あの凄惨な魔力暴発の事故から数日が過ぎても、アルフォンスの胸深くに突き刺さったドス黒い棘は、どうしても抜ける気配がなかった。
朝、重苦しい気分のまま目を覚まし、豪奢な食堂で家族と食事を摂り、冷や汗を流しながら家庭教師の授業を受け、そして泥に塗れるように剣術訓練へと向かう。日々の営みそのものは、あの日以前と何一つ変わっていない。王宮の広大な廊下は今日も鏡のように磨き上げられ、手入れの行き届いた庭園には季節の美しい花々が咲き誇り、すれ違う侍女たちは何事もなかったかのように優美な微笑みを返してくる。
けれど、アルフォンスだけは、自分が昨日までと同じ平穏な世界に存在しているとは、到底思えなかった。世界の色が、あの日を境に奇妙に歪んでしまったかのような、耐え難い違和感が常に付きまとっている。
(――僕は、実の妹の顔に、取り返しのつかない傷をつけたんだ)
その厳然たる事実が、悪質な呪いのように、何度も何度も脳内でフラッシュバックを繰り返す。
故意ではなかった。あれは魔力の制御訓練中に起きた、不可抗力の事故だった。老魔法士も動転しながらそのように父母へ説明し、その場にいた侍女たちも一様に口を揃えてそれを証言した。被害者であるエリシア自身も、心配して駆けつけた王妃に対して「少しだけお互いの魔法の波形が乱れてしまっただけですわ」と、穏やかな笑みを浮かべて報告したらしい。母も胸を撫で下ろして心配こそしたものの、それ以上に事態を大きく騒ぎ立てることはしなかった。だからこそ、表向きには「何も起きていない」ことになっていた。現に、今のエリシアの滑らかな頬には、傷跡など一筋も見えなかった。朝食の席でも、難解な講義の場でも、彼女はいつも通りに可憐で非の打ち所がない王女の微笑みを浮かべている。隣に並ぶフィリアもまた普段通り、天真爛漫な明るさで姉に寄り添い、楽しげに振る舞っていた。
しかし、それがアルフォンスにとっては、かえって狂いそうなほどに恐ろしかった。
本当にすべてが許されたというのなら、なぜこれほどまでに胸の奥が締め付けられるように苦しいのか。何も責められないのなら、なぜエリシアの透き通るような青い視線がこちらを向くたびに、肺の空気が引き剥がされるように息が詰まるのか。十歳のアルフォンスには、その心理的なカラクリが分からなかった。いや、本当は分からなかったのではない。その答えの輪郭を、彼は本能的に薄々と理解してしまっていたのだ。
あれは、まだ終わっていない。
その不穏な予感だけが、彼の幼い心を内側から静かに、確実に削り続けていた。
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「お兄様」
夕刻、いつにも増して過酷な剣術訓練を終え、疲弊した身体を引きずって自室へ戻ろうとしていたアルフォンスは、人気のない廊下の角で、不意に鈴を転がすような声に呼び止められた。
振り返ると、そこには淡い青のドレスを纏ったエリシアが佇んでいた。その美しい銀白色の髪はいつもより簡素に結い上げられ、彼女の細い首元には、見慣れない小ぶりな魔術符がチェーンで下げられている。王女の装いとしてはずいぶんと控えめで地味な印象を与えたが、その引き算のせいで、彼女の彫刻めいた完璧な顔立ちが、かえっていっそう際立って見えた。
「少し、お時間をいただけますか?」
向けられた声は、どこまでも穏やかで、波風一つ立っていなかった。
だが、その声音を鼓膜が捉えた瞬間、アルフォンスの背筋は条件反射のように強張った。
「……今からかい?」
「ええ。私の私室へお越しください。フィリアも中で待っていますわ」
断る理由など、どこにも存在しなかった。いや、たとえ正当な理由があったとしても、今の彼にそれを口にするだけの精神的な余裕などあるはずがない。
