窓から差し込む春先の柔らかな光が、王城の一角にある広大な私室を静かに照らしていた。
室内には、王立学園の縫い立ての制服や幾冊もの教科書、そして王女として必要な入学手続きの書類が整然と並べられている。表向きには、国中から「神童」と称えられる美しき双子姫が、間近に迫った学園生活を胸躍らせて準備しているかのように見える光景だった。
だが、部屋を包む空気はどこまでも冷ややかで、静まり返っている。
白銀の髪を揺らし、第一王女エリシアが優雅にティーカップを口元へ運ぶと、その隣で第二王女フィリアが退屈そうに制服の刺繍を指先でなぞった。
「——報告を」
エリシアが短く潰やくと、部屋の隅の暗がりがゆらりと揺らぎ、漆黒の装束に身を包んだ「王家の影」が音もなく平伏した。
「はっ。ご命令の件、この一年の学園内におけるマリア・エヴァンス嬢、および周辺人物の動向をまとめて参りました」
影の低く平坦な声が、室内に響く。
あの日、マリア・エヴァンスが聖属性の治癒魔術によってエリシアの傷跡を完全に消し去り、アルフォンスとの長きにわたる「契約」が終了してから、約一年。
アルフォンスたちが二年次の課程を終えようとしているこの春、双子は入学直前の最終確認として、一年かけて潜入させていた影からの定期報告を受け取ろうとしていた。
「始めなさい」
「は。まず、エヴァンス嬢の立ち位置についてでございます。一年前の王城訪問以降、彼女は王太子殿下をはじめとする主要な生徒会メンバーの輪へ、完全に定着いたしました」
影は淡々と事実を並べ立てていく。
マリア・エヴァンスは、この一年で学園内の立場を確固たるものにしていた。本来であれば子爵令嬢などが立ち入れない男子生徒たちの歓談の場や訓練後の談話にも、ごく自然な顔で同席するようになったという。
「学園内での彼女の評判は、『王太子殿下とその側近の方々に可愛がられている、健気で愛らしい子爵令嬢』で統一されております。表向きは誰にでも優しく、控えめで明るい態度を崩しておりません。……ただし」
影は一瞬だけ言葉を区切った。
「人目のない場所、あるいは侍女の目が完全に届かない影の中では、明確に異なる振る舞いを確認しております」
エリシアが深青の瞳を細め、薄く微笑んだ。
「まあ。裏表があるの?」
フィリアもパッと表情を輝かせ、楽しそうに身を乗り出す。
「かわいいね。どんなことを言っているの?」
「は。『順調』『このままなら大丈夫』『やはりシナリオ通り』といった、意図の判然としない独り言を漏らし、口元を歪めて笑みを浮かべる姿が頻繁に観察されております。また、クラウディア様との関係が悪化していく現状に対しても、自らに有利に働いていると確信し、悦に入っている様子でございます」
「シナリオ……ね」
エリシアは気のない風にティーカップを皿に戻した。マリアが時折口にする奇妙な単語や、異様なほどの状況掌握への執着。それが何に起因するものかを、双子はすでに概ね察している。
「続けて。各人の詳細な動きは?」
「はっ。まず、ガイアス・フォン・ヴァルク様について」
影は順を追って報告を重ねる。
「彼のエヴァンス嬢に対する好意は、極めて明確でございます。過日の模擬戦後の治療を皮切りに、彼女の聖属性治癒を全幅の信頼の根拠としております。エヴァンス嬢が少しでも困惑の仕草を見せれば、真っ先に庇い立てしようとする傾向が顕著です。感情の起伏が激しいため、周囲から見ても好意は一目瞭然となっております」
「直情的な騎士様は扱いやすそうだものね。次は?」
「宮廷魔導師の弟子、セレス・フォン・アークライト様でございます。当初はエヴァンス嬢の異常な魔力特性を警戒・観察しておりましたが、現在は『害のない無害で心優しい少女』と判断を誤らせることに成功した模様です。彼女の聖属性に対する学術的関心から接触を重ねておりますが、それに伴い個人的な親愛も深めております。」
「ふうん。優秀な魔導師様も、鼻先に人参をぶら下げられれば盲目になるのね。他の殿方は?」
「グランツ商会後継、カイル・グランツ様でございます。彼に関しては明確な恋愛感情こそ認められませんが、以前エヴァンス嬢が助言した小店舗の運営方針が成功を収めて以降、彼女を『有能なビジネスパートナー』として高く評価しております。」
影の冷徹な分析に、フィリアが「くすくす」と可憐に声を立てて笑った。
