アルフォンス・フォン・ベルガルドが十歳を迎えた年。王宮の広大な大広間では、第一王子の正式な社交界デビューを祝う、華やかなお披露目会が催されていた。それは単なる誕生日の祝宴ではない。ベルガルド王国の正統なる後継者として、初めて貴族社会にその身と威厳を示す、極めて重要な国家儀式でもあった。鏡のように磨き上げられた大理石の床には、王国全土から集まった有力貴族たちが隙間なく居並び、壁際に控えた楽士たちが奏でる優雅な旋律が空気を震わせている。天井から吊るされた無数の水晶灯は、幾重にも重なる光の束を反射して大広間を眩いほどに照らし出していた。雛壇の上から見守る国王と王妃は、穏やかな笑みを湛えながらも、我が息子がこの過酷な社交の場でどのように振る舞うかを、静かに、そして冷徹に見定めようとしていた。
アルフォンスの胸中は、張り裂けそうなほどの緊張に支配されていた。だが、それを微塵も表に出してはいけないことなど、王太子としての教育の中で嫌というほど叩き込まれている。彼は小さく息を吐き、すっと背筋を美しく伸ばした。招かれた百戦錬磨の貴族たちへ、一人ずつ丁寧に、それでいて気品に満ちた挨拶を返していく。その隙のない立ち振る舞いは、十歳の少年としては十分すぎるほどに立派なものだった。
「第一王子殿下は、真にご立派になられましたな」
「ええ。まだお若いというのに、陛下に似て早くも威厳が備わっておいでだ」
宮廷貴族たちの間で交わされるそんな称賛の囁きが耳に届くたび、アルフォンスは胸の奥の重荷を少しだけ下ろすことができた。
(――今日は、僕のための日だ)
八歳になった双子の妹たちはまだ幼く、こうした公式な社交界への出席は許されていない。今頃はきっと、王宮の奥深くにある自室で、侍女たちに見守られながら退屈そうに菓子でもつまんでいるはずだ。その事実に、酷く安堵している醜い自分がいることに、アルフォンスは気づいていた。あの大天才の妹たちが同じ空間にいないというだけで、自分が世界の中心にいられるような、そんな甘やかな錯覚に浸ることができたからだ。
「アルフォンス殿下、ご紹介いたします。ローゼンベルク公爵家のご令嬢、クラウディア様です」
老侍従の恭しい声に促され、アルフォンスはそちらに視線を向けた。
そこに立っていたのは、同じ十歳とは思えないほど冷徹なまでに落ち着いた佇まいの少女だった。
夜を溶かし込んだような艶のある濃紺の髪を美しく結い上げ、その切れ上がった紫水晶の瞳には、子供特有の幼さなど微塵もなく、冷徹なまでの理知の光が宿っている。纏っている白を基調とした最高級のドレスは華美に過ぎず、それでいて彼女自身の持つ圧倒的な品格をこれ以上ないほどに引き立てていた。
「クラウディア・フォン・ローゼンベルクにございます。第一王子殿下にお目通り叶いましたこと、この上なき光栄に存じます」
指先一つ、ドレスの裾一枚に至るまで、寸分の狂いもない完璧な淑女の礼(カーテシー)だった。
周囲を取り囲む貴族たちから、一斉に感嘆の溜息が漏れる。ローゼンベルク公爵家の令嬢クラウディア。彼女はその血筋、極めて高い教養、非の打ち所がない容姿と礼儀作法から、将来の王妃候補筆頭として、すでに宮廷内で高く評価されている存在だった。
「アルフォンス・フォン・ベルガルドです。クラウディア嬢、僕も君にお会いできて、心から嬉しく思うよ」
アルフォンスもまた、王太子としての完璧な微笑みを浮かべて礼を返した。
目の前のクラウディアに対して、この時の彼は特別な感情を抱いたわけではなかった。確かに息を呑むほど美しい少女だとは思ったし、噂通り優秀なのだろうということも容易に理解できた。だが、それ以上ではない。ただ、決して悪い印象は持たなかった。少なくとも彼女の紫水晶の瞳は、周囲の有象無象の貴族たちのように、自分を利益の天秤にかけて値踏みするような色を宿していなかったからだ。
