柄の悪い竜と、強がりお嬢様   作:ゆゆゆい

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人外×ヒロインの組み合わせです

癖を詰め込みました、もしこの癖が刺さってくれる人がいればうれしい限りです


第一話

雨の日、強がりお嬢様を拾った

 

 その夜、月見荘(つきみそう)の裏口には、九条家(くじょうけ)の失敗作が落ちていた。

 

 雨は夕方から降り続いている。

 

 ぽつぽつ、などという可愛げのある雨ではない。屋根を叩き、側溝を鳴らし、古い木造の軒先を容赦なく濡らしていく、嫌になるほど本気の雨だった。

 

 月見荘の裏口は、表通りからは見えない場所にある。

 

 共同台所の勝手口を出て、錆びた物干し台の横を抜けた先。古びたブロック塀と、隣家の裏庭に挟まれた細い空間。そこに、彼女は倒れていた。

 

 白かったはずの服は泥と雨水で汚れ、長い髪は頬に張りついている。片方の靴は脱げて、足首には擦り傷があった。薄く開いた唇から漏れる呼吸は、ひどく浅い。

 

 黒瀬迅(くろせ・じん)は、しばらくそれを見下ろしていた。

 

 片手には、ゴミ袋。

 

 もう片手には、火のついていない煙草。

 

「……」

 

 雨音だけが、やけにうるさい。

 

 迅は舌打ちした。

 

「なんでうちの裏口に落ちてんだよ」

 

 返事はない。

 

 当然だ。倒れているのだから。

 

 迅は煙草を口の端に咥え直し、しゃがみ込んだ。女の頬にかかった髪を雑に払う。雑ではあるが、乱暴ではなかった。

 

 顔立ちは整っていた。

 

 まだ少女と呼んでもいい年頃だ。十八か、十九か。少なくとも、こんな雨の中で倒れていていい顔ではない。

 

 迅の目が、彼女の胸元で止まった。

 

 汚れた服の内側、裂けた布の隙間から、古い護符が見えていた。

 

 九条の紋。

 

 迅の眉間に、深い皺が寄る。

 

「……あー」

 

 面倒くさい。

 

 まずその言葉が出た。

 

 九条家。

 

 対人外の名家。退魔師の旧家。古い血と古い術式にしがみついている、面倒な連中。

 

 その九条の紋を持った女が、月見荘の裏口で倒れている。

 

 関わりたくない。

 

 心の底からそう思った。

 

 迅は立ち上がりかけた。

 

 その時、倒れていた女の指が、かすかに動いた。

 

「……」

 

 迅は動きを止める。

 

「……ぃ」

 

 雨音に紛れて、声がした。

 

 ほとんど息だけの声だった。

 

 迅はしゃがみ直した。

 

「おい。生きてんなら返事しろ」

 

「……わたくしに」

 

「あ?」

 

 女の瞼が震える。

 

 ようやく開いた目は、熱で潤んでいた。けれどその奥には、妙に折れない光が残っている。

 

 彼女は迅を見上げた。

 

 そして、震える唇で言った。

 

「わたくしに……触れることを、許した覚えはありませんわ」

 

 迅はしばらく黙った。

 

 それから、心底面倒くさそうに顔をしかめた。

 

「倒れてる奴が許可とか言ってんじゃねえよ」

 

「無礼、ですわ……」

 

「元気じゃねえか」

 

「わたくし、は……九条天音(くじょう・あまね)……九条家の、娘ですの……」

 

「名乗れる元気があるなら立て」

 

 天音と名乗った少女は、腕に力を込めた。

 

 だが、起き上がる前に身体が崩れる。濡れた地面に手をつき、肩で息をする。その姿は、どう見ても限界だった。

 

 迅はため息を吐いた。

 

「立てねえだろ」

 

「立て、ますわ……」

 

「じゃあ立て」

 

「……」

 

「ほら」

 

「……少し、待ちなさい」

 

「待てるか。風邪ひくぞ」

 

「わたくしに、命令を……」

 

「してねえよ。事実確認だ」

 

 迅はゴミ袋を裏口の脇に置いた。

 

 それから、天音の身体に手を伸ばす。

 

 天音が反射的に身を強張らせた。

 

 迅はその動きを見て、手を止める。

 

「担ぐぞ」

 

「許しておりませんわ」

 

「じゃあここで死ぬか?」

 

「……」

 

