お気に入りもお忘れなく!
新しく学園編を始めます。
かなり書き溜めできたので、ここから更新を日ごとにしようと思います。
王立学園への入学を明日に控えた、静まり返った夜。
第一王子アルフォンス・フォン・ベルガルドは、自室の豪奢な机の前で、ようやくすべての荷造りを終えたところだった。
磨き上げられたマホガニーの机の上には、入学許可証をはじめとする重要書類が寸分の狂いもなく整然と並べられ、傍らに置かれた特製の旅行鞄には、仕立てたばかりの紺青の制服や、分厚い各種教材が隙間なく収められている。窓の外に目を向ければ、夜の帳に包まれた広大な王城の灯りが、秋の冷涼な風に吹かれて静かに揺れていた。
十五歳。
ベルガルド王国の王族や有力貴族の子弟が、例外なく義務付けられている「王立学園」へと入学する年齢に、彼は達したのだ。
普通の少年、あるいは一般的な王太子であれば、明日から始まる未知なる学園生活や、同年代の学友たちとの出会いに胸を躍らせ、眠れぬ夜を過ごしているところだろう。実際、ほんの五年前までのアルフォンスであれば、王子としての義務感を抱きつつも、どこか誇らしげにこの夜を迎えていたに違いない。
だが、現在の彼の胸中を占めていたのは、未来への輝かしい期待などでは断じてなかった。それは――五年間、片時も感じることのできなかった、脳が痺れるほどの圧倒的な「安堵」であった。
(ようやく……ようやく、あの場所から、あの二人から離れられる……!)
心の底から湧き上がるその思いが、何よりも強く彼の全身を支配していた。旅行鞄の留め具を閉める自らの手が、喜びのあまり微かに震えているのを感じるほどだった。
一人きりの静寂の中で、彼の記憶は自然と、あの運命の五年前の出来事へと引き戻されていく。
すべては、あの日、魔力制御訓練中に起きた凄惨な事故から始まった。自分が嫉妬に狂って暴発させた魔力によって、最愛の妹であるエリシアの頬を醜く傷つけてしまったこと。その一生消えないはずの赤々とした傷跡が、今もなお、彼女の手による不気味な魔導具(魔術符)によって、精巧な幻影で隠され続けていること。
そして――あの悪夢のような王女の私室で、逃げ場を完全に塞がれた上で結ばされた、血の通わない「最初の契約」。
あの日を境に、アルフォンスの王子としての、いや、一人の人間としての人生は、目に見えない蟻地獄に足を踏み入れたかのように、少しずつ、けれど確実に変質していった。
思い返せば、最初のうち、双子から提示される「お願い」は拍子抜けするほどに些細なものばかりだった。次も、その次も、およそ国家の命運を左右するような大それた政治的介入などではなく、子供の他愛のない我が儘の範疇に収まるものばかり。だが、それが五年という歳月をかけて雪だるま式に積み重なった時、アルフォンスの精神を圧迫するには十分すぎるほどに重く、冷酷な首輪へと成長していた。
双子の恐ろしいところは、決して無理難題を押し付けないことだ。直接的な暴力を振るうわけでもなければ、ヒステリックに怒鳴り散らすこともない。常に天使のような無垢な笑顔と、完璧な王女としての礼儀正しさを崩さない。だからこそ――厄介極まりなかった。彼には、彼女たちの要求を「断る正当な理由」が、何一つとして見つけられないのだ。
◇
「お兄様、もしよろしければ、私に温かい紅茶を淹れていただけますか?」
ある日の穏やかな午後。王宮の一角にある、陽光が差し込む美しいサロンでのことだ。
豪奢なソファーに腰掛けた第一王女エリシアが、本から視線を上げて上品に微笑みかけた。その隣では、第二王女フィリアが、これまた楽しげに最高級の焼き菓子を小さな口へと運んでいる。
当然、アルフォンスは周囲を盗み見て、困惑を露わにしながら小声で返した。
「……僕がやる必要はないだろう。そこに控えている侍女を呼べば、すぐにでも最高の一杯を用意してくれる」
しかし、エリシアは一ミリの淀みもなく、極上の笑みを浮かべて即答するのだ。
