ローゼンベルク公爵家の紋章――黄金の鷲が刻まれた豪奢な馬車が、音もなく王城の重厚な正門をくぐり抜けたのは、どこまでも高く晴れ渡った秋の午後のことだった。
白い石壁に囲まれたベルガルド王城は、うららかな陽光を浴びてまるですりガラスのように静かに輝いている。正門から壮麗な宮殿へと続く一本道には、鮮やかに色づき始めた街路樹が美しく整列し、手入れの行き届いた広大な庭園の花々は、貴客を歓迎するように秋の微風に優しく揺れていた。
三大公爵家筆頭たるローゼンベルク家が王家に招かれるというだけでも国家的な一大事であるが、今日の訪問には、それ以上の重い政治的意味が含まれている。
第一王子アルフォンスと、ローゼンベルク公爵令嬢クラウディアの、非公式な「初顔合わせ」。
まだ十歳の子供同士の交流という名目ではあるものの、老獪な貴族社会において、これが将来の国母の座を見据えた極めて重要な第一歩であることは、誰もが理解していた。馬車から降り立つ公爵夫妻の表情は穏やかだったが、その双眸の奥には、隠しきれない期待と鋭い理性が光っている。両親の後ろに従う二人の子供――嫡男のレオンハルトと長女のクラウディアもまた、王家への最高敬意を示すため、いつも以上に隙のない洗練された正装に身を包んでいた。
一方、迎える側のアルフォンスもまた、衣服の上からでも心臓の早鐘が伝わりそうなほどに緊張していた。
だが、彼がこれほどまでに冷や汗を流している理由は、決して「未来の婚約者候補」という美しい少女と対面するからだけではなかった。
「お兄様、そんなに肩を怒らせていては、お顔がまるで城壁のガーゴイルのように強張って見えますわよ?」
「そうそう、深呼吸、深呼吸! 大丈夫ですよ、今日はお兄様が主役なんですから、私たちはおとなしく後ろで可愛いお人形に徹していますからね」
左右の耳元から、同時に滑り込んできた鈴を転がすような声音。
その可憐極まる響きを捉えた瞬間、アルフォンスの背筋は、凍りついたように垂直に強張った。
エリシアとフィリア。
八歳になったばかりの双子の王女は、今日も今日とて、神の最高傑作としか言いようのない人形めいた愛らしさを振りまいていた。腰のあたりまでなだらかに届く銀白色の美しい髪は、お揃いの淡いブルーのリボンで上品に結われ、細部にまで最高級の刺繍が施されたドレスは、彼女たちの透明感をいっそう引き立てている。姉のエリシアは慈愛に満ちた静かな微笑みを湛え、妹のフィリアは好奇心に満ちた無邪気な表情で首を傾げている。何も知らない大人が見れば、誰もが「神が王家に遣わした理想的な双子姫」だと、盲目的に称賛するだろう。けれど、世界でただ一人、アルフォンスだけは彼女たちの本性を知っている。
エリシアの滑らかな右頬には、今も自分がつけた消えない赤い傷跡が隠されていること。その醜い現実は、彼女が自作した異常な魔導具(魔術符)によって、ただの幻影で覆い隠されているに過ぎないこと。そして――この二人の少女が、可憐な羊の皮を被った、底の知れない「怪物」であることを。
「……本当に、頼むから、今日だけは何もしないでくれ」
アルフォンスが周囲に聞こえないほどの蚊の鳴くような小声で懇願すると、エリシアは心外そうにその長い睫毛を瞬かせた。
「もちろんですわ、お兄様。今日はお兄様の将来がかかった大切なお茶会ですもの。妹として、そのお邪魔をするような無粋な真似はいたしません」
「うんうん、私たちの目的はね、クラウディア様と『仲良くなること』だけだもん」
フィリアが、これ以上ないほど年相応の、純粋無垢な笑顔を浮かべる。その笑みには悪意の欠片も混ざっていないように見えた。だからこそ、アルフォンスの胸には、心臓を冷たい手で掴まれるような言いようのない不安が過り、それを無理やり胃の奥へと飲み込むしかなかった。
やがて、重厚な扉が開き、高らかな侍従の声が来客の到着を告げた。
王妃の私的な応接室に通されたローゼンベルク公爵一家は、まずはソファーから立ち上がった王と王妃に対して、一糸乱れぬ完璧な礼をとった。公爵は一国の柱たるにふさわしい落ち着いた威厳を漂わせ、公爵夫人は高貴な血筋を感じさせる柔らかな気品をまとっている。
