馬車の車輪が石畳を叩く音が、やけに大きく耳に響く。
クラウディアは膝の上で、一通の手紙を握りしめていた。何度も読み返したせいで、封筒の端は少し柔らかくなっている。文面は、可愛らしいものだった。
――学園では、いろいろと考えることが多く、きちんとお話しする時間を持てませんでした。卒業パーティーも、無事に終わりましたこと、心よりお祝い申し上げます。改めて、クラウディア様が私たちの義姉となってくださること、エリシアもフィリアも、とても嬉しく思っております。ささやかではございますが、お茶会にご招待させてくださいませ――
丁寧で、優しく、どこにも不審な点はない。
けれど、クラウディアの胸には、消えない不安が居座っていた。
――遠い所へ、行ってもらいました。
――無傷で、生きております。
――契約は、完了いたしました。
あの日、双子が告げた言葉が、耳の奥にこびりついて離れない。
窓の外を流れる王都の景色を見つめながら、クラウディアはその不安を無理やり押し殺した。義姉として招かれたのだ。悪いようになるはずがない。
そう自分に言い聞かせながら、馬車は王城へと近づいていった。
◆
通された一室は、柔らかな陽の光に満ちていた。
卓上には、白磁の茶器が美しく並べられている。焼き菓子、砂糖菓子、色鮮やかな果実のタルト。紅茶の湯気が、甘い香りを漂わせていた。
「クラウディア様、お越しくださってありがとうございます」
エリシアが、花のような笑みで迎える。
「卒業パーティー、本当にお疲れ様でした」
フィリアも柔らかく続けた。
「お招きいただき、光栄です」
クラウディアは礼儀正しく応じ、席に着く。
「改めて、お祝い申し上げます」
エリシアが、両手を胸の前で合わせた。
「クラウディア様が、本当に私たちのお義姉様になってくださるのですね」
「私たち、とても嬉しいです」
フィリアの声は弾んでいる。
その言葉に、クラウディアは僅かに肩の力を抜いた。少しだけ、安堵する。
けれど、胸の奥に沈んだ不安は、消えてくれなかった。
◆
甘い菓子を口に運び、紅茶を飲み、当たり障りのない会話が続く。
だが、クラウディアはついに、その穏やかさに耐えられなくなった。
カップを静かに置く。
「マリア様は、今どちらにいらっしゃるのでしょうか」
一瞬、空気が止まった気がした。
双子は静かに手を上げ、侍女たちを下がらせた。
扉が閉まり、部屋には三人だけが残る。
エリシアが、きょとんとしたように小首を傾げる。
「マリア様のこと、ですか?」
「契約はもう完了していますよ、クラウディア様」
フィリアが、柔らかく笑いながら続ける。
「お兄様とマリア様の仲は、裂かれました」
エリシアが引き継ぐ。
「卒業パーティーも、無事に終わりました」
「クラウディア様は、お兄様の隣に立たれました」
フィリアが微笑む。
「それなら――もう、忘れてもよいのではありませんか?」
クラウディアは息を呑んだ。そして、はっきりと首を振る。
「忘れられるわけがございません」
声が震える。
「私は、責任を感じているのです」
「私が、お二人にお願いしたから」
「私が、方法をお二人に一任したから」
「マリア様は、消えてしまわれたのです」
双子は、顔を見合わせた。そして、少しだけ困ったように微笑む。
「クラウディア様は、本当にお優しいのですね」
エリシアが呟く。
「では――きちんと、お見せした方がよろしいのでしょうか」
エリシアが、袖の内側から小さな結晶を取り出した。掌に収まるほどの、透明な魔術具。
「これは、マリア様がいなくなられた後の記録です」
