ヴァルターの葬儀が終わってから、皇宮には重い沈黙が居座っていた。
大雨はすでに止んでいたが、空気はまだ湿り気を帯びたままだった。廊下には黒い布がかけられ、侍従や文官たちは声を潜めて歩いている。皇宮全体が、喪という名の重石の下で息を潜めているようだった。
アレクシアは、眠れない夜を過ごしていた。目を閉じれば、雨の中の棺が浮かぶ。ヴァルターの遺体を抱えて帰ってきたレオニスの姿が浮かぶ。
泣いていたレオニス。
だが、あの涙の後に出された命令の早さ。軍部が皇宮の要所を押さえる動き。第一皇子派の文官たちが、奥から締め出されていく光景。葬儀の場で、レオニスの背後に軍人たちが整然と並んでいたこと。
アレクシアは、それらを何度も思い出してしまう。
疑いたくない。レオニスも兄だ。ヴァルターを失った弟なのだと思いたい。だが、違和感は消えない。
皇女として、調べなければならない。妹として、真実を知りたい。しかし同時に――真実を知るのが、怖い。
その矛盾した感情を抱えたまま、アレクシアは夜遅く、皇宮の奥へと足を向けた。
廊下を進むうちに、アレクシアは不自然な人の動きに気づいた。
喪中であるにもかかわらず、軍部の高官たちが、次々と第二皇子宮へ出入りしている。本来なら、皇族の死を悼み、捜査報告を静かに待つべき時期だ。しかし彼らの足取りに、重さはない。むしろ、何かを決めようとする者たちの、確かな足取りだった。
アレクシアは侍女を下がらせ、一人でその様子を探った。皇女として堂々と問いただすこともできる。だが今は、そうしてはいけない気がした。自分が見ていることを、相手に知られてはいけない。
アレクシアは、扉の近く、隣室へ続く細い回廊に、そっと身を潜めた。
その部屋から、レオニスの声が聞こえてくる。続いて、軍部の者たちの低い笑い声。喪中の皇宮に、まるで似つかわしくない声だった。
アレクシアの心臓が、嫌な音を立てた。
「それにしても、殿下のご演技は見事でした」
誰かが言う。
「兄君を救えず、遺体を抱えて帰還する弟君。あれを疑う者はおりますまい」
レオニスが、低く笑う声が続いた。
「泣くのは面倒だったが、効果はあっただろう」
アレクシアは、息を止めた。――泣くのは面倒。効果。
それは、兄の死を悼む言葉ではなかった。
「救援に向かった、という筋書きは悪くなかった」
レオニスが続ける。
「兄上の護衛たちも最後まで忠実だったが、忠実すぎる者は扱いにくい。
だから、まとめて兄上と共に眠ってもらった」
軍部の者たちが、小さく笑う。
「襲撃の痕跡は整えてあります」
「賊の仕業として処理できます」
「第一皇子派が騒いでも、証拠は出ません」
そこで、アレクシアは真相を知った。
ヴァルターは、襲撃されたのではない。少なくとも、表向き語られているような襲撃ではなかった。レオニスは救援に向かったのではない。救援を装って、ヴァルターと護衛を葬った。そして遺体を抱えて帰り、泣いて見せた。兄を失った弟として。帝国を守るために怒る皇子として。
アレクシアは、吐き気を覚えた。叫び出したい。部屋へ飛び込んで、レオニスを責めたい。だが、体が動かなかった。
レオニスたちは、さらに今後の計画を語り始めた。
ヴァルターが死んだことで、皇位継承の流れは大きく変わった。第一皇子派は旗を失い、内政派、反戦派、宰相派は動揺している。父帝は息子の死に沈んでいるが、帝国を空白にはできない。だからこそ、強い後継者が必要だという声を、大きくすればいい。軍部はレオニスを推す。好戦派貴族も動く。
「兄上は優しすぎた」
レオニスが言う。
「帝国に必要なのは、畑を眺める皇帝ではない。
剣を取り、外へ進む皇帝だ」
軍部の者が応じる。
「陛下も、若き日の御自身を殿下に重ねておいでです。
今なら、第一皇子殿下の死を理由に、軍権を強めることも可能でしょう」
レオニスが、満足げに笑った。
「兄上が死んで、皇帝の椅子が随分近づいた」
その言葉に、アレクシアの中の何かが凍りついた。
兄の死を悼むどころか、彼は――椅子が近づいたと言った。ヴァルターの死を、階段を一段上がることのように語った。
アレクシアの目から、涙が溢れる。悲しみではない。怒りと悔しさと恐怖が、ないまぜになった涙だった。
話題は、次にエレオノーラへ移った。
「ヴァレンシュタインの娘はどうしますか」
軍部の一人が問う。レオニスは、軽い調子で答えた。
「側妃候補として召し上げる」
アレクシアは、息を呑んだ。
――エレオノーラを。ヴァルターの婚約者だった彼女を。兄を失ったばかりの彼女を。
「俺の婚約者ほどではないが、見目は悪くない」
レオニスが続ける。
「それに、実務もそれなりにできそうだ。
宰相といえど娘を手元に置かれてしまえば、ヴァレンシュタイン家も下手には動けまい。
