お嬢様、電子レンジに敗北する
正確には、知らない天井と、知らない木目と、知らない染みを見ていた。
畳の匂いがする。布団は
豪華さなど、どこにもない部屋だった。
けれど、目を覚ましても部屋は消えていなかった。
昨夜のことは、熱で見た夢ではないらしい。
泥の匂い。温かい卵粥。鏡の中から話しかけてきた女。狐の耳を出していた
思い返すほど、常識から外れたものばかりだった。
それでも、天音が最初に感じたのは恐怖ではなかった。
「……まだ、ありますのね」
自分の声が、思ったより小さく聞こえた。
この部屋がまだある。
布団がある。
朝が来ても、追い出されていない。
それが、天音には不思議だった。
昨日までは、与えられた場所はいつでも取り上げられるものだった。食事も、服も、部屋も、言葉も。九条家で天音に与えられるものは、九条家の都合ひとつで簡単に消える。
けれど、この古い六畳間はまだそこにあった。
何もない部屋だ。
畳は古いし、窓枠は少し歪んでいる。カーテンも安物で、ちゃぶ台には小さな傷がいくつも残っている。
それなのに、天音はしばらく動けなかった。
その時、古い木の扉が二度、軽く叩かれた。
「起きてるか、お嬢様」
迅の声だった。
天音は反射的に背筋を伸ばす。
「起きておりますわ」
「入るぞ」
「待ちなさい!」
返事より先に扉の取っ手が動きかけた気配がして、天音は慌てて布団を整えた。髪は跳ねているし、借り物の灰色のスウェットは相変わらず袖が余っている。少なくとも、九条家の娘として人前に出られる姿ではなかった。
「入る前に返事を待つのが礼儀ではありませんの!?」
扉の向こうで、面倒くさそうな息遣いがした。
「待ってるだろ」
「今まさに入ろうとしていたではありませんか!」
「まだ開けてねえ」
「開けようとしていたでしょう!」
「で、入っていいのか悪いのかどっちだ」
天音は布団の端を握り、ほんの少しだけ悩んだ。
昨夜の迅は、天音が嫌がることを無理にはしなかった。触れる時も、抱き上げる時も、必要な確認だけはしていた。雑で、無礼で、言葉は最悪だったが、乱暴ではなかった。
そこだけは、認めてもいい。
「……よろしいですわ」
扉が開いた。
迅は片手に盆を持っていた。
盆の上には茶碗と味噌汁、焼き魚、小鉢。簡素だが、湯気が立っている。昨夜の卵粥とは違う、朝の匂いがした。
天音は思わず目を止める。
「朝食、ですの?」
「他に何に見えんだよ」
「……いえ」
迅は部屋に入り、ちゃぶ台に盆を置いた。
その動作は雑だったが、汁物がこぼれることはなかった。物の扱いに慣れている。掃除や料理を人任せにして生きてきた者の手つきではない。
天音は、そんなことに少しだけ驚いた。
「食え。熱あるなら粥に戻す」
「熱などありませんわ」
「顔色は昨日よりマシだな」
迅は天音の額を見た。
触れようとはしなかった。
天音はそれに気づいて、少しだけ目を伏せる。昨日、自分が触れられるのを嫌がったことを覚えているのだろう。それとも、元からそういう距離の取り方をする男なのだろうか。
どちらにせよ、九条家の人間とは違った。
あの家では、天音が嫌がるかどうかなど、あまり意味がなかったからだ。
「何見てんだ」
迅に言われ、天音ははっと顔を上げた。
「別に。品のない顔だと思っていただけですわ」
「朝から元気だな」
「わたくしはいつでも元気です」
「昨日落ちてた奴が言う台詞じゃねえ」
「落ちていたのではありません」
「はいはい」
「はいは一回でよろしいですわ」
「はい」
「本当に一回にしないでくださいませ! 腹立たしいですわ!」
迅は鼻で笑った。
天音は不満を顔に出しながらも、箸を取った。味噌汁を一口飲む。出汁がきいている。焼き魚も、皮が少し香ばしい。