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その頃、華やかな喧騒から遠く離れた王宮の奥深くでは、双子の王女が窓辺に並んで頬杖をついていた。
「……つまんない」
フィリアが不満げに唇を尖らせてぼやくと、隣にいたエリシアが、前世の男としての苦笑を隠すように小さく笑った。
「お留守番も王族の立派なお仕事らしいわよ、フィリア」
「そんなお仕事があるなら、今すぐ誰かに譲りたい。エリシアだってそう思うでしょ?」
二人のすぐ後ろには、厳めしい顔をした侍女たちが監視のように控えている。だから、表立って王女の品格を損なうような悪戯に打って出るわけにはいかない。それでも、この退屈な時間を少しばかり紛らわせるくらいなら見逃されるだろうと、二人は声を出さず、視線と目配せだけで次の行動の相談を始めていた。
まだ、この頃の双子は、周囲にとって「可憐で無害な姫」の枠に収まっていられた。
少なくとも、中身を知らない周囲の大人たちの目には、そのように映っていたのだ。
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お披露目会から数日が経った午後、王族向けの高位魔法授業が行われていた。
案内された広い訓練室の床には、緻密な魔術陣が幾重にも刻み込まれており、壁面には万が一の暴発に備えて強力な防護結界が施されている。教鞭を執るのは、王宮魔導師団でも指折りの実力を持つ老魔法士であり、彼は同時に王族の『魔法の才能』を見極めるという極秘の役目も担っていた。
「本日は、魔力の根本的な性質と、その緻密な制御について学んでいただきます」
老魔法士は威厳のある声で告げ、まずは羊皮紙に描かれた魔術の基礎理論の説明を始めた。
この世界において、魔力量は血筋に左右される部分が極めて大きい。特にベルガルド王族は、代々圧倒的な魔力を持って生まれることで知られていた。しかし、ただ魔力量が多ければ優秀というわけではない。制御、構築、発動、そして維持。それぞれのプロセスが完璧に噛み合って初めて、魔法は高度な形を成す。
「では、基礎理論を踏まえ、この魔術陣の構造について質問です。この陣の第三層に組み込まれている補助式は、全体の何を補っているでしょうか?」
老魔法士が軽い小テストのつもりで問いかけると、エリシアはほんの数秒だけ視線を走らせ、すぐに淡々と答えた。
「魔力の流れを均一化するための流動補助式です。ただし、外周に刻まれている固定記号が少し古い時代の形式ですね。これを現在の書式に直せば、展開時の魔力負荷をさらに三分の一は減らせると思います」
老魔法士の目が、こぼれ落ちんばかりに見開かれた。
「……どこを、どのように直すと、おっしゃいましたか?」
「ここです。内側の循環式と外側の固定式が微妙に干渉して波形が乱れていますから、ここの接続部を二つに分離独立させた方が、発動が安定します」
エリシアが小さな指先で示した箇所は、まさにその老魔法士自身が長年改良を悩んでいた、最先端の魔術論文レベルの難所だった。わずか八歳の少女が見抜くには、あまりにも異常で、高度すぎる内容である。一方、妹のフィリアは、机上の理論ではなく、圧倒的な「実践」の才で周囲の度肝を抜いた。
「ではフィリア様、ご自身の魔力をこの測定用水晶へ流してください。ほんの微量で構いませんからね」
老魔法士の指示に従い、フィリアが透明な水晶へと小さな手をかざす。
次の瞬間、水晶の内部に光が満ちた――などという生易しいレベルではなかった。淡い輝きを通り越し、訓練室の全域を真っ白に染め上げるほどの、文字通り爆発的な閃光が吹き荒れたのだ。
