帝城の一室に、慌ただしい足音が響いた。
「殿下!」
兵士が、蒼白な顔で駆け込んでくる。第二皇子レオニスは、書類から顔を上げた。
「なんだ」
「王国の双子姫が……いなくなりました」
レオニスは、一瞬、その言葉の意味を理解できなかった。
「……いなくなった?」
「扉には常時、監視をつけておりました。窓の外にも兵を配置し、廊下も押さえておりました。食事を運ぶ者も、すべて管理下にありました。それなのに――」
兵士の声が、震える。
「部屋は、もぬけの殻です」
レオニスは、無言で立ち上がった。
客室へ向かうと、そこには何の異変もない、静かな部屋があった。
豪華な寝台。整えられた寝具。使われた形跡のある茶器。読みかけの本が、卓上に置かれたままになっている。だが、エリシアもフィリアもいない。
扉は破壊されていない。窓にも、こじ開けられた痕跡はない。争った形跡もない。まるで、最初から誰もいなかったかのように、二人は消えていた。
「何をしていた!」
レオニスの怒声が、部屋に響く。
「二人の小娘すら、見張れなかったのか!」
兵たちは青ざめたまま、何も答えられない。本当に、誰一人として、双子が外へ出るところを見ていなかった。レオニスは、すぐに一つの名前を思い浮かべた。
「アレクシアだ」
卒業パーティーの夜、アレクシアはエレオノーラを連れて逃亡した。皇族しか知らない通路がある。ならば、双子を逃がす方法を知っていてもおかしくない。
「またあいつが、余計なことをしたのだろう」
すぐさま、アレクシアの居場所を捜索させる。だが、こちらも手掛かりがなかった。アレクシアは帝城に戻っていない。エレオノーラも、ヴァレンシュタイン領から姿を見せていない。軍部が捜索を続けているが、いまだ確保には至っていなかった。
レオニスの苛立ちは、増していく一方だった。
ヴァルターを排除した。宰相を押さえた。エレオノーラを切り捨てた。皇太子となった。王国への宣戦布告も行った。すべて思い通りに進み始めたところで、女たちが次々と手元から消えていく。
「捜索は続けろ」
だが、レオニスの下した命令は、意外にも短かった。
軍部の高官が進言する。ベルガルド王国も間もなく宣戦布告を受け取る。ここで侵攻準備を遅らせれば、相手に防備を整える時間を与えることになる。
「双子姫は惜しい。アレクシアも、放置できない」
レオニスは呟いた。
「だが、今最優先すべきは戦争だ、軍の動員は遅らせるな。
王国を落とした後で、逃げた者どもはいくらでも探せる」
そう命じて、彼は意識を切り替えた。怒りは残っている。だが彼は、皇太子となったばかりだ。最初の大仕事となる王国侵攻で、失敗するわけにはいかない。
レオニスは、双子が消えたことを「逃亡」だと考えていた。彼女たちが、自分より先に、戦争そのものへ手を伸ばしているとは、思いもしなかった。
ベルガルド王城。
帝国からの正式な外交文書が到着したのは、その数日後のことだった。
宣戦布告。
自国の安全保障、大陸秩序、王国側の敵対的行動――帝国側は、もっともらしい文言を並べていた。だが、実態は侵略だった。
国王は即座に重臣を集める。会議室には、緊張が走っていた。軍部、宰相、主要貴族、魔術関係者。そして王太子アルフォンス、王太子妃クラウディアも、その場にいる。
「エリシアとフィリアは、どうなっている」
国王が、重い声で問う。
王国側には、双子の現在位置について確かな情報がなかった。帝国側からの正式な説明もない。最後に確認されていたのは、帝国に留学していたという事実だけだった。
すでに拘束されている可能性。人質として利用されている可能性。あるいは、何らかの方法で身を隠している可能性。何も確定していない。会議室が、騒然となった。
周囲が双子を心配する中、アルフォンスだけは、少し違うことを考えていた。
拘束。人質。危険。
普通なら、妹たちの身をひたすら案じるべき場面だ。実際、兄として心配していないわけではない。しかし、アルフォンスの頭に浮かぶのは、別の疑問だった。
――本当に、あいつらが素直に帝国の好きにされているのか?