クラウディアの顔が、強張った。
「なぜ、そのようなものを……」
「クラウディア様が、気になさると思いましたので」
フィリアが穏やかに答える。結晶が、淡い光を放ち始めた。
空中に、映像が浮かび上がる。薄暗い部屋。椅子に縛りつけられたマリアの姿。
その顔は疲弊しきっていた。目には怯えと、それを上回るほどの怒りが浮かんでいる。
映像の中の双子も、可憐なお姫様の顔のまま、マリアの前に立っていた。
記録は断片的だった。何が行われているのか、詳細までは映らない。ただ、聖属性の魔力が体内を巡ることで傷を癒す性質を持つこと。ならば、聖属性ではない魔力を流し込んだ時、何が起きるのか――その検証が進められていることだけが伝わってくる。
マリアの、引き裂かれるような悲鳴が響いた。
クラウディアの顔から、血の気が引いていく。
「聖属性ではない魔力に対しては、拒絶反応が出るようですね」
映像の中のエリシアが、冷静に呟く。
「治癒ではなく、痛みとして表れるのですね」
フィリアの声も、興味深そうに、けれど温度なく続いた。
「面白いです」
これは治療ではない。研究ですらない。これは――拷問だ。
自分が方法を一任した結果、マリアはこうして双子の手に落ちていた。
◆
映像の中で、マリアは問いに答え始めていた。
なぜアルフォンスに近づいたのか。なぜ
なぜクラウディアを追い詰めようとしたのか。
最初は抵抗していた彼女も、苦痛と恐怖の中で、少しずつ言葉を漏らしていく。
「私は……ヒロインなのよ」
掠れた声だった。
「私が、幸せになるはずだったの。
たくさんの男に愛されて、囲まれて……選ばれるはずだったの。
なのに、あの女が邪魔だった。
あの女がいるから、アルフォンス様は完全に私を選べなかった。
あの女さえ、いなければよかったのに。」
クラウディアは、言葉を失った。マリアは、なおも続ける。
「クラウディアは、ゲームの通りに振る舞っていれば、勝手に破滅していくはずだった。
高慢で、冷たくて、嫉妬深い悪役令嬢として。私は、何もしなくてもよかったの。
階段から落ちた時だって、そう。」
その一言に、クラウディアの背筋が凍りついた。
「あれは、私が自分で落ちただけ。」
マリアは、笑うように歪んだ表情を浮かべた。
「なのに、何もしていないあの女の周りに、疑いが向いた。
みんな、私を守ってくれた。笑えるでしょう?」
クラウディアの手が震える。
マリアは、本当に被害者だったのか。それとも、加害者だったのか。
その答えは、一つには定まらなかった。
マリアは、確かにクラウディアを陥れようとしていた。
けれど今、映像の中で苦痛に晒されているのもまた、マリアだった。
その矛盾に、クラウディアの心は引き裂かれそうになる。
◆
映像の中のマリアの目に、今度は憎悪が浮かんだ。
「お前たちがいなければ……!」
双子を睨みつける。
「お前たちが、原作にいなければ……!
私のシナリオは、うまくいったのに!
クラウディアは破滅して、アルフォンス様は私を選んで……
みんな、私のものになったのに!」
映像の中の双子が、揃って首を傾げた。
「原作?」
「シナリオ?」
エリシアの声が、興味深そうに響く。
「マリア様は、この先のことも、ご存じなのですか?」
マリアの表情が、大きく歪んだ。
追い詰められた彼女は、悲鳴のように叫び始める。
「帝国が、攻めてくるんだ……!
卒業パーティーの後、戦争になる!
それを止めるのは、私だったのに!
私と、私のハーレムが、王国を救うはずだったのに!
止められるのは、私だけなのに!
