その朝、アレクシアはいつも通り学園への道を歩いていた。
昨日、エレオノーラが少し弾むような足取りで皇宮へ向かったことを思い出す。ヴァルターに会いに行くのだと、エレオノーラは楽しそうに言っていた。
ヴァルター兄上がいる。エレオノーラがいる。父帝の拡張政策の影響はまだ色濃く残っているが、いずれヴァルターが次代を担えば、帝国は少しずつ落ち着いていくはずだ。
アレクシアは、そう信じていた。
学園の廊下には、いつも通り生徒たちの笑い声が響いている。宮廷では文官たちが忙しく行き交い、何一つ変わったところはない。
帝国は、まだ平和に見えた。だが、その平穏は、昼を過ぎた頃に破られた。
アレクシアのもとへ、息を切らした使者が駆け込んできたのは、授業の合間の休み時間だった。
「アレクシア殿下……!」
使者の顔は、蒼白だった。
「第一皇子殿下が……ご移動中に、襲撃を受けられました」
「……なんだと」
アレクシアは、一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
「詳細は、まだ分かりません。護衛が交戦中とのことです。第二皇子殿下が、すでに救援に向かわれました」
ヴァルター兄上が、襲撃された。なぜ。誰が。どこで。
疑問が渦を巻くが、皇女として取り乱すわけにはいかない。アレクシアはすぐに支度を整え、皇宮へと馬車を走らせた。移動中、彼女は必死に自分へ言い聞かせていた。
――ヴァルター兄上なら、大丈夫だ。護衛もいる。レオニス兄上が救援に向かったのなら、間に合うかもしれない。
けれど胸の奥では、拭いきれない嫌な予感が、じわじわと膨らんでいた。
皇宮は、すでに騒然としていた。
文官たちが慌ただしく走り回り、近衛兵たちは緊張した面持ちで配置を変えている。侍従たちは、誰もが顔色を失っていた。
第一皇子派の者たちは、情報を求めて動こうとしていた。だが、いつの間にか軍部の兵が、宮殿内の要所を押さえ始めている。
アレクシアは、その動きの早さに違和感を覚えた。
まだヴァルター兄上の容体すら分かっていない。それなのに、なぜ軍部の配置だけがこれほど早いのか。なぜ第一皇子派の文官たちが、奥へ入ることを止められているのか。
そして、なぜ――レオニス兄上に近い者たちが、すでに命令を出し始めているのか。
しかし、その場で問い詰めることはできなかった。今は、兄の安否が何より優先される。
アレクシアは、皇女として奥へ進もうとした。
その時、外から大きなざわめきが起こった。
「第二皇子殿下が、お戻りに……!」
誰かの声に、アレクシアは振り返った。
門をくぐって現れたレオニスは、泥と血に汚れた外套を纏い、その両腕に――ヴァルターの遺体を抱えていた。レオニスの頬には、涙が伝っている。
「ヴァルター兄上……!」
声が、震えていた。周囲が、凍りついた。誰かが悲鳴を上げ、文官の一人が膝から崩れ落ちる。侍女が、両手で顔を覆って泣き崩れた。アレクシアは、その場に立ち尽くした。
兄が、帰ってきた。生きてではなく――遺体として。
レオニスは、泣いていた。救援に向かった弟が、間に合わず、兄の亡骸を抱えて戻ってきた。
その姿は、誰の目にも痛ましく映った。多くの者が、レオニスもまた被害者なのだと思っただろう。兄を失った弟。兄を助けられなかった弟。
アレクシアも、一瞬、そう思いかけた。だが――胸の奥の違和感は、消えなかった。
レオニスの涙は、確かに見える。声も震えている。だが、その周囲を固める軍人たちは、あまりにも整然と動いていた。
混乱しているはずの現場で、命令系統だけが、妙にはっきりとしている。
レオニスは、涙を流しながらも、すぐに声を張り上げた。
「皇宮の門を閉じろ」
「犯人を逃がすな」
「第一皇子派の者も、第二皇子派の者も関係ない。全員、許可なく持ち場を離れるな」
「軍部に、警備権限を一時移譲する」
言葉だけを聞けば、間違ってはいない。皇族が襲撃されたのだから、警備を固めるのは当然だ。犯人を逃がさぬために皇宮を封鎖するのも、道理として正しい。
だが――早すぎる。あまりにも、迷いがなかった。