側妃として置いておけば、書類仕事くらいには使える。
まあ、泣き顔でも見せるなら、可愛がってやってもいい」
周囲が笑う。アレクシアの指先が、震えた。許せない。
エレオノーラは、昨日までヴァルターと未来を語っていた。葬儀の日、雨に濡れながら、泣くことすらできずに立っていた。その彼女を、レオニスは政治の道具として、所有物のように、戦利品のように扱おうとしている。アレクシアは、飛び出しかけた。
だが、その瞬間――
「アレクシア殿下はどうなさいますか」
軍人の声が聞こえた。
アレクシアの体が、固まった。
レオニスは、少し黙った後、面倒そうに言った。
「あれは真面目すぎる。
兄上に似て、内政だの民だのと宣うが今はまだ放っておけ。
下手に消せば、父上の心証が悪い。だが、邪魔になるようなら考える」
軍部の者が笑う。
「事故は、続く時は続くものですからな」
アレクシアは、そこでようやく理解した。
自分は安全ではない。皇女だから守られるわけではない。レオニスにとって、邪魔になれば自分も消される。ヴァルターと同じように。護衛たちと同じように。何かの事故として。何かの襲撃として。何かの不幸として。
アレクシアは、口元を押さえた。吐き気と涙と悲鳴を、必死に押し殺す。
自分は皇女だ。皇帝の娘だ。だが今この場では――ただの弱者でしかなかった。
密談は、さらに続いた。
レオニスは、次の大きな方針として、対外戦争を口にした。帝国には勝利が必要だ。ヴァルターの死で不安定になった国内をまとめるには、外敵が必要。軍部に権限を集中させるには、戦争が必要。父帝の拡張政策を継ぐ者として、自分の威光を示すには、次の獲物が必要だ。
「次に攻めるなら、王国はどうだ」
レオニスが言う。
「ベルガルドを押さえれば、大陸の中心が手に入る」
「交易路も、魔術資源も、王国の威信も、まとめて手に入る」
軍部の者たちも、乗り気な様子で応じる。王国は大陸の要所だ。落とせば、帝国の支配圏は一気に広がる。そしてレオニスは、ふと思い出したように笑った。
「そういえば、あの王国の双子姫もかなりの上玉だったな。
"王国の至宝"だったか。国ごと手に入れて、あの双子を奴隷のように侍らせるのも悪くない。
さぞ気分が良いだろうな」
アレクシアの中で、怒りがさらに膨れ上がった。
双子の顔が浮かぶ。丁寧で、柔らかく、真面目で、優しい姫君たち。自分の不安を聞いてくれた二人。「守るために立ち止まることも、きっと強さです」と言ってくれた二人。その二人を、レオニスは戦利品として見ている。王国を攻める理由の一つとして、玩具のように語っている。
アレクシアには、許せなかった。ヴァルターを殺したことも。エレオノーラを利用しようとしていることも。王国へ戦争を仕掛けようとしていることも。双子姫を貶めるような未来を語っていることも。すべてが許せない。だが、何もできなかった。
アレクシアは、これ以上聞いていられなかった。しかし動けば音が出る。見つかれば終わる。
彼女は震える足で、そっとその場を離れた。声を殺す。涙をこらえる。だが、涙は止まらなかった。廊下を曲がり、誰もいない場所まで来て、ようやく壁に手をついた。膝が崩れそうになる。
アレクシアは、声を殺して泣いた。
ヴァルター兄上の仇が、すぐそこにいた。兄を殺した男が、次の皇帝になろうとしている。エレオノーラを道具にしようとしている。王国を攻めようとしている。双子姫を戦利品にしようとしている。
そして自分は、逃げた。何も言えず。何もできず。ただ、殺されるのが怖くて逃げた。
アレクシアは、自分に吐き捨てるように思う。
――私は皇女だ。だが、弱い。皇女であることは、今の自分を守ってはくれない。皇女であることは、兄の仇を討つ力にもならない。皇女であることは、親友を救う力にもならない。
翌日、宮廷に正式な通達が出された。
第一皇子ヴァルターの死後、ヴァレンシュタイン家との結びつきを保ち、帝国の安定を図るため、エレオノーラを第二皇子レオニスの側妃候補として召し上げる――。
表向きの理由は、整っていた。ヴァルターの婚約者だった彼女を、皇族の庇護下に置く。宰相家との関係を維持する。喪に沈むエレオノーラを保護する。帝国の安定を乱さない。
だが、アレクシアは前夜の本音を聞いている。だから、その言葉のすべてが、醜く見えた。
保護ではない。囲い込みだ。慰めではない。利用だ。安定ではない。第一皇子派を飲み込むための鎖だ。アレクシアは、通達の紙を握りしめた。エレオノーラはどうなっているのか。あの子は、これを聞いて耐えられるのか。
いても立ってもいられず、アレクシアはエレオノーラのもとへ向かった。
エレオノーラは、屋敷の一室にいた。
部屋は静かだった。侍女たちは沈痛な顔をしている。誰も、大きな声を出さない。
