帝国立学園の午後は、いつも通りの静けさに満ちていた。
エリシアとフィリアは、その日も真面目に授業を受けていた。帝国式の魔術理論は、王国のものとは体系が異なる。魔力の属性分類、術式の記述方法、詠唱の省略規則――そのどれもが新鮮で、二人は興味深そうにノートを取っていた。
「王女殿下方は、本当に理解が早いですね」
教師が感心したように呟く。授業が終われば、同級生たちが自然と双子の周りに集まってくる。礼儀正しく、控えめで、それでいて話しやすい。王国の至宝と呼ばれるにふさわしい姫君たち。
アレクシアとエレオノーラも、そんな双子の様子を見ては、安堵の笑みを浮かべていた。
すべてが、順調に見えた。けれど、日が暮れ、学園の喧騒が遠のいた頃。
双子は、誰にも知られることなく、別の場所へと向かっていた。
王国使節用の別邸、その地下。
分厚い石壁と、幾重にも重ねられた遮断結界に守られたその部屋は、外の世界とは完全に切り離されている。音も、魔力の気配も、一切漏れることはない。
部屋の中央には、淡い光を放つ結晶槽があった。その中に、マリアが横たわっている。
透明な槽の内側で、彼女の肉体は静かに保たれていた。呼吸はある。心拍もある。しかし、目を覚ますことはない。槽の周囲には、幾重もの魔法陣が重なり合っていた。肉体の維持。魔力の安定。聖属性反応の保存。そして、外部からの探知を遮断する術式。
かつて叫び、命乞いをしたマリアの声は、もうこの部屋にはない。
眠る彼女の表情は、驚くほど静かだった。エリシアは、傍らの記録簿を手に取り、槽に刻まれた数値を確認していく。
「精神反応、安定。聖属性の自然漏出も、許容範囲内です」
フィリアが、槽に近づき、魔力の揺らぎを覗き込む。
「保存状態は、良好ですね。情報源としては、もう終わっていますが」
エリシアが、記録簿にペンを走らせながら続けた。
「材料としては、本当に優秀です」
その声には、憎しみも同情もなかった。ただ、対象を観察する研究者の口調だけがあった。
原作知識。帝国侵攻の未来。攻略対象たちの心理。クラウディアへ向けた悪意。階段落ちの真相。
必要な言葉は、すでにすべて引き出し終えている。
今のマリアに残されている価値は、たった一つ――聖属性を宿した肉体と、その魔力反応だけだった。双子は、これまでの観察結果を整理していた。
「聖属性は、単なる治癒属性ではありませんね」
エリシアが、記録簿の一頁を開く。
「表向き知られているのは、傷の治癒、瘢痕の消去、肉体の修復。ですが、それだけでは説明できない現象があります。普通の属性魔力を他人の体内に流せば、強い拒絶反応が出ますよね」
フィリアが続けた。
「でも聖属性は、対象の魔力に寄り添って、馴染んで、傷を修復する」
「ええ。それが一つ目の性質」
エリシアが頷く。
「二つ目は、精神への作用です。治癒を受けた者は、治癒者への信頼や好意、安心感を抱きやすくなる」
「絶対的な洗脳ではないけれど」
フィリアが補足する。
「警戒心を緩めて、心理的な距離を縮めて、好意的な解釈をしやすくさせる」
「三つ目は、浄化と拒絶の性質」
エリシアが続けた。
「乱れた魔力を整える。傷ついた魂や精神を安定させる。一方で、異質な魔力や、不自然な結合に対しては、強い反発を示す」
そこで、エリシアは一度、手を止めた。
「この性質は――私たち自身にとっては、危険ですね」
フィリアも、頷く。
「便利ではありますが、私たち自身に直接馴染ませるのは、危険かもしれません」
「治癒と調律の属性である以上、不自然な存在固定や、契約の媒介とは相性が悪いでしょうから」
エリシアの声は、あくまで静かだった。
「これは、弱点になり得ます。使うとしても外部装置経由ですね」
双子は、聖属性を自分たちの内側に取り込むのではなく、外部で生成し、外部で利用する方針を固めていた。その方針の延長として、双子は契約について話し始めた。
これまで、アルフォンスやクラウディアと交わしてきたものは、言葉と秘密、そして心理的な支配に近いものだった。だが、本格的な魔術として安定した契約を成立させるには、もっと確かな形式が必要になる。
エリシアは一度、聖属性を使って契約を魂に刻む案を検討していた。聖属性には精神や魂に触れる性質があるため、一見すると契約魔法に向いているようにも見える。
だが、すぐにその案を却下した。
「理由は三つあります」
エリシアは、指を折りながら説明する。