「選べ。担がれるか、ここで雨水飲んで寝るか」

 

 天音は唇を噛んだ。

 

 悔しそうな顔だった。

 

 だが、身体はもう動かない。

 

 しばらくして、彼女は小さく言った。

 

「……特別に、許しますわ」

 

「偉そうに拾われてんじゃねえ」

 

「拾ったとは、何ですの……!」

 

「拾われたくねえなら立て。立てねえなら黙って拾われろ」

 

 迅はそう言って、天音を抱え上げた。

 

 軽い。

 

 思った以上に軽かった。

 

 服が雨を吸っているのに、それでも軽い。ちゃんと食っていたのか怪しい重さだった。

 

 天音は抵抗しようとしたらしいが、腕に力が入っていない。迅の上着を掴む指が、わずかに震えるだけだった。

 

「……乱暴な、方」

 

「落ちてた奴に気を遣う趣味はねえ」

 

「わたくしは、落ちてなど……」

 

「落ちてた」

 

「違います……」

 

「じゃあ生えてたのか」

 

「違いますわ……!」

 

「なら落ちてたんだよ」

 

 天音は睨もうとした。

 

 だが、その目にはほとんど力がない。

 

 迅は裏口の戸を足で押し開けた。

 

 月見荘の中は、外より少しだけ暖かかった。

 

 共同台所の灯りが、古い廊下を黄色く照らしている。宿とも寮ともつかない建物だった。玄関から続く廊下の先には共同の食堂があり、二階には住人たちの部屋が並んでいる。古い木材の匂いと、味噌汁の残り香。それから、どこか人ではないものの気配。

 

 普通の人間なら、入った瞬間に違和感を覚える場所だった。

 

 天音も、それに気づいたのかもしれない。

 

 迅の腕の中で、かすかに眉をひそめた。

 

「ここは……」

 

「月見荘」

 

「宿、ですの……?」

 

「似たようなもんだ。勝手に住み着いた連中の巣窟だよ」

 

「巣窟……」

 

「安心しろ。今んとこ人間食う奴はいねえ」

 

「今のところ……?」

 

 天音の声が引きつった。

 

 迅は答えず、廊下を進んだ。

 

 途中、廊下の奥に置かれた大きな姿見が、雨に濡れた二人を映した。

 

 鏡の中で、黒髪の女――朽木硝子(くちき・しょうこ)が一瞬だけ目を開ける。

 

 迅はそちらを見ずに言った。

 

「硝子。小春起こせ」

 

 鏡の中の硝子が、気怠げに笑った。

 

『小春なら、まだ食堂にいるわ。ずぶ濡れのお姫様を拾ってきたの?』

 

「落ちてた」

 

『それを拾ったと言うのよ、迅』

 

「うるせえ鏡女」

 

 天音が固まった。

 

「い、今、鏡が……」

 

「気にすんな」

 

「気にしますわよ!」

 

「元気出てきたな。よし」

 

 迅は共同食堂へ向かった。

 

 食堂には、まだ灯りがついていた。

 

 長い木のテーブル。揃いではない椅子。壁際の棚には、住人ごとに分けられた茶碗や湯呑みが置かれている。食堂というより、古い下宿の共有の居間に近い場所だった。

 

 そこに、狐塚小春(こづか・こはる)がいた。

 

 大学生くらいの見た目の女だった。明るい茶色の髪を後ろで結び、部屋着の上から薄いカーディガンを羽織っている。手元には湯呑み。頭の上には、本来あるべきでない三角の耳が、ぴこりと揺れていた。

 

 狐の半妖。

 

 本人は隠しているつもりなのか、ただ面倒で隠していないのか、日によって違う。

 

 小春は迅の腕の中を見て、目を丸くした。

 

「迅さん、また何か拾ったんですか?」

 

「女拾った。見ろ」

 

「言い方」

 

「落ちてた」

 

「なお悪いです」

 

 小春はすぐに立ち上がった。

 

 茶化す声は消え、表情が真面目なものに変わる。

 

「こっちに寝かせてください」

 

 迅は長椅子の上に天音を横たえた。

 

 天音は朦朧としたまま、それでも迅の上着の端を弱く掴んでいる。

 

「……わたくしに、触れることを……」

 

「はいはい、触りますよ。女同士なので許してくださいね」

 

 小春は柔らかく言って、天音の額に手を当てた。

 

 耳がぴんと立つ。

 

