祝福の鐘、沈黙の罪
王都は、久しぶりに祝賀の空気に包まれていた。
王立学園を卒業したアルフォンスが、正式に王太子として立てられる。その報せは、瞬く間に貴族社会を駆け巡った。
学園在学中、王太子殿下が子爵令嬢マリア・エヴァンスと親しくしていたという噂。クラウディアとの間に不和があったという噂。卒業パーティーで何かが起きるのではないかと囁かれていたこと。だが、結局何も起きなかった。
婚約破棄はなかった。断罪劇もなかった。アルフォンスはクラウディアを伴って卒業パーティーへ入場し、最後まで婚約者として振る舞った。
親世代にとって、それで十分だった。
「一時はどうなることかと思ったが」
「最後には、あるべき形に落ち着いた」
「やはりアルフォンスにはクラウディア嬢がふさわしい」
「これで王国の未来も安泰だ」
表向きには、何もかもが正しい場所へ収まっていく。
けれど当事者たちだけが知っている。その安定の中心に、一人の少女の不在があることを。
王城の大広間には、荘厳な空気が満ちていた。
王家の紋章が掲げられ、整列した貴族たちが息を潜めて見守る中、アルフォンスは国王と王妃の前に跪いていた。彼の声は落ち着き、所作に一切の乱れはない。
「王国を守り、民を導き、王家の責務を果たすことを、ここに誓います」
理想的な王太子の姿だった。貴族たちは満足げに頷き、国王は誇らしげに我が子を見つめる。
クラウディアも、婚約者として、その厳かな姿を見つめていた。
けれど、アルフォンスの心は晴れていない。
マリアは、まだ見つかっていない。双子への疑念も、まだ消えていない。
それでも彼は、王太子として立たなければならなかった。マリアを探し続けたいという感情と、王国を背負う責任。その狭間で、アルフォンスは今日も感情を押し殺している。
儀式の間、彼は一度も乱れなかった。だからこそ、その姿は痛々しかった。
クラウディアは、儀式を見つめながら、胸の奥が締めつけられるのを感じていた。
アルフォンスは王太子になる。そして自分は、その隣に立つ女になる。
それは、幼い頃からずっと望んできた未来だった。努力して、耐えて、ふさわしくあろうと生きてきた。だから本来なら、心の底から喜ぶべき瞬間のはずだった。
けれど、素直に喜べない。マリアのことを知っている。
双子の本性を知っている。自分が契約の引き金を引いたことも、知っている。
アルフォンスの隣に立てる喜びは、確かにある。
けれどその喜びは、決して罪悪感から切り離せない。
――私は、ここに立ちたかった。
――けれど、そのためにマリア様が消えることを望んだわけではない。
――それでも、私の願いが、あの結果を呼んでしまった。
クラウディアは、微笑んだ。
王太子の婚約者として。未来の王太子妃として。誰にも悟られないように。
◆
それから時を置いて、王城の大礼拝堂でアルフォンスとクラウディアの結婚式が執り行われた。
王都はさらに華やぎ、鐘の音が高らかに鳴り響く。白と金の装飾に彩られた大礼拝堂に、花びらが舞う。
「なんとお似合いのお二人だ」
「王国の未来は明るい」
「一時の噂など、やはりただの噂だったのだな」
国王と王妃は安堵し、ローゼンベルク公爵家も誇らしげに二人を見守る。親世代にとって、これは婚約危機を乗り越えた幸福な結末だった。
けれど、誓いの言葉を交わすアルフォンスとクラウディアの目には、どこか消えない悲しみが残っていた。アルフォンスの声は穏やかだった。表情も整っている。けれど、熱は薄い。
マリアへの想いが消えたわけではない。彼女を諦めたわけでもない。
ただ、追う道がなかった。王太子として、国の未来を放り出すこともできない。
目の前にいるクラウディアは、長く自分の婚約者だった女性。
自分の隣に立ち続けようとしてくれた女性だ。
だからアルフォンスは、彼女を拒まなかった。
けれどその承諾は、恋の熱ではなく、責任と疲弊と諦念でできていた。
クラウディアは、それを分かっていた。それでも、アルフォンスの隣に立てることが嬉しかった。
嬉しいと思ってしまう自分が、苦しかった。鐘が、高らかに鳴る。
クラウディアには、それが祝福の鐘にも、裁きの鐘にも聞こえた。
結婚式は、何事もなく終わった。
王太子夫妻の誕生。王位継承の安定。王家と公爵家の結びつき。貴族たちは皆、安心していた。
マリア・エヴァンスの名は、少しずつ表舞台から消えていく。失踪した哀れな子爵令嬢。一時、王太子たちと親しくしていた少女――王国の大きな流れの中で、彼女の不在すらも、静かに飲み込まれていった。王国は、前へ進んでいく。
