誰が教えてくれたのかは覚えていないのだけれど。
最初のお願い
「私たちが秘密を守る代わりに、お兄様には、今後の私たちの小さなお願いをいくつか聞き入れていただく。もちろん、王家に害をなすような大それたことは求めませんし、お兄様の次期国王としての立場を危うくするような真似も望んでいません。だって私たちは、血の繋がった大切な『家族』なのですから」
家族。
その本来であれば温かいはずの言葉が、今のアルフォンスの胸には、底なしの沼のような不気味な重さとなってズシリと落ちてくる。
「……その契約とやらに、僕が拒む権利はあるのかい?」
「ええ、もちろんありますわ」
エリシアは、何の問題もないと言いたげに即答した。
「嫌ならば、今この場で拒んでいただいて一向に構いません。その場合、私は今すぐこの頬の魔術符を外して外へ出かけ、お父様とお母様へ、事の顛末をすべて正直にお話しするだけです。決してお兄様が悪意を持って私を傷つけたなどという嘘は吐きませんわ。ただ、現実に起きた事実を、そのまま伝えるだけ。――さあ、どうなさいます?」
それは、あまりにも完璧な正論だった。そして正論だからこそ、ぐうの音も出ないほどに残酷だった。
アルフォンスは痛いほどに唇を噛み締めた。エリシアは決して嘘を言っていないし、自分を不当に陥れようとしているわけでもない。ただの事実の開示を提示しているだけだ。それでも、王族の第一王女の顔に一生消えない傷が残ったとなれば、ただの事故では絶対に済まされない。周囲の貴族たちの目は一気に冷ややかなものへと変わり、父母の失望は計り知れず、恩師や侍女たちの人生も一瞬で破滅へと向かうだろう。
「お兄様」
エリシアは、まるで迷える子羊を導く聖母のように、優しく、甘く囁きかける。
「これは罰でも、復讐でもありませんわ。私がこの傷を隠し続けるためには、これから多くの魔導材料も、研究のための時間も必要になります。秘密を維持するためには、どうしても外部に動ける優秀な協力者が必要なのです。そして、私にとっての栄えある『最初の協力者』には、お兄様が最も適任だと思いましたの」
「最初の……協力者……?」
「ええ」
エリシアの青い瞳が、獲物を罠にハメ終えた喜びで妖しく細められる。
「これから先、私たちはこの王宮を、ひいては世界を生き抜くために、きっと色々な方々と特別な約束を交わしていくことになりますわ。秘密、利益、罪悪感、欲望。人間が他者に主導権を差し出す動機なんて、この世にいくらでも転がっていますもの。けれど、記念すべき一番最初の契約相手は、他でもないお兄様が良いと、フィリアと話し合って決めたのです」
すると、それまで黙って様子を見ていたフィリアが、愉悦を隠しきれない様子で楽しげにクスクスと笑った。
「だって、私たちって本当に仲の良い『家族』だもんね、お兄様?」
あまりにも無邪気で、愛らしい言い方だった。だが、今のアルフォンスにとっては、その幼子としての無邪気さこそが、何よりも悍ましく、恐ろしかった。
エリシアは「契約」という言葉を選んだ。一方的な脅迫や命令ではなく、あくまで双方の利益が合致した上での対等な約束であるという建前を、丁寧に提示してみせている。けれどその実、彼女は最初から、兄である自分が絶対に首を横に振れないことを完璧に理解しているのだ。拒絶すればどれほど多くの大切なものを失うかを理解させた上で、それでも「選択肢」だけは優雅に目の前に並べてみせる。わずか八歳の、自分のすぐ隣にいたはずの妹が、今、そんな恐ろしい盤面を支配している。
アルフォンスは、自らの掌をじっと見つめた。あの日、激しい嫉妬に身を任せ、醜く魔力を暴発させてしまった、呪われた手だ。その手の震えは、どれほど力を込めても、どうしても止まってはくれなかった。
「……分かった」
彼の口から漏れた声は、酷く掠れて、情けなく響いた。
「君の秘密は、僕が命に代えても守る。これから必要なことがあれば、何でも協力しよう」
「お聞き届けいただき、ありがとうございます、お兄様。そう言っていただけると信じていましたわ」
エリシアは、本当に嬉しそうに、満面の笑みを浮かべて微笑んだ。それは絵画から飛び出してきた天使のように愛くるしい笑顔だった。だからこそ、アルフォンスの背筋には、今までに経験したことのないほどの冷たい悪寒が走り抜けていた。
「では、さっそく『最初のお願い』をしてもよろしいかしら?」
展開が、あまりにも早すぎる。そう思ったが、それを指摘するだけの手札は、今のアルフォンスには一枚も残されていなかった。
「近いうちに、ローゼンベルク公爵家を王宮にお招きしての、私的なお茶会が開かれますわね?」
「……クラウディア嬢との、お茶会のことかい?」
「ええ、その通りですわ。先日の私のお披露目会でお兄様が出会われた、将来の王妃候補筆頭と噂される、あの極めて優秀なご令嬢です」