悔しいが、美味しい。
昨日から、そこだけは本当に悔しい。
迅は部屋の隅に置かれていた一枚の紙を指で弾いた。
「あとこれ」
「何ですの?」
「
天音は紙を手に取った。
そこには、乱暴な字でこう書かれていた。
一、住人の正体を勝手に詮索しない。
二、人間を食べない。
三、共有スペースで術式、呪具、怪異化を使わない。
四、家賃は払える範囲で払う。払えないなら働く。
五、台所を使ったら片付ける。
六、迅が作った飯に文句を言うなら、自分で作る。
七、外の揉め事を月見荘に持ち込むな。
八、大切なものは自己管理。
天音は、しばらく紙を見つめた。
文字は乱暴だ。
けれど、内容は思ったより具体的だった。
もっとも、具体的であればあるほど、気になる項目も増える。
「……いくつか、気になる決まりがありますわ」
「だろうな」
「まず、二番」
「人間を食べない」
「なぜ、そのような決まりが必要ですの?」
「食う奴が来ることもあるからだよ」
「さらっと恐ろしいことを言わないでくださいませ!」
「今はいねえって言ったろ」
「今は、でしょう!?」
「そこ気にしてたら、ここじゃ暮らせねえぞ」
「気にしますわよ!」
天音は紙を持つ手に力を込めた。
改めて思う。
やはり、ここはおかしい。
九条家で教わった人外は、討つべきもの、祓うべきもの、封じるべきものだった。けれど月見荘では、それらしい存在が当然のように暮らしている。しかも規則の一番上は、正体を詮索するな、である。
順番からしておかしい。
「それから三番。共有スペースで術式、呪具、怪異化を使わない、とは?」
「そのまんまだ。食堂でいきなり狐火出したり、廊下で呪符飛ばしたり、尻尾出して花瓶割ったりすんなってことだ」
「尻尾で花瓶を?」
「前科がいる」
「どなたですの?」
「小春」
「昨夜の狐耳の方ですわね」
「正体の詮索は禁止」
「あなたが言ったのではありませんか!」
「俺は管理人だからいい」
「横暴ですわ!」
「そういう宿だ」
天音は紙を睨む。
何度読んでも、真面目な決まりとふざけた決まりが混ざっている。特に六番は、どう見ても管理人の私情が入っていた。
「そして六番。迅が作った飯に文句を言うなら、自分で作る」
「重要だ」
「公私混同では?」
「飯炊きの機嫌を損ねると飯がまずくなる」
「理屈としては分からなくもありませんけれど……」
天音はそこまで言って、味噌汁をもう一口飲んだ。
やはり美味しい。
悔しい。
「……まあ、料理の腕だけは認めてもよろしいですわ」
「だけ、ねえ」
「それ以外は品がありません」
「褒め言葉として受け取っとく」
「褒めておりません」
天音は再び紙に視線を落とした。
最後の項目で、目を止める。
「八番。大切なものは自己管理」
「ああ」
「これは、具体的にどういう意味ですの?」
「財布、鍵、スマホ、洗濯物、貴重品。なくしたくねえもんは自分で管理しろってことだ」
「なるほど」
天音は真剣に頷いた。
「名前を書けばよろしいのですね」
「何でそうなる」
「大切なものには名前を書くと、幼少期に聞いたことがありますわ」
「間違っちゃいねえけど、全部に書くな」
「鍵には?」
「書くな。落とした時危ねえだろ」
「財布には?」
「書くな」
「食器には?」
「共有じゃねえやつならまあ」
「布団には?」
「書くな」
「では、あなたには?」
「俺に書くな」
迅が即答した。
天音は不思議そうに首を傾げる。
「大切なものには名前を書くのでは?」
「俺は備品じゃねえ」
「ですが、月見荘の管理人でしょう?」
「備品じゃねえ」
「重要物品では?」
「人間扱いしろ」
「人間なのですか?」
言ってから、天音はしまったと思った。
