客室は豪華だったが、自由はなかった。
窓の外には見張りが立ち、扉の向こうにも武装した兵が二人、微動だにせず立っている。表向きは「丁重な保護」。実際には、人質だった。
レオニスは、ベルガルド王国との交渉材料として双子を確保したつもりでいる。
だが、部屋の中の双子は、少しも怯えていなかった。
エリシアは長椅子に腰掛け、静かに本を読んでいる。フィリアは寝台に寝転がりながら、退屈そうに足をぶらぶらと揺らしていた。
「暇ですね」
エリシアが、本のページをめくりながら呟く。
「暇だね」
フィリアが答える。
「もうここで調べることは、だいたい終わってしまいましたし」
「外の人たち、ずっと立ってて飽きないのかな」
二人はこの帝国立学園周辺で必要な研究を、ほぼ終えていた。魔術契約書。聖属性変換装置。消滅砲の基礎理論。帝国式魔術体系の収集。軍部や皇族の人間関係の観察――必要なものは、かなり揃っている。
だから、客室に閉じ込められていても、焦りより退屈の方が勝っていた。
「ねえ、エリシア」
フィリアが、寝台の上で寝返りを打ちながら言った。
「アレクシア殿下、ここに来ると思う?」
エリシアが、本から顔を上げる。
「私は来ない方に賭ける」
フィリアが、楽しそうに続けた。
「あの弱虫さん、なんだかんだ言って来ないと思うな。エレオノーラ様は逃がしたけど、私たちは置いていったし。また怖くなって、どこかで泣いているんじゃない?」
エリシアが、くすりと笑う。
「では、私が来る方に賭けなければ成立しないじゃないですか」
「いいの?」
「構いません。では、アレクシア殿下が来る方に賭けます」
二人は、笑い話のように賭けを成立させた。
その直後、部屋の外に――正確には、部屋の壁際に、微かな気配が生じた。
軍部の兵のものではない。小さな魔術反応。隠し通路の気配だった。
エリシアとフィリアは、目を合わせる。
――本当に来た。
数瞬後、壁際の一角が微かに歪み、アレクシアが姿を現した。
彼女は息を切らしていた。目立たない外套を纏い、顔色は悪く、目元には疲れが色濃く残っている。
「エリシア殿下、フィリア殿下」
アレクシアは、小声で言った。
「助けに来た。ここから出られる」
双子は、驚いたような顔を作った。
アレクシアは早口で続ける。
「皇宮や学園には、皇族や高位貴族だけが知る抜け道がある。非常時の脱出路だ。レオニス派がすべてを押さえているわけではない。私は、その道を使ってここまで来た。私についてきてほしい。
見つからない道を知っている、今なら、まだ連れ出せる」
その声は、必死だった。
エリシアは、穏やかに首を振る。
「お気持ちはとても嬉しいですが、私たちはここに残ります」
フィリアも、柔らかく微笑んだ。
「大丈夫です。こちらのことは私たちで対応できますから」
アレクシアは、意味が分からなかった。
「対応できる、とは?」
双子は、具体的には答えなかった。
「ご心配には及びません」
エリシアが言う。
「アレクシア殿下こそ、危険を冒してここへ来てくださったのでしょう?」
「今、無理に私たちを連れ出して、もし見つかれば、殿下のお立場まで危うくなります」
それは、正論だった。アレクシアも分かっている。抜け道を知っているとはいえ、双子は目立つ。王国の姫君を連れて移動しているところを見つかれば、アレクシアは完全に反逆者扱いされる。
アレクシアは、迷った。助けたい。だが、助けようとして事態を悪化させるのが怖い。
その迷いを見計らうように、エリシアが静かに言った。
「アレクシア殿下、以前のお話を覚えていらっしゃいますか?」
アレクシアは、息を呑んだ。
契約。願い。条件。対価。あの日、双子に縋り、しかし決めきれずに逃げた言葉。
「ただの相談では、私たちは帝国の内政に深く関わることはできません」
フィリアが優しく続ける。
「ですが、正式な契約であれば、話は別です」
エリシアは、白紙の紙を取り出した。普通の紙に見える。けれど、紙面には淡く魔術紋様が浮かんでいる。
アレクシアは、直感的に理解した。これはただの書類ではない。