アレクシアは、それを見て、静かに背筋が冷えるのを感じた。
レオニス兄上は、悲しんでいる。そう見える。けれど同時に――次に何をすべきかを、最初から知っていたようにも見えてしまう。アレクシアは、自分自身を叱った。
――今、そんなことを考えるべきではない。兄が死んだのだ。レオニス兄上を疑うなど、あまりに酷いことだ。それでも、違和感は消えなかった。
少し遅れて、エレオノーラが皇宮へ到着した。
彼女は、急報を受けたきり、詳しい事情もほとんど知らされないまま駆けつけたのだろう。
昨日、彼女はヴァルターと未来を語っていたはずだった。学園のこと。双子姫のこと。アレクシアのこと。帝国の未来のこと。
政務が落ち着いたら双子姫に会ってみたいと、ヴァルターは言っていたはずだった。
その約束は、もう叶わない。エレオノーラは、ヴァルターの遺体の前に立った。
最初、彼女は何も言わなかった。泣かない。叫ばない。崩れ落ちもしない。ただ、そこに立っていた。まるで、意味が分からないというように。アレクシアは、その表情を見て、息を呑んだ。
悲しんでいないのではない。悲しみがあまりに大きすぎて、表情にまで届いていないのだ。
誰かがエレオノーラに声をかける。
だが彼女は、礼儀正しく、ほんの小さく頷くだけだった。
「……お気遣い、ありがとうございます」
その声は、普段と変わらぬ調子で整っていた。整いすぎていて、かえって恐ろしかった。
アレクシアは、ヴァルターの死を受け入れきれずにいた。
ヴァルターは、帝国を戦場にしたくないと言っていた。人と土地を癒す時間が必要だと言っていた。広げるより、根を張るべきだと言っていた。
その兄が、帝国の中で倒れた。外敵ではなく――帝国の闇によって奪われたのではないか。
アレクシアは、そう思わずにいられなかった。
だが、証拠はない。誰の仕業かも分からない。レオニスが犯人だと断定することなど、できるはずもない。
それでも、第一皇子派の者たちが奥から遠ざけられ、軍部が皇宮を押さえ、レオニスが悲劇の弟として中心に立ち始めている現実がある。
アレクシアは、何もできなかった。ただ、兄を失い、帝国が傾いていくのを見ていることしか、できなかった。
ヴァルターの死後、帝国は喪に包まれた。
表向きは、事件を厳重に捜査することになっている。だが、その捜査権限は、いつの間にか軍部寄りの者たちが握り始めていた。
第一皇子派の文官たちは、声を潜めるようになった。エレオノーラの父である現帝国宰相も、日に日に表情を険しくしていく。彼は第一皇子派の中心人物であり、ヴァルターを失ったことで、その政治的支柱そのものが大きく揺らいでいた。
アレクシアは、父帝の様子も見ていた。
父帝は、息子の死に沈痛な表情を見せている。しかし同時に、帝国の安定のため、次の後継問題を考えざるを得ない立場にもある。その空気を、レオニス派は逃さなかった。
まだ葬儀も終わっていないというのに、宮廷の視線は、すでに次の皇位継承者へと向かい始めている。アレクシアには、それが許せなかった。
ヴァルター兄上の死を悼むより先に、皆が次の権力を見ている。その中心に、レオニス兄上がいる。
ヴァルターの葬儀の日、帝都には朝から大雨が降っていた。
空は暗く、雲は重く垂れ込めている。雨は石畳を叩き、参列者たちの黒い喪服を容赦なく濡らし、その涙も声も、静かに洗い流していく。
皇族、貴族、文官、軍人。多くの者が、葬儀に参列していた。
ヴァルターの棺は、雨の中を静かに運ばれていく。生前の彼を知る者たちは、皆一様に涙を流していた。第一皇子派の者たちは、主を失った悲しみと、今後への不安に顔を伏せている。
レオニスは、喪服姿で立っていた。目を伏せ、兄の死を悼む弟として、そこにいる。だが、その背後には、軍部の者たちがずらりと並んでいた。
アレクシアは、それを見つめながら、雨に濡れて静かに涙を流していた。
悲しい。兄が死んだ。悔しい。兄の理想が折られた。許せない。兄の葬儀の場でさえ、すでにレオニス派の影が濃くなっている。
だが、声には出せない。皇女として、葬儀を乱すわけにはいかなかった。