部屋の空気が、ほんの少しだけ変わった。
迅の目が細くなる。怒鳴られたわけではない。睨まれたわけでもない。けれど、その一瞬だけ、部屋の温度が下がったように感じた。
昨夜、煙草の先を焦がした指。
雨の中、壁に映った獣のような影。
ほんのわずかに赤く光った目。
思い出した途端、天音の指が紙の端を強く掴んだ。
迅はしばらく黙っていた。
けれど、すぐにいつもの面倒くさそうな顔に戻る。
「正体の詮索は禁止」
「……今のは」
「禁止」
「あなたが人間扱いしろと」
「それとこれとは別だ」
「横暴ですわ」
「そういう宿だって言ったろ」
迅は立ち上がった。
「食ったら下に来い。皿洗い教える」
「本当にやらせる気ですの?」
「飯代払えるのか?」
「……今は持ち合わせがありませんわ」
「なら働け」
「わたくしは九条家の娘ですのよ」
「今は月見荘の居候だ」
天音は言い返そうとした。
だが、言葉が出なかった。
月見荘の居候。
その言葉は、なぜか胸の奥で少しだけ引っかかった。
九条家の娘。
失敗作。
不要なもの。
それ以外の呼ばれ方を、天音はあまり知らない。
迅はそんな天音の顔を見て、少しだけ眉をひそめる。
「嫌なら出ていけ、とは言わねえよ」
「……」
「できねえなら覚えろって言っただろ」
迅はそれだけ言って、扉へ向かった。
足音は雑だった。扉の閉め方も上品とは言いがたい。けれど、部屋の中には朝食の湯気と、さっきの言葉だけが残った。
できねえなら覚えろ。
九条家なら、できないものは不要だった。
失敗は終わりだった。
不足は欠陥だった。
役に立たないものは、置き場を失うだけだった。
けれど迅は、覚えろ、と言った。
それが優しい言葉なのか、単に雑な言葉なのか、天音にはまだ分からない。
ただ、その言葉は、食べ終えた後も耳に残り続けた。
◇
食堂に降りると、すでに何人かの住人がいた。
月見荘の食堂は、昨日の夜に見た時よりもずっと生活感があった。長い木のテーブルには揃いではない椅子が並び、壁際の棚には住人ごとに分けられた茶碗や湯呑みが置かれている。隅には新聞。窓辺には枯れかけの観葉植物。誰かが置き忘れたらしい靴下が、椅子の背に引っかかっていた。
宿というより、寮。
寮というより、妙に人の気配が濃い家。
九条家の屋敷は広かったが、音は少なかった。
月見荘は狭いのに、音が多い。台所で水が流れる音、皿の触れ合う音、誰かが階段を下りる音、壁の向こうで何かが軋む音。どれも整ってはいないのに、不思議と不快ではなかった。
小春は台所の前で食器を拭いていた。
今日は頭の狐耳は見えない。昨夜のことが夢だったのではないかと思いかけたが、彼女の腰のあたりでふわふわした尾が揺れているのを見て、天音は考えるのをやめた。
考えても疲れるだけだ。
「あ、天音ちゃん。おはようございます」
「おはようございます。……その、尾が出ておりますわ」
「出てます?」
「出ております」
「まあ、ここだと楽なので」
「昨日も同じことをおっしゃっていましたわね」
「便利な言葉なんです」
小春は笑う。
天音は食堂を見回した。
長いテーブルの端に、見慣れない少女が座っている。
天音と同じくらいの年頃だろうか。癖のある髪を肩で跳ねさせ、パーカー姿でトーストをかじっている。片手にはスマホ。もう片方の手には、ジャムのついたスプーン。いかにも普通の少女という顔で、いかにも普通ではない場所の朝食を食べていた。
目が合うと、少女はぱちぱちと瞬きをした。
「あ、新しい人?」
その声は明るかった。
警戒ではなく、好奇心。値踏みではなく、ただの興味。九条家で浴びてきた視線とは違うものに、天音は一瞬だけ返事が遅れる。
「昨夜迅さんが拾ってきた子です」
「拾ってきた」