「あら、侍女の淹れるお茶も素晴らしいですが、私は他でもないお兄様が、私のために心を込めて淹れてくださる紅茶が一番大好きなのですわ」
その笑顔は、どこからどう見ても兄を深く慕う健気な妹のそれだった。サロンの壁際に控える侍女たちも、二人のやり取りを見て「まあ、なんて仲の良い微笑ましいご兄妹でしょう」と言わんばかりに、目を細めてうっとりと見守っている。周囲の目がある以上、王子たる者がここで「嫌だ」と突っぱねれば、それこそ器の狭い傲慢な兄として悪評が立ちかねない。結果として、アルフォンスは溜息を噛み殺しながら立ち上がり、自らティーポットを握る羽目になる。五年もの間、双子のために最高の給仕を叩き込まれた結果、彼の紅茶を淹れる所作は、今や宮廷筆頭給仕長すらも感嘆するほど無駄がなく、洗練され尽くしたものになっていた。
完璧な温度で抽出された紅茶をカップに注ぎ終えると、
「ありがとうございます、お兄様。やはりお兄様の淹れるお茶は、世界で一番心が落ち着きますわ」
エリシアが、実に見事に、至福の表情で嬉しそうに笑う。
「うんうん、さすがお兄様! 私たちの好みの茶葉の開き具合を、完璧に理解してくれてるよね!」
フィリアもまた、拍手をしながら無邪気に彼を大絶賛する。
二人からは、最上級の「褒め言葉」が贈られている。悪意など微塵もない、純粋な感謝を向けられている。それなのに――アルフォンスの胃の奥は、まるで冷たい泥を流し込まれたかのように、キリキリと不快な痛みを訴え続けていた。
その後も、これに類する「絶妙に断れない主従関係(おままごと)」は日常茶飯事として繰り返された。高い棚にある魔導書を取ってほしい。ソファーに座る際に椅子を引いてほしい。天気の良い日は、庭園の散歩に騎士の代わりとして付き添ってほしい。新しく厨房で作られた試作のお菓子を、毒見を兼ねて運んできてほしい。どれも「妹を可愛がる優しい兄」として、当然と言えば当然の行動だ。周囲の大人たちは口を揃えて、「アルフォンス殿下は、本当に双子の姫様方を大切にされている、理想的なお兄様ですね」と、その深い兄妹愛を大絶賛した。違う。全然違う。これは愛などではなく、過去の罪悪感と「傷の暴露」という無言の脅迫によって調教された、完璧な奴隷化(執事役の定着)なのだ。だが、その真実を誰に説明したところで、誰も信じてはくれない。そんな孤立無援の絶望が、彼の青春を静かに侵食していた。
◇
だが、そんな執事ごっこなど、まだ可愛いものだった。アルフォンスにとって真の意味で生きた心地がしなかったのは、時折強行される双子の「魔術実験」の被験者に指名される時だった。
「お兄様、そこに描かれた魔術陣の中央に、真っ直ぐ立っていてくださいな」
「……お前たちのその顔を見るたび、僕の脳裏には嫌な予感しか浮かばないんだが」
「失礼な。大丈夫ですわ、理論上の計算はすべてフィリアと百回以上見直してありますから」
エリシアがそう言って胸を張る時、アルフォンスの経験上、本当に「大丈夫」だった試しは一度として存在しなかった。私室の床一面に、見たこともないほど複雑怪奇に、かつ緻密に描き込まれた、怪しく発光する巨大な幾何学模様の魔術陣。その横で、ストップウォッチのような魔導具を手にニヤニヤと笑うフィリア。そして、その中央で冷や汗を全身から噴き出しているアルフォンス。
「では――カウント、開始しますわ」
エリシアが短杖を床にコツンと突き立てた、次の瞬間だった。
パキン、と空間そのものがガラスのようにねじ切れる乾いた音が響き、アルフォンスの視界が完全に上下左右に反転した。強烈な浮遊感と、脳を直接かき回されるような嘔吐感が彼を襲う。――オエッ、と胃液が逆流しかけた瞬間、気付けば彼は、全く見覚えのない、冷たい大理石の長い廊下の中央にポツンと立ち尽くしていた。足元を見れば、先ほどまであったはずの魔術陣はなく、ただの綺麗な床があるだけ。慌てて周囲を見回すと、遥か数十メートル先にある私室の扉の影から、双子がパタパタと駆け寄ってくるのが見えた。
「やった! 完全な空間座標の転移、成功ですわ!」
