帝国立学園の大広間は、これ以上ないほど華やかに飾られていた。
天井から下がる無数のシャンデリア。磨き上げられた大理石の床には、光がいくつも反射している。楽団の奏でる祝福の調べ。卒業生たちの晴れやかな笑顔。帝国貴族たちの礼服には、勲章が誇らしげに輝いていた。令嬢たちの華やかなドレスが、会場を色とりどりに彩っている。
表向きは、三年次生の卒業を祝う華やかな宴だった。ヴァルターの死から数か月が経ち、帝国は喪から立ち直ったように見える。
けれどアレクシアは、その空気を信じることができなかった。
会場の出入り口には、明らかに以前より多くの軍人が立っている。学園行事のはずなのに、警備の名目で武装した兵たちが要所を固めていた。第一皇子派だった貴族や文官たちは、どこか肩身が狭そうに壁際へ寄っている。
現帝国宰相ヴァレンシュタインも出席していたが、その表情は硬かった。彼の娘であるエレオノーラは、会場の端に静かに立っている。美しく整えられたドレス姿だが、表情は薄い。微笑んではいる。礼儀正しく挨拶もしている。けれどアレクシアには分かった。あれは笑顔ではない。人前で崩れないために貼り付けられた、薄い仮面だった。
会場には、来賓としてベルガルド王国の双子姫の姿もあった。
エリシアとフィリア。来賓席に並んで座り、エリシアは静かに背筋を伸ばし、フィリアは柔らかく微笑んでいる。他国の王女として、完璧な振る舞いだった。
アレクシアは、双子を見るたびに胸が痛んだ。
数か月前、自分は彼女たちに縋った。知恵を貸してほしいと頼んだ。双子は優しく聞いてくれた。けれど、契約でなければ深くは踏み込めないと告げた。あの時から、アレクシアは契約を選べずにいる。自分が何を願うべきかも、何を差し出すべきかも、決められなかった。
その間に、レオニスはここまで来てしまった。
双子が来賓席にいることが、アレクシアには不安でたまらなかった。レオニスが以前、双子を戦利品のように語っていたことを思い出す。だから、何事もなく式典が終わってほしいと願った。
だが、その願いは叶わなかった。
最初は、通常通り卒業生の挨拶や功績紹介が行われていた。レオニスは卒業生代表のような立場で壇上に上がる。堂々とした立ち姿。傲慢ではあるが、場を支配する華がある。軍部や好戦派貴族たちは、彼を見る目に期待を滲ませていた。
アレクシアは、それを嫌というほど感じていた。レオニスはもはや、ただの第二皇子ではない。ヴァルターの死後、次代の中心として扱われ始めている。
父帝も会場にいた。玉座に近い席で、威厳ある姿を保っている。だが、かつての拡張政策を懐かしむ軍部や貴族たちの声に、少しずつ押されているように見えた。
あるいは、押されているのではなく――望んでその流れを受け入れているのかもしれない。
アレクシアには、それが何よりも恐ろしかった。
卒業パーティーの途中、予定にはなかった発表が行われた。
帝国高官が立ち上がり、声を張り上げる。
「第二皇子レオニス殿下を、帝国皇太子として立てる」
会場が、一斉にざわめいた。
それは本来、学園の卒業パーティーで行うにはあまりにも重い発表だった。しかしレオニス派にとっては、この華やかな場こそ都合がいい。学生、貴族、軍部、外交関係者、来賓――多くの目がある場所で発表することで、既成事実にできる。
軍部と好戦派貴族たちが、大きく拍手する。会場は祝福の拍手に包まれた。
