帝国立学園の授業を終えたエレオノーラは、いつもより少し軽い足取りで皇宮への廊下を歩いていた。今日は、話したいことがたくさんある。
王国から来た双子姫、エリシアとフィリアのこと。迎賓係として、少しずつ二人との距離を縮めているアレクシアのこと。以前より柔らかくなった学園の空気のこと。
それらを、早くヴァルターに聞いてほしかった。
エレオノーラは、第一皇子の婚約者として、普段は礼儀正しく落ち着いた立ち振る舞いを心がけている。けれど、ヴァルターの前では、少しだけ少女らしい表情が顔を覗かせてしまう。
小さな応接室の扉を開けると、書類に目を通していたヴァルターが、すぐに顔を上げた。
「来てくれて嬉しいよ、エレオノーラ」
彼は、穏やかな笑みを浮かべて立ち上がる。
「今日は学園で、何か面白いことがあったのかな」
「ええ」
エレオノーラは、嬉しそうに微笑んだ。
「ヴァルター様にお話ししたいことが、たくさんございますの」
ヴァルターは、すでに帝国立学園を卒業し、政務に携わる身になっている。忙しい立場でありながら、彼はこうしてエレオノーラと会う時間を、きちんと作ってくれていた。
それが、エレオノーラには何よりも嬉しい。
政治的な婚約者としてではなく、一人の女性として大切にされている――そう感じられる、確かな時間だった。
二人は、窓辺の椅子に並んで腰を下ろす。庭園から差し込む夕方の光が、部屋を柔らかく照らしていた。
「王国から来た双子の姫君たちが、学園に入学されてから、しばらく経つのですけれど」
エレオノーラは、楽しそうに話し始めた。
「最初は、皆さん噂ばかりで浮かれておりましたの。
王国の至宝と呼ばれる姫君だとか、魔術の才能が素晴らしいとか。
実際にお会いしてみたら、噂以上に美しくて、驚きましたわ。
それに――少しも鼻にかけるようなところがなくて」
ヴァルターは、興味深そうに耳を傾けている。
「エリシア様は、静かで知的な方ですの。
フィリア様は、明るくて愛らしくて。
お二人とも、帝国の学問や文化を、とても真面目に学ぼうとしていらっしゃいますわ。
本当に、素敵な姫君たちですの。
王国の至宝と呼ばれるのも、分かる気がいたします」
エレオノーラは、心からそう語った。
「アレクシア様も、最近はあの方々とよくお話しされていますわ」
その言葉に、ヴァルターの表情が、ふわりと和らいだ。
「アレクシアが?それは良いことだ。
あの子は、真面目すぎるところがあるからね。
気を許せる相手が増えるなら、兄としても嬉しいよ」
「ええ。アレクシア様も、以前より少し柔らかくなられたように思います」
エレオノーラが微笑むと、ヴァルターも目を細めた。
「それなら、私もいつか、お礼を言わないといけないな。
落ち着いたら、私もその双子姫たちに会ってみたい。
エレオノーラが、そこまで楽しそうに話す相手なら、きっと素敵な方々なのだろう。
それに、アレクシアの友人になってくれたのなら――兄としても、一度挨拶しておきたい」
「きっと、お二人も喜ばれますわ」
エレオノーラは、嬉しそうに頷いた。
「ヴァルター様なら、エリシア様もフィリア様も、すぐに信頼なさると思います」
ヴァルターは、穏やかに笑った。
「それは楽しみだ政務が少し落ち着いたら、時間を作ろう」
その約束を、エレオノーラは何の疑いもなく胸に留めた。
学園の話が一段落すると、会話は自然と、帝国の未来へと移っていった。
エレオノーラの父は、現帝国宰相であり、第一皇子派の中心人物だ。エレオノーラ自身も、将来ヴァルターの妃となる立場として、帝国の未来には強い関心を持っている。
ヴァルターは、エレオノーラに対して、政治の話を隠すことがなかった。重苦しく語るのではなく、いつも穏やかに、けれど誠実に。
「帝国は、強い」
ヴァルターは、静かに切り出した。
「けれど、強いからこそ、立ち止まる勇気も必要だと思っている。
父上の時代に、帝国は大きく広がった。だが、新しく得た土地には、まだ帝国の法も、税も、道も、十分に根付いていない。