「今、この場で決めろと言うのか」
声が震える。エリシアは、首を振った。
「強制はいたしません。ただ、時間はあまりないでしょう。レオニス殿下は動き始めました」
フィリアが続ける。
「帝国も、王国も、エレオノーラ様も、すでに巻き込まれています」
その言葉に、アレクシアは唇を噛んだ。待てば待つほど、状況は悪くなる。
アレクシアは、叶えたいことを口に出していった。整理されていない。契約文としては曖昧。だが、それがアレクシアらしかった。
「レオニス兄上を止めたい。
これ以上、帝国を壊されたくない。
エレオノーラを守りたい。
宰相閣下も、できることなら救いたい。
ベルガルド王国への戦争を止めたい。
もし止められないなら、せめて被害を減らしたい。
あなたたちも、レオニス兄上の手から逃がしたい。
ヴァルター兄上が望んだような帝国を、完全に失いたくない」
願いが多い。大きい。抽象的だった。双子は、それを否定しなかった。
紙面には、アレクシアの言葉が少しずつ文字として浮かび上がっていく。だが、その文面は明確ではなかった。「できるだけ」「可能な範囲で」「帝国を救う」「レオニスを止める」「エレオノーラを守る」――曖昧な言葉ばかりが並んでいく。
「できるだけ、叶えましょう」
エリシアが言う。
「ただし、報酬は後でいただきます」
アレクシアは、顔を上げた。
「後で?」
「今のアレクシア殿下には、差し出せるものが限られています」
エリシアが頷く。
「けれど、契約が成った暁には、状況も変わっているでしょう。
ですから、後払いです」
フィリアが続けた。
「私たちが望むものを、その時に」
普通なら、ここで警戒すべきだった。だが、アレクシアは追い詰められている。時間もない。レオニスは動いている。エレオノーラは壊れている。双子を置いて逃げた罪悪感もある。
アレクシアは、答えてしまった。
「うまくいった暁には、私にできる限りあなたたちの望むものを差し出す」
その瞬間、紙に魔力が流れた。アレクシアの言葉が文字となり、双子の言葉と結びついていく。願い、条件、対価、署名――契約書が淡く光った。
契約は、成立した。契約が成立した後、アレクシアは恐る恐る尋ねた。
「戦争は……避けられないだろうか」
双子は、一瞬沈黙した。
「無理でしょう」
エリシアが、明確に答える。
「レオニス殿下は、すでに宣戦布告をなさいました」
フィリアも続けた。
「軍部も動いています。ここから完全に戦争を止めることは、ほぼ不可能です」
アレクシアは、落胆した。契約を結んだのに。双子なら何かできると思ったのに。
だが双子は、続けて言った。
「けれど、戦争の結末を変えることはできます。被害の形を変えることも」
フィリアが言う。
「誰が勝ち、誰が失い、誰が残るのか」
エリシアが続ける。
「そこにはまだ、余地があります」
アレクシアは、その言葉の意味を完全には理解できなかった。ただ、双子が何かをするつもりでいることだけは分かった。
双子は、アレクシアに小さな封筒を渡した。
「エレオノーラ様へ」
エリシアが言う。
「励ましのお手紙です」
アレクシアは、驚いた。
「エレオノーラに?」
「アレクシア殿下は、これからエレオノーラ様のところへ戻られるのでしょう?」
フィリアが、心配そうに微笑む。
「どうか、渡して差し上げてください。
私たちはしばらく、ここに残ります」
エリシアも言った。
「ですから、直接お見舞いには伺えません」
アレクシアは、封筒を受け取った。この二人は本当にエレオノーラを心配しているのだと、そう思った。だからこそ、胸が少し痛んだ。
「必ず渡す」
アレクシアは言う。そして、もう一度謝った。
「すまない。私はまた、あなたたちを置いていく」
双子は、優しく微笑んだ。
「お気になさらないでください
アレクシア殿下は、できることをなさってくださいませ」
アレクシアは頷き、来た時と同じ抜け道を使って、客室を去っていった。
数日後、アレクシアはヴァレンシュタイン領へ戻っていた。