「一つ目。聖属性は治癒、調律、浄化に寄る性質を持ちます。願いと対価の歪みをそのまま固定する契約とは、本質的に相性が悪い」
「二つ目。聖属性は将来、契約存在や不自然な魔力結合を破壊・浄化する弱点になり得ます。それを契約の基盤にすれば、後々、私たち自身の首を絞めることになる」
「三つ目」
エリシアは、静かに続けた。
「私たち自身が、聖属性を扱えるようになる必要はありません。聖属性は利用対象であって、私たちの根幹に入れるべきものではない」
フィリアが、楽しそうに頷く。
「じゃあ、契約は別の作り方をするのね」
「ええ」
エリシアが微笑む。
「契約とは、心を綺麗に繋ぐものではありません
願い、対価、当事者の同意、言葉の解釈、履行条件
それらを紙面に固定し、魔術的な証拠として世界に保存するもの
つまり、契約の本体は――『聖なる誓い』ではなく『改竄不能な記録』」
そうして、双子は契約書魔術具の原型を組み上げていった。
エリシアが理論と構築を担当する。文字、紙面、署名、条件分岐、履行判定、対価の記録――複雑な術式を、一つひとつ丁寧に設計していく。
フィリアは、高出力の魔力供給を担った。エリシアの組んだ術式を動かすためには、膨大な魔力を安定して流し続ける必要がある。フィリアの魔力量は、その役割に十分過ぎるほど見合っていた。
やがて、机の上に一枚の白紙が浮かび上がる。ただの紙ではない。
契約者が願いを口にすれば、その内容が文字として浮かび上がる。対価を述べれば、それも記録される。条件が曖昧なら、あえて曖昧なまま保存される。言葉の不足すらも、契約の一部として扱われる。契約者が署名すれば、契約書は完成する。
「この契約書は、正義や倫理を判定しません」
エリシアが、できたばかりの白紙を見つめながら言う。
「契約者が本当に幸せになるかどうかも、判定しません
ただ、書かれた言葉だけを見る」
フィリアが、くすりと笑う。
「クラウディア様みたいに、『マリア様を害してほしくない』と心の中で思っていても
契約書に明記されていなければ、守られない」
エリシアが続ける。
「反対に、明確な願いと報酬を定めてくだされば
私たちは、その通りに履行いたします。契約とは、善意ではなく文面ですね」
エリシアが、満足げに呟いた。フィリアも、楽しそうに続ける。
「言わなかったことまで、守ってあげる義理はないものね」
契約書魔術具が形になると、双子の関心は次の段階へと移っていった。
聖属性は便利だ。治癒、浄化、精神干渉、魔力調律――それらすべてを、自分たちが直接扱う必要はない。ならば、通常魔力を外部装置で聖属性へと変換できればいい。
その発想から、聖属性変換装置の研究が始まった。
マリアの聖属性反応を観測し、通常魔力との違いを丹念に記録していく。聖属性特有の波形。魔力の馴染み方。対象内部での抵抗の少なさ。浄化反応と拒絶反応。
双子は、それらを一つひとつ数値化し、術式へと落とし込んでいった。
装置には、マリア自身の魔力を大量に消費させる仕組みは組み込まれていない。あくまで通常魔力を入力し、その性質を聖属性に近づけるための変換式が中心になる。
マリアは、燃料ではない。触媒であり、基準であり、観測対象だった。
その扱いは、完全な再現には至らなかった。
「変換効率、約五割です」
エリシアが、装置に刻まれた数値を読み上げる。
「純度は天然の聖属性より劣りますが、治癒・浄化反応は確認できます」
「精神干渉の効果は弱い」
フィリアが付け加える。
「けれど、魔力調律と拒絶反応の再現性は高いですね」
入力した魔力の半分ほどしか、安定した聖属性として取り出せない。残りは熱、光、ノイズ、魔力の揺らぎとして失われていく。それでも――通常魔力から聖属性を人工的に生み出せるという事実だけで、十分すぎるほど画期的だった。
「半分も残るなら、十分だよね」
フィリアが、嬉しそうに笑う。
「大量に入れれば、大量に出るもの」
フィリアの膨大な魔力量は、この非効率な変換にこそ真価を発揮する。効率五十パーセントであっても、彼女が注ぐ魔力量そのものが桁違いなら、実用量の聖属性を得ることは容易だった。
ただし、双子自身は決して聖属性を体内に通さない。あくまで装置の外で生み出し、装置の外で使う。聖属性の性質を理解していく過程で、双子はその応用にも目を向けていた。