だが、その拍手は美しくなかった。アレクシアには、押し寄せる軍靴の音のように聞こえた。
現帝国宰相ヴァレンシュタインが、表情を険しくする。彼は第一皇子ヴァルターを支えていた人物であり、内政派の中心であり、エレオノーラの父だった。ヴァルターの死後も、辛うじて帝国の均衡を保とうとしてきた。だがこの立太子で、その均衡はほぼ崩れた。
アレクシアは、胸の奥が冷えていくのを感じた。
――とうとう来てしまった。止められなかった。
レオニスは壇上で笑った。堂々と、勝者のように。
「亡き兄ヴァルターの無念を胸に」
その声には、悲しみのかけらもなかった。
「帝国の未来を背負う覚悟である」
美しい言葉だった。だがアレクシアは、その裏を知っている。ヴァルターを殺したのはレオニスだ。救援も涙も芝居だった。その男が、兄の名を利用して皇太子となっている。
アレクシアは怒りで手を握りしめた。しかし、何も言えない。証拠がない。会場は軍部に押さえられている。ここで叫べば、混乱を起こした皇女として処理されるだけ。あるいは、自分も消される。だからアレクシアは黙った。黙って、兄の名が踏みにじられるのを聞いていた。
立太子発表の余韻が残る中、レオニスはさらに続けた。会場の端にいるエレオノーラへ、視線を向ける。
「エレオノーラ・ディ・ヴァレンシュタイン」
会場が、しんと静まり返る。
「そなたとの婚約、ならびに側妃候補としての内定を、ここに破棄する」
会場が凍った。アレクシアは息を呑む。エレオノーラの父である宰相が、怒りに顔を歪めた。
これは、ただの婚約破棄ではない。公開処刑だ。ヴァルターの婚約者だった女性を、ヴァルターを殺した男が拾い上げ、利用価値を測った末に、人前で捨てる。さらに、宰相家を見せしめにする。第一皇子派を完全に切り捨てる宣言でもあった。
レオニスは、冷たく続けた。ヴァレンシュタイン家が旧第一皇子派に近すぎること。新たな帝国の方針にそぐわないこと。皇太子となる自分の隣には、より帝国の強さを象徴する相手が必要であること。それらしい言葉を並べていく。
だが、アレクシアには分かった。これはエレオノーラをさらに壊すための行為だ。そして宰相を怒らせ、動かし、排除するための罠でもある。
「皇太子殿下、そのような宣言は認められません!」
宰相ヴァレンシュタインが、声を上げた。
「この場は卒業を祝う場であり、皇位継承と婚姻を弄ぶ場ではない!
ましてや、ヴァルター殿下の喪も完全に癒えぬうちに、我が娘をこのように扱うなど――」
宰相はさらに何かに気づいたように、強く抗議しようとする。だが、レオニスはその言葉を最後まで聞かなかった。
軍部の者たちが動く。宰相の周囲にいた文官たちが押し退けられ、軍人が彼の腕を取った。
会場がどよめく。
「宰相閣下は興奮しておられる」
「帝国の安定のため、一時お下がりいただく」
軍人たちは、そう言って宰相を取り押さえていく。
アレクシアは叫びそうになった。だが叫べない。
エレオノーラを見る。彼女は立っている。表情がない。婚約破棄を告げられても、父が取り押さえられても、声を上げなかった。泣かない。怒らない。まるで、自分に起きていることではないかのように。その姿が、アレクシアの胸を刺した。
宰相が軍部に押さえられた後、レオニスは会場全体へ向き直った。
「我が帝国は、弱き停滞を捨てる!
亡き兄の無念を晴らし、帝国の威光を大陸に示す!
