夕暮れの陽が女子寮の壁を赤く染める頃、
ガイウスは寮の正面口からほんの十歩離れた場所に
立っていた。腕を組み、壁に背を預け、視線だけを
絶えず左右に走らせる。誰かが通れば、その顔を
確認する。不審な気配があれば、すぐに動けるように重心を落としておく。
「今日は一日、部屋で考えたい」
昼間、マリアはそう言って寮に戻っていった。
卒業パーティーまでに返事をすると約束した相手が
三人もいるのだ。悩む時間が必要なのは当然だった。
だからガイウスは、彼女の望み通り、扉の外で
待つことにした。日が落ちて、寮の窓に明かりが
灯り始める。夕食の匂いが漂ってくる時間に
なっても、マリアは姿を見せなかった。
「……遅いな」
呟いても、答える者はいない。不審者は
通していない。怪しい人影も見ていない。
誰一人、マリアに近づけさせてはいない。
――そのはずだった。
だが胸の奥で、小さな違和感が疼き始める。夕食の
時間をとうに過ぎた頃、ガイウスは
とうとう我慢できずに寮母を呼び止めた。
「すみません、マリア嬢の様子を見てきてもらえませんか。今日一日、部屋にこもっているはずなんですが、夕食にも顔を出していなくて」
寮母は怪訝な顔をしながらも、階段を上がって
いった。ガイウスは扉の外で、爪が食い込むほど
強く拳を握って待った。やがて、寮母が戻ってくる。
その顔色を見た瞬間、ガイウスは自分の胸に
冷たいものが落ちてくるのを感じた。
「……いないの。部屋に、誰も」
「は……?」
「荷物はそのままよ。争ったような跡もない。
窓も、扉も、壊れてなんかいない。ただ――
マリアさんだけが、いないの」
ガイウスは、しばらく言葉を発することが
できなかった。
「俺は……ずっと外にいたんだぞ」
声が掠れる。
「誰も通してない。怪しい奴なんて、一人も見てない。なのに、どうして……」
守っていたはずだった。誰よりも近くで、
誰よりも長く、彼女のために立っていた
つもりだった。それなのに、守れなかった。
その事実だけが、夜の闇のようにガイウスの
足元から這い上がってくる。
◆
知らせは瞬く間に広がり、深夜にもかかわらず
主要な面々が学園の一室に集められた。
アルフォンスは開口一番、椅子から立ち上がったまま
座ろうともしなかった。顔色は蝋のように白い。
「マリアが……消えた? どういうことだ」
「アルフォンス、落ち着いて。」
レオンハルトが静かに割って入る。
彼だけがいつも通りの、涼やかな表情を
崩していない。
「まずは分かっている事実を整理しましょう。感情的になっても、マリア嬢は見つかりません」
「分かっている。分かっているが……!」
ガイウスは壁に寄りかかったまま、拳を口元に
押し当てていた。今にも部屋を飛び出して、
闇雲に走り出しそうな気配を漂わせている。
「俺が、外で見張ってたんだ。誰も通してない。それなのに、消えるなんて……そんなこと、あり得るのか」
「あり得なくても、現に起きている」
抑えた声で答えたのはセレスだった。彼は既に
何度か寮の周辺を見て回ってきたのだろう、
袖に埃がついている。
「まずは事実の確認を。カイル、記録は?」
名を呼ばれたカイルは、手元の書類に視線を
落としたまま淡々と答えた。
「寮の出入り記録、門番の証言、使用人の動き、
馬車の手配記録――すべて確認しました。今日一日、
寮に出入りした者に不審な人物はいません。
マリア嬢が門を通って外へ出た記録もない」
「じゃあ、まだ寮の中に……」
「隅々まで捜索済みです、殿下」
カイルは静かに首を振った。
「マリア嬢の部屋には、争った形跡も、外出の準備を
していた形跡もありません。荷物はそのまま、
まるで少し席を外しただけのような状態で――
本人だけが、消えている」
沈黙が落ちる。誰かが息を呑む音だけが、
やけに大きく響いた。
