エレオノーラの部屋を出た瞬間から、アレクシアはもう歩いているというより、逃げていた。
自分がどこへ向かっているのかも分からない。廊下の角を曲がり、階段を降り、また別の廊下へ入る。足だけが勝手に動いている。
レオニスの密談。ヴァルター暗殺の真相。泣きながら遺体を持ち帰った姿が、すべて芝居だったこと。エレオノーラを側妃候補として利用しようとしていること。ベルガルド王国へ侵攻し、双子姫を戦利品のように扱おうとしていること。
それらの言葉が、頭の中で何度も何度も響いている。
そして、その直後に見たエレオノーラの顔。泣かない。怒らない。拒まない。ただ「皇命ですもの」と言った親友の、空っぽの瞳。
アレクシアは、自分が二度逃げたことを思い知る。
一度目は、兄の仇であるレオニスの密談から。二度目は、壊れかけたエレオノーラの前から。
皇女なのに。正しいことを知っているのに。何もできなかった。
廊下の途中で、アレクシアはふと、双子の言葉を思い出した。
以前、茶会で双子は言っていた。
「誰かを止めるには、止められる場所に立たなければなりませんもの」
あの時は、ただの優しい励ましだと思っていた。だが今、その言葉が胸に深く刺さる。
止めたい。レオニスを止めたい。エレオノーラを救いたい。王国との戦争を防ぎたい。ヴァルターが望んだ帝国の未来を守りたい。けれど、自分にはその場所がない。
そこでアレクシアは、双子の顔を思い浮かべた。エリシアとフィリア。王国から来た、美しく聡明な双子姫。帝国式の魔術理論にもすぐ適応し、教師たちを驚かせていた。柔らかく、丁寧で、それでいて物事の本質を見るような目をしていた。
――彼女たちなら。あの双子なら。この地獄から抜け出すための案を、何か示してくれるかもしれない。アレクシアは、ほとんど縋るような気持ちで、双子のもとへ足を向けた。
王国使節用の別邸に着いた頃には、日はすでに傾いていた。
本来なら、事前の約束もなく他国の王女を訪ねるのは礼を欠く。それでも、アレクシアにはもう余裕がなかった。
「エリシア殿下とフィリア殿下に会いたい」
応対に出た侍女に、アレクシアは震える声で告げた。
「急ぎだ。どうか、取り次いでほしい」
双子はすぐにアレクシアを迎えてくれた。その顔色の悪さに気づき、驚いたように心配する。
「アレクシア殿下、いかがなさいましたか」
エリシアが静かに席を勧める。フィリアは、すぐに温かい茶を用意させた。
二人はいつも通り、柔らかかった。
それだけで、アレクシアは少し泣きそうになる。ここには怒鳴り声も、軍靴の音もない。レオニスの冷笑もない。エレオノーラの空白の目もない。ただ、穏やかに自分を見てくれる二人がいる。
アレクシアは、周囲を見回した。そして、声を低くする。
「すまない」
「人払いをしてもらえるだろうか」
双子は一瞬だけ顔を見合わせた。そして、何も問い返さずに侍女たちを下がらせる。扉が閉まり、静かに遮音の魔術が張られる気配がした。
「大丈夫です」
フィリアが優しく言う。
「ここでのお話は、外には漏れません」
「どうぞ、落ち着いてお話しくださいませ」
エリシアも続けた。
アレクシアは、そこでようやく堰を切ったように話し始めた。
ヴァルターの襲撃は偽装だったこと。レオニスは救援に向かったのではなく、救援を装ってヴァルターと護衛たちを葬ったこと。泣きながら遺体を持ち帰ったのも、悲劇の弟を演じるためだったこと。軍部はそれを知っていて、協力していること。すでに第一皇子派を抑え込み、レオニスを次の皇位へ押し上げようとしていること。
アレクシアは声を震わせながら話した。怒りで震えている。恐怖で震えている。それでも、話す相手が双子だからこそ、なんとか言葉にできた。
続いて、エレオノーラのことも話す。レオニスは彼女を側妃候補として召し上げ、宰相家を牽制し、実務で使い潰すつもりでいること。前夜にそれを聞いていたからこそ、翌日の正式な通達がどれほど醜いものか分かってしまったこと。
「私は、エレオノーラを訪ねた」
アレクシアの声が、掠れる。
「けれど彼女は、もう……表情の抜け落ちた人形のようになっていた。
嫌だとも、助けてとも言わない。ただ、『皇命ですもの』と……」
そして、自分が彼女の前から逃げ出したことも告白した。
「私は、また逃げた。兄上の仇から逃げた、エレオノーラからも逃げた。
皇女なのに、私は何もできない」
さらに、アレクシアはレオニスが王国侵攻を考えていることも話した。ベルガルド王国を攻めれば、大陸の中心が手に入る。交易路も、魔術資源も、王国の威信も手に入る、と。
そして、双子姫のことを戦利品のように語っていたことも。
アレクシアは、その言葉を口にすることすら苦しかった。
「あなたたちのことを……
レオニス兄上は、戦利品のように言っていた。
私は、それが許せなかった。「兄上を殺したことも、エレオノーラを道具のように扱うことも、王国を攻めようとすることも、あなたたちを侮辱したことも。何一つ、許せなかった」
だが、許せないだけでは何も変わらない。証拠がない。軍もない。父帝を動かす力もない。レオニス派を止める力もない。アレクシアは、双子に頭を下げた。皇女が、他国の王女に。
「知恵を貸してほしい。どうすればいい?
