目を覚ました瞬間、マリアは自分がどこにいるのか分からなかった。
視界に映るのは、見覚えのない石造りの壁。薄暗い部屋の床には、微かに光る幾何学模様が浮かんでいる。――ここは、どこ。
自室ではない。女子寮でもない。王立学園のどこでもない。
外の音が、まったく聞こえない。息を吸っても、空気が妙に重く感じる。
必要最低限の家具。そして、用途の分からない、見たこともない形の魔術具がいくつも並んでいる。マリアは慌てて記憶を辿った。
――そうだ。部屋にいた。棚の下に、光る珠が転がっているのを見つけた。何気なく拾い上げた。その瞬間、まばゆい光に包まれて。
そして、ここにいる。
「……誰か!」
叫んだつもりだった。だが、自分の声が、妙に近くで消えていくのを感じる。
外へ届いている感覚が、まるでない。部屋全体に、何か特殊な結界が張られている。
マリアは、じわじわと理解し始めていた。自分は、完全に隔離されている。
◆
部屋の奥に、人の気配がした。
振り返ると、そこにエリシアとフィリアが立っていた。
銀白の髪。澄んだ青い瞳。学園で見せる、あの完璧なお姫様の姿そのまま。
けれど、いつもよりも僅かに、その微笑みの温度が低い気がした。
礼儀正しく、優しく、柔らかい。それでいて、その目は――まるで観察するもののように、
静かにマリアを見つめている。
「あなたたちが……!」
マリアは声を荒げた。
「あなたたちがやったのね! 私をどこに連れてきたの!」
「こんなことして、ただで済むと思ってるの!」
双子は、怒らなかった。
エリシアが、静かに微笑む。
「お目覚めですか、マリア様」
フィリアが、楽しそうに首を傾げた。
「ご気分は、いかがですか?」
「ふざけないで!」
マリアは叫んだ。
「アルフォンス様たちが、すぐに私を探しに来るわ!」
「ガイウスだって、セレスだって、私を放っておくはずがない!」
「私は……こんなところで終わる人間じゃないの!」
◆
マリアは、自分を奮い立たせようとしていた。まだ、終わっていない。
アルフォンスは、自分に想いを告げた。ガイウスも、セレスも、自分を求めている。
卒業パーティーまでに返事をすれば、すべてが望んだ形になるはずだった。
だから、彼らは必ず探しに来る。必ず、助けに来る。
そう、信じようとした。
「私は……選ばれる側なの」
マリアは、震える声で言った。
「みんな、私を必要としているの」
「あなたたちみたいな、突然出てきた邪魔者とは違う」
「私は、幸せになるはずだったのよ」
双子は、その言葉を静かに聞いていた。
反論もせず、怒りもせず、ただ興味深そうに見つめている。
「なぜ、そこまで確信していらっしゃるのですか?」
エリシアが、穏やかに尋ねた。
「アルフォンスお兄様たちが、必ずマリア様を選ぶと?」
マリアは、苛立ちのあまり、思わず言葉を滑らせた。
「当たり前でしょう」
「だって私は――ヒロインなのよ」
双子の目が、わずかに変わった。
◆
「ヒロイン」
エリシアが、静かにその言葉を繰り返す。
「物語の登場人物のような、言い方ですね」
フィリアが、楽しそうに続けた。
マリアは、はっとした。だが、動揺と怒りが、その口を止めてはくれなかった。
「そうよ」
「この世界は、そういう世界なの」
「本当なら、私はアルフォンス様に選ばれるはずだった」
「クラウディアは、悪役令嬢として破滅するはずだった」
「卒業パーティーで、全部決まるはずだったの」
「本当なら?」
エリシアが、静かに問い返す。
「はずだった?」
フィリアも続けた。
「マリア様は、何を知っていらっしゃるのですか?」
マリアは唇を噛んだ。だが、失いかけた優位性を取り戻したくて、さらに言葉を吐き出してしまう。
「私は、知ってるの」
「原作を」
「この先のシナリオを」
「あなたたちは、原作にいなかった存在しないはずの、異物なのよ」
「あなたたちさえいなければ、全部うまくいったのに!」
双子は、顔を見合わせた。
そして――嬉しそうに、微笑んだ。
◆
「原作」
エリシアが、穏やかに呟く。
「シナリオ」
フィリアが続けた。
「懐かしい言葉ですね」
マリアの表情が、凍りついた。
「……懐かしい?」
エリシアが、静かに微笑む。
「ええ。私たちにも、前の世界の記憶がありますから」
「マリア様だけでは、ありませんよ」
フィリアが続けた。
「この世界で、前世を覚えているのは」
