「……お話、よろしいですか」
図書室の静寂を破るクラウディアの絞り出すような声に、エリシアは読んでいた古書を優しく閉じ、フィリアは心底心配そうに眉を下げて首を傾げた。
「もちろんでございます、クラウディア様。どうぞおかけになって……と言いたいところですが」
エリシアが言葉を区切り、周囲をぐるりと見渡す。放課後の図書室には、遠巻きにこちらの様子を伺う生徒たちの視線がチラチラと注がれていた。
「ここでは落ち着いてお話もできませんものね。場所を変えましょうか」
フィリアが愛らしく微笑み、クラウディアの手をそっと両手で包み込んだ。その温かな手触りに、クラウディアは一瞬戸惑ったように目を見張りつつも、深く頷いた。
双子が案内したのは、王立学園の奥深くに位置する小貴賓室だった。王族や極めて限られた高位貴族のみが使用を許される密談のための部屋。双子は手際よくお茶を用意させた侍女たちを部屋の外へ下がらせ、重厚な扉を固く閉じさせた。室内に残されたのは、エリシア、フィリア、そしてクラウディアの三人だけ。
「どうぞ、お掛けになってくださいな」
透き通るような白クロスが敷かれた円卓。上品な茶器から立ち上る紅茶の香りと、色とりどりの小振りの焼き菓子。窓から差し込む斜陽が室内を黄金色に染め上げる光景は、外から見れば王女二人と公爵令嬢による、優雅で微笑ましいお茶会そのものだった。
エリシアは淑やかな手つきでクラウディアのカップへと温かな紅茶を注ぎ、フィリアは焼き菓子の皿を彼女の前へ押しやる。二人の仕草には何一つ不審な点もなく、どこまでも「憧れの義姉候補を案じる心優しい妹姫」としての可憐さに満ち溢れていた。
「ありがとうございます……」
クラウディアは礼を述べ、カップを両手で包み込んだが、一口も口をつけようとはしなかった。その背筋は公爵令嬢として完璧に伸びていたが、膝の上に置かれた白手袋の指先は痛々しいほど硬く結ばれている。沈黙が部屋を支配した。
しかし、双子は決して言葉を急かさなかった。エリシアは自らの紅茶を優雅に嗜み、フィリアはニコニコと穏やかな笑みをたたえてクラウディアを見守る。相手が自らの意思で言葉を零し始めるのを、ただ静かに待ち続けていた。
やがて、クラウディアがゆっくりと顔を上げた。その目元には隠しきれない深い疲労と、途方もない孤独が滲んでいる。
「……身恥ずかしいお話なのですが、私、もう……どうすればよいのか分からないのです」
ぽつり、ぽつりと、クラウディアの口から言葉が漏れ出した。
子爵令嬢マリア・エヴァンスが、王太子アルフォンスをはじめとする男子生徒たちと常識を外れた距離感で親密になっていること。王太子の婚約者として、身分差や周囲の外聞を考慮し、至極正当な注意を与え続けてきたこと。だが、そのすべての諫言が悪意として受け取られ、自分がいじめの加害者であるかのように扱われていること。そして、自分の意を汲んだと錯覚した取り巻きの令嬢たちが勝手にマリアへ陰湿な嫌がらせを繰り返し、どれほど止めても収まらないこと。
「殿下方は……アルフォンス様は、私が裏で彼女たちに指示を出し、マリア様を傷つけていると思い込んでいらっしゃいます」
クラウディアは決して取り乱さず、涙も零さなかった。公爵令嬢としての誇りと矜持が、彼女をかろうじて繋ぎ止めていた。だが、その声は悲痛なまでに震えていた。
「私はただ……殿下の婚約者として、当然のことを申し上げただけなのです。ですが今では、私が何を口にしても、あの方を苛む悪辣な言葉に変換されてしまう……。このままでは、アルフォンス様との婚約の維持すら、危うくなってしまいます」
語り終えたクラウディアは、痛みに耐えるように固く目を伏せた。
そんな彼女を、双子はどこまでも慈愛に満ちた強い眼差しで見つめていた。
「……お可哀想に。クラウディア様は、ずっと『正しいこと』をおやりになっていただけなのに」
エリシアが胸に手を当て、哀悼を示すように優しく呟く。
「それなのに、周りの人たちに誤解されて、悪い人みたいに言われてしまうなんて……あまりにもおつらいですわ」