エリシアはそう言いながら、手の中にあった青い魔術符を、再び慣れた手つきで自らの首元へと装着した。カチリと金具が噛み合うと同時に、組み込まれた魔術陣が淡い光を放ち、彼女の右頬を醜く裂いていたあの赤い傷跡が、霧が消えるようにすっと消失していく。傷が完全に治ったわけではない。ただ、幻影によって見えなくなっただけ。その裏側の真実を知ってしまった後では、何一つ瑕疵のない完璧な白い頬の方が、アルフォンスにとってはかえって不気味で、背筋が凍るような恐怖を抱かせた。
「そのお茶会の席に、私たち双子も同席させてただきたいのです」
「君たちを……あのお茶会に?」
「ええ。お兄様の口から直接、私たちを彼女に紹介していただきたいのです。私たちはまだ幼く、正式な社交界への出席は許されておりませんが、公爵家との個人的な私座のお茶会であれば、お兄様の強い希望という形を取れば、何の問題もありませんでしょう?」
確かに、要求された内容自体は、それほど無理なものではなかった。王太子の妹たちが、将来の義姉になるかもしれない公爵令嬢に事前に挨拶を済ませておく。客観的に見れば、むしろ微笑ましく、極めて自然な提案ですらある。だが、今のアルフォンスには、その要求の裏にどれほどおぞましい意図が隠されているのか、全く見当もつかなかった。そして、その先が分からないということ自体が、何よりも怖かった。
「……エリシア、フィリア。君たちは、クラウディア嬢に対して、一体何をするつもりなんだ?」
思わず警戒を露わにして問いかけると、隣にいたフィリアが、わざとらしく小首を傾げて小悪魔のように微笑んだ。
「お兄様、人聞きが悪いよ? 私たちはただ、エリシアと一緒に普通のご挨拶をしに行くだけだよ?」
「ええ。――『今は』、ね」
エリシアが、フィリアの言葉を引き継ぐようにして妖しく微笑む。
「彼女は、大変に優秀な傑物なのでしょう? ならば、私たちとしても、できるだけ早いうちにお近づきになっておきたいのです。いずれ、お兄様にとっても、私たちにとっても、かけがえのない『大切なお知り合い』になるお方かもしれませんし、ね」
言葉の表面だけを掬い上げれば、妹として兄の将来の婚約者候補に興味を持っているだけの、他愛のないセリフに聞こえる。だが、アルフォンスには、もう彼女たちの言葉をそのまま額面通りに受け取ることなど、絶対に不可能だった。
「……分かった。お茶会の件は、僕から母上に相談して、手配してみるよ」
「ありがとうございます、お兄様。お優しいお兄様を持って、私たちは本当に幸せ者ですわ」
エリシアはそう言って、ドレスの裾を優雅に掴み、深々と完璧な一礼を捧げた。
王女として、一ミリの狂いもない完璧な所作だった。話はすべて終わったはずなのに、アルフォンスはしばらくの間、その場から一歩も動くことができなかった。
エリシアは魔術符によって頬の傷を綺麗に隠蔽し、フィリアはそんな姉の隣にピタリと寄り添い、二人は鏡合わせのように全く同じ、可憐で聡明な双子姫の姿に戻っている。誰もが褒め称え、王国の至宝と謳う、無垢な少女たちの姿がそこにあった。
けれど、世界でただ一人、アルフォンスだけは知っている。
エリシアの頬には、今も自分がつけた消えない傷が深く残っていること。その悍ましい傷が、怪物のごとき知能によって作られた魔術符で隠されていること。そして自分自身が、その秘密を共有し、彼女たちの計画に加担する「最初の契約者」になってしまったということを。
部屋を退出した後、回廊を満たす冷たい夜気団に触れて、アルフォンスはようやく、肺に溜まっていた熱い息を吐き出すことができた。もう、決して逃げることはできない。その冷酷な事実を、彼は魂のレベルで理解していた。エリシアは決して、強引に彼の首に縄をかけて引っ張ったわけではない。すべての退路を断った上で、彼自身の意志で首輪を選ばせ、彼自身の口から「イエス」と言わせたのだ。その、自分で選んでしまったという事実の重みこそが、何よりも彼を絶望の淵へと叩き落としていた。それでも、この秘密は、何があっても守り抜かなければならない。
あの美しかった妹の顔に、消えない醜い傷を作ってしまったのは、他でもない自分自身なのだから。
数日後、ローゼンベルク公爵家を迎えての、秘密裏のお茶会が開かれる。
そこでアルフォンスは、自らの手で、あの冷徹な天才令嬢クラウディアに、この悪魔の双子を引き合わせることになる。それが、さらなる恐ろしい契約の始まりになるのか、あるいはただの平穏な挨拶で終わるのか。少なくとも、すべてを失ったアルフォンスには、もう何も分からなかった。ただ、世界が急速に、破滅的な方向へと動き出しているという予感だけが、夕闇の王宮の中に静かに広がっていた。
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