなを含んだ穏やかな声。
その指摘にハッと我に返ったアルフォンスは、弾かれたようにマリアから身体を離した。顔を真っ赤に染め、狼狽しながら手を開閉させる。
「す、すまないマリア……! 俺は、あまりのことに取り乱してしまって……っ」
「い、いいえ……! お気になさらないでください、アルフォンス殿下。私、殿下のお役に立てて……本当に幸せです」
マリアは上目遣いで少し頬を染め、可憐に微笑んでみせる。
一瞬の過剰なスキンシップから生まれた、気まずくも甘やかな空気。
抱擁から解放されたものの、二人の間の距離は以前とは比べものにならないほど急接近していた。まだ恋人という関係ではない。しかし、深い恩義と特別な信頼によって結ばれた、恋へと至る直前の決定的な一歩。マリアは満足げに胸を撫で下ろした。
「マリア、レオンハルト。少しここで待っていてくれ。……すぐに戻る」
アルフォンスは呼吸を整えると、決意を秘めた瞳で一人、再び双子の待つ部屋へと足を進めた。
◆
部屋の扉を一人で開き、中へと足を踏み入れたアルフォンスは、思わず息を飲んだ。
そこにいたのは、先ほどまでの「可憐で儚げな王女」ではなかった。
優雅にソファに深々と腰掛ける第一王女エリシア。その隣で、退屈そうに指先で髪を弄ぶ第二王女フィリア。
二人の顔から、あの完璧なお姫様の微笑みは完全に削ぎ落とされていた。
そこに存在するのは、アルフォンスが五年間にわたり恐れ続けてきた、美しくも冷酷なサディストたちの素顔。アルフォンスの背筋を、冷たい汗が吹き抜ける。
「お兄様」
エリシアが、薄く唇を開いて呟いた。
「傷のこと……外部の人間に、話したのね?」
フィリアが楽しそうに、しかし氷のように冷たい瞳で言葉を継ぐ。
「私たちが五年も隠し続けてきた秘密。お兄様が、外の女と男にベラベラ喋っちゃったんだ?」
アルフォンスの息が止まる。エリシアの傷と、それに纏わる事情は三人の絶対の秘密だった。アルフォンス自身が五年間にわたって守り続けてきた沈黙。それを破り、マリアとレオンハルトという「外部」へ漏らした事実を、双子は淡々と確認していた。
エリシアは冷ややかな笑みを浮かべ、首を少しだけ傾げた。
「ねえ、お兄様。……口封じ、する?」
その一言に込められた、圧倒的な死の匂いと冷酷さ。アルフォンスの膝がガクガクと震える。五年間叩き込まれた恐怖の記憶が、今すぐにでも土下座して命乞いをしろと脳内で叫んでいた。
だが——。アルフォンスは固く拳を握り締め、顔を上げた。
「……しない」
声はかすかに震えていたが、そこにははっきりと拒絶の意思が込められていた。
フィリアが意外そうに目を細める。
「いいの? 3人の秘密を漏らしたんだよ?」
「マリアは……マリアは、エリシアの傷を治してくれた恩人だ! レオンハルトも、神に誓って口外しないと約束してくれた! 二人を傷つけるような真似は……絶対に許さない!」
アルフォンスは逃げなかった。
恐怖で心臓が潰れそうになりながらも、自分を救ってくれた少女と、信頼する側近を守るため、初めて双子に対して真っ向から毅然と向き合ったのだ。重苦しい沈黙が部屋を支配する。
双子の冷たい視線がアルフォンスを射抜き、息もできないほどの緊張感が漂う。
やがて——エリシアが、くすりと小さく鼻で笑った。
「そう」
フィリアもつまらなさそうに肩をすくめる。
「まあいっか。五年間も、ちゃーんと言うこと聞いてくれたしね」
「ええ。今回のお兄様の身勝手は、不問にして差し上げますわ」
あっさりと告げられた言葉に、アルフォンスは肩の力を抜いた。しかし、彼は止まらなかった。絶望的な恐怖を乗り越え、一番言わなければならない言葉を口にする。
「……傷は、もう消えた」
双子の視線が、再びアルフォンスへ向かう。
「なら……『契約』は終わりだ」
五年前、エリシアの顔に傷を負わせたあの日から始まった、不条理な服従の契約。
その根拠であった「エリシアの傷跡」は、いまやこの世界から完全に消滅した。
「俺と、お前たちの契約は……これで終わりにしてくれ」
アルフォンスは退かずに、己の権利を主張した。
エリシアとフィリアは顔を見合わせる。その表情には怒りも失望もなく、ただ最高に気に入っていた玩具を一つ失ったかのような、わずかな退屈さと物足りなさが浮かんでいた。
「そうですわね。……もう、傷はありませんもの」
エリシアが、どこか楽しげに微笑む。
「うん。契約終了、だね! おめでとう、お兄様」
フィリアも可憐に拍手をしてみせた。アルフォンスは深く、長く息を吐き出した。
双子への根本的な恐怖が消え去ったわけではない。彼女たちが本質的に恐ろしい「悪魔」であることも変わりはない。それでも——五年間に及んだ服従の呪縛は、確かにいま、打ち破られたのだ。
◆
「本日は誠にありがとうございました、マリア様」
「ええ、またお会いできる日を楽しみにしておりますわ!」
王城の玄関口で、エリシアとフィリアは再び完璧な「可憐な王女」の姿に戻り、マリアたちを見送っていた。マリアも淑女としての礼を返し、レオンハルトにエスコートされながら馬車へと乗り込む。離れていく王城の姿を背景に立つ双子の完璧な笑顔を見つめながら、アルフォンスはまだ胸の奥に拭いきれない不安を覚えていた。だが、今日という日に一つの大きな決着がついたことだけは確かだった。
学園へ戻る帰路の馬車の中。アルフォンスの表情は、数日前に比べて劇的に柔らかくなっていた。マリアに向けられるその視線には、隠しきれないほどの深い感謝と尊崇の念が込められている。
二人の距離は、誰の目から見ても明らかに縮まっていた。恋人という境界線の手前、互いを強く意識し合う特別な関係。しかし、向かい側に座るマリアの意識は、既に別の場所へと向けられていた。ガタゴトと揺れる馬車の窓から、遠ざかる王城をじっと見つめる。
(双子姫……エリシアとフィリア……)
あの二人のあまりにも完璧で、しかし浮世離れした美しさ。
原作『黄昏のベルガルド』には一切存在しなかった、完全なイレギュラー。
表面上は自分に感謝し、どこまでも優しく可憐に振る舞っていた。だが、マリアのゲーマーとしての本能が、胸の奥底で消えない警戒の警鐘を鳴らし続けている。
なぜ、原作にいない?なぜ、あの王太子アルフォンスが、妹であるはずの二人にあれほどまでに怯えていたのか?
(……何かがおかしいわ)
もしも、あの双子が自分の思い描く「ハーレムルート」の障害になるのだとすれば。
もしも、攻略対象たちの心を自分から奪い返すような邪魔立てをするのだとすれば。
(……その時は、排除するしかないわね)
マリアは窓の外の景色を見つめたまま、誰にも聞こえない胸の裡で、冷ややかにそう呟いた。