「熱い。なのに身体が冷えてます。怪我も見たいですけど……迅さん」

 

「ああ」

 

 迅はすぐに背を向けた。

 

「タオルと着替え出す。風呂は?」

 

「いきなり湯船は危ないです。まず拭いて、濡れた服を替えて、布団です。意識がはっきりしてからの方がいいです」

 

「了解」

 

「覗かないでくださいね」

 

「誰が覗くか」

 

 迅は不機嫌そうに言って、食堂の隣の物置からタオルを何枚も引っ張り出した。

 

 それから、箪笥を開ける。

 

 出てきたのは、灰色のスウェットだった。大きい。古い。色気はない。お嬢様が着るものでは、確実にない。

 

 迅はそれを小春に投げる。

 

「これでいいか」

 

「色気ゼロですね」

 

「命に色気求めんな」

 

「正論ですけど言い方」

 

 小春は苦笑しながら、天音の濡れた髪をタオルで包んだ。

 

 迅は食堂から出て、台所へ向かう。

 

 背中越しに、天音のかすれた声がした。

 

「……あなた」

 

「あ?」

 

「関わると、面倒ですわよ」

 

 迅は振り返らなかった。

 

「もう面倒だ」

 

「わたくしは、九条の者ですの」

 

「見りゃ分かる」

 

「なら、放っておけばよろしいのに」

 

 迅は鍋を出す手を止めた。

 

 ほんの少しだけ、肩越しに天音を見る。

 

「倒れてた」

 

「……」

 

「理由なんざ、それで足りるだろ」

 

 それだけ言って、迅は台所へ入った。

 

 台所には、夕飯の残りが少しだけあった。

 

 冷めた味噌汁。残り飯。刻んだネギ。卵。鶏肉はない。魚もない。病人に食わせるなら、粥でいい。

 

 迅は鍋を出した。

 

 米を水でのばし、火にかける。出汁を少し足し、塩を控えめに入れる。卵を溶き、鍋の中へ回し入れる。ふわりと黄色が広がる。

 

 手つきは慣れていた。

 

 雑な男のわりに、料理だけは妙に丁寧だった。

 

 食堂の方からは、小春の声が聞こえる。

 

「足首、擦り傷ですね。深くはないです。こっちは打ち身かな。痛みます?」

 

「……その程度、平気ですわ」

 

「平気な人はそんな声出しませんよ」

 

「あなたも、随分と失礼な方ですのね」

 

「月見荘にいると、だいたいそうなります」

 

「最悪の宿ですわ……」

 

「でも、ご飯は美味しいですよ」

 

 迅は鍋をかき混ぜながら、鼻で笑った。

 

 しばらくして、小春が台所の入口に顔を出した。

 

「迅さん」

 

「死にそうか?」

 

「今すぐどうこうではないです。でも、かなり疲れてます。栄養も足りてなさそうですし、冷えてます。今日は部屋で寝かせた方がいいですね」

 

「飯は?」

 

「食べられるなら、少し」

 

「粥」

 

「さすが」

 

「褒めても量は増えねえ」

 

「増やしてください。私も食べたいです」

 

「自分でよそえ」

 

「やった」

 

 小春は笑って、棚から深めの茶碗を出した。

 

 しばらくして、天音が食堂に戻ってきた。

 

 借り物の灰色のスウェットは、彼女には大きすぎた。袖は指先を隠し、裾は足首でもたついている。濡れていた髪はタオルで拭かれ、まだ少し湿って肩に落ちていた。

 

 さっきまでの気位の高いお嬢様服とは違い、今の天音はどう見ても迷子だった。

 

 天音は食堂に入るなり、小春の頭を見た。

 

 狐耳が、まだ出ている。

 

「……耳」

 

「あ」

 

 小春が頭に手をやる。

 

「出てました?」

 

「出ておりますわ!」

 

「まあ、ここだと楽なので」

 

「楽なので、ではありません! あなた、人では」

 

「飯」

 

 迅の声が、会話を切った。

 

 天音が振り返る。

 

 共同食堂のテーブルに、湯気の立つ茶碗が置かれていた。

 

「座れ」

 

「……命令なさらないで」

 

「座らねえなら立って食え」

 

「座りますわ」

 

 天音は不満げに言いながら、椅子に座った。

 

 目の前には卵粥。

 