次なる標的は、ベルガルド王国!大陸の中心を押さえ、帝国の旗をさらに広げる!」
会場が、大きく揺れた。
宣戦布告。それは、祝宴の場で口にされるべき言葉ではない。外交使節も来賓もいる。ベルガルド王国の王女である双子もいる。本来なら、正式な手続き、外交文書、議会、軍議、皇帝裁可――あらゆる段階が必要なはずだった。
だがレオニスは、それらをすべて吹き飛ばした。卒業パーティーという華やかな場で、戦争を宣言する。
拍手が起こる。軍部と好戦派貴族たちが熱狂する。一部の学生たちも、帝国の栄光という言葉に酔って歓声を上げていた。
アレクシアは、絶望した。誰も止めない。止めるべき宰相は取り押さえられている。父帝は沈黙している。あるいは沈黙によって、認めている。第一皇子派は声を出せない。内政派は押し潰されている。ヴァルターの理想は、この場で完全に踏み躙られた。
レオニスは、来賓席へ視線を向けた。そこにはエリシアとフィリアがいる。
アレクシアの血の気が引く。以前聞いたレオニスの密談が蘇った。王国の双子姫。王国の至宝。戦利品。奴隷のように侍らせる――。レオニスは、笑った。
「幸いにも、王国の至宝は今この場にいる。
ベルガルド王国の姫君たちには、帝国の客人としてしばらく滞在していただこう。
いや、これよりは重要な交渉材料として、丁重に保護する。」
保護。その言葉に、アレクシアは吐き気を覚えた。
軍人たちが来賓席へ向かう。双子の周囲が取り囲まれる。会場の空気が、さらに凍った。
エリシアとフィリアは、驚いたように顔を上げる。だが取り乱さない。他国の姫君として、礼儀を崩さなかった。アレクシアには、その姿が痛ましく見えた。フィリアが小さく何かを言いかけ、エリシアがそれを静かに制するように見えた。
「傷つけるな」
レオニスが、満足げに告げる。
「王国との交渉に使う。価値のある客人だ」
その言葉が、かえっておぞましかった。
アレクシアは一歩、踏み出しかける。助けなければ。双子を連れて逃げなければ。
しかしその瞬間、エレオノーラが視界に入った。
エレオノーラは、会場の端に立ったまま動かない。
父である宰相は取り押さえられた。婚約は破棄された。第一皇子派の象徴として、次に何をされるか分からない。レオニスがこの場で双子を確保するなら、エレオノーラを放置するはずがない。彼女もまた、すぐに拘束されるかもしれない。
アレクシアは、選ばなければならなかった。
双子を助けるか。エレオノーラを逃がすか。両方は無理だ。軍部が会場を押さえている。双子の周囲には兵がいる。来賓席へ向かえば、アレクシア自身も拘束される。
それに、双子は王国の王女だ。レオニスが交渉材料として使うつもりなら、すぐに命を奪うことはないかもしれない。だがエレオノーラは違う。父が取り押さえられた今、彼女はこの場で消されてもおかしくない。
アレクシアは、唇を噛んだ。
――ごめん。
心の中で、双子に謝る。
――ごめんなさい。私は、また選べない。そして、また逃げる。
けれど今回は、エレオノーラだけは連れて行く。
アレクシアはエレオノーラへ近づいた。表向きは、婚約破棄の衝撃で倒れそうな友人を気遣う皇女として振る舞う。
「エレオノーラ、こちらへ。顔色が悪い。少し休もう」
エレオノーラは何も言わない。ただ、アレクシアに手を引かれるまま歩き出す。
アレクシアは、会場の端にある控え室へ向かうふりをした。軍人が視線を向ける。
「彼女は今、婚約破棄を受けたばかりだ」
アレクシアは、皇女として静かに睨んだ。
「この場で倒れられては、皇太子殿下の祝宴に傷がつく」
「休ませる」
軍人は、一瞬迷った。レオニスは双子確保と宣戦布告の熱狂の中心にいる。会場は混乱している。アレクシアは、その隙を突いた。
エレオノーラを連れて、控え室へ入る。だが、そこから本当の出口へ向かった。学園の古い使用人用通路。皇族用の非常通路。幼い頃から知っている裏庭へ抜ける小道。
裏口へ向かう途中、アレクシアは信頼できる護衛に命じた。
「目立たない馬車を用意しろ」
「ヴァレンシュタイン領へ向かう」
「エレオノーラを領地へ逃がす」
護衛は驚いた。今、皇太子となったレオニスが会場にいる。軍部が動いている。皇女が勝手にエレオノーラを逃がすなど、反逆と見なされかねない。
だが、アレクシアは引かなかった。
「命令だ」
「責任は私が取る」
声は震えている。けれど、今度は逃げるために動いていた。ただの逃亡ではない。誰かを連れて逃げる。それが、今のアレクシアにできる唯一の抵抗だった。