少女の目が輝いた。
「え、また? 今度は何系? 妖怪? 半妖? 呪物憑き? それとも人間?」
「わたくしは人間ですわ!」
天音は即座に言った。
「九条天音。九条家の娘ですの」
「九条?」
少女は少しだけ首を傾げる。
その名に、恐れも敵意も見せなかった。知らないのか、知っていても気にしていないのか。どちらなのかは分からない。
だが、次に彼女が浮かべたのは、拍子抜けするほど普通の笑顔だった。
「私は
「……三枝さん」
「灯莉でいいよ。月見荘で名字呼びしてると、なんかよそよそしいし」
「では、灯莉さん」
「さん付けなんだ」
「初対面ですもの。当然ですわ」
「お嬢様だ」
灯莉は楽しそうに言った。
天音は少し胸を張る。
「ええ。わたくしは九条家の娘ですから」
「へえ」
灯莉はトーストをかじりながら、じっと天音を見る。
悪意のある視線ではない。珍しいものを見る、純粋な好奇心の目だった。
それが余計に落ち着かない。
「九条家の娘って、電子レンジ使える?」
「電子……?」
天音は固まった。
灯莉が小春を見る。
小春が微笑む。
迅が台所の奥から顔を出す。
「あー」
その声だけで、天音は嫌な予感を覚えた。
「使ったことねえのか」
「知識としてはありますわ」
「使ったことは」
「知識としてはあります」
「ねえんだな」
「ありますわ。箱に入れて温める機械でしょう」
「ざっくりしすぎだろ」
「間違ってはいませんわ」
迅は冷蔵庫から昨日の残りの焼き魚を出した。
皿に乗せ、天音の前に置く。
「じゃあ温めてみろ」
「よろしいですわ」
天音は立ち上がった。
小春と灯莉が、なぜか少し楽しそうに見ている。
天音はそれに気づいたが、無視した。
電子レンジ。
九条家にも存在はした。使用人が使っているのを見たことはある。仕組みも、理論上は理解している。電磁波で食品中の水分子を振動させ、加熱する機械。
問題はない。
問題があるはずがない。
天音は皿を持って、電子レンジの前に立った。
扉を開ける。
皿を入れる。
扉を閉める。
ここまでは完璧だった。
問題は、その後だった。
「……」
ボタンが多い。
あたため。解凍。牛乳。弁当。オーブン。トースト。時間設定。ワット数。スタート。取消。
なぜ、温めるだけの機械にここまで選択肢があるのか。
九条家の術式盤ですら、用途ごとの刻印はもう少し整理されていた。少なくとも、使用者を迷わせることを目的に作られてはいなかった。
天音は眉を寄せた。
「どうした」
迅が後ろから言う。
「問題ありませんわ」
「手止まってんぞ」
「確認しているだけです」
「何を」
「……機械の意思を」
「ねえよ」
灯莉が吹き出した。
小春も口元を押さえている。
天音は耳まで赤くなった。
「笑わないでくださる!?」
「ごめん、機械の意思はずるい」
「この機械が複雑すぎるのが悪いのです!」
「温めるだけだろ」
迅が言う。
天音は振り返った。
「では、あなたがやればよろしいではありませんか」
「お前が覚えるんだろ」
「……」
逃げ道を塞がれた。
天音は電子レンジに向き直る。
まず、あたため。
これだろう。
天音はボタンを押した。
電子レンジが、低く唸り始める。
その音に、天音はわずかに肩を震わせた。だが、すぐに背筋を伸ばす。
「動きましたわ!」
「そりゃ動くだろ」
「見ましたか、黒瀬迅。これが九条家の娘の実力ですわ」
「電子レンジ動かして家名背負うな」
天音はふふんと胸を張った。
数十秒後。
電子レンジが音を立てて止まった。
天音は扉を開ける。
皿を取ろうとして、
「あつっ」
指先を引っ込めた。
迅が無言で布巾を差し出す。
「……最初から出しなさい」
「最初から素手で行くな」
「庶民の機械は罠が多すぎますわ」