聖属性の魔術には、呪いや毒、病、精神干渉など、対象を害する効果だけを打ち消すものがある。それは本来、対象に付着した「悪いもの」を認識し、そこだけを消去する仕組みだった。
「では――消去する対象の定義を、広げればどうなるのでしょうか」
エリシアが、静かに問いを立てる。
「呪いを構成する魔力。毒を構成する成分。病を引き起こす異常。精神に干渉する術式
それらを、対象から切り離して消す仕組みなら。
対象そのものを、『害するもの』と定義してしまえば」
フィリアが、目を輝かせて続けた。
「その対象に結びついた魔力も、肉体も、結界も――存在を維持する構造ごと、消せるかもしれないね」
それが、後に消滅砲と呼ばれることになる理論の、まだ名もなき原型だった。
本来なら治癒と浄化のために使われる術式を、対象の定義そのものを歪めることで、破壊へと転用する。双子は、さらにその先を考えていく。
「同じ理屈の反応を、正面からぶつけ合えば」
エリシアが呟く。
「互いに指定された対象を、消し合うことになりますね。
その瞬間、消滅によって抑え込まれていた魔力が、行き場を失う」
小さな試験を繰り返す中で、双子は一つの現象を観測していた。二つの反応をぶつけ合わせると、消滅の瞬間、魔力反応が爆発的に増大するのだ。
消えた魔力は、ただ失われるのではない。消滅の一瞬に、膨大なエネルギーへと変換されている。
「消すだけでは、もったいないですね」
エリシアが、観測記録を見つめながら言う。
「消滅する瞬間の反応だけを取り出せれば――魔力炉に、できそうです」
フィリアが、楽しそうに目を細めた。
「じゃあ、たくさん消せば、たくさん作れる?」
「理論上は」
エリシアが、微かに笑う。
「面白いね」
フィリアも、同じように笑った。
この時点では、まだそれに名前はついていない。研究記録には「消滅反応装置」「対消滅炉構想」とだけ、仮の呼び名が書き記された。その夜の研究成果を、双子は静かに整理していった。
聖属性は、治癒だけでなく、魔力調律、精神干渉、浄化、拒絶の性質を持つこと。
その聖属性は、便利であると同時に、双子自身の将来にとって弱点になり得ること。
だからこそ、聖属性は自分たちの根幹には組み込まず、外部装置として利用すること。
契約魔法は、聖属性ではなく、記録魔術、認識魔術、言語魔術、無属性魔術を組み合わせた契約書魔術具として成立させること。
契約書は、願い、対価、条件、署名を文面として固定し、言わなかったことは守らないこと。
聖属性変換装置の効率は、およそ五十パーセントであること。
そして――聖属性と通常属性のあいだに生じる拒絶反応が、消滅反応や対消滅魔力炉へと応用できる可能性があること。
これだけの成果が、たった一夜の研究室から生まれていた。
研究が一段落すると、双子は眠り続けるマリアへと視線を向けた。
「マリア様、すごいね」
フィリアが、槽の中の彼女を覗き込みながら言う。
「ええ、本当に貴重な方です」
エリシアが頷く。
「生かしておいて、正解でした
眠っているだけで役に立ってくれるなんて、優秀ですね」
フィリアが、くすくすと笑う。
「もう、お話する必要もないし」
エリシアも、穏やかに微笑んだ。
「とても、扱いやすいです」
マリアは、何も知らない。自分が吐いた言葉が、帝国の未来を変えつつあること。
自分の聖属性が、契約書魔術具や聖属性変換装置、そして消滅反応の理論へと繋がっていくこと。
自分がもう、物語のヒロインではなく――双子の研究成果を支える、静かな土台になっていること。それを知ることは、もう二度とない。
双子は、研究室の灯りを落とした。聖属性変換装置は、淡い光を残したまま、静かに稼働を続けている。机の上には、契約書魔術具の原型が置かれていた。白紙の契約書が一枚、ゆっくりと宙に浮かび上がる。
まだ誰の願いも、書かれていない。まだ誰の対価も、記されていない。
けれど、その一枚の紙は、やがて帝国の運命を変えていくことになる。
「契約書は、できました」
エリシアが、静かに呟く。
「聖属性も、作れるようになった」
フィリアが、続ける。
「「では――次は、何を作りましょうか」」
二人は、可憐に笑い合った。
その夜、帝国立学園の片隅で、誰にも知られることなく、二つの研究成果が生まれていた。
一つは、願いと対価を縛る契約書。もう一つは、魔力を聖属性へと変える装置。
どちらも、今はまだ小さな発明に過ぎない。
けれどそのふたつは――やがて双子を、人間ではないものへと近づけていくことになる。