「『関係が進展してる』って勘違いしちゃってるんだ。可哀想に」
「そして……王太子、アルフォンス殿下でございます」
影の声のトーンが、わずかに重くなる。
「こちらも一年前の王城訪問以降、殿下のエヴァンス嬢の物理的・心理的距離は劇的に縮まりました。感情的な依存している傾向にも見受けられます。……しかしながら」
影は言葉を選ぶように続けた。
「明確な恋人関係には至っておりません。王太子としての立場、およびクラウディア様という正式な婚約者の存在が強いブレーキとなっており、殿下自身が最後の線を踏み越えることを踏みとどまっております。もっとも、殿下にとってエヴァンス嬢が代わりの利かない『特別な存在』となっていることは明白でございます」
「お兄様ったら、まだそんな理性を残していたのね。少し見直したわ」
エリシアの言葉には、感心よりも嘲笑の色が強く滲んでいた。
そして、影は最後のひとりについて言及する。
「最後に、レオンハルト・フォン・ローゼンベルク様について」
「……レオンハルト様?」
フィリアの瞳から、一瞬だけ無邪気さが消え、深遠な冷たさが揺らめいた。
「レオンハルト様は、エヴァンス嬢と非常に自然な様子で親しくされております。ですが……他の者たちのような、明確な『接触の契機』や『劇的なイベント』が一切確認されておりません。気付けば彼女の側に寄り添い、助言を与え、彼女が周囲の輪に入りやすいよう場を完璧に整えております」
「……接近の理由が、不明瞭だということ?」
「はっ。あまりにも自然に、あまりにも無駄なくエヴァンス嬢の環境を優遇させているため、外部からは彼女に好意を寄せているように見えますが……その真意や行動の起点につきましては、調査を進めておりますものの特定に至っておりません」
レオンハルトの行動。彼の完璧すぎる立ち振る舞い。
だがエリシアとフィリアは、それについて深く追及することはしなかった。二人はただ目配せを交わし、薄い笑みを深めるにとどめる。
「まあいいわ。……それで、肝心のクラウディア様はどうなっているの?」
エリシアの問いに、影は粛々と次の議題へ移った。
「ローゼンベルク公爵家令嬢、クラウディア・フォン・ローゼンベルク様について報告いたします。……現状、彼女の学園内での立場は、急速に悪化の途をたどっております」
部屋の空気が、わずかに変化する。
「クラウディア様ご本人の振る舞いには、何一つ過ちはございません。成績、社交、礼儀作法、王太子妃教育のすべてにおいて完璧であり、王太子の婚約者として毅然とした態度を保ち続けておられます。彼女はエヴァンス嬢に対し、何度か口頭で注意を与えております」
「どのような注意?」
「『王太子殿下との距離感を弁えなさい』『子爵令嬢としての身分に相応しい言葉遣いを意識しなさい』『すでに婚約者のいる男性に対し、周囲に誤解を与えるような接触を控えなさい』……といった、至極常識的かつ貴族社会における当然の諫言でございます」
影はきっぱりと言い切った。
「クラウディア様の注意内容そのものは、王太子の婚約者として正当であり、何ら非難されるべき点はありません」
エリシアはクスクスと笑いを漏らした。
「そうよね。正論だわ。何一つ間違っていない」
フィリアも同意するように頷く。
「うん。正しいことを言っているだけ。……でもね、正しいだけの正論って、傷ついた人たちからは『意地悪』に見えちゃうんだよね」
「……続けます。」
影は否定も肯定もなく、報告の核心部分へと踏み込んでいった。
「問題は、クラウディア様ご本人ではなく、その周囲にございます。ローゼンベルク公爵家の威光を誇示しようとする一部の令嬢や、クラウディア様を信奉する上級貴族の生徒たちが、彼女の意を汲んだと勝手に思い込み、暴走を始めております」
「勝手に?」
「はっ。彼女らは『クラウディア様のお立場を守るため』という大義名分のもと、エヴァンス嬢に対して陰湿な嫌がらせを繰り返しております。茶会の招待状をわざと直前に届ける、授業の教材の共有を拒む、移動教室で遠い席へ追いやる、廊下ですれ違いざまに聞こえる声で身分を揶揄する……等々。一つ一つは小規模でございますが、積み重なることで『集団によるいじめ』の構図が完成しつつあります」
影は淡々と、しかし残酷な事実を提示した。
「実行者たちはクラウディア様のために行動しているつもりですが、クラウディア様ご本人がそれらを指示した証拠は一切存在いたしません。しかし……」