私は、何をすればこの地獄を止められる?」
双子は、真剣に聞いていた。途中で笑わない。責めない。疑わない。アレクシアの言葉を、ひとつひとつ丁寧に受け止めている。その態度に、アレクシアは少しだけ救われる思いがした。
「まずは、ご自身の安全を最優先になさってください」
エリシアが、静かに口を開いた。
「レオニス殿下に疑われれば、アレクシア殿下まで危険になります。
もちろん、エレオノーラ様を助けたいお気持ちは分かります」
フィリアも続ける。
「けれど、今無理に動けば、エレオノーラ様の立場まで悪くなってしまうかもしれません」
双子は、現実的な助言を重ねていった。信頼できる者を慎重に探すこと。証拠がないまま告発しないこと。宰相家と連絡を取るなら、慎重にすること。王国侵攻の兆候については、外交的な形で警戒を強めること。どれも、正しかった。
だが、浅い。アレクシアが本当に求めている答えではなかった。
彼女は、レオニスを止める具体的な方法がほしい。エレオノーラを救う道がほしい。帝国を戦争へ進ませない策がほしい。だが双子は、そこで一歩、静かに引いた。
「ですが、私たちはベルガルド王国の王女です」
エリシアが、申し訳なさそうに目を伏せる。
「帝国の皇位継承に関わる問題へ、こちらから深く踏み込むことはできません。
アレクシア殿下のお力になりたい気持ちはあります」
フィリアも、寂しげに続けた。
「けれど、私たちが勝手に動けば、王国が帝国の内政に干渉したことになってしまいます。
それは、かえって戦争の口実を与えてしまうかもしれません」
アレクシアは、言葉を失った。
正論だ。分かっている。双子は他国の王女。彼女たちが勝手にレオニスを止めようとすれば、それこそ国際問題になる。だが、それでも。それでも、何かを言ってほしかった。助けると言ってほしかった。自分一人ではないと言ってほしかった。
アレクシアは、拳を握りしめる。
「では、私は何もできないまま見ていろというのか」
「そうは申しません」
エリシアが、悲しげに微笑んだ。
「ただ、私たちにも越えられない立場の線があるのです」
フィリアも、そっと言葉を添える。
沈黙が落ちた後、エリシアがぽつりと呟いた。
「もっとも……」
アレクシアが、思わず顔を上げる。
「ただの相談ではなく、正式な依頼であれば、話は変わるかもしれません」
フィリアが、少しだけ言葉を継いだ。
アレクシアは、眉を寄せる。
「正式な依頼?」
「はい」
エリシアが、穏やかに答える。
「願いと、条件と、対価を明確にした契約です。
私たちが何を成すのか、アレクシア殿下が何を差し出すのか。
それをきちんと結べば、私たちは勝手に帝国へ干渉するのではなく、契約に基づいて動くことになります。もちろん、今すぐ決めるようなお話ではありません」
フィリアが、柔らかく微笑んだ。
「契約とは、とても重いものですから。曖昧なまま結ぶべきではありません」
双子は、押しつけない。強く勧めない。ただ、逃げ道のように、静かにその選択肢を提示するだけだった。アレクシアにとっては、それが救いの糸のように見えた。しかし同時に、その糸が何に繋がっているのか、分からなかった。
「対価……」
アレクシアは、小さく呟く。
「何かを変えるには、何かを差し出す必要があります」
エリシアが、静かに頷いた。
「それが契約です」
その言葉は、アレクシアの胸に深く刺さった。
アレクシアは、立ち上がった。
悔しい。双子の言うことは正しい。正式な契約なら、双子は動けるかもしれない。
しかし、契約という言葉が怖かった。自分が何を願うのかも分からない。何を差し出せばいいのかも分からない。帝国を救いたい。レオニスを止めたい。エレオノーラを助けたい。王国との戦争を防ぎたい。双子を守りたい。願いが多すぎる。重すぎる。
アレクシアは、まだそれを言葉にできなかった。
「……すまない。今日は、これ以上聞けない」
双子は、引き止めなかった。
「いつでも、お話は伺います」
エリシアが、静かに礼をする。
「どうか、ご無理だけはなさらないでくださいね」
フィリアも、優しく言葉を添えた。
アレクシアは、その優しさに、かえって胸を抉られる思いがした。助けを求めに来たのに、答えを得られなかった。けれど、完全に拒まれたわけでもない。契約という、恐ろしくも魅力的な道だけを、示された。
アレクシアは、悔しさを噛み締める。涙を堪えきれず、部屋を飛び出した。
廊下を走る。また逃げている。自分はまた、答えから逃げている。
しかし今度は、その背中に、双子の言葉が残っていた。
願い。条件。対価。契約。
アレクシアが去った後、部屋にはエリシアとフィリアだけが残された。
扉が閉まる。足音が遠ざかっていく。先ほどまでの柔らかな空気が、すっと消えた。