アルフォンスはただ小さく頷き、前を歩くエリシアの小さな背中について、重い足取りで歩き出した。
王宮の奥深くに位置する王女の私室は、実の兄である彼であっても、滅多に立ち入ることを許されない神聖な空間だ。扉の前で待機していた専属の侍女たちに対し、「少しお兄様と込み入ったお話をいたしますので、人払いを」と命じるエリシアの声は驚くほど自然で、誰もそこに疑問を挟む者はいなかった。完璧な王女としての権威が、八歳にしてすでに完成している。
静かに扉が閉まり、室内には三人だけの空間が作られた。部屋の奥、窓辺に置かれた豪奢な椅子には、やはりフィリアが腰掛けていた。彼女は退屈そうに小さな足を前後に揺らしている。いつも通りの明るい表情を浮かべてはいたが、アルフォンスが部屋に足を踏み入れた瞬間、その青い瞳の奥の光だけが、獲物を捉えた肉食獣のように静かに細められた。
「来てくれてありがとう、お兄様」
エリシアは背後の扉が完全にロックされたのを確認してから、ゆっくりとアルフォンスの方へと振り返った。
「今日はね、先日のあの『事故』について、少しだけお話をしておきたいのです」
ごくり、とアルフォンスの喉が鳴った。張り詰めた沈黙のなかで、その音が嫌に大きく響く。
「エリシア、僕は……あの時のこと、本当に、何度謝っても足りないと思って――」
「謝罪なら、もう十分にいただきましたわ」
紡ぎかけの言葉は、絹糸のように柔らかく遮られた。そこには一切の棘も、激しい怒りの響きもない。だからこそ、アルフォンスにとっては完全に逃げ場が塞がれたような絶望感があった。
エリシアは細い指先を、自らの首元に下がっている魔術符へと、おもむろにかけた。
それは銀のフレームに小さな青い魔石をはめ込んだだけの、子供のおもちゃとしては少しばかり無骨な代物だ。
「まずは、お兄様にしっかりと『確認』していただきたいのです」
カチリ、と小さな留め具が外される音がした。
次の瞬間、アルフォンスは文字通り、心臓が停止するかと思うほどに息を呑んだ。
エリシアの右の頬に――あの凄惨な、赤い傷跡が浮かび上がってきたのだ。
滑らかな白い肌を斜めに無惨に引き裂く、細い裂傷。宮廷医師による最上級の治療によってどうにか塞がってはいるものの、未だに生々しい赤みが残り、完全に消え去る気配など微塵もない。昨日も、今朝も、完璧に消えていたはずの醜い傷が、まるで隠されていたベールを乱暴に剥ぎ取られたかのように、白日の下に露わになった。
「治って……いなかったのか……!?」
「ええ、ご覧の通りですわ」
エリシアは、まるで鏡で前髪の乱れでも確認するかのような気軽さで、自らの指先でその赤い傷跡に触れてみせた。
「痛みはもうありませんし、日常生活において何の支障もありません。ただ、跡は一生残るでしょうね。少なくとも、現在の我が国の治癒魔法の術式では、このレベルの魔力裂傷を完全に消し去ることは不可能なのだそうです」
アルフォンスは、その無惨な傷跡から視線を逸らすことができなかった。
これを、自分が作った。自分の醜い嫉妬の心が、この可憐な妹の将来を奪ったのだ。その冷酷な現実が、数日前よりもはるかに鮮明な質量を持って、彼の幼い胸を殴りつける。
「でも、さっきまでは……何も、見えなかったじゃないか」
「この魔術符のおかげですわ」
エリシアは手の中に収めた青い魔石の魔術符を、軽くアルフォンスの目の前に掲げて見せた。
「傷そのものを治癒しているわけではありませんの。内部に組み込んだ臨時の魔術陣で、周囲の光の認識をほんの少しだけ歪めて、表面上は傷が存在しないように見せかけているだけ。簡単に言えば、私の本来の肌の幻影を、この傷の上に薄く重ね合わせているのです」