フィリアも追従し、涙ぐむかのように瞳を潤ませた。
自分を理解してくれる者がいた。味方がいた。その事実だけで、限界まで張り詰めていたクラウディアの心が、かすかに解けていく。
「ですが」
エリシアが、そっと身を乗り出した。その声はどこまでも柔らかく、甘やかに響く。
「私たちにこうして打ち明けてくださったということは……クラウディア様には、明確なお望みがおありなのですね?」
クラウディアは一瞬、息を詰まらせた。自分が何を望んでいるのか。
マリア・エヴァンスを不当に貶めたいわけではない。復讐がしたいわけでも、害したいわけでもない。ただ、これ以上あの少女によってアルフォンスとの絆が引き裂かれるのを止めたい。自分の正当な立場と、婚約を守りたい。
クラウディアは拳を握り締め、意を決して言葉を口にした。
「……マリア様と、アルフォンス殿下の仲を……引き裂いていただきたいのです」
その言葉を聞いた瞬間、双子は可憐に目を丸くしてみせた。無邪気で、少しだけ驚いたような愛らしい反応。
「まあ……マリア様とアルフォンスお兄様の仲を、でございますか?」
エリシアが確認するように問う。
「マリア様というお方を、傷つけたり排除したりしたいわけではなく?」
「違います!」
クラウディアは即座に強い調子で否定した。
「私は……彼女を害したいわけではありません! ただ、殿下と彼女がこれ以上不適切に近づくのを止め、本来あるべき関係に戻したいだけなのです」
「ふふ、よく分かりましたわ」
フィリアが花が咲くような笑顔で頷く。
「アルフォンスお兄様と、マリア様の仲を裂くこと。それが、クラウディア様のお願いなのですね?」
「はい……」
クラウディアが深く肯首すると、双子は一瞬だけ目配せを交わした。その瞳の奥に宿る、底知れぬ漆黒の悪意を完璧に隠し切ったまま、エリシアが優雅にカップを置いた。
「よろしいでしょう。では……これはただの『お願い』ではなく、『契約』といたしましょうか」
「……え? 契約……ですか?」
予想外の単語に、クラウディアが眉をひそめる。フィリアがすかさず、甘く微笑みかけながら補足した。
「ええ。クラウディア様にとって、人生を分かつほど大切なお願いでしょう? 曖昧な約束のままでは、かえってクラウディア様もご不安になりませんこと?」
「それに、引き受ける私たちといたしましても、責任を持って確実に遂行したいのですわ」
エリシアの言葉は、どこまでも理路整然としており、クラウディアを心から気遣っているようにしか聞こえなかった。拒絶する理由など、どこにも存在しない。
「まずは、期限を決めましょう」
エリシアが指を一本立てる。
「卒業パーティーまでに。……アルフォンスお兄様とマリア様の仲を、完全に引き裂く。それが私たちの果たすべき役目です」
「卒業パーティー……」
クラウディアはゴクリと唾を呑み込んだ。
数か月後の卒業パーティー。それは王立学園における最大の節目であり、学生たちの将来の婚約や進路が公に決定・発表される最重要の場だ。そこまでに状況を打開できなければ、自分の破滅は確定する。期限として、これ以上ないほど適切だった。
「ただし」
エリシアの声が、わずかに静かさを増した。
「仲を引き裂くための『方法』につきましては……すべて私たちに一任していただけますでしょうか?」
「方法を……一任、ですか?」
クラウディアがわずかに躊躇の気配を見せると、フィリアが可愛らしく小首をかしげた。
「もちろんですわ。クラウディア様のお立場を悪くするような真似は絶対にいたしません。……でも、細かな手段まで指定されてしまいますと、状況の変化に柔軟に対応できなくなってしまいますでしょう?」
「ええ。クラウディア様は、どうか『結果』だけをお望みくださいな」
エリシアは慈愛に満ちた笑みを浮かべ、クラウディアの目をまっすぐに見つめた。
「マリア様とアルフォンスお兄様の仲を裂くこと。そのためのやり方は、すべて私たち二人にお任せいただく。……それでよろしいですね?」
クラウディアの頭脳の中で、葛藤が渦巻いた。