お前たちのせいで……王国は破滅するのよ!」
「――ざまあみろ!」
そこで、映像がふっと途切れた。
結晶の光が消え、部屋には重い沈黙だけが残る。
クラウディアは、しばらく動けなかった。
マリアが、自分を陥れようとしていたこと。階段から自分で落ちていたこと。
アルフォンスたちの好意を、道具のように利用していたこと。
そして――帝国の侵攻という、恐ろしい未来を知っていたこと。
それを止める役割が、自分にあると信じていたこと。
そのマリアが、双子によって、まるで実験材料のように扱われていたこと。
すべてが、一度に押し寄せてくる。
クラウディアは、言葉を発することができなかった。
胸が、苦しい。
これは怒りなのか。恐怖なのか。嫌悪なのか、それとも罪悪感なのか。
自分でも、分からなかった。
◆
やがて、クラウディアはゆっくりと立ち上がった。
震える手で、テーブルの端を押さえる。
「あなたたちは……」
声が、掠れる。
「あなたたちは、何をしたのですか」
双子は、可憐に首を傾げた。
「記録をご覧になった通りです」
エリシアが、静かに答える。
「聖属性について、少し調べさせていただきました」
「私は……」
クラウディアの声が、怒りに震える。
「私は、マリア様を害してほしくないと申し上げました!」
エリシアが、穏やかに頷いた。
「ええ。そう仰いましたね」
フィリアも、微笑んだまま続ける。
「ですので、
「卒業パーティーまでに、マリア様とお兄様の仲を裂くこと」
エリシアが言う。
「方法は、私たちに一任」
フィリアが続ける。
「彼女が、お兄様の手の届かない場所へ行った時点で――
「その後のことは、契約とは関係ございません」
クラウディアは、息を詰まらせた。
「珍しい聖属性の使い手が、手元に残りました」
エリシアが、当然のように言う。
「ですから、調べました」
「ただの副産物です」
フィリアが微笑む。
「契約を完了させた後のことですから――問題ありませんよね?」
クラウディアの顔から、完全に血の気が引いた。
問題ないわけがない。
けれど、契約の文言だけを見れば、双子は何一つ破っていない。
方法を一任したのは、自分だ。
秘密にすると頷いたのも、自分だ。
その扉を開けてしまったのも――自分だった。
クラウディアの目に、涙が滲む。
怒りと、恐怖と、悔恨と、自分自身への嫌悪。
そのすべてを込めて、彼女は双子を睨みつけた。
「この悪魔め……!」
声が、震える。
「あなたたちは……悪魔よ!」
双子は、にっこりと笑った。
可憐な王女の笑みのまま、まるで褒め言葉を受け取ったかのように。
「悪魔、ですか」
エリシアが、興味深そうに呟く。
「クラウディア様は、詩的な表現をなさるのですね」
フィリアが、くすりと笑う。
クラウディアの体が、震えた。
双子は、最後まで、その仮面を崩さなかった。
「マリア様は……今、どちらに」
クラウディアは、震える声で尋ねた。
「この後、彼女は遠くの森の奥へ、転移させました」
フィリアが、穏やかに答える。
「もう、私たちの手元にはいません」
その言葉に、クラウディアはわずかに安堵しかけた。
けれど、エリシアが続けた言葉が、その安堵を打ち砕いた。
「今頃は――動物たちの餌になっているかもしれませんね」
フィリアが、くすりと笑う。
「もちろん、それは私たちにも分かりませんけれど」
クラウディアの中で、何かが完全に崩れ落ちた。
マリアは、悪人だった。自分を陥れようとしていた。攻略対象たちを利用していた。
それでも――。
こんな終わり方を、望んだわけではなかった。
クラウディアは、声を殺して泣いた。
公爵令嬢としての矜持も、王太子の婚約者としての気丈さも、何一つ守れないまま。
ただ、涙が止まらなかった。
双子は、そっとハンカチを差し出した。
「クラウディア様」
「どうか、お気を落とされませんように」
その優しい声が――何よりも、恐ろしかった。
◆
しばらくして、クラウディアは王城を後にした。
来た時よりも、ずっと暗い顔で。
馬車に乗り込む彼女の手は、まだ震えていた。
双子から受け取った祝福の言葉。マリアの映像。帝国の侵攻。契約。副産物。悪魔。
すべてが、頭の中で混ざり合っていた。
アルフォンスとの婚約は、守られた。卒業パーティーも、無事に終わった。
公爵令嬢としての未来も、取り戻したはずだった。
けれど、クラウディアはもう――以前の自分には戻れない。
自分が契約を結んだ相手が、何者だったのか。
その正体を、彼女は今、知ってしまった。
馬車は静かに走り出す。
クラウディアは暗い顔のまま、王城を後にした。