「そんな高度な魔導具を……君が、一人で作ったというのか……?」
「ええ。まあ、急ごしらえの突貫工事ですから、長時間の連続使用には向きませんし、近くで一流の魔導師が私の顔を凝視すれば、魔力の歪みに気付かれてしまうかもしれません。けれど、日常生活を普通に過ごす分には、これで十分騙し通せますわ」
アルフォンスの脳内は、処理しきれない戦慄で完全にパニックを起こしていた。
わずか八歳の少女が、致命的な傷を負ったわずか数日のうちに、それを完璧に隠蔽するための高度なオリジナル魔術具を自作したのだ。しかも、周囲の大人の誰一人にもその事実を悟らせることなく。恐ろしいほどに冷静で、恐ろしいほどに規格外の優秀さだった。目の前にいる妹が、得体の知れない怪物のように思えてならなかった。
その時、窓辺の椅子に座っていたフィリアが、すと、と床に足をついて立ち上がった。
「お兄様。エリシアは優しいから、お兄様のために黙っていてあげたわけじゃないんだよ?」
その冷ややかな言葉のナイフに、アルフォンスはびくりと肩を大きく震わせた。
フィリアの声は、一見すれば普段通りに甘い。けれど、その青い瞳の奥に潜む熱は、凍りつくほどに冷冷としていた。彼女はまだ、怒っているのだ。前世からの唯一無二の相棒であるエリシアを傷つけられたことを、最初から、これっぽっちも許してなどいない。
「フィリア、そこまでにしなさい」
エリシアが短く名前を呼んで嗜めると、フィリアは不満げに小さく唇を尖らせたが、それ以上は何も言わずに一歩下がった。代わりに、エリシアがアルフォンスの目の前へと、静かに歩み寄る。
「お兄様。私は、この頬の傷の件を、今更公にするつもりは毛頭ありません」
「……それは、どうしてだい?」
「簡単なことですわ。今更これを騒ぎ立てたところで、この部屋にいる誰も得をしないからです。お兄様は『実の妹の顔を傷つけた残虐な王子』として社交界での評判を完全に失墜させ、家庭教師の老先生は管理責任を問われて罷免、周囲の侍女たちも一斉に重い処分を下されるでしょう。お父様とお母様も深く心を痛められるに違いありません。何より私自身、これから先、行く先々で『傷物の哀れな王女』として、有象無象から余計な同情や憐みの目を向けられるのは……ひどく面倒で虫唾が走りますの」
淡々とした、あまりにも事務的な説明だった。
そこには、年相応の少女が抱くべき怒りも、悲しみも、絶望も、何一つとして存在していなかった。まるでチェス盤の上の駒の配置を数え上げるように、エリシアは関係者全員の損得勘定を、冷徹に整理整頓していた。
「だからこそ、私はこの秘密を、墓場まで持っていく覚悟で守り抜きますわ」
アルフォンスは、その言葉にほんのわずかばかりの救いを感じ、安堵しかけた。
――しかし、次にエリシアの薄い唇から溢れ出た言葉によって、そのささやかな安堵は、最も最悪な形へと変貌を遂げることになる。
「――お兄様にも、これからの私たちの活動に、全面的に『協力』していただけるというのであれば、ですが」
それは、明確な脅しではなかった。
少なくとも、エリシアの声のトーンは、一般的な脅迫者のそれとは程遠い。どこまでも穏やかで、礼儀正しく、むしろ傷つけた側の相手を深く気遣うような優しさすら内包している。
だが、アルフォンスにははっきりと分かってしまった。これは、極めて上品な拒絶不能の命令なのだ。断るという選択肢を最初から完全に潰した上で、けれど「自分の意志でそれを選んだ」という形を相手自身に取らせるための、悪魔の儀式。
「協力……。僕に、一体何をしろと言うんだい?」
「あら、そんなに身構えないでくださいな。私はこれを、お互いのための建設的な『契約』と呼びたいと思っていますの」
エリシアは、天使のように無垢な笑みを浮かべた。