エレオノーラは、まだ表情を変えない。アレクシアは、彼女の手を握った。
「エレオノーラ、聞こえているか」
「君を領地へ帰す」
「ここにいては危険だ」
エレオノーラは、少しだけ瞬きをする。
「……お父様は」
その小さな言葉に、アレクシアの胸が痛んだ。宰相は助けられない。今、取り押さえられている。連れて行くことはできない。
アレクシアは、答えられなかった。エレオノーラは、答えがないことで理解する。また、表情が消えた。
アレクシアは泣きそうになるが、ここで泣いてはいけない。まだ逃げなければならなかった。
馬車へ向かう途中、アレクシアは一度だけ振り返った。
遠くの会場から、まだ歓声と怒号が聞こえる。レオニスの声。軍人たちの命令。貴族たちのざわめき。
その中に、双子がいる。エリシアとフィリア。自分の話を聞いてくれた二人。知恵を貸そうとしてくれた二人。契約という言葉を残した二人。
レオニスに狙われていると分かっていたのに、自分は彼女たちを守れなかった。今も、置いていこうとしている。
アレクシアは、自分を責めた。
――また逃げるのか。また、見捨てるのか。
レオニスの密談から逃げた。壊れたエレオノーラから逃げた。双子の契約からも逃げた。そして今度は、捕らえられた双子を置いて逃げる。
だが、足は止められない。止まれば、エレオノーラも捕まる。ここで迷えば、誰も救えない。
アレクシアは涙を堪え、馬車へ乗り込んだ。
馬車が走り出す。最初は静かに、学園の裏門から。
しかし、すぐに異変に気づかれた。エレオノーラがいない。アレクシアがいない。軍部が追っ手を出す。遠くで馬の嘶きが聞こえた。
「追っ手です」
護衛が焦った声を上げる。アレクシアは息を呑んだ。
エレオノーラは隣に座っている。相変わらず表情がない。窓の外を見ているのか、何も見ていないのか分からなかった。
アレクシアは、彼女を守らなければならない。少なくとも、今だけは。今だけは、逃げ切らなければならなかった。馬車は、夜の道を走った。
卒業パーティーの音楽は遠ざかり、代わりに車輪の音と馬の息遣いが響く。追っ手の灯りが、後方に見えた。軍部の騎兵か、レオニス派の私兵か。アレクシアには分からない。ただ、捕まれば終わりだと分かった。
彼女は御者に道を指示した。大通りではなく、旧街道へ。橋の手前で脇道へ。林の中を抜ける道へ。ヴァレンシュタイン領へ向かうには遠回りだが、追っ手を撒くにはその方がいい。
アレクシアは皇女として、帝都周辺の道を知っている。かつて視察や狩猟で通った道。今はその知識を、逃亡のために使っていた。
彼女は泣いていた。涙が止まらない。怖い。悔しい。情けない。兄を殺した男を止められなかった。父を動かせなかった。宰相を助けられなかった。双子を置いてきた。帝国は、完全にレオニスの手へ落ちようとしている。
それでも、馬車は走る。追われている中でも、エレオノーラは静かだった。
「エレオノーラ、怖くないのか」
アレクシアが問うと、エレオノーラは少し遅れて答えた。
「……分かりません」
その一言が、アレクシアをさらに苦しめた。怖いかどうかも分からない。怒っているのか、悲しいのか、悔しいのかも分からない。エレオノーラの心は、まだ戻っていなかった。
アレクシアは、彼女の手を握る。
「必ず逃がす。君だけは、必ず…」
言いながら、アレクシアは心の中でまた謝った。
――ヴァルター兄上。宰相閣下。エリシア殿下。フィリア殿下。私は、全員を救えない。だから今、目の前の一人だけを連れて逃げる。それしかできない。
追っ手の灯りが近づく。御者が馬に鞭を入れる。馬車が大きく揺れた。
アレクシアは座席にしがみつきながら、窓の外を見る。雨ではない。けれど、視界は涙で滲んでいた。
卒業パーティーの光はもう見えない。帝都の灯りも、遠ざかっていく。
あの会場には、レオニスがいる。取り押さえられた宰相がいる。捕らえられた双子がいる。戦争へ熱狂する軍部がいる。そして、壊れた帝国がある。
アレクシアは泣きながら、馬車を走らせた。逃げるために。守るために。まだ何も取り戻せないまま。それでも、エレオノーラだけは奪わせないために。
後方で、追っ手の声が上がる。前方には、暗い森へ続く道。
アレクシアは、涙を拭わずに叫んだ。
「このまま走れ!追いつかれるな!」
馬車は、夜の中へ飛び込んでいく。
追っ手の灯りを振り切るために。帝国の中心から、逃げ出すように。