追っ手を完全に撒くまで、時間がかかった。帝都にはもう容易に戻れない。レオニス派は、アレクシアとエレオノーラを探している可能性がある。
それでも、アレクシアはエレオノーラを領地まで逃がすことには成功していた。
しかし、エレオノーラの状態は悪かった。彼女はベッドから出られなくなっている。食も細い。侍女が運んだ食事にも、ほとんど手をつけない。眠っているのか、起きているのかも分からない時間が増えていた。
アレクシアは、心配してエレオノーラを訪ねた。
部屋は静かだった。カーテンは閉じられ、光は薄い。
エレオノーラは、寝台に横たわっている。以前のような優雅さは残っている。けれど、それは生きた美しさではなく、壊れやすい人形のような美しさになっていた。
「エレオノーラ」
アレクシアが、声をかける。エレオノーラは、ゆっくりと目を開けた。だが、反応は薄い。
「……アレクシア様」
それだけだった。
アレクシアは、双子からの手紙を出そうとする。だが、エレオノーラのあまりの弱り方に、言葉が詰まった。
「食べなければ駄目だ」
「眠れないなら、薬を用意させる」
「君は、ここで少し休めばいい」
エレオノーラは、薄く頷いた。しかし、それが理解しての反応なのか、ただ礼儀として動いているだけなのか、分からなかった。
アレクシアは、落ち込んだ。自分はエレオノーラを領地へ逃がした。けれど、救えたわけではない。ただ、壊れた彼女を別の部屋へ移しただけかもしれない。
アレクシアは、双子から預かった封筒を枕元に置いた。
「エリシア殿下とフィリア殿下からだ」
「励ましの手紙だそうだ」
「後で、読めそうなら読んでくれ」
エレオノーラは、封筒を見つめる。反応は薄い。
アレクシアは、もう少しそばにいるべきだと思った。だが、何を話せばいいのか分からない。父である宰相の安否も分からない。ヴァルターのことも、レオニスのことも、何も言えない。言葉を選べば選ぶほど、何も言えなくなる。結局アレクシアは、静かに部屋を出た。
また逃げてしまったような気がした。けれど、今は何もできなかった。
その夜、屋敷が寝静まった。侍女たちの足音も消え、廊下は静まり返っている。
エレオノーラは、寝台の上で目を開けていた。眠れない。体は弱っているのに、意識だけが沈みきらない。
枕元には、アレクシアが置いていった封筒がある。
エレオノーラは、ゆっくりと手を伸ばした。封を切る。中には、一枚の紙が入っている。
文字はほとんどない。描かれているのは、美しい模様だった。花の絵のようにも見える。幾何学模様のようにも見える。
「これが……励まし……?」
エレオノーラは、ぼんやりと思う。
だが次の瞬間、紙が光った。模様だと思っていたものは、魔法陣だった。
部屋の床に、光が広がる。風も音もない。ただ、淡い光が満ちていく。
そしてその光の中に――エリシアとフィリアが、姿を現した。
エレオノーラは、驚いた。だが、叫ばない。叫ぶ力もなかった。
目の前に現れた双子は、客室に監視されているはずの王国の姫君だ。ここにいるはずがない。けれど、いる。
「夜分に失礼いたします、エレオノーラ様」
エリシアが、静かに礼をする。
「お加減はいかがですか?」
フィリアが、微笑む。
その声は優しい。以前と同じ。だが、エレオノーラは本能的に感じていた。
この二人は、ただの優しい姫君ではない。
けれど、エレオノーラは恐怖より先に、救いを感じてしまう。暗い部屋に、蜘蛛の糸が垂れてきたように。
双子は、エレオノーラの枕元に立った。
「エレオノーラ様」
エリシアが言う。
「もし、叶えたい願いがあるのなら」
「私たちと契約しませんか?」
フィリアが続けた。
エレオノーラは、ゆっくりと二人を見た。
――契約。
その言葉が、沈んでいた心の底に触れる。それまで動かなかった感情が、突然ひび割れた。
ヴァルターの死。葬儀の雨。レオニスの婚約破棄。父が取り押さえられた光景。自分が側妃候補にされた屈辱。守ろうとしたものが、すべて奪われた事実。
それらが、一気に溢れ出した。
エレオノーラは、ヴァルターの死以降、初めて感情を露わにした。