「フィリア様! もう結構です、手を離してください!」
「あ、ごめんなさい」
慌ててフィリアが手を離すと、過負荷をかけられた水晶は、みしりと不穏な音を立てながら余熱のような光を放ち続けた。まさに規格外。歴史に名を残す大魔導師をも凌駕しかねない魔力量だった。だが、十歳のアルフォンスも決して劣っていたわけではない。むしろ、十歳の王子としては十分に優秀であり、老魔法士の視点から見ても、将来の王国を背負うに足る素晴らしい素質を持っていた。特に、純粋な魔力量だけで言えば、現時点のエリシアの数値を明確に上回っていたのだ。それを老魔法士から告げられた瞬間、アルフォンスの胸の奥に、小さな、しかし熱い灯火が宿った。
(僕にも……僕にだって、妹たちに勝てるものがあるんだ)
そう思った瞬間、心が驚くほど軽くなった。それが兄として、王太子として、どれほど情けなく、矮小な感情であるかは分かっている。実の妹と張り合うなど滑稽の極みだ。けれど、これまで数年間にわたって心の底に澱のように積もり続けてきた劣等感がある以上、その初めて得た小さな優越感は、脳が痺れるほどに甘美だった。だが、授業の合間に老魔法士や侍女たちの視線が向けられるのは、やはり劇的なパフォーマンスを見せた双子の方だった。
「エリシア様の理論理解の深さは、もはや学者をも凌ぐ……」
「フィリア様のあの魔力量は、歴代の王族の中でも指折り、いえ、屈指の怪物ではございませんか」
彼女たちへの称賛はすべて事実であり、そこには誰一人として悪意など抱いていない。純粋な驚嘆だ。だからこそ、アルフォンスは反論することもできず、ただ張り付いた笑顔のまま沈黙するしかなかった。
その日の授業の最後に、基礎的な魔力制御の実技訓練が行われた。
手のひらの上に小さな魔力の光球を作り出し、それを一定の大きさのまま維持し続けるという、極めて単純な練習だ。しかし、単純だからこそ、術者の精神的な乱れが最も顕著に現れる。
アルフォンスは精神を集中させ、自らの掌の上に静かな光を灯した。球体の形は歪むことなく安定している。老魔法士も「素晴らしい」と満足げに頷いた。決して悪くない。いや、年齢を考えれば完璧な出来栄えだ。それなのに、すぐ隣から聞こえてくる声が、どうしてもアルフォンスの鼓膜を不快に震わせた。
「素晴らしい、エリシア様。完璧な球体です」
「フィリア様、もう少し出力を抑えましょう。いえ、その出力のまま維持できていること自体、十分すぎることなのですが!」
胸の奥で、ドロリとした黒い感情が激しく揺れた。羨ましい。悔しい。どうして誰も、僕のこの完璧な制御を見てくれないんだ。どうしていつも、視線の先にはあの二人がいるんだ。そんな醜悪な思いを抱くべきではないと頭では理解しているのに、一度心に湧き出したドス黒い嫉妬は、どれほど打ち消そうとしても消えてはくれなかった。
「アルフォンス殿下! 集中を切らしてはなりません!」
老魔法士の鋭い声が、ワンテンポ遅れてアルフォンスの意識に届く。だが、遅すぎた。
その瞬間、彼の掌の上にあった光球が、精神の乱れと同調するように激しく歪んだ。
制御を完全に失った魔力が爆発的に弾け、鋭利な光の刃となって、前方へと猛烈な速度で直進する。あまりの突発事態に、誰も反応できなかった。アルフォンス自身でさえ、自分が何を引き起こしたのか理解するより早く――その光刃は、隣にいたエリシアの白い頬を深く切り裂いていた。
柔らかな白い肌に、一本の赤い線が走る。一瞬の遅れののち、そこから鮮血が止めどなく溢れ出した。訓練室内の空気が、文字通り凍りつく。
「エリシア様っ!」
侍女の絶叫が室内に響き渡り、老魔法士の顔からは一瞬で血の気が引いた。
ほっぺを切っただけなので死にはしません