「しかし?」
「アルフォンス殿下をはじめとする男性方からは、『クラウディア様が裏で手を引いて取り巻きに嫌がらせをさせている』ように見えております」
「あはは!」
フィリアが思わず声を上げて笑い転げた。
「可哀想! 頼んでもいないのに、勝手に取り巻きが動いて、勝手に悪役令嬢にされていってるんだ!」
エリシアも扇で口元を覆いながら、楽しそうに目を細める。
「命じてもいないのに主犯に仕立て上げられるなんて、悲劇の悪役様ね。それで……マリア様はどう振る舞っていらっしゃるの?」
影の声には、どこか冷ややかな感嘆が含まれていた。
「彼女は嫌がらせを受けた場において、一切の反論や強い主張をいたしません。ただ悲しそうに俯き、『私が至らないからいけないのです』『クラウディア様は悪くありません』『私がもっと公爵令嬢様に相応しい振る舞いをできていれば……』と、健気な被害者を演じ切っております」
その演技が及ぼす効果について、影は詳細に述べる。
「それを見たガイアス様は激怒して取り巻きを責め立て、セレス様はクラウディア様の『冷酷さ』に失望を深め、アルフォンス殿下は婚約者に対する不信感を決定的なものとしております。カイル様は静観しておりますが、エヴァンス嬢が不当な不利益を被っているという事実自体は認識しております。レオンハルト様が穏やかに仲裁に入ることで、結果としてエヴァンス嬢がより強く庇護される構図が完成しております」
影はそこで、ふっと声を低くした。
「そして……人目のない場所へ戻ったエヴァンス嬢は、『計画通り』『悪役令嬢が自滅していく』と、声を殺して嘲笑っておられます。彼女にとって、この状況は自らの魅力を際立たせる絶好の舞台となっております」
室内を包んだのは、心地よいまでの悪意と静寂だった。
エリシアとフィリアは顔を見合わせ、心底可笑しそうに笑みを交わした。
「素晴らしいわね」
エリシアが呟く。
「クラウディア様は正しいことを言っているだけ。マリア様は泣いているだけ」
フィリアが言葉を継ぐ。
「周りが勝手に動いて、勝手に悪役令嬢と悲劇のヒロインが出来上がっていく」
「「なんて楽しい学園なのかしら」」
双子の声が綺麗に重なった。
マリア・エヴァンス。
聖属性という未知の力を持ち、原作にない自分たち双子を激しく警戒しながらも、周囲の男たちを着実に手中に収め、正当な婚約者を悪役に押し込もうとする少女。
そして、そんな妹たちの『悪魔の契約』から解放されたと信じ込み、安堵しながらも新たな泥沼へと足を踏み入れている哀れな兄、アルフォンス。
「お兄様、楽しそうだね」
フィリアが無邪気に笑う。
「ええ。とても……苦しそうだわ」
エリシアの瞳には、昏い虐待嗜好の光が宿っていた。
影は静かに頭を下げ、最後の報告を口にする。
「……報告は以上となりますので、失礼させていただきます。」
「報告ありがとう、下がっていいわ。」
影は深々と一礼すると、いつの間にか暗がりの中へと姿を消していた。
エリシアは立ち上がり、静かに窓辺へと歩み寄った。
爛漫と咲き誇る春の花々の向こうに、これから自分たちが足を踏み入れる王立学園の壮麗な校舎が見える。
「マリア様は、私たちをどう見るかしら?」
フィリアも姉の隣に並び、楽しそうに首を傾げた。
「自分のシナリオを脅かす『邪魔者』かな?」
「それとも……自分を高めるために『利用できる駒』かしら?」
「ふふ、どっちに転んでも面白そうだね、エリシア」
「ええ。本当に……退屈しなさそうだわ」
部屋には、エリシアとフィリアの二人だけが残された。
机の上に置かれた、完璧に仕立てられた学園の制服。
王室の紋章が押された入学許可証。
そして、王家の影が細大漏らさず記載した、一年間の盤面報告書。
エリシアは指先で報告書をパタンと閉じると、それを机の引き出しの奥へと仕舞い込んだ。
フィリアは鏡の前へ向かい、制服の襟元を愛らしく整える。
そこに映るのは、どこからどう見ても、可憐で、健気で、国民から愛される完璧な二人の王女の姿だった。
「では……そろそろ、私たちも学園へ参りましょうか」
エリシアが振り返り、優雅に手を差し伸べる。
「楽しみだね、エリシア」
フィリアがその手を取り、最高の笑顔を咲かせた。
「ええ。とても」
壊れかけた盤面の上へ、真の支配者たちが、今まさに舞い降りようとしていた。