その後ろに控える十歳のレオンハルトは、大人の貴族顔負けの洗練された所作で頭を垂れ、その妹であるクラウディアも、一歩遅れて非の打ち所がない完璧なカーテシーを示した。
「クラウディア・フォン・ローゼンベルクにございます。本日はこのような栄えあるお席にお招きいただき、誠にありがとうございます」
紡がれた少女の声には、隠しきれない緊張が細かく滲んでいた。だが、その背筋は凛と伸び、微塵の怯えも見せない。夜空を溶かし込んだような濃紺の美しい髪は丁寧に編み込まれ、その奥で輝く紫水晶(アメジスト)のような瞳は、真っ直ぐに正面のアルフォンスを見つめていた。幼いながらも、自分が今どれほど重大な局面に立たされているかを、正確に自覚している聡明な瞳だった。
アルフォンスは、肺に溜まった冷たい空気を一度全て吐き出し、深く息を吸い込んだ。
「アルフォンス・フォン・ベルガルドです。こちらこそ、遠路はるばる僕たちのために足を運んでくださって、本当に嬉しく思います」
王子として、決して無礼のないように。けれど、相手を威圧してしまわないように、極力柔らかく。あらかじめ何度も練習してきた通りの言葉を返すと、クラウディアの緊張に満ちていた表情が、ほんの少しだけ春の雪解けのように和らいだ。彼女もまた、自分と同じようにこの空間に押し潰されそうなほど緊張しているのだと肌で理解でき、アルフォンスの胸にも小さな温かい安堵が生まれる。それは、まだ「恋」と呼ぶにはあまりにも拙く、淡い感情だった。けれど、決して悪い印象ではない。それどころか、目の前の少女の誠実で真面目な佇まいに、彼は強く惹きつけられていた。建前だらけの王宮の中で、もう一度、彼女自身の言葉で話してみたいと思える――そんな特別な相手だった。
「――そして、こちらが僕の自慢の妹たちです」
アルフォンスは、自らの心の動揺を隠すように、努めて自然な声音で背後の双子を紹介した。
「第一王女のエリシアです」
エリシアは一歩前へ進み出ると、八歳という年齢が信じられないほどの優雅さと流麗さで、ドレスの裾を翻して礼をした。
「エリシア・フォン・ベルガルドにございます。クラウディア様、レオンハルト様、お会いできて大変光栄に存じますわ」
澄んだ美しい声は、どこまでも控えめで上品だった。余計な主張は一切せず、飽くまで主役であるアルフォンスとクラウディアを立てるその姿勢は、完璧な王族のそれだった。
「第二王女のフィリアです」
続いて、フィリアが姉よりも少しだけ小気味よい、人懐っこい笑顔を浮かべて頭を下げた。
「フィリア・フォン・ベルガルドです! 今日という日を、ずっとずっと楽しみにしておりましたの」
その子供らしい無邪気で温かい歓迎の言葉に、クラウディアの頬が今度こそ完全に、柔らかく緩んだ。
「私もですわ。エリシア様、フィリア様」
クラウディアは、この瞬間に双子への深い好感を抱いていた。年下の王女たちは恐ろしいほど礼儀正しいが、決して冷酷で近寄りがたいような堅苦しさはない。エリシアは落ち着いていて神秘的な美しさがあり、フィリアは太陽のように明るく人懐っこい。まるで、御伽話に出てくる「理想的な可愛い妹たち」が、そのまま形を成したかのように見えた。
それは、兄のレオンハルトにとっても同様の印象だったようだ。彼は妹のクラウディアとアルフォンスの間の、未だに少しぎこちない空気感を敏感に察知すると、大人のような機転の利いた笑みを浮かべて口を開いた。
「姫様方、もしよろしければ、私にこの見事な庭園をご案内していただけませんか? 王城の庭園は国内一の美しさと伺っておりますので、ぜひこの目で拝見したく存じます」
あまりにも自然で、洗練されたエスコートの提案。それを見守る大人たちは、微笑ましそうに目を細めた。レオンハルトが、クラウディアとアルフォンスが気兼ねなく二人きりで会話できる時間を作ろうとしているのだと、その場にいる全員が瞬時に察したのだ。当然、その意図は双子の王女たちも一瞬で理解したが、それを指摘するような無粋な真似は、表面上は絶対にしない。