「……自分の意思で、消えたということは
ないのかい?」
口を開いたのはレオンハルトだった。
静かな声だったが、その言葉は鋭く場の空気を刺す。
「マリア嬢は、卒業パーティーまでに返事をすると言っていた。三人分の想いに、ね。」
アルフォンス、ガイウス、セレス。三人の視線が
一瞬だけ交差し、すぐに逸れる。
「重圧に耐えきれず、自分から姿を消した可能性は、
否定できないのではないだろうか。」
「……」
誰も、その可能性を否定できなかった。
だが、誰も、その可能性を認めたくもなかった。
「消された可能性も、消えた可能性もある。
けれど――」
レオンハルトは静かに続けた。
「どちらだとしても、今は追う手掛かりが何もない」
◆
発覚直後、セレスは学園警備と共にマリアの部屋へ
行き、魔術的な調査を始めていた。
扉。窓枠。床板の継ぎ目。壁紙の裏。棚の奥。
一つひとつ、丁寧に魔力探知の術式を展開していく。転移の痕跡。残留魔力。結界に触れた反応。
術式が発動した際に残るはずの、微かな歪み。
何か一つでもいい。糸口が欲しかった。
「……ない」
呟く声が、静まり返った部屋に落ちる。
寮の廊下、階段、外壁、周辺の茂みまで範囲を
広げても、結果は同じだった。まるで、
最初からそこにマリアなど存在しなかったかのように
――何も残っていない。
セレスは翌朝、集まった面々の前で、
感情を押し殺した声で報告した。
「魔術の痕跡は、確認できません」
その一言に、部屋の空気が重く沈む。内心では、
セレス自身が誰よりも打ちのめされていた。
もしこれが魔術によって引き起こされた事件なら、
自分こそが誰よりも早く手掛かりを見つけられる
はずだった。幼い頃から積み重ねてきた研鑽は、
そのためにあると思っていた。
けれど、何も見つからない。
痕跡がないなど、あり得るはずがない。それとも――自分の技量など、それを見抜けるほどのものでは
なかったということなのか。
セレスは拳を握りしめたまま、誰にも聞こえない声で呟いた。
「見つけられない、だけだ。ないわけじゃない……」
言い聞かせる声は、自分自身にすら届いていない
ように、力なく消えていった。
◆
その日の午後、アルフォンスは中庭の奥、
双子の姿を見つけて足を止めた。
理屈では分かっている。マリアが消えた時刻、
エリシアとフィリアは訓練場にいた。教師の
目の前で、魔術訓練をしていた。
セレスもレオンハルトも、その場にいたと
証言している。アリバイは、完璧だ。それでも、
アルフォンスの足は自然と双子のもとへ向いていた。
「お前たちに、聞きたいことがある」
低く抑えた声に、双子はゆっくりと振り返る。
「まあ、お兄様」
エリシアが小首を傾げ、花のような笑みを浮かべる。
「どうかなさいましたか? ずいぶん、
怖いお顔をされていますわ」
フィリアも心配そうに眉を寄せて見せた。
「お顔の色が優れませんわ。マリア様のことで、お疲れなのですか?」
その完璧な演技――いや、演技なのかどうかすら
判別できない、揺るぎない可憐さに、アルフォンスは奥歯を噛みしめた。
「お前たちが、やったのか」
短く、直截に問う。
エリシアが、悲しげに睫毛を伏せた。
「何のお話でしょうか」
「マリア様がいなくなられたこと、でしたら――私たちも、とても心を痛めております」
「訓練場にいながらでも、お前たちなら何か
できるだろう」
アルフォンスの声に、抑えきれない疑念が滲む。
フィリアが、不安げに兄を見上げた。
「お兄様は……私たちを、疑っていらっしゃるの
ですか?」
「マリア様とは、先日きちんと和解いたしました
のに」
「悲しい、です」
二人の声が重なる。まるで示し合わせたかのような、それでいて少しも不自然に見えない、完璧な
同調だった。その場にいたセレスが、たまらず口を
挟む。
「殿下。あの時間、王女殿下方は確かに訓練場に
