休日の朝は、どこか張り詰めた空気の中で始まった。
数日前、マリアが階段から落ちた。犯人は分からない。目撃者もいない。学園の生徒たちの間には、見えない悪意への不安がまだ燻っている。
そんな中でも、王太子としての公務は止まらない。
「今日は付き合ってもらう。卒業パーティーの準備だ」
アルフォンスは、寮の前でクラウディアにそう告げた。表向きの理由は、それだけだ。婚約者として、正式にドレスや装飾品を整える。誰が見ても、当然の予定だった。
けれどアルフォンスの内心には、別の目的があった。
――マリアを傷つけたのは、本当に見えない何者かなのか。
証拠はない。だが、疑いを完全に拭えたわけでもない。婚約者として過ごす一日の中で、クラウディアの様子を探る。それが、彼の本当の目的だった。
「畏まりました、殿下」
クラウディアは静かに頭を下げ、馬車へと乗り込んだ。
■
王都の仕立て店は、いつも通りの賑わいを見せていた。
「こちらの生地などはいかがでしょう、クラウディア様」
店主が布地を広げる。深紅の絹地が、日差しを受けて艶やかに光る。
「素敵ですね」
クラウディアは静かに微笑んだ。完璧な公爵令嬢の礼儀正しい笑み。表情に乱れはない。
だが、隣に立つアルフォンスの視線を感じるたび、胸の奥がわずかに震える。
――殿下が、私を連れ出してくださった。
それだけのことが、こんなにも嬉しい。以前は考えられなかったことだ。
「クラウディア。この色はどう思う」
アルフォンスが装飾品の見本を差し出す。
「よくお似合いになるかと」
「君にだ」
クラウディアは一瞬、言葉を失った。
「……ありがとうございます、殿下」
短いやり取りの中に、確かな温度がある。以前のように、婚約者として扱われている。
――双子姫様のおかげ。
クラウディアの胸に、静かな感謝が広がる。エリシアとフィリアに任せた契約は、確かに動いている。マリアとアルフォンスの仲を裂く。それが叶いつつある証拠が、今、目の前にある。
けれど同時に、小さな影が胸をよぎった。方法は一任し、三人だけの秘密にした。
自分は、何を願い、何を任せてしまったのだろう。
クラウディアはその疑問を、笑顔の奥へそっと押し込めた。
■
一方、学園では。
「今日は俺がついている」
ガイアスは、休日であっても寮の前を離れなかった。マリアを守る。それだけを考えていた。
しかしマリアは、疲れたように微笑んで言った。
「今日は一日、自室で考えたいんです」
「考える……?」
「殿下方から、告白していただいて……卒業パーティーまでにお返事しなければいけませんから」
マリアは睫毛を伏せる。悩んでいるように見える表情。ガイアスは、それ以上踏み込めなかった。
「分かった。無理はしないでくれ」
「はい。ありがとうございます、ガイアス様」
マリアは寮の中へと消えていく。
ガイアスは、その後ろ姿を見送ってから、寮の外に立ち続けた。女子寮の中には入れない。ならば、外から警戒するしかない。彼は真剣に周囲を見渡す。木々の影。通りかかる生徒。誰かがマリアを狙っているかもしれない。そう信じて、視線を巡らせ続ける。
だが、彼が守れるのは寮の外側だけだった。
■
訓練場では、セレスとレオンハルトが並んで立っていた。
「王女殿下方の訓練を見学する、か」
レオンハルトが穏やかに呟く。
「表向きはな」
セレスは短く答えた。彼の目的は明確だった。次に疑わしいのは、あの双子だ。和解したとはいえ、原作に存在しない不確定要素であることに変わりはない。
訓練場の中央では、エリシアとフィリアが教師の指示のもと、魔術の訓練を行っていた。
「では、魔法陣の展開を」
教師の言葉に、エリシアが静かに頷く。複雑な陣が地面に広がり、精緻な光の線が幾重にも重なっていく。
「素晴らしい制御ですね、エリシア様」
「ありがとうございます、先生」
エリシアは柔らかく微笑む。続いてフィリアが前に出た。
「では、出力調整を」
フィリアの手のひらに、強い光が集まる。それを少しずつ抑え込み、教師の求める出力に合わせていく。
「見事です」
「もったいないお言葉です」
二人とも、完璧なお姫様のまま、優秀な生徒として振る舞い続けている。
セレスは魔術的な観点から二人を注視した。才能は本物だ。だが、不審な動きは一切ない。少なくともこの場では、二人はずっと訓練場にいる。
レオンハルトも静かにその様子を見守っていた。妹を案じる兄として、あるいは学園の混乱を憂う上級生として。その内心が何を思っているのかは、誰にも分からない。
双子は、自分たちが見られていることを分かっていた。それでも表情を変えることなく、訓練を続ける。やがて教師が満足げに頷いた。
「本日はここまでにしましょう」
その言葉が出るまで、双子はずっとこの場にいた。教師、セレス、レオンハルト、他の生徒たち――確かな証人がいる。