「すごーい、エリシア! 魔力の残滓も想定の範囲内だよ! これなら実戦(イベント)でも十分に使えるね!」
手を取り合ってピョンピョンと歓声を上げる双子。
それは、紛れもない「空間転移魔術」の実験だった。
最初は、部屋の中から数歩先の廊下へ。しかし、数日後には別棟の数十メートル先へ。さらに数か月が経過する頃には、王城の結界すらも内側からすり抜けて、全く異なる別区域の奥深くまでアルフォンスの身体を「強制転移」させるまでに至っていた。ある日などは、気付いた瞬間、頭から庭園の巨大な噴水の中に突っ込んでおり、溺れかけた彼を双子が死ぬほど大爆笑しながら助け出すという、最悪の事件まで引き起こしている。空間そのものを移動する恐怖もさることながら、アルフォンスを真に戦慄させたのは、この双子の「異常極まる成長速度」そのものだった。
空間転移魔術など、現代の国家宮廷魔導師たちが何十年、あるいは何百年もの歳月と膨大な国家予算をかけて研究しても、未だに「数センチの物品を移動させるのが限界」とされている超高等ロストテクノロジーである。それを、十三歳にも満たない少女二人が、趣味の延長線(実用段階)まで独力で構築してしまったのだ。本人たちは、新しいパズルでも楽しむかのように、純粋に目を輝かせていた。
「この術式の補正を行えば、次はいよいよ、別の山脈までの距離を伸ばせそう」
「うん、次は王城の外の別邸(ターゲット)へのピンポイント転移だね!」
アルフォンスは、ただの一瞬たりとも楽しくなかった。自分を実験用のモルモットとして扱い、世界の常識を笑顔で塗り替えていく妹たちが、ただただ恐ろしかった。
◇
さらに、彼の脳裏に深く刻まれて消えない、もう一つの悍ましい事件がある。
それは、フィリアが十歳の誕生日に何気なく発案した、他愛のない「かくれんぼ」であった。
「ねえねえ、お兄様! 今日は王城の近衛騎士さんたちも全員巻き込んで、本気のかくれんぼ勝負をしましょう!」
最初は、よくある子供の微笑ましいお遊びだと思われていた。近衛騎士たちも「可愛い姫様方のお相手か」と、業務の合間に軽い気持ちで快諾したのだ。
だが、ゲームが開始されてから数時間が経過した頃、王城の空気は完全に一変することとなった。
双子が、見つからないのだ。本当に、どこをどう探しても、この世界から綺麗に消え去ったかのように、一向に発見できない。王城の隅々、普段は立ち入り禁止となっている地下の暗黒迷宮、天井裏、果ては王や王妃の寝室のクローゼットに至るまで。近衛騎士団が総出で、血眼になって捜索網を広げ、宮廷侍女たちが総力を挙げて協力しても、彼女たちの銀色の髪一筋すらも見つけることができない。
「報告! 地下宝物庫、異常なし! 姫様方の気配はありません!」
「庭園の結界にも接触痕なし! 一体どこへ行かれたのだ……!?」
屈強な近衛騎士たちは、完全に困惑し、挙句の果てには「まさか他国の暗殺者に誘拐されたのでは」と、顔を青ざめさせて深刻なパニックに陥りかけていた。しかし、アルフォンスだけは、捜索の途中でその「真実」に気付いてしまい、一人で静かにガタガタと震えていた。誘拐などされているはずがない。彼女たちは、先ほどの「転移魔術」を駆使して捜索の目を完璧に掻い潜り、さらに自らの「魔力の痕跡」や「存在の認知」すらも完全に消去する、新開発の隠蔽魔術の実験を行っているのだ。これは遊びではない。高度な軍事・隠密行動の「実戦データ収集(研究)」だ。
なぜ、わずか十歳の王女たちが、国家の最高戦力である近衛騎士団を完全に翻弄するほどの「国家隠密レベルの隠蔽行動」を研究・マスターする必要があるのか。その先に、彼女たちが一体どのような未来を見据えているのか。アルフォンスはそれ以上考えることを、自らの精神の平穏のために放棄せざるを得なかった。
そんな、精神が磨り潰されるような地獄の日々の中にあって、アルフォンスにとって唯一無二の救い、まさに泥中の中に咲く清らかな蓮の花のような存在が――婚約者であるクラウディア・フォン・ローゼンベルクであった。