いらっしゃいました。不審な行動は見られません
でしたし、部屋に干渉するような大規模な術式の
発動も、確認できておりません」
カイルも静かに付け加えた。
「証拠は、ありません。この場で王女殿下方を
疑うのは、危険です」
正論だった。反論のしようがない、完全な正論。
アルフォンスは、それでも双子から目を逸らせ
なかった。――あの二人ならやりかねない。
そう思ってしまう自分がいる。かつて交わした、
あの歪んだ契約の記憶が、頭の奥でちらつく。だが、それを口に出すことはできない。証拠もなく、根拠もなく、ただの直感だけで、王女を告発することなど
できるはずがなかった。
双子は最後まで、崩れなかった。
「お兄様のお心が、少しでも早く落ち着かれますように」
エリシアが、優しく微笑む。
「マリア様も、どうかご無事でいらっしゃいますように」
フィリアが、祈るように両手を胸の前で組んだ。
アルフォンスは、拳を強く握りしめる。
疑っている。確信に近いほどに、疑っている。
けれど、何もできない。
◆
調査が行き詰まる中、ガイウスの焦燥は限界に
近づいていた。彼はクラウディアのもとへ向かった。
乱暴をするつもりなど、微塵もなかった。
ただ、何か一つでも手掛かりが欲しかった。
「なあ、本当に何も知らないのか」
「頼む。少しでもいい、心当たりはないか。
あんたの周りの誰かが、何か言ってなかったか」
詰め寄る距離が、次第に近くなる。悪意はない。
ただ必死なだけだった。だがその必死さは、
周囲の目には別の形に映った。クラウディアの
顔から、みるみる血の気が引いていく。
――知っている。双子から聞いている。
マリアは遠い所へ行った。無傷で生きている。
契約は完了した、と。
だが、それを口にすることは、絶対にできない。
三人だけの秘密だ。報酬として差し出した、
決して漏らせない秘密。
「私は……」
言葉が続かない。答えられない自分に、
クラウディアは打ちのめされる。
「クラウディア嬢に何をしている!」
近くにいた上級生が声を上げ、教師が駆けつける。
ガイウスは公爵令嬢に詰め寄る問題児として、
その場で取り押さえられた。
「ヴァルク、頭を冷やせ」
「一日、寮で謹慎だ」
ガイウスは抵抗しなかった。自分が冷静さを
失っていたことは、誰よりも自分が分かっていた。
だが、寮の自室に一人になった瞬間、
抑えていたものが噴き出す。拳を壁に叩きつけた。
「守れなかった……探すことすら、許されないのか」
誰もいない部屋に、彼の声だけが虚しく響いた。
◆
その夜、クラウディアは自室の窓辺で一人、
月明かりを見つめていた。
このところ、アルフォンスが少しずつ自分のもとへ
戻ってきている。卒業パーティーのドレスの仮縫いも進んだ。婚約者としての形は、確かに元に戻りつつ
ある。――望んでいたことだ。ずっと、
望んでいたことのはずだった。けれど。
ガイウスは、マリアを守ろうとしていた。
セレスは、マリアのために己の力を使おうと
していた。二人がマリアへ向けていた想いを、
クラウディアは知っている。誰よりも近くで、
見てきたつもりだった。その二人から、自分は
マリアを奪ってしまった。
「アルフォンス様には……戻ってきてほしかった」
呟く声が、震える。
「けれど、ガイウス様とセレス様から、マリアを奪いたかったわけでは……」
こんな形を、望んだわけではなかった。
ガイウスに必死に詰め寄られた時、何も言えなかった自分を思い出す。知らないふりをするしかなかった。あの必死な瞳に、何一つ応えられなかった。
自分の願いが、叶い始めている。だからこそ、
少しも喜べない。クラウディアは月明かりの下で、
声を殺して泣いた。
◆
公式な調査は、その後も続けられた。寮の出入り、
学園の門、使用人、馬車、目撃情報、部屋の状況、