エリシアとフィリアには、揺るぎないアリバイができていた。
■
マリアの部屋。
一人になった彼女は、寝台に腰掛けて考えを巡らせていた。
アルフォンスの告白。ガイアスとセレスの告白。卒業パーティーまでに答える約束。
――順調。むしろ、想定以上ね。けれど、無視できない不確定要素がある。
エリシアとフィリア。原作『黄昏のベルガルド』には、存在しない双子の王女。
先日のお茶会で、二人は自分に頭を下げた。誤解を解消しなかったことへの謝罪。表向きは、和解した。だが、信用はできない。
王族で、美しく、才能があり、クラウディアとも親しい。危険な芽は、早いうちに摘んでおくべきだ。
「そういえば……」
マリアはふと思い出す。アルフォンスは、あの双子をあまり好いていないように見えた。理由は分からない。だが、その距離感は利用できる。そして、本来のシナリオでは――卒業パーティーの後、帝国が宣戦布告をするはずだ。戦争が始まれば、王家と帝国の関係が重要になる。
「もし、あの子たちを帝国へ政略結婚で送り出せたら……」
マリアの唇に、静かな笑みが浮かぶ。
「王女としての政略結婚なら、不自然じゃない。王国と帝国の関係を調整する名目にもなる」
「アルフォンス様も、あの子たちには執着していないみたいだし……うまく誘導すれば」
どう話を持っていくか。アルフォンスへは何と言うべきか。ガイアスやセレスをどう味方につけるか。クラウディアの側近として扱われている双子を、どう危険な存在として印象づけるか。
マリアは、自分の未来を丁寧に組み立て始めていた。
その時。
部屋の片隅、棚の下の浅い隙間が、かすかに光った。
「……何?」
マリアは視線を向ける。棚の下に、小さな珠が転がっていた。以前からそこに紛れ込んでいたかのように。不審に思いながらも、彼女は手を伸ばす。
珠を、拾い上げる。その瞬間――珠が、まばゆく輝いた。
「え……」
声を上げるより早く、光がマリアの体を包み込む。次の瞬間に珠とマリアは、部屋から消えていた。物音はほとんどしなかった。光は、窓の外へ漏れることもなかった。
寮の外で、ガイアスは変わらず周囲を警戒していた。マリアの部屋がある方向を見上げながら、誰かが近づいてこないかを見張り続けている。
自分が、彼女を守っていると信じたまま。
■
日が傾く頃、クラウディアは学園へ戻ってきた。
アルフォンスとの一日は、有意義だった。ドレスの打ち合わせは滞りなく進み、婚約者としての形が少しずつ整っていく。アルフォンスの態度には、まだ距離が残っている。だが、以前よりも確かに、自分を見てくれていた。
クラウディアは平静を装いながら寮へと向かう。だが心の奥には、隠しきれない喜びがある。同時に、その喜びを感じてしまう自分への、小さな後ろめたさもあった。
寮の入口へ続く、人気の少ない廊下。そこに、エリシアとフィリアが立っていた。
「クラウディア様」
「お帰りなさいませ」
二人は、いつも通り可憐で、礼儀正しい王女の顔をしている。
「エリシア殿下、フィリア殿下……?」
クラウディアは足を止めた。周囲に、人の気配はない。三人だけの、秘密を守れる場所。
エリシアが、静かに口を開いた。
「ご安心ください、クラウディア様」
フィリアが続く。
「彼女には、遠い所へ行っていただきました」
クラウディアの息が止まる。
「……遠い、所?」
エリシアは優しく頷いた。
「はい」
フィリアも柔らかく微笑む。
「もちろん、無傷で生きています」
「けれど」
エリシアの声が、静かに落ちる。
「お兄様の手は届きません」
「これにて」
フィリアが、可憐に締めくくった。
「契約は、完了です」
クラウディアは言葉を失った。
契約。卒業パーティーまでに、マリアとアルフォンスの仲を裂くこと。方法は、双子に一任した。報酬は――三人だけの秘密。それが、今、果たされた。
マリアは、遠い所へ行った。無傷で生きている。だが、アルフォンスの手は届かない。
その意味を、クラウディアは正確に理解できない。理解したくない。
双子は最後まで、優しい王女の笑顔のままだった。
「あとは、頑張ってくださいね」
「卒業パーティーまで、まだ時間はありますから」
クラウディアの胸に、安堵が広がっていく。マリアは生きている。無傷だと言われた。アルフォンスとの仲は、これで確かに裂かれる。自分には、まだ婚約者として隣に立つ時間が残された。
けれど同時に、冷たい不安が胸の底に沈む。
遠い所とは、どこか。どうやって連れ出したのか。なぜ、双子はこんなにも穏やかに、この話をできるのか。自分は本当に、何を任せてしまったのだろう。
問いただすことは、できない。三人だけの秘密。それが、報酬。それが、契約。
エリシアとフィリアは、変わらぬ可憐な笑顔で、クラウディアを見つめている。
クラウディアは、安心と不安が入り混じる感情を抱えたまま、何も言えずにその場に立ち尽くしていた。