誰かがいなくなっても。誰かが壊れていても。
◆
結婚式から数日後、王城の一室で、双子は国王の前に立っていた。
「お父様」
エリシアが、可憐な声で切り出す。
「私たち、お願いがあるのです」
国王は、娘たちに甘い。優秀で美しく、礼儀正しい双子姫は、王家の誇りだった。
「私たち、帝国へ留学してみたいのです」
フィリアが、少し甘えるように続ける。
「王国の外を見て、もっと多くのことを学びたいのです」
「帝国の文化、魔術、政治、学術……」
「王族として、他国を知ることは、きっと王国のためにもなると思うのです」
国王は感心したように頷いた。王太子夫妻の体制が整った今、双子が見聞を広めることは、決して悪い話ではない。帝国との関係維持にも、将来の外交にも繋がるだろう。
その場にいたアルフォンスは、すぐに口を開いた。
「王女二人を同時に帝国へ留学させるのは、危険です。
帝国との関係は、必ずしも盤石ではありません。
万一、人質として扱われれば、外交問題になります。
せめて、時期をずらすべきです。」
正論だった。だが、それは本当の理由ではなかった。
マリア失踪に、双子が関わっているかもしれない。あの二人は危険だ。どこにいても、何をするか分からない。そう言いたかった。だが、証拠がない。
「お兄様は、私たちを心配してくださっているのですね」
エリシアが、悲しげに目を伏せる。
「ありがとうございます」
「でも、私たちは王族です」
フィリアが続ける。
「守られるだけではなく、学ぶことも必要だと思うのです。
お兄様は、私たちが何もできない子どもだと思っていらっしゃいますか?
それとも、私たちが王国の役に立とうとすることは、いけないことでしょうか。」
周囲の空気が、静かに双子へ傾いていく。
「心配は分かる」
国王が、穏やかにアルフォンスへ言った。
「だが、あの子たちも王族だ。
見聞を広げることは、将来必ず王国の益となる。」
アルフォンスは、それ以上強く言えなかった。双子の本性を説明できない。過去の契約も、マリア失踪への疑いも、何一つ証拠がない。
「……では、護衛と連絡手段は厳重にしてください。
定期報告も義務づけるべきです。
帝国側の受け入れ先も、慎重に選定してください。」
国王は頷いた。
「もちろんだ。」
双子が微笑む。
「お兄様に心配をかけないよう、きちんといたしますね」
アルフォンスは、その言葉を一切信じられなかった。
だが、止められなかった。
◆
一人になった後、アルフォンスは深く息を吐いた。
双子が王国から離れる。それは本来、安堵すべきことのはずだった。
あの二人が、クラウディアのそばにも、自分のそばにもいなくなる。
だが、本当にそれでいいのか。
王国の中にいても危険だった二人が、帝国へ行けば安全になるとは思えない。むしろ、自分の目が届かない場所で、何をするか分からない。
「王国に置いておくのも、怖い。だが、帝国へ出すのも、怖い。
あの二人は、どこへ行っても、何かを壊す。」
彼はそう思った。だが、証拠も権限も足りない。王太子になったばかりの自分でさえ、双子を止められなかった。
クラウディアもまた、双子の帝国留学を知らされた。
「クラウディア様」
エリシアが、無邪気な義妹の顔で報告する。
「私たち、帝国へ留学することになりました。
少し寂しくなりますけれど、たくさん学んでまいりますね。」
「あら……それは、素晴らしいことですわね。」
クラウディアは微笑んだ。王太子妃として。義姉として。
「どうか、お体に気をつけて。」
声は乱れなかった。だが、内心は凍りついていた。
――あの悪魔たちが、帝国へ行く。
クラウディアは、マリアの口から聞いた言葉を思い出していた。卒業パーティーの後、帝国が攻めてくる。それを止めるのは、本来マリアと攻略対象たちだったはずだと、マリアは叫んでいた。
その言葉が真実かどうか、クラウディアには分からない。けれど、もし真実だったなら。
双子は、帝国が王国へ攻めてくる可能性を知ったうえで、帝国へ向かおうとしている。
何も起きないはずがない。
けれど同時に、クラウディアの胸には、別の考えが浮かんでいた。
双子が帝国へ行く。王国から離れる。自分のそばからも、アルフォンスのそばからも離れる。
――ならば、今なら言えるのではないか。
双子の目が届かない場所で、アルフォンスへ、すべてを告白できるのではないか。