幼い頃から知っている。魔術実験に付き合わされたこともある。転移魔術の実験台にもされたことがある。人間の裏を読む二人も、よく知っている。
マリア消失の時も、アルフォンスだけは双子を疑った。証拠は何一つなかった。
そして今。帝国が宣戦布告をした。その帝国に、少なくとも直前まで双子はいた。
偶然とは、思えなかった。
「……まさか」
アルフォンスは、低く呟いた。その声に、クラウディアが気づく。
軍議の合間、アルフォンスとクラウディアは、少し離れた場所で言葉を交わした。
「エリシアとフィリアが、ただ何もできずにいるとは思えない」
アルフォンスが、静かに言う。
「……あいつらが、本当に何もしていないのか?」
その言葉に、クラウディアの心臓が、強く鳴った。
クラウディア自身も、まったく同じ疑念を抱いている。双子の本性を知っているからだ。マリアについて交わした契約。契約を完璧に履行しながら、言葉の外側を平然と利用した双子。マリアについて見せられた、あの記録。そして、彼女たちを「悪魔」と呼んだ記憶。
さらにクラウディアは、帝国侵攻そのものについても、双子が事前に知っていたことを理解している。だからこそ思う。あの二人が、ただ帝国の状況に流されているとは考えにくい。何かをしている。あるいは、これから何かをする。
しかし、それを口には出せなかった。
アルフォンスは、クラウディアが双子の本性を知っていることを知らない。ここで同意すれば、アルフォンスは当然尋ねるだろう。なぜそう思うのか。何を知っているのか。いつから知っていたのか。その先には、マリアがいる。クラウディア自身が双子へ依頼した契約がある。
だからクラウディアは、何も知らない妻として振る舞った。
「……まずは、お二人の無事を確認するべきでしょう」
それだけを返す。肯定もしない。否定もしない。
アルフォンスは、クラウディアの返答を特に不審には思わず、再び軍議へ意識を戻した。
クラウディアだけが、胸の内で、静かに息を詰めていた。
――余計なことは言えない。今はまだ。絶対に。
その時、王城側から新たな報告が入った。
正体不明の人物が、城門へ現れたという。全身を濃いローブで覆い、顔も見えない。性別すら判然としない。武器らしい武器は持っていないが、明らかに魔術師だった。
その人物は、国王へ直接渡したい物があると言っている。
「ベルガルド王国第一王女エリシア殿下、第二王女フィリア殿下より」
その一言で、会議室の空気が変わった。アルフォンスは、思わず立ち上がりかける。
「双子から?」
クラウディアの顔色も、わずかに変わった。だが、今度も余計なことは言わなかった。
国王は警戒しつつ、その人物を厳重な監視のもとで通すよう命じた。
謎の魔術師が、会議室に入ってくる。頭から足元まで、深いローブに覆われている。顔は見えない。声も、必要最低限。立ち振る舞いからすら、素性を判断しづらい人物だった。
アルフォンスは、注意深く観察する。知っている人物か。双子本人なのか。帝国人なのか、王国人なのか。何一つ、判別できなかった。魔術師は国王の前で跪き、一通の封書を差し出した。
「エリシア・フォン・ベルガルド殿下、フィリア・フォン・ベルガルド殿下より、国王陛下へ」
封書には、王族用の封蝋。さらに、双子本人でなければ成立させにくい魔術的な認証が施されている。国王が確認すると、それが偽物ではないことが分かった。
アルフォンスは、ますます嫌な予感を覚える。少なくとも、手紙を用意し、この使者を王国へ差し向けられる程度には、双子は行動できているということだ。
しかし、どこにいるのかは、依然として分からない。
国王は、静かに手紙を読み進めた。
内容の一部は、双子らしい丁寧な文章だった。自分たちは現時点で無事であること。現在地については明かせないこと。自分たちの救出を優先する必要はないこと。帝国との戦争について、王国側が防衛準備を急ぐべきこと。帝国軍の主力が軍部中心に再編されていること。
そして、一つの進言。
目の前の魔術師を、王国軍へ加えてほしい。ただし通常の魔術師部隊ではなく、王国軍を率いる将軍、その直下へ。開戦後は、可能な限り先頭に配置すること。会議室が、ざわめいた。
正体不明の魔術師を。双子からの手紙一枚で。軍の重要な位置へ入れる。
「危険すぎます」
「帝国側の罠では?」
「仮に姫殿下方からの使者だとしても、能力すら分からぬ者を将軍直下など――」
もっともな反応だった。