「お前の警戒先がズレてんだよ」
天音は布巾で皿を取り出した。
焼き魚は温まっていた。
だが、一部だけ妙に熱く、一部は冷たい。箸で触ってみると、端の方は湯気が出ているのに、中央近くはまだ昨日の冷たさを残している。
「……なぜですの?」
「置き方と時間が雑」
「機械が未熟なのでは?」
「使い手だ」
「このわたくしが?」
「お前が」
迅は皿を受け取ると、魚を軽くほぐし、もう一度電子レンジに入れた。今度は短い時間で設定する。
その手つきは、やはり慣れていた。
天音は横でじっと見る。
「なぜ今、時間を変えましたの?」
「温めすぎると固くなる」
「なるほど」
「あと、こういうのは一回で完璧にやろうとすんな。様子見て足せ」
「……様子を見て、足す」
「そうだ」
天音は少しだけ黙った。
料理の話のはずだった。
電子レンジの話のはずだった。
けれど、その言葉はなぜか、別のものにも聞こえた。
一回で完璧にできなくてもいい。
様子を見て、足せばいい。
そんなやり方を、天音はあまり知らなかった。
「……覚えましたわ」
「じゃあ次から自分でやれ」
「そこは手伝う流れではありませんの!?」
「一回教えただろ」
「雑ですわ!」
「覚える気あんなら十分だ」
天音はむっとしたが、言い返せなかった。
灯莉がにこにこしている。
「天音ちゃん、電子レンジ初勝利だね」
「勝利というには釈然としませんわ」
「最初はそんなもんだよ。私もここ来た時、洗濯機で洗剤入れすぎて泡まみれにしたし」
「あなたも?」
「うん。小春さんは炊飯器の予約をミスって、朝五時にご飯炊きあがってたことある」
「それは別に良くありませんこと?」
「迅さんに『朝飯には早ぇんだよ狐』って怒られてた」
「理不尽ですわ」
「でしょう?」
「俺を悪者にすんな」
迅が言った。
灯莉と小春が同時に笑う。
天音は、その様子を少しだけ不思議な気持ちで見ていた。
失敗の話を、笑っている。
怒鳴られた話を、笑っている。
失敗したのに、追い出されていない。
泡まみれにしても、予約を間違えても、ここにいる。
天音は、温め直された焼き魚を見下ろした。
湯気が立っている。
「……変な場所ですわね」
「よく言われる」
小春が笑った。
◇
朝食の後、天音は皿洗いを教わった。
教える役は迅だった。
不安しかなかった。
台所に立つと、流し台の高さが思ったよりも現実的だった。九条家の台所は、天音にとって立ち入る場所ではなかった。そこは使用人たちの領域であり、天音が足を踏み入れれば、場違いなものを見る目で見られる場所だった。
けれど月見荘では違う。
迅は当然のように天音を流し台の前に立たせ、当然のようにスポンジを渡してきた。
「まず水で流す」
「それくらい分かりますわ」
「洗剤つける」
「当然です」
「つけすぎるな」
「……これくらい?」
「多い」
「では、これくらい?」
「少ない」
「加減が難しすぎますわ!」
「九条の術式理論より簡単だろ」
「術式には規則がありますもの!」
「皿洗いにもある」
「本当ですの?」
「油汚れは先に拭く。米粒は乾く前に流す。洗ったら泡を残すな。伏せる時は水が切れる向きに置く。終わったら台所も拭く」
「……意外と規則がありますのね」
「生活なめんな」
天音は言い返せなかった。
皿洗いは思ったより難しかった。
皿は滑る。泡は残る。袖は濡れる。水が跳ねる。洗ったはずの茶碗に米粒が残っている。
九条家で叩き込まれた対人外儀礼の方が、まだ分かりやすかった。あちらは式次第と型がある。順番を間違えれば叱られるが、正解は明確だ。
生活は違う。
正解らしきものはあるのに、手の中で滑る。力の入れ方も、水の量も、洗剤の加減も、誰も細かく数値で示してくれない。