あの日、自分が双子に願ったこと。マリアとアルフォンスの仲を裂いてほしいと頼んだこと。方法を一任してしまったこと。三人だけの秘密にすると頷いたこと。
すべてを話せるのではないか。一瞬、そう思った。
だが、すぐに恐怖が押し寄せてくる。
告白すれば、アルフォンスは知ってしまう。マリア失踪の引き金を引いたのが、自分だということを。
マリアを消してほしいとは言っていない。害してほしいとも願っていない。けれど、仲を裂いてほしいと願った。方法を任せた。秘密にすると約束した。
双子を動かしたのは、自分だ。アルフォンスは、マリアを想っていた。今も忘れていない。
そのアルフォンスが、自分を許すはずがない。
「知られてしまったら……
私は、アルフォンス様に見限られる。
妃としてではなく――人として。」
クラウディアの手が、震えた。
怖い。怖い。怖すぎる。
やっと隣に立てた。やっと王太子妃になれた。やっと婚約破棄の不安から解放された。
それなのに、自分の口ですべてを壊す勇気が、どうしても出なかった。
クラウディアは、沈黙を選んだ。
この沈黙が、後にどれほど大きな後悔になるかも知らずに。
◆
双子の帝国留学は、正式に決まった。
王城では、護衛の選定、侍女の手配、外交文書の準備、帝国側への連絡、学園への受け入れ調整が着々と進んでいく。
表向きには、優秀な王女たちの華やかな留学。王国の誇り。王家の外交。
国王は娘たちの成長を喜び、王妃は少し寂しがりながらも応援した。貴族たちも、双子の将来性を口々に称えた。
「王国の名に恥じぬよう、努めてまいります」
「帝国で多くを学び、いつか王国の役に立てるように」
誰も疑わなかった。
ただ、アルフォンスとクラウディアだけが、その言葉を聞いても笑えなかった。
◆
出発準備の中、アルフォンスは人目の少ない場所で、双子へ最後に釘を刺した。
「帝国で、余計なことはするな」
双子はきょとんとした後、可憐に微笑んだ。
「余計なこと、ですか?」
「私たちはただ、お勉強をしに行くだけです」
アルフォンスは、二人を見つめた。昔と同じ顔。昔と同じ声。けれど、その奥にあるものを、彼は知っている。
「……信じてはいない」
エリシアは、悲しげに目を伏せた。
「お兄様に信じていただけないのは、悲しいです」
フィリアが、寂しそうに微笑む。
「けれど、いつか分かっていただけるよう、努力いたしますね」
アルフォンスは、言葉を失った。
また、これだ。証拠がない。周囲から見れば、妹を疑う兄にしか映らない。
彼は拳を握りしめた。双子は優雅に礼をし、去っていった。
クラウディアもまた、双子と短く言葉を交わした。
「クラウディア様」
エリシアが、義姉への別れの挨拶を告げる。
「お義姉様になってくださって、本当に嬉しいです」
「私たちがいない間、お兄様をよろしくお願いいたします」
クラウディアは、息を呑んだ。
その言葉は、一見すれば義妹から義姉への可愛らしい挨拶だった。けれど、クラウディアには違って聞こえた。
――秘密を守れ。余計なことを言うな。お兄様の隣にいたいなら。
「ええ……どうか、お気をつけて」
クラウディアは、微笑むしかなかった。
双子は、にっこりと笑った。
「ありがとうございます」
「クラウディア様も、お幸せに」
その祝福が、まるで呪いのように響いた。
双子の帝国留学が決まり、王国は祝福と安定に包まれていた。
アルフォンスは王太子となり、クラウディアは王太子妃となった。王家と公爵家の結びつきは強まり、貴族社会は安堵している。
マリア・エヴァンスの失踪は、未解決のまま。だが表向きの世界は、もう彼女を中心には回っていない。
すべてが整ったように見える。だが、その裏で。
アルフォンスは双子を止められなかった。クラウディアは真実を告白できなかった。
そして双子は、次の盤面へ向かおうとしている。
「帝国、楽しみですね」
エリシアが呟く。
「ええ。たくさん学べそうです」
フィリアが微笑む。
可憐な王女たちは、無邪気に笑い合っていた。
その笑顔を見て、アルフォンスとクラウディアだけが、静かに凍りついていた。
ただし、二人が見つめているものは、同じではない。
アルフォンスは、双子という存在そのものを恐れている。
クラウディアは、その双子が帝国侵攻の未来を知ったうえで、帝国へ向かおうとしていることを恐れている。
王国には、祝福の鐘が鳴り続けている。
しかしその音は――次の破滅の幕開けにも、聞こえていた。