「ええ、喜んでご案内いたしますわ、レオンハルト様」
「わあ、嬉しい! レオンハルト様、こちらです、とっても綺麗なお池もあるんですよ!」
エリシアとフィリアは完璧な天使の笑顔で応じ、レオンハルトを伴って連れ立つように庭園へと向かっていった。
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残された応接室。大人たちが別室へと移動し、アルフォンスとクラウディアの間には、しばらくの間、心地よい沈黙が落ちた。
最高級の紅茶の香りが、湯気と共に静かに室内に漂う。
窓の外からは、庭園へと向かう双子たちとレオンハルトの、楽しげで和やかな話し声がかすかに響いていた。アルフォンスは、男として、王子として、何か気の利いた話題を提供しなければと焦るが、こういう時に限って、頭の中の辞書から言葉が綺麗に消え去ってしまう。王子としての「完璧な外交用の挨拶」ならいくらでも訓練してきた。だが、自分と同じ年齢の、少し気になる少女と「自然な会話」を紡ぐ方法など、家庭教師は誰も教えてくれなかったのだ。
それはクラウディアも同じだったのだろう。彼女の膝の上できっちりと重ねられた白い指先には、わずかに血の気が引くほどの強い力が入っている。
「……実は、その」
先にその重苦しい沈黙の氷を割ったのは、アルフォンスだった。
「僕も、今、心臓が口から飛び出しそうなほど緊張しているんです」
クラウディアが、驚いたように丸い紫水晶の瞳を見開いて顔を上げた。
「殿下も……緊張、なさっているのですか?」
「はい。王子ですから、こうした場では常に冷静で、すべてに慣れているように振る舞わなければいけないのですが……実際には、分からないことばかりで、手汗が止まらないくらいです」
自分の格好悪い本音を正直に打ち明けると、不思議なほど肩の余計な力がすっと抜けていった。
クラウディアも同じだったようで、それまで張り詰めていた彼女の表情に、ふっと少女らしい小さな、そして最高に愛らしい笑みが浮かんだ。
「少し……いえ、ひどく安心いたしましたわ。私だけが、場違いにガチガチに緊張しているのかと思っておりましたので」
「僕も、クラウディア嬢があまりにも完璧な礼をなさるものだから、僕の方こそ嫌われてしまったのではないかと焦っていたんです」
二人はそっと顔を見合わせ、今度は声を出して、控えめに、けれど心から楽しそうに笑い合った。
そこからの会話は、十歳の子供らしく拙いながらも、途切れることなく少しずつ、確実に深まっていった。お互いが好む歴史書の話題、日々の厳しい勉強の愚痴、王城と公爵邸の庭園に咲く花の違いについて。クラウディアは極めて真面目で、アルフォンスが振るどんな些細な話題に対しても、一つ一つ真剣に、そして丁寧に答えてくれる少女だった。アルフォンスはその誠実な内面に、これまでに感じたことのない深い好感を抱いたし、クラウディアもまた、王子が噂以上に優しく、自分の心に寄り添ってくれる温かい少年なのだと知って、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
「――また、僕とお茶をしてくださると、嬉しいです」
アルフォンスが、少し耳を赤くしながら真っ直ぐにそう告げた時、クラウディアは一瞬だけ、息が詰まったように返事に詰まってしまった。
ドクン、と胸の奥が、今までにない確度で跳ね上がったからだ。それが「初恋」と呼べるほど明確な感情なのかどうか、十歳の彼女にはまだ判別がつかない。ただ、今日ここへ来て、彼に出会えて、本当によかったと、魂の底から思えた。もう一度、この優しい王子の隣に座りたい。もう少しだけ、彼の声を聞いていたい。そう願う気持ちだけは、欺きようのない確固たる現実だった。
「はい……。私も、また殿下にお会いできましたら、とても嬉しく存じます」
そう答えた彼女の声は、最初に部屋に入ってきた時よりも、はるかに柔らかく、甘い響きを帯びていた。