アレクシアが入ると、エレオノーラは椅子に座っていた。姿勢は美しい。髪も整えられている。喪服も乱れていない。
だが、その顔からは――表情が、抜け落ちていた。
泣き腫らした顔ではない。怒りに震えている顔でもない。ただ、空っぽだった。綺麗に整えられた人形のように見えた。
アレクシアは、その姿を見て、息を呑んだ。葬儀の日よりも、悪い。あの時はまだ、壊れかけているように見えた。今は、もう壊れた部分を綺麗に隠して、礼儀だけで動いているように見える。
「エレオノーラ」
アレクシアが呼ぶ。エレオノーラは、ゆっくりと顔を上げた。
「アレクシア様」
声は穏やかで、礼儀正しい。いつも通り。だが――いつも通りすぎる。
アレクシアは、震える声で言った。
「通達を聞いた。レオニス兄上の側妃候補など……そんなもの、受ける必要はない。
嫌なら嫌だと言っていい、私が父上に話す。宰相にも……」
エレオノーラは、静かに首を振った。
「皇命ですもの。私に、拒む理由などございませんわ」
アレクシアは、言葉を失った。
拒む理由がないはずがない。ヴァルターを愛していた。昨日まで、彼の未来を信じていた。その婚約者を失ったばかりで、なぜその弟の側妃候補にならなければならないのか。しかも、その弟は――。
アレクシアは、言えなかった。レオニスがヴァルターを殺したと、証拠もなく言えない。エレオノーラにそれを告げれば、彼女が完全に壊れてしまうかもしれない。けれど、黙っていれば、彼女はレオニスのもとへ差し出される。
アレクシアは、身動きが取れなかった。
「ヴァルター様は、もういらっしゃいません」
エレオノーラが、淡々と話す。
「けれど、ヴァレンシュタイン家は帝国のために在らねばなりません。
父も、私も、それが役目です。レオニス殿下の側妃候補となることで家が守られるなら、
それが私の務めなのでしょう」
アレクシアは、聞いていられなかった。それはエレオノーラの言葉ではない。礼儀と義務で作った殻だ。その中の彼女がどうなっているのか、アレクシアには分からない。分からないことが、怖かった。
「エレオノーラ、そんなふうに言わないでくれ。
君は……君は、ヴァルター兄上と……」
その名前を出した瞬間、エレオノーラの表情が止まった。
だが、泣かない。怒らない。崩れない。ただ、わずかに瞬きするだけだった。
「ヴァルター様は、もういらっしゃいませんわ」
同じ言葉。静かな声。感情のない、事実確認。
アレクシアは、耐えられなくなった。葬儀の日、自分は彼女を慰めようとした。一人にしないと言った。私がいると言った。だが今、目の前のエレオノーラを見ていることすら、苦しかった。
アレクシアは、親友がどうしようもなく壊れかけている、あるいはもう壊れ始めていることを知ってしまった。そして、それを受け止める力が自分にはないことも、同時に知ってしまった。
アレクシアは、立ち上がった。
逃げてはいけない。そう思う。ここで逃げたら、エレオノーラを一人にしてしまう。
でも、息ができない。エレオノーラの空っぽの目を見ていると、昨夜聞いたレオニスの声が蘇る。側妃に置く。使える。可愛がってやる。王国を攻める。双子を侍らせる。ヴァルターの死。葬儀の雨。レオニスの涙。全部が、頭の中で混ざり合う。
「……すまない」
それしか、言えなかった。エレオノーラは、静かに礼をした。
「お気になさらないでくださいませ」
その完璧な礼儀が、アレクシアをさらに追い詰めた。
アレクシアは、部屋を出た。廊下に出て、扉が閉まった瞬間、また涙が溢れる。
自分はまた、逃げた。昨夜は兄の仇から逃げた。今日は親友から逃げた。守りたいものばかり増えていくのに、何一つ守れない。
アレクシアは、一人で廊下を歩いた。皇女としての足取りを、保とうとする。だが、心は崩れかけていた。
レオニスを止めなければならない。エレオノーラを助けなければならない。王国への戦争を止めなければならない。双子姫を守らなければならない。帝国を、ヴァルターが望まなかった方向へ進ませてはいけない。
しかし、今の自分には何もない。軍もない。証拠もない。父帝を動かす力もない。宰相を守る力もない。レオニスを裁く力もない。
皇女という立場はある。だが、力はない。
アレクシアは、ふと以前、双子が言った言葉を思い出した。
――誰かを止めるには、止められる場所に立たなければいけませんもの。
あの時は、ただの励ましだと思った。だが今、その言葉が、胸に深く刺さる。
止められる場所。自分には、その場所がない。
ならば、どうすればいいのか。
アレクシアは、まだ答えを出せなかった。ただ、もう一人では抱えきれないことだけは、分かっていた。
レオニスは動き出した。エレオノーラは壊れ始めた。王国は標的にされている。
そして自分は、二度逃げた。皇女でありながら。弱者として。