アルフォンスは、その場にただ立ち尽くしていた。自分の震える両手を見つめ、それから血を流すエリシアを見る。故意ではない。妹を傷つけるつもりなんて、毛頭なかった。けれど、その引き金を引いたのは、間違いなく自分自身の醜い嫉妬の心だった。
「ち、違う……僕は……そんなつもりじゃ……」
声がガタガタと震え、言葉にならない。
エリシアは小さな手で右の頬を押さえていた。指の隙間から、ドクドクと赤い血が滲み出ていく。
それでも、彼女は泣かなかった。痛みに顔を歪めることすらなく、ただ静かに、冷徹な目で、自らの傷の深さと周囲のパニック状態を「観察」していた。
その沈黙の中で、最初に動いたのはフィリアだった。
「――お兄様」
その口から漏れた声は、これまでの人生で聞いたことがないほど、低く、冷たかった。
普段の天真爛漫な明るさは完全に消失している。青い瞳の奥底には、激しい憎悪と、押し殺しきれない狂暴な怒りが業火のように燃え盛っていた。感情の爆発に呼応するように、フィリアの周囲で膨大な魔力が津波のように膨れ上がり、部屋全体の空気が物理的な重圧となって沈み込む。訓練室の頑強な防護結界が、みしみしと悲鳴を上げて軋み、老魔法士が恐怖に顔を歪めて悲鳴を上げた。
「フィリア様、いけません! 魔力を収めてください!」
だが、フィリアは止まらない。アルフォンスに向けて、怒気を孕んだ足取りで一歩を踏み出す。その瞳は、もはや実の兄を見ていなかった。ただの『エリシアを傷つけた排除対象』を冷酷に見据えていた。そのフィリアの小さな身体を、背後からエリシアがそっと抱きしめた。
「フィリア」
短く、しかし明確な制止の声。それだけで、フィリアの狂暴な足がぴたりと止まる。
「ここは、私に任せて」
「……でも! エリシア、あいつ、あんたの顔を――」
「お願いだから、フィリア」
前世の男としての強い意志を孕んだエリシアの眼差しに、フィリアは悔しげに唇を強く噛み締めた。納得など到底していない。胸の中の怒りは一ミリも消えていない。それでも、エリシアがそう言うのであれば、自分は引き下がるしかなかった。それが、この世界で二人だけで生きてきた双子の間にだけ通じる、絶対的な温度だった。
エリシアは頬からゆっくりと手を離した。傷は深く、肉が裂けている。すぐに最上級の治癒魔法を施したとしても、おそらく一生消えない薄い跡が残るだろう。侍女たちは今にも泣き出しそうな顔で駆け寄り、老魔法士は恐怖のあまりその場に膝をつきそうになっていた。
「皆様、落ち着いてください。これはただの『事故』です」
エリシアは流れる血をそのままに、静かに、そして明確に告げた。その場にいた全員が、息を呑んで八歳の王女を見つめる。
「お兄様が、故意に私を傷つけるわけがありません。これは授業中の、不幸な魔力暴発です。先生、私の認識に間違いはありませんね?」
「し、しかし、エリシア様……殿下の制御ミスは明白で……」
「間違いはありませんね?」
とても八歳の幼女のものとは思えない、底冷えするような圧倒的な威圧感がそこにはあった。老魔法士は蛇に睨まれた蛙のように身を震わせ、ただ頷くことしかできなかった。
「侍女の皆様も、余計なことは口にしないでください。お母様には、私から上手く説明をします。この騒ぎを必要以上に大きくすれば、お兄様の将来の評判にも、先生のここでの立場にも、取り返しのつかない傷がつきますわ」
被害者であるはずのエリシアが、誰よりも冷徹に、そして完璧に事態を揉み消すための処理を行っていた。十歳のアルフォンスには、その光景が全く理解できなかった。なぜ自分を責めないのか。なぜ大声で泣き叫ばないのか。なぜ、自分を庇うような真似をするのか。彼女の白い頬を伝う鮮血の赤が、かえって彼から現実感を奪い去っていく。ただ一人、フィリアだけは、エリシアの腕の中で、その煮えくり返るような怒りを必死に堪えるために、小さく小刻みに震え続けていた。
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夜になり、双子は周囲の人目を完全に排した自室で、二人きりになっていた。
宮廷医師による最低限の治療は済んでおり、激しい痛みは鎮痛の魔法で抑え込まれている。けれど、エリシアの滑らかな右頬には、痛々しくも薄い、赤い傷跡がはっきりと残されていた。
鏡の前に静かに座る姉の背中を見つめながら、フィリアはついに我慢の限界を迎え、前世の男としての口調を爆発させた。
「……なんで止めたんだよ、エリシア」
その声は、未だに怒りで激しく震えている。
「なんであいつを許した? なんで綺麗に揉み消してやったんだよ!? あいつ、エリシアの顔に傷をつけたんだぞ! 一生残るかもしれない傷を!」
感情が高ぶりすぎて、王女としての外面を保つことなど不可能だった。フィリアにとって、それは決して「ただの事故」などという言葉で片付けられるものではなかったのだ。大好きな、この世界で唯一の相棒であるエリシアが傷つけられた。その揺るぎない事実だけで、胸の奥が狂おしいほどに焼け焦げそうだった。
エリシアは、鏡越しに妹の荒れ狂う瞳をじっと見つめ返した。そして、その端正な唇を吊り上げ、妖しく、酷く愉しげに笑った。
「だってさ、フィリア。その方が、今後の展開として圧倒的に『面白い』でしょう?」