 黄金色にほぐれた卵が、白い粥の中に柔らかく広がっている。湯気に混じって、出汁の匂いがした。

 

 天音はそれを見下ろしたまま、動かない。

 

 迅は向かいの椅子に座る。

 

「食え」

 

「……これは?」

 

「卵粥」

 

「存じておりますわ。その程度」

 

「じゃあ食え」

 

「わたくしは九条家の娘です。食事の作法には厳しく」

 

「今は作法より栄養だ」

 

「ですが」

 

「毒は入れてねえ」

 

「その心配はしておりません!」

 

「なら何だよ」

 

 天音は口を開きかけた。

 

 だが、言葉が出ない。

 

 箸を持つ手が、少し震えていた。

 

 迅はその震えを見た。

 

 見たが、何も言わなかった。

 

「熱いから少しずつ食え」

 

 それだけ言った。

 

 天音はゆっくりと箸を取る。

 

 粥を少しすくい、口に運ぶ。

 

 その瞬間、彼女の目がわずかに丸くなった。

 

「……」

 

「どうだ」

 

 迅が聞く。

 

 天音はすぐに顔を引き締めた。

 

「庶民の食事にしては、悪くありませんわ」

 

「そうかよ」

 

「ええ。あくまで、悪くないというだけです」

 

「おかわりあるぞ」

 

「いただきますわ」

 

「早ぇな」

 

 小春が横で笑いをこらえている。

 

 天音は気づいていないふりをした。頬がほんの少し赤い。

 

 それからしばらく、食堂には雨音と、天音が粥を食べる音だけがあった。

 

 最初は作法を意識していた天音も、途中から少しずつ食べる速度が上がった。空腹だったのだろう。弱った身体が、温かい食べ物を求めていたのだろう。

 

 茶碗は、ほどなく空になった。

 

 迅が無言で手を出す。

 

 天音は茶碗を渡しかけ、途中で止めた。

 

「……これは、施しですの?」

 

「あ?」

 

「わたくしは、乞食ではありません」

 

「だろうな。偉そうな乞食なんざ見たことねえ」

 

「っ……!」

 

「飯代ならそのうち働いて返せ」

 

 天音の動きが止まる。

 

「働く……?」

 

「食ったら金がかかる。水道代もかかる。部屋使うなら家賃もいる」

 

「わたくしに、労働をしろと?」

 

「できることがあんならな」

 

「……」

 

「何ができる」

 

 天音は黙った。

 

 その沈黙は、さっきまでの高飛車な言葉よりずっと重かった。

 

 小春も笑うのをやめる。

 

 迅は天音を見ていた。

 

 天音は膝の上で手を握る。

 

「……何も」

 

 声が小さかった。

 

「何も、できません」

 

 その言い方だけ、お嬢様口調ではなかった。

 

 迅は少しだけ目を細める。

 

 天音はすぐに顔を上げた。

 

「ですが、九条家の娘としての教養はありますわ。礼法、作法、古式の術式理論、対人外儀礼、結界の基礎構築、家格に応じた席次の判断など」

 

「皿洗いは」

 

「……」

 

「洗濯は」

 

「……」

 

「掃除は」

 

「……」

 

「飯炊きは」

 

「……」

 

「何もできねえじゃねえか」

 

「言い方!」

 

「事実だろ」

 

 天音は悔しそうに唇を噛む。

 

 迅は茶碗を取った。

 

「できねえなら覚えろ」

 

 天音が顔を上げた。

 

 迅は粥をよそいながら、続ける。

 

「できねえこと自慢されても困る。できるようになれ」

 

「……覚えれば、よろしいの?」

 

「他に何があんだよ」

 

「できないものは、不要なのではなくて?」

 

 迅の手が、そこで止まった。

 

 天音は自分で言ってから、しまったという顔をした。

 

 迅はしばらく彼女を見ていた。

 

 目つきは悪い。

 

 だが、怒ってはいなかった。

 

「ここは九条家じゃねえ」

 

 低い声だった。

 

「できねえなら覚えろ。覚える気がねえなら、飯抜きにする」

 

「飯抜きは横暴ですわ!」

 

「じゃあ覚えろ」

 

「……」

 

「まずは茶碗の洗い方からだ」

 

 天音は返事をしなかった。

 

 ただ、よそい直された粥を見つめていた。

 

 その目が、ほんの少しだけ揺れている。

 

 小春は、そんな天音を見て、何も言わずに笑った。

 