アレクシアは、ただ雨の中で、静かに涙を流し続けた。
葬儀の最中、アレクシアはエレオノーラの姿を見つけた。
彼女は、棺のすぐ近くに立っている。誰かが傘を差し出し、侍女がそばに付き添い、父である宰相も近くにいる。
けれど、エレオノーラはまるで一人きりのように見えた。
雨に濡れても、表情は変わらない。誰かが声をかけても、ほんのわずかに頷くだけだった。
アレクシアは、自分の涙を拭うことも忘れて、彼女に近づいた。
「エレオノーラ」
声が、震えた。アレクシアは、自分も泣いているというのに、それでもエレオノーラを慰めようとした。
「すまない…。兄上を……ヴァルター兄上を、守れなかった」
エレオノーラは、ゆっくりとアレクシアを見た。その目は、アレクシアを見ているようで、どこか遠くを見ているようでもあった。
「アレクシア様が謝ることではありませんわ」
声は穏やかで、礼儀正しい。普段のエレオノーラと、何一つ変わらない口調だった。
けれど、そこには――感情がなかった。アレクシアは、胸を締めつけられる思いがした。
「泣いていいんだ。ここでは、泣いていい。私も……泣いている」
そう言いながら、アレクシアは自分の頬を伝う涙に、改めて気づいた。
エレオノーラは、少しだけ首を傾げた。その反応に、アレクシアは凍りついた。
エレオノーラは、泣けないのだ。悲しくないのではない。悲しすぎて、心が反応を失っているのだ。アレクシアは、彼女の手を取った。雨で冷たくなった、細く、力のない手。
「一人にしない。私がいる、だから、どうか……」
その先の言葉が、出てこなかった。
――どうか壊れないで。どうか戻ってきて。どうか、昨日までのあなたでいて。
けれど、アレクシアには分かってしまった。
エレオノーラは、もう昨日までの彼女ではない。あの日、ヴァルターと未来を語り、幸せそうに笑っていたエレオノーラは、この雨の中で――何かを、決定的に失ってしまった。
エレオノーラは、アレクシアの手を握り返さなかった。拒みもしない。ただ、握られているだけだった。その表情は、変わらない。慰めの言葉も、謝罪も、励ましも、届いているのかどうかすら分からなかった。
アレクシアは泣きながら、親友の壊れかけた姿を見つめていた。
助けたい。未来の義姉になるはずだった人を、支えたい。ヴァルターが愛した人を、守りたい。
けれど、どうすればいいのか分からない。敵が誰かも分からない。何を止めればいいのかも分からない。ただ一つ、確かに分かることがあった。
ヴァルターの死によって、帝国の何かが決定的に変わってしまったこと。そして、エレオノーラの中の何かも、同じように壊れ始めていること。
棺が、静かに閉じられる。
雨音が、いっそう強くなった。ヴァルターの名が、祈りの言葉の中で読み上げられていく。
第一皇子。帝国の未来を担うはずだった人。内政を重んじ、民を思い、戦ではなく安定を望んだ人。その人は、もういない。
アレクシアは、雨の中でヴァルターの棺を見送った。隣には、エレオノーラが立っている。
アレクシアは、涙を流し続けていた。
エレオノーラは、最後まで泣かなかった。泣けなかった。
雨だけが、彼女の頬を濡らし続けていた。
葬儀が終わる。帝国は、喪に沈んだ。
だが、喪に沈んでいるその間にも、宮廷は静かに動き出していた。
第一皇子派は主を失い、反戦派と内政派は大きく揺らいでいる。エレオノーラの父である宰相の立場も、日に日に危うくなっていく。そして、第二皇子レオニスは――兄を失った悲劇の弟として、帝国の中心へと、着実に近づいていた。
アレクシアは、その流れを見ていた。
止めたい。けれど、止める力がない。誰かが、止めなければならない。このままでは、帝国は兄が恐れていた方向へと進んでしまう。
雨は、葬儀が終わっても止まなかった。ヴァルターの棺が、遠ざかっていく。
その横で、エレオノーラは一度も、表情を変えなかった。
アレクシアは、その姿を、忘れることができなかった。
そして帝国は――喪が明ける前に、動き始める。
第二皇子レオニスを、中心に。
第一皇子享年1話