マリアは、一瞬、理解できなかった。
自分だけが特別なはずだった。自分だけが、ゲームの知識を持っているはずだった。
だからこそ、ヒロインとして攻略対象たちを導けた。
クラウディアを悪役令嬢として追い込めた。未来の戦争すら、知っていた。
なのに。
目の前の双子も――転生者。
原作に存在しなかった王女たち。自分のシナリオを狂わせた、最大の不確定要素。
その正体が、自分と同じ、転生者だった。
「嘘よ」
マリアの声が、震える。
「そんなの、聞いてない」
「あなたたちが転生者なんて、そんな設定なかった!」
「原作にいなかったくせに!」
「そうですね」
エリシアが、穏やかに答えた。
「私たちは、あなたの知る物語には、いなかったのでしょう」
「でも、ここにはいます」
フィリアが微笑む。
「今、あなたの目の前に」
マリアの呼吸が、乱れていく。
自分の原作知識は、絶対ではない。自分は、唯一ではない。
自分は――この世界の中心ではない。
その事実が、マリアの足元から、音を立てて崩れていった。
◆
「お前たちがいなければ!」
マリアは、髪を振り乱して叫んだ。
「お前たちが出てこなければ、全部うまくいったのに!」
「クラウディアは破滅して、アルフォンス様は私を選んで、
ガイウスもセレスもカイルもレオンハルトも私のものになった!」
「私は――幸せになれたのよ!」
「私が、王国を救うはずだったのに!」
双子は、静かにそれを聞いていた。怒らない。反論もしない。
ただ、記録するように、じっとマリアを見つめている。
マリアは、その視線にすら苛立った。
「何なの、その目!」
「私を見るな!」
「私は――実験材料なんかじゃない!」
その言葉に、双子がわずかに反応した。
「実験材料」
フィリアが、繰り返す。
「ええ。良い表現ですね」
エリシアが、穏やかに頷いた。マリアの体が、凍りついた。
◆
エリシアが、袖の中から小さな結晶を取り出した。
透明な、掌に収まるほどの魔術具。
「マリア様は、とてもたくさんのことを、ご存じのようです」
フィリアが、にっこりと笑う。
「では――きちんと、記録しておきましょう」
エリシアも、静かに頷いた。
「何をするつもり」
マリアの声が、掠れる。エリシアは、答えずに魔術具を起動させた。
結晶が淡く光り、空中に小さな魔法陣が浮かび上がる。
フィリアが、可愛らしく告げた。
「では――実験開始としましょう」
◆
それから何がどれほど続いたのか、マリアにはもう分からなかった。
薄暗い部屋に、彼女の悲鳴が幾度も響いた。
聖属性の魔力は、体内を巡ることで傷を癒す。
ならば、聖属性ではない魔力を流し込んだ時、
何が起きるのか――双子はその検証を、淡々と続けていった。
「聖属性ではない魔力に対しては、拒絶反応が起こるようですね」
エリシアの声が、冷静に響く。
「治癒ではなく、痛みとして出るのですね」
フィリアが、興味深そうに呟いた。
「面白いです」
マリアは、苦痛と恐怖の中で、言葉を吐き出していった。
自分がヒロインだから幸せになるべきだと思っていたこと。
たくさんの男に囲まれ、愛される未来を望んでいたこと。
そのために、クラウディアが邪魔だったこと。
クラウディアはゲームの通りに振る舞っていれば、勝手に破滅すると思っていたこと。
階段から落ちたのは、自作自演だったこと。
何もしていないクラウディアの周りに疑いが向いたことを、内心で笑っていたこと。
双子がいなければ、自分のシナリオは成功していたと、憎み続けていること。
「マリア様は、この先の展開も、ご存じなのですか?」
エリシアが、静かに問いかける。
苦痛と怒りに震えながら、マリアは叫んだ。
「帝国が、攻めてくるんだ!」
「卒業パーティーの後、戦争になる!」
「それを止めるのは、私だったのに!」
「私と、私のハーレムが、王国を救うはずだったのに!」
「止められるのは、私だけなのに!」
「お前たちのせいで――王国は破滅するのよ!」
「――ざまあみろ!」
◆
エリシアが、静かに魔術具を止めた。結晶の光が消える。
マリアは、荒い息を繰り返していた。
怒りと、恐怖と、屈辱と、絶望。すべてが混ざり合った目で、双子を睨みつける。
「たくさん、教えていただけましたね」
フィリアが、記録の内容を確かめるように呟いた。
「聖属性」
エリシアが頷く。
「精神への作用」