フィリアの激しい怒りの表情が、ぴたりと凍りついた。
「……面白い?」
「この傷は一生残る。でも、表向きは隠せるわ。魔術陣を組み込んだ私専用の魔術符を作って身につければ、見た目だけならいくらでも偽装できる。けれど、現実には傷は厳然として存在し続ける。お兄様は、この事実を絶対に周囲に秘密にしたい。老先生も侍女たちも、今日の不祥事を上に広められたら人生が終わるから困る。そして、私は完璧な被害者。――つまりね、フィリア。この傷は、最高の『交渉材料』になるのよ」
エリシアは自らの頬に刻まれた赤い傷跡を、愛おしそうに指先でなぞった。
肉体的な痛みはあるはずなのに、その青い瞳はどこまでも冷徹で、むしろこれからのゲームの展開を確信して楽しんでいるかのようだった。
「ただ感情に任せて怒り狂って、あいつを処罰して終わらせるなんて、前世の大人としてあまりにも芸がないし、もったいないわ。お兄様は根が『優しい』からこそ、この罪悪感を一生、死ぬまで抱え続けることになる。私が笑いかけるたびにホッとして、私が少し黙って頬に手を当てるだけで、恐怖で夜も眠れなくなるのよ。ねえ、フィリア。ただ一発殴り返すよりも、そっちの方がずっと長く、深く、お兄様を支配して楽しめると思わない?」
フィリアは、絶句した。最初は激しい困惑が脳内を占めた。エリシアが一体何を企んでいるのか、その全貌が見えなかったからだ。しかし、彼女が紡ぐ冷酷なロジックを一つずつ紐解いていくうちに、フィリアの中で燃え盛っていた怒りの形が、急速に変質していく。
ただ殴り返すよりも。子供のように泣き叫んで同情を引くよりも。法的な罰を与えて、すっきりと終わらせるよりも。実の兄の生涯にわたる『罪悪感』の首輪を握り、自分たちの都合の良い時に、いつでもそれを引き出せるようにしておく。その発想は、あまりにも残酷で、悪魔的だった。けれど――それを想像した瞬間、フィリアの胸の奥底にも、ドロドロとした奇妙な高揚感と熱が灯ってしまった。
「それって……」
フィリアはゆっくりと、自らの喉から溢れ出そうになる歪んだ歓喜の言葉を探り当てた。
「めちゃくちゃ面白そうじゃん……?」
「うん。最高にゾクゾクするわ」
エリシアは躊躇うことなく深く頷いた。部屋の中に、短い、けれど濃密な沈黙が落ちる。
フィリアはエリシアの頬の傷跡を見つめ、そして彼女の邪悪な笑顔を見た。自分の中にある強烈な怒りと、前世で覚えてしまった不謹慎な快楽が、全く同じ場所でドロドロと混ざり合っていく。
「……オッケー、私も完全にそっちの意見に賛成だわ」
その瞬間、二人はただの「同じ前世を持つ転生者同士」ではなくなった。同じ秘密を共有するだけの「仲の良い双子」という枠組みすら、もはや生温い。同じ残酷な景色を見て、同じように歪んだ笑みを浮かべ、同じ獲物をハメ殺すために手を組む存在。魂の最深部で完全に繋がり合った、絶対的な『共犯者』が、ここに誕生したのだ。
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翌朝。エリシアは何事もなかったかのような澄ました顔で、いつもの朝食の席へと現れた。
彼女の美しい頬には、昨日の凄惨な傷跡など微塵も見当たらない。陶器のように滑らかな白い肌は昨日までと変わらず、王女らしい可憐で無垢な微笑みを浮かべている。だが実際には、首元のリボンの陰に隠された小さな魔術符が、彼女の頬にある醜い赤線を、精巧な幻影の魔法で覆い隠しているだけに過ぎなかった。
朝食の席についたアルフォンスは、その姿を見た瞬間、絶望に目を見開いた。消えたのか。魔法で完治したのか。いや、そんなはずはない。昨日の傷の深さは、そんな一晩で治るようなものではなかったはずだ。
「おはようございます、お兄様。今日も良いお天気ですね」
エリシアは、いつもと寸分違わぬ、最高に愛らしい妹の笑顔をアルフォンスに向けた。それはあまりにも穏やかで、優しくて、誰が見ても非の打ち所がない、兄を慕う愛くるしい妹の姿そのものだった。
けれど――アルフォンスにだけは、本能で理解できてしまった。彼女は、自分を許したのではない。あの恐怖の出来事を、忘れたわけでもない。ただ、何らかの意図を持って、綺麗に「隠している」だけなのだ。そしてそのすぐ隣では、妹のフィリアもまた、エリシアと全く同じ、左右対称の不気味な笑顔を浮かべて自分を見つめていた。まだ、何も脅されていない。まだ、具体的な要求は何一つ突きつけられていない。自分を責める言葉すら、一言も向けられてはいない。それなのに、アルフォンスの背筋には、今までに経験したことがないほどの悍ましい悪寒が走り抜けていた。
(違う……。こいつらは、僕の知っている可愛い妹たちなんかじゃない……!)
優秀だからではない。理不尽に転んでも泣かないからではない。もっと別の、人間の皮を被ったおぞましい『何か』が、あの双子の中で完全に目を覚ましたのだと、彼の野生の王族としての本能が告げていた。
エリシアは優雅に席に着く直前、周囲の大人たちからは決して見えない絶妙な角度で、アルフォンスだけに向けた微笑みの深さを、不気味に一段階深めてみせた。その、底の知れない暗黒を孕んだ笑みを見た瞬間、アルフォンスは人生で初めて、自らの血を分けた妹たちに対して、心の底から逃げ出したいほどの恐怖を抱いた。