周辺の魔術痕跡――すべてが、繰り返し確認された。
だが、決定的な手掛かりは何一つ出てこなかった。
誰かに消された可能性はある。だが犯人も、手段も、証拠もない。
自ら姿を消した可能性もある。だが、その足取りすら掴めない。
論理的には、これ以上追う道筋がないことを、誰もが理解していた。
理解していても、納得できるかどうかは、また別の話だった。
授業が終わった後の、誰もいない時間。夜明け前の、寮の灯りが落ちた時間。
アルフォンスは、何度も学園の地図と報告書を
見返した。マリアの部屋、寮、門、訓練場――
指でなぞった線は、どこにも繋がらない。それでも、双子の名の上で指が止まる。証拠はない。それでも、疑念だけが消えなかった。
ガイウスは謹慎が明けた後、夜明け前にこっそりと
寮の周辺や裏庭を歩き回った。見落としがあるはず
だと、自分に言い聞かせながら。
だが、何も見つからない。
セレスは人目を避け、もう一度、もう一度と、
同じ場所に違う探知術式を重ねた。検出方法を変え、術式の発動痕を探し続けた。結果は、
いつも同じだった。何も、出てこない。
そのたびに、三人の心はすり減っていった。
◆
「証拠がないまま動き続ければ、こちらが壊れます」
カイルが、静かだが有無を言わせない声で言った。
「探すなとは言いません。ですが今のままでは、
同じ場所を何度も掘り返しているだけです」
「休むことも、必要ですよ」
レオンハルトが、穏やかに続ける。
「マリア嬢が戻られた時、皆が倒れていては意味がないよ」
正しい言葉だった。正しいからこそ、
重く胸にのしかかる。
アルフォンスも、ガイウスも、セレスも、
何も言い返せなかった。追いたい。探したい。
見つけたい。その想いは消えない。
けれど、進むべき道が、どこにもなかった。
彼らは感情を押し殺し、表向きだけは
日常へと戻っていくしかなかった。
◆
マリアの失踪から数日が経つ頃、学園の空気は
奇妙な形で変わり始めていた。
これまで学園は、どこか派閥じみた緊張感に包まれていた。マリアを守ろうとする者たち。クラウディアを支持する者たち。その周囲で様子を窺う者たち。
王女殿下方を腫れ物のように扱う者たち。だが、
その中心にいたマリアが消えたことで、
張り詰めていた空気は少しずつ緩んでいった。
当事者ではない学生たちの目には、学園に平穏が
戻ったように映る。マリアが入学する前のような、
静かな秩序が。
王太子と公爵令嬢。名門貴族の子息たち。
優秀な王女殿下方。卒業パーティーへ向けて、
日常は何事もなかったかのように動き始める。
けれど、それは当事者たちにとって、少しも救いではなかった。
マリアがいないだけだ。誰も納得していない。誰も、癒えてなどいない。
ただ、感情を隠しているだけだった。
◆
卒業パーティーの準備は、着々と進んでいく。
クラウディアのドレスの仕立て。アルフォンスの
王太子としての公務。学園行事の予定。貴族社会に
流れる噂話。すべてが、何事もなかったかのように
動いていく。
アルフォンスは王太子として振る舞い、ガイウスは
訓練へ戻り、セレスは授業と研究へ戻る。
カイルは水面下で情報を追いながらも、表向きは
冷静な顔を保つ。レオンハルトは、いつも通り穏やか
に場を整えている。クラウディアは、婚約者として
人前に立ち続ける。
誰も、マリアを諦めたわけではなかった。ただ、
追う道が、どこにもなかった。
そして、感情を隠して、日々をやり過ごすしか
なかった。
学園には、平穏が戻った。マリア・エヴァンスが
入学する前のような、静かな平穏が。
けれどその平穏は――消えた少女の不在の上に、
静かに成り立っているだけだった。
双子「残念!マリアちゃん人形はボッシュートになります!」
PCで書いた後にスマホで改行の調整してるので、PCからだと読み辛くなるかもしれないです。