そこに住む人々も、帝国の民として安心して暮らせているとは、言い難い」
ヴァルターの声には、迷いがなかった。
「これ以上の領土拡大より、今ある領土を安定させるべきだと思っている。
戦で荒れた土地を癒やし、旧領と新領の差を埋め、軍功を求めるより――民政、財政、法、教育、物流を整えるべきだ。
帝国の地図をさらに広げることは、確かに分かりやすい栄光だ。
けれど、広げた土地を幸せにできなければ、それはただの負債になる」
ヴァルターは、少し目を伏せた。
「私は、帝国を大きく見せたいのではない。
帝国に生きる人々が、ここで生きていけると思える国にしたい」
その言葉に、エレオノーラは静かに耳を傾けていた。
弱腰ではない。戦えないわけでもない。ただこの人は、戦うべき時と、立ち止まるべき時を、はっきりと見極めている。帝国の強さを否定するのではなく、その強さの使い道を変えようとしている。
「私は、ヴァルター様のお考えが好きです」
エレオノーラは、静かに、けれどはっきりと言った。
「派手ではないかもしれません。
ですが、きっと多くの方を救う道だと思います。
私も、できる限りお支えいたしますわ」
ヴァルターは、嬉しそうに微笑んだ。
「君にそう言ってもらえると、心強い。
私は、君にも随分支えられているよ」
エレオノーラは、少し照れたように目を伏せる。
「私など、まだまだですわ」
「そんなことはない」
ヴァルターは、首を振った。
「君はよく見ている。人の表情も、場の空気も、言葉の裏も。
だから私は、君の意見を聞きたいと思うんだ」
その言葉に、エレオノーラの胸が、じんわりと温かくなった。
この人の隣に立ちたい。この人が目指す帝国を支えたい。父とともに、この人の治世を助けたい。
心から、そう思った。
それから二人は、しばらく穏やかな時間を過ごした。
結婚後のこと。帝国の式典のこと。アレクシアのこと。宰相であるエレオノーラの父のこと。
「今度、新領の視察にも行きたいと思っている」
ヴァルターが言う。
「戦で傷ついた土地に、学校や治療院を増やしたい」
「それは、素晴らしいことですわ」
エレオノーラも、目を輝かせた。
「いつか、王国と帝国の友好についても、双子の姫君たちとお話しできたら――と思っておりますの」
「それはいい」
ヴァルターが頷く。
「王国とも、良い関係を築いていきたいからね」
会話は穏やかで、明るい。特別な事件は何もない。
けれど、その何もない穏やかさこそが、今のエレオノーラにとって、何よりも大切なものだった。
ヴァルターがいる。父がいる。アレクシアがいる。学園には、素敵な友人たちがいる。王国から来た美しい双子姫たちもいる。
何もかもが、少しずつ、良い方向へ進んでいるように見えた。
やがて、面会の時間が終わる。
ヴァルターは、エレオノーラを見送るために、扉のところまで一緒に歩いた。
「気をつけて帰るんだよ。
また学園の話を聞かせてほしい」
エレオノーラは、嬉しそうに礼をした。
「はい。次は、双子姫のお話を、もっといたしますわ
それから、アレクシア様のことも」
ヴァルターは、穏やかに笑った。
「楽しみにしている」
エレオノーラは、胸を弾ませながら、廊下を歩いていく。その足取りは軽く、まるで少女のように、少し浮き立っていた。
彼に会えた。彼に話を聞いてもらえた。彼の理想を、また好きになった。
自分はこの人を支えたい。この人の隣で、穏やかな帝国の未来を見たい。
そう思いながら、エレオノーラは帰り道を歩いていた。
夕暮れの皇宮は、美しかった。
窓の外に広がる帝都の街並みも、柔らかな光に包まれている。
エレオノーラは、その景色を、未来のものとして見つめていた。
いつかヴァルターが皇帝になり、自分がその隣に立ち、父が政を支え、アレクシアが笑い、帝国がようやく傷を癒していく。
そんな未来を、彼女は信じて疑わなかった。この時のエレオノーラには、何一つ疑う理由がなかった。ヴァルターは生きている。約束は続く。未来は、まだ失われていない。
だから彼女は、幸せな気持ちで帰っていった。
この日までは――。