だが、自分にはもう何の手段も残されていないのだ。自分が動けば「意地悪な悪役」と見なされ、取り巻きを止めようとしても暴走は止まらない。アルフォンスの心は離れ、マリアは悲劇のヒロインとして守られている。
目の前にいるのは、幼い頃から自分を慕ってくれた、優しく優秀な二人の王女。彼女たちに任せる以外に、この不条理な状況を打開する道は存在しなかった。
「……分かりました」
クラウディアは静かに、しかし確かな意思を込めて頷いた。
「方法は……お二人に一任いたします」
その言葉が出た瞬間、双子の瞳の奥で、恐ろしい歓喜の光が爆発した。しかし、表面上はどこまでも嬉しそうに微笑むだけに留める。
「まあ、ありがとうございます! 任せてくださって嬉しいですわ」
フィリアが手を打つと、クラウディアは『契約』という形式に従い、公爵令嬢としての礼を尽くそうと口を開いた。
「お引き受けいただいた暁には、ローゼンベルク公爵家として、考えうる限り最大限のお礼を——」
「いいえ」
エリシアが柔らかく、しかし一切の反論を許さない絶対的な強さでクラウディアの言葉を遮った。
「お礼は……すでに決めておりますわ」
「え……?」
困惑するクラウディアに対し、フィリアが可憐に人差し指を自らの唇に当ててみせた。
「この件に関するすべてを……『三人だけの秘密』にすること。それが、私たちの望む報酬ですわ」
「秘密……ですか?」
「ええ」
エリシアが、一つひとつ確認するように指を折っていく。
「クラウディア様が私たちに助けを求めたこと。私たちがそれをお引き受けしたこと。期限が卒業パーティーまでであること。そして……方法のすべてを私たちに一任していただいたこと」
フィリアが楽しそうに言葉を継ぐ。
「これらすべてを、誰にも言わないでくださいな。アルフォンスお兄様にも……もちろん、クラウディア様のお兄様であるレオンハルト様にも」
「三人だけの……永遠の秘密ですわ」
エリシアがうっとりと囁く。クラウディアは一瞬、胸に冷たい違和感を覚えた。
金銭でも、権力でも、地位でもない。ただ当然である「秘密にすること」自体を報酬とする不可解さ。だが、同時にそれは、クラウディアにとっても極めて都合の良い条件だった。自分が王女たちにすがり、裏で画策したという事実が周囲に知られれば、ますます自分の立場は悪化する。隠し通せるのであれば、それに越したことはなかった。
「……分かりました。お約束いたします。誰にも……決してお話しいたしません」
クラウディアが固く誓うと、エリシアとフィリアは満足そうに、完璧な笑顔を開花させた。
「ふふ、これで契約成立ですね!」
フィリアが楽しそうに声を弾ませる。
「卒業パーティーまでに、マリア様とアルフォンスお兄様の仲を引き裂く。やり方は私たちに一任。そして、報酬は三人だけの秘密」
「ええ。お任せくださいませ、クラウディア様。私たちが……必ずや、すべてを望み通りに解決して差し上げますわ」
エリシアの静かで温かな言葉に、クラウディアは胸の奥の重荷が少しだけ軽くなったような感覚を覚えた。契約という響きに覚えたわずかな不安も、目の前の愛らしく心強い味方の笑顔の前に、きれいに霧散していく。
「……よろしくお願いいたします、エリシア殿下、フィリア殿下」
クラウディアは深々と頭を下げた。自分が、王家の禁忌すら容易く踏み越える「悪魔」たちと、取り返しのつかない契約を交わしてしまったことなど、夢にも思わずに。
◆
お茶会は、最後まで穏やかで気品に満ちた空気のまま終了した。
救われたような穏やかな表情を浮かべ、小貴賓室を後にするクラウディアの背中を、双子は並んで見送った。バタン、と静かに扉が閉まり、室内が完全な密室に戻る。
エリシアは、クラウディアが一口も付けなかった冷めた紅茶のカップを、静かに見つめた。
フィリアは楽しそうに、皿に残っていた焼き菓子を一つ摘まみ、小さな口へと放り込む。
二人は顔を見合わせ、最後まで完璧で可憐な、お姫様の笑みを美しく咲かせた。
「楽しみだね、エリシア」
「ええ、フィリア。最高のお茶会(契約)でしたわ」
密室の中に残された冷めた紅茶の波紋が、静かに、静かに揺れていた。