だが国王は、手紙を読み進めていく。双子は、その反論をある程度予想していた。魔術師に関する最低限の保証。王国へ敵対しないこと。王国軍の指示系統には従うこと。ただし戦場での行動については、大きな裁量を与えること。
さらに、帝国軍に関するいくつかの情報も書かれていた。それは、王国側が独自に集めていた情報とも一致していた。
「陛下」
アルフォンスが、国王へ進言する。
「慎重にすべきです。
手紙が本物であることと、この者を信用できることは別問題です」
国王も、それを否定しなかった。
「分かっている」
クラウディアもまた、魔術師を見つめていた。双子が何かを送り込んできた。しかも、戦争の先頭へ立たせろという。普通の援軍ではない。何か、目的がある。
クラウディアには、それだけは分かった。しかし、その疑念を口にはしなかった。
国王は、最終的に、双子の進言を条件付きで採用した。
帝国との戦争が差し迫っている。王国側には一人でも多く戦力が必要だ。双子からの手紙は真正のもの。魔術師には、王国へ敵対しない旨の保証もある。
そして何より――エリシアとフィリアは王族だ。所在すら明かさず、自分たちの救出よりこの人物の採用を優先するよう求めている。そこには、相応の理由があるはずだった。
「この魔術師を、王国軍総司令を務める将軍の直下へ置く」
国王が、宣言する。
「開戦後は、将軍の指揮下において前衛へ配置する」
「ただし、常に監視を置く」
「不審な行動があれば、即座に拘束する」
反対派も、国王の決定には従った。
魔術師は、ただ静かに頭を下げる。何も反論しない。喜びもしない。
軍議は、そのまま戦争準備へと移っていった。
兵の召集。国境防衛線の構築。物資の手配。魔術師部隊と騎士団の再編成。避難計画。帝国軍の侵攻経路の予測。王国全体が、戦争へ向けて動き出していく。
だが、アルフォンスの意識は、謎の魔術師と双子の手紙に引っかかったままだった。
双子は無事だと、手紙にはある。だが、現在どこにいるのかは分からない。帝国にいるのか。すでに別の場所へ移動しているのか。王国へ戻るつもりがあるのか。何一つ、分からない。
――なら、なぜ帰国しない。
――なぜ自分たちではなく、謎の魔術師だけを送り込んだ。
――なぜ将軍直下。なぜ先頭。
アルフォンスの中で、幼い頃から積み上がった、あの嫌な記憶が蘇る。
双子は、意味のないことをしない。遊びに見えることですら、後から目的が分かることがあった。ましてや今は戦争だ。この状況で、あの二人がただ善意だけで謎の魔術師を送り込むとは、到底思えなかった。
クラウディアもまた、黙ったまま考え続けていた。マリア。帝国侵攻。双子。そして、正体不明の魔術師。点が繋がりそうで、繋がらない。
双子は、帝国の侵攻を知っていた。それでも帝国へ行った。そして戦争が始まろうとする今、王国へ「魔術師」を送り込んできた。
クラウディアは、自分の中に、嫌な予感が膨らんでいくのを感じていた。
――双子は、この戦争を止めようとしているだけではないのかもしれない。
――もっと、別の何か。戦争そのものを利用して、何かをしようとしているのではないか。
だが、口には出せなかった。彼女には、まだアルフォンスへ話せない秘密が、あまりにも多すぎた。
軍議が終わる。
王城の外では、すでに兵士たちが動き始めていた。各地へ召集令が飛ぶ。国境へ部隊が送られていく。倉庫から、武具と食料が運び出されていく。平和だった王国が、目に見える形で戦時体制へと変わっていった。
謎の魔術師は、兵士に案内されて、静かに去っていった。ローブの裾だけが、廊下の向こうへ消えていく。アルフォンスは、その背中を見つめていた。手元には、双子から届いた手紙がある。
妹たちは、生きている。それは、喜ぶべきことのはずだった。
だが、安堵できない。むしろ、胸騒ぎは強くなっている一方だった。
帝国が宣戦布告した。双子の現在地は分からない。それなのに、二人からの手紙を携えた正体不明の魔術師が現れ、戦争の最前線へ配置するよう求めてきた。
偶然であるはずがない。アルフォンスは、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
「エリシア……フィリア……」
そして、眉間を押さえる。
「お前たちは……一体、何を考えているんだ……?」
答える者は、誰もいなかった。
王国と帝国。二つの国が、戦争へ向けて動き始める。
その戦場の先頭には――双子が送り込んだ、正体不明の魔術師が立とうとしていた。