最初は、小さく笑った。
「願い……?願いなら、たくさんございますわ」
その笑みは静かで、壊れていた。次に、泣き出す。
「ヴァルター様に、もう一度会いたい
でも、それは叶わないのでしょう?でしたら、せめて」
声が震える。怒りが混ざる。
「レオニスを殺してください。ヴァルター様を奪ったあの男を。
父を辱め、私を弄び、帝国を戦争へ引きずったあの憎き男を。
生かしておかないで」
エレオノーラは、続けた。
「帝国が勝てば、あの男の勝利になります
そんなことは許せません。ベルガルドを勝たせてください
レオニスの望む勝利を、すべて奪ってください」
泣いている。笑っている。怒っている。縋っている。感情は不安定だった。しかし、契約条件は恐ろしいほど明確だった。
双子は、静かに聞いていた。否定しない。慰めない。
「対価は、何を差し出されますか?」
エリシアが問う。
エレオノーラは、笑った。
「今持っているもの、すべて差し上げます。
どうせ、守るものなどもうございませんもの」
彼女は、父のことを口にする。
「父も、きっともう殺されたのでしょう。
生きていたとしても、レオニス殿下に逆らった以上、無事では済まない。
ならば、ヴァレンシュタイン家の名も、土地も、権限も、私に残されたものはすべて差し上げます。宰相の地位が必要なら、それも。この公爵家の土地が必要なら、それも。民のいない土地なら好きにお使いください」
エレオノーラは、さらに小さく笑った。
「できれば、私本人は……優しく扱ってくださると嬉しいですけれど」
双子は、微笑んだ。
エリシアが、白紙の契約書を取り出す。フィリアが、魔力を流す。
紙面に、文字が浮かんでいく。
依頼内容。一つ、第二皇子レオニスの殺害。一つ、ベルガルド王国をこの戦争に勝利させること。
報酬。ヴァレンシュタイン家が有する土地、権限、資料、拠点。将来的に得られる宰相位、またはそれに準じる地位。契約履行に必要な協力。
契約者エレオノーラ・ディ・ヴァレンシュタインの署名。
アレクシア契約とは違い、文面は明確だった。願いも対価も具体的。だから双子は、余分な解釈をする必要がない。
エレオノーラは、震える手で署名した。紙面に魔力が走る。
契約は、成立した。
「承りました」
エリシアが、微笑む。
「契約は成立です」
フィリアも、可憐に笑った。
エレオノーラは、泣きながら笑った。その顔は美しかった。けれど、もう以前の彼女ではなかった。契約が成立すると、双子は長居しなかった。
「どうか、今夜はお休みください」
エリシアが、丁寧に礼をする。
「すぐにすべてが終わるわけではありません」
フィリアが言った。
「ですが、契約は必ず果たします」
エレオノーラは、その言葉に縋るように頷く。
双子の足元に、再び魔法陣が広がった。淡い光。そして二人は、来た時と同じように、転移で消えた。
部屋には、静けさだけが残る。紙は消えていた。契約書は、双子の手に渡っている。
エレオノーラは、一人、寝台の上に残された。
部屋は暗い。先ほどまで双子がいた場所を、じっと見つめる。
彼女は分かっている。あの二人は、優しい存在ではない。励ましの手紙と偽って魔法陣を送り込んだ。監視された客室から平然と現れた。自分の悲しみも怒りも、救済ではなく取引の材料として扱った。だから、あの双子は善良な姫君ではない。きっと、もっと恐ろしいものだ。
けれど。それでも。
エレオノーラは、どうしようもなく彼女たちを崇拝してしまう。
誰も叶えてくれなかった。誰も救ってくれなかった。アレクシアでさえ、泣きながら自分の前から去った。父も助けられない。ヴァルターは戻らない。帝国は壊れた。
けれど、双子だけは言った。契約は必ず果たす、と。
エレオノーラは、静かに笑った。涙を流しながら。
「悪魔でも、構いませんわ。叶えてくださるなら」
彼女は、先ほど双子が立っていた場所へ向かって、祈るように頭を垂れた。
その夜、エレオノーラ・ディ・ヴァレンシュタインは、救いを失った。
代わりに、悪魔を得た。