 食事を終える頃には、天音の顔色はいくらか戻っていた。

 

 だが、疲労は限界だったらしい。

 

 小春が案内した二階の三号室に入ると、天音は部屋の真ん中で立ち尽くした。

 

 部屋は狭い。

 

 畳の六畳間。古いちゃぶ台。押し入れ。薄いカーテン。窓の外には雨に濡れる物干し台が見える。

 

 豪華さなど、どこにもない。

 

 天音はゆっくりと部屋を見回した。

 

「ここが……」

 

「今日からしばらく使っていい部屋です」

 

 小春が言う。

 

「布団は出しておきました。カーテンはちょっと古いですけど、まあ雨風はしのげます」

 

「……わたくしの部屋、ですの?」

 

「そうなりますね」

 

 天音は何も言わなかった。

 

 その表情を、小春はそっと見た。

 

 九条家にいた頃、彼女にはもっと広く、もっと立派な部屋があったのかもしれない。調度品も、寝具も、衣服も、月見荘のこの部屋よりずっと上等だったのかもしれない。

 

 けれど天音は、この何もない六畳間を、ひどく信じられないものを見るように見ていた。

 

 やがて、天音は小さく言った。

 

「鍵は……」

 

「ありますよ」

 

 小春は鍵を見せる。

 

「迅さん、勝手に入ったりしませんから安心してください」

 

「当然ですわ」

 

「まあ、倒れたら戸を蹴破りますけど」

 

「それは当然ではありません!」

 

 小春は笑った。

 

「おやすみなさい、天音ちゃん」

 

「ちゃん……?」

 

「あ、嫌でした?」

 

「……いえ」

 

 天音は少しだけ視線を逸らした。

 

「好きになさい」

 

「はい。好きにします」

 

 小春が部屋を出る。

 

 戸が閉まる直前、天音は小さく言った。

 

「……ありがとうございます」

 

 小春は目を丸くした。

 

 天音はすぐに顔を背ける。

 

「今のは、部屋の案内に対する礼ですわ。それ以上の意味はありません」

 

「分かってます」

 

 小春はにこりと笑った。

 

「おやすみなさい」

 

 戸が閉まった。

 

 廊下に戻ると、迅が壁にもたれていた。

 

 小春は小声で言う。

 

「寝そうです」

 

「だろうな」

 

「……かなり怯えてましたよ」

 

「見りゃ分かる」

 

「迅さんにじゃなくて、追い出されることに」

 

 迅は答えなかった。

 

 ただ、火のついていない煙草を咥えた。

 

 小春はその横顔を見る。

 

「九条家、何したんでしょうね」

 

「知るか」

 

「気にならないんですか?」

 

「聞いてほしそうな顔になったら聞く」

 

「迅さんらしいですね」

 

「今聞いたら折れるだろ、あれ」

 

 小春は少しだけ黙った。

 

 それから、柔らかく笑う。

 

「やっぱり優しいですね」

 

「寝言は寝て言え」

 

「はいはい」

 

 小春は二階の廊下を歩いていく。

 

 途中、廊下の奥の姿見の中で、硝子が薄く笑っていた。

 

『面倒な子を拾ったわね』

 

「落ちてた」

 

『九条の子が、月見荘に落ちているわけないでしょう』

 

「落ちてたんだよ」

 

『意地っ張り』

 

「鏡に言われたくねえ」

 

 迅は階段を下り、外階段へ出た。

 

 雨はまだ降っていた。

 

 月見荘の軒先から、細い雨垂れが落ちている。裏口のあたりには、さっき天音が倒れていた跡がまだ残っていた。泥が少し乱れ、雨水が血の薄い色を流していく。

 

 迅は煙草を咥える。

 

 火はつけない。

 

 代わりに、指先で煙草の先を軽く弾いた。

 

 その瞬間、先端がじり、と焦げた。

 

 火種はない。

 

 ライターもない。

 

 ただ、熱だけがそこに生まれた。

 

 迅は煙草を見下ろし、面倒くさそうに息を吐く。

 

「……九条か」

 

 雨音が強くなる。

 

 月見荘の壁に、ほんの一瞬だけ黒い影が映った。

 

 人の影ではない。

 

 大きな翼を持つ、獣のような影だった。

 

 迅はそれに気づいているのかいないのか、夜の雨を見ている。

 

 その目が、わずかに赤く光った。

 

 

 

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