フィリアは、アレクシアが座っていた椅子を一度だけ一瞥する。だがそれ以上、何も言わなかった。二人はすぐに、部屋の奥に隠された研究机へと向かう。
机の上には、以前作成した魔術契約書が置かれていた。白紙のように見えるが、紙面には複雑な術式が淡く浮かんでいる。契約者の願いを記録する術式。契約内容を固定する術式。対価と履行条件を照合する術式。契約違反を検知する術式。そして、契約が成立した場合にのみ、術式の一部が開く構造。
エリシアは魔力を流し、術式の反応を確認していく。
「主文の固定は、安定しています。
願いの定義が曖昧な場合でも、契約者の意図を補助的に読み取れます。」
フィリアは、別の部分を確認する。
「ただし、意図の補助解釈は危険だね。
契約者が自分でも理解していない願いまで拾えちゃうと、履行範囲が広がりすぎる可能性があるし」
二人は、契約書の完成度を冷静に確認していった。まだ完全ではない。願いの曖昧さをどこまで許容するか。対価の価値をどう定義するか。契約者の認識と、術式が読み取る真意に差が生じた場合、どちらを優先するか。
契約書は、まだ調整の余地を残している。しかし、実用段階には近づいていた。
次に、双子は別の魔術具へと向かった。
布で覆われた台の上に、消滅砲の試作機が置かれている。
フィリアが、外装の術式を確認する。
「出力の安定性は、前回より上がっているけど」
エリシアは、魔力核の反応を見つめた。
「現状では、一度の発動で周囲への負荷が大きすぎます。
個人用の術式としては過剰ですし、兵器として運用するなら制御が粗い」
消滅砲は強力だが、現状のままでは扱いにくい。発動時の魔力消費。術者への反動。標的以外への影響。射程の限界。発動までの時間。それぞれに、まだ問題が残っている。
「単純に出力を上げるだけでは、兵器としては使いにくいでしょう」
エリシアが、静かに言う。
「発動のたびに術者が消耗し、周囲まで巻き込むなら、戦場では運用できません」
「出力を分割するのはどうかな」
フィリアが、別の案を出した。
「一撃で広範囲を消すのではなく、複数の段階に分けて
標的を選び、必要な範囲だけを消滅させるの」
エリシアは、考え込むように黙った。軍事転用するなら、破壊力だけでは足りない。必要なのは、制御性。再現性。運用性。そして、味方を巻き込まない安全性。
二人は、消滅砲を戦場で使う場合の方向性を整理していく。単発の大出力型ではなく、出力を抑えた連続照射型にすること。標的を限定するため、魔力反応や術式構造を識別する機能を加えること。発動時の反動を、術者一人に集中させず、複数の魔力蓄積器へ分散すること。遠距離から操作できるよう、術者と砲本体を分離すること。敵味方を識別するための認証術式を組み込むこと。使用回数や対象範囲を制限し、暴走を防ぐこと。
「契約術式と消滅砲を連動させれば、使用者を限定できるんじゃない?」
フィリアが、契約書と消滅砲を見比べながら言う。
「命令権限を契約に組み込めば、誰でも扱える兵器にはならないじゃん」
「逆に言えば」
エリシアが、頷いた。
「契約者が望めば、兵器の使用権限そのものを対価にできる」
「契約と兵器を組み合わせれば、帝国の軍事体系そのものを変えられるかもしれません」
二人は、現時点での完成度を静かに確認していった。
魔術契約書は、基本構造がすでに完成している。ただし、曖昧な願いを扱う部分には、まだ調整が必要だ。
消滅砲は、原理と出力は確立している。ただし、軍事転用には制御性、射程、反動、標的識別の再設計が必要だった。
「契約書は、もう使えます」
エリシアが、白紙の契約書を見つめる。
「消滅砲も、使おうと思えば使えるけど」
フィリアが、消滅砲を見つめながら続けた。
「でも、どちらもまだ完成とは言えないね」
「完成させる必要があります」
エリシアが、静かに答える。
「帝国が戦争へ進むなら、こちらも備えなければなりません。
アレクシア殿下が契約を望む頃には」
フィリアが、微笑んだ。
「どちらも、実用段階にしておきましょう」
研究室の中央に、白紙の契約書が置かれている。その隣には、消滅砲の試作機。
一方は、願いを縛る道具。もう一方は、存在を消す道具。
双子はその二つを前に、淡々と次の調整項目を確認していく。契約書の術式が、淡く光る。消滅砲の内部で、抑え込まれた魔力が低く唸っている。
「次は、契約書の履行範囲を調整しましょう」
エリシアが言う。
「その後で、消滅砲の軍用出力を試そうね」
フィリアが答えた。二人は、穏やかに笑う。
部屋の外では、帝国が戦争へ向かって、確かに動き始めている。
部屋の中では――戦争を変えるための道具が、静かに完成へ近づいていた。
白紙の契約書と、消滅砲。
その二つが、次の契約と、次の戦争を、静かに待っていた。