「原作知識」
「未来の戦争」
「どれも、貴重です」
マリアは、震えた。
自分が持っていた情報は、切り札だったはずだった。
けれど今は、双子にとって、ただの資料になっている。
しかも――もう、その資料としての役目すら、
終わりつつあることに、マリアはまだ気づいていなかった。
◆
「聖属性は、極めて珍しいのです」
エリシアが、静かに語り始めた。
「傷跡を消し、肉体を癒し、対象の魔力と深く関わる」
「しかも――治癒を受けた方々には、奇妙な変化が見られました」
フィリアが、楽しそうに続ける。
「好意、信頼、警戒心の低下」
「ガイウス様も、セレス様も、お兄様も
マリア様と関わるほど、ずいぶん優しくなりましたね」
「私たちには、効きませんでしたけれど」
エリシアが、興味深そうに付け加えた。
「それも、面白いですよね」
フィリアが微笑む。
マリアの顔が、青ざめていく。
自分でも、完全には理解していなかった聖属性の作用。
それを、双子は観察していた。分析していた。マリア本人よりも、ずっと冷静に。
◆
恐怖が、マリアの声を震わせた。
「私を……どうするつもり」
「殺すの?」
双子は、すぐに首を振った。
「殺しませんよ」
エリシアが、穏やかに答える。
「そんな、もったいないことはしません」
マリアは、一瞬だけ安堵しかけた。
殺されない。ならば、まだ助かる可能性がある。
アルフォンスたちが探しに来るかもしれない。
取引できるかもしれない。命乞いすれば、許されるかもしれない。
けれど、次の言葉が、その僅かな希望を打ち砕いた。
「聖属性の使い手は、大変貴重です」
エリシアが言う。
「それに、前世と原作知識を持っていた方でもあります」
フィリアが続ける。
「知っていることは、もう十分に教えていただきました」
「ですから、これからのマリア様に必要なのは――お話しすることでは、ありません」
マリアの顔から、完全に血の気が引いた。
◆
「大丈夫です」
エリシアが、優しく言った。
「もう、何かを考える必要はありません」
「何かを話す必要も、ありません」
フィリアが、にこりと笑う。
「眠っていてください」
エリシアが、静かに告げた。
「ずっと」
マリアは、震えた。それは、死ではない。
けれど――自由も、未来もない。
ヒロインとしての人生。アルフォンスとの未来。
たくさんの男に囲まれる日々。卒業パーティー。王国を救う役割。
そのすべてが、奪われる。しかも、もう二度と、起こされる予定すらない。
命は続くのに、人生だけが終わる。
眠ったまま、ただ聖属性を宿した素材として――永遠に、保存され続ける。
◆
強がりは、もう続かなかった。
「嫌」
マリアの声が、掠れる。
「そんなの、嫌」
「お願い、帰して」
「何でも話すから」
「まだ話してないことだって、あるかもしれない」
「帝国のことも、ゲームのことも……もっと、思い出すから」
「だから――眠らせないで」
「私を、物みたいにしないで」
双子は、困ったように微笑んだ。
「お気遣い、ありがとうございます」
エリシアが、静かに答える。
「けれど、本当に――もう十分です」
「いや」
マリアは、首を振った。
「いやよ」
「私は、ヒロインなの」
「こんなところで、終わるはずない」
「終わりますよ」
エリシアの声は、あくまで穏やかだった。
「ただ、生きてはいていただきます」
その意味を、マリアは理解してしまった。
自分の物語は、終わる。けれど、命だけは終わらない。
それは救いではない。人格を奪われたまま、
永遠に保存され続けるという宣告だった。
「助けて!」
マリアは、泣きながら叫んだ。
「アルフォンス様!」
「ガイウス!」
「セレス!」
「誰か……!」
声は、閉ざされた結界の中に吸い込まれていく。誰にも、届かない。
◆
魔法陣の光が、静かに強まっていく。
マリアの目が、恐怖に見開かれた。
彼女は最後に、声を限りに叫んだ。
けれどその声は、学園にも、アルフォンスにも、ガイウスにも、セレスにも――
そして、クラウディアにも、届くことはなかった。
すべての記録が、誰かに見せられるわけでもない。
双子は、ただ静かに、その様子を見つめていた。
エリシアが、微笑む。
フィリアも、微笑む。
「眠っていただきましょう」
「もう――目覚めなくていいように」
マリアの悲鳴が、閉ざされた部屋の中だけに、いつまでも響いていた。