天音は、濡れた袖を見下ろして顔をしかめた。
「袖まくれ」
「これ以上まくると落ちてきますわ」
「服でかいからな」
「あなたが出したのでしょう!」
「生きるのに必要な布だ。文句言うな」
「最低限すぎますわ……」
天音は袖を必死に押さえながら、皿を洗った。
その横で、小春と灯莉が何やら楽しそうにしている。
「似合ってるよ、その服」
「どこがですの!?」
「袖余ってるのがかわいい」
「かわいさを求めて着ているわけではありません!」
「じゃあ今度、服買いに行こうよ」
灯莉が言った。
天音は手を止める。
「服を?」
「うん。さすがにそのスウェットだけだと困るでしょ。下着とか靴下とかも必要だし」
「……」
天音は少しだけ顔を伏せた。
服。
自分で選んだことなど、ほとんどない。
九条家で用意されたものを着ていた。役割に合った服。家格に合った服。失敗作でも、外聞を保つために必要な服。
自分の好きな服、などと考えたことはなかった。
「どうしたの?」
灯莉が首を傾げる。
天音はすぐに顔を上げた。
「べ、別に。庶民の店がどの程度のものか、見て差し上げてもよろしいですわ」
「決まりだね」
小春がにこりと笑う。
「迅さん、お金」
「何で俺が」
「必要経費ですよ。拾ったんですから」
「落ちてた」
「落ちてた子にも服は必要です」
迅は舌打ちした。
だが、否定はしなかった。
「安いとこにしろ」
「黒瀬迅」
天音が口を挟む。
「借りは、いつか返しますわ」
「返せるようになってから言え」
「……必ず返します」
「じゃあまず皿洗い覚えろ」
「今とても真面目な話をしていましたわよね!?」
「生活は真面目な話だ」
天音はぐっと詰まる。
迅の言い方は乱暴だった。
けれど、不思議と馬鹿にされている感じはしなかった。
できないことを笑われはする。
だが、不要だとは言われない。
それがまだ、うまく理解できない。
◇
昼前。
天音は、月見荘の共有スペースを小春と灯莉に案内されていた。
一階には食堂、台所、共同浴室、洗面所、物置。
二階には住人の部屋と、廊下の奥に古い姿見。
裏手には物干し場と小さな庭。
玄関脇には靴箱と、名前の書かれた傘立てがある。
建物は古いが、不思議と手入れは行き届いていた。
いや、行き届いている部分と、諦められている部分の差が激しい。
「この柱、傷だらけですわね」
「千隼くんが壁走りの練習して怒られた跡ですね」
「壁走り?」
「烏天狗の末裔なので」
「……」
天音は考えるのをやめた。
廊下の奥にある姿見の前を通り過ぎようとした時、天音は足を止めた。
昨夜、あの鏡の中で女が笑っていた。
そう思った瞬間、背後から声がした。
「そんなに見つめられると、照れるわね」
「ひゃっ!?」
天音は飛び退いた。
振り返ると、そこには黒髪の女が立っていた。二十代後半か、三十代前半ほどに見える、落ち着いた雰囲気の女。昨日、鏡の中にいた女と同じ顔だった。
けれど今は、鏡の中ではない。
廊下に、普通に立っている。
「あなた……鏡の中の方ではありませんの!?」
「鏡にもいるし、外にもいるわ」
「説明になっておりません!」
「怪異の説明なんて、だいたいそんなものよ」
女――
昨日は鏡越しだったせいで気づかなかったが、近くで見ると彼女の存在感は奇妙だった。足音がないわけではない。影がないわけでもない。けれど、どこか薄い。そこにいるのに、触れようとすると指先が冷たい水面を掠めるような、そんな気配がある。
天音は一歩、小春の後ろに下がる。
「この方は……」
「朽木硝子さん。月見荘の古参です」
小春が言う。
「姿見に憑いている怪異だけど、悪い人じゃないですよ」
「姿見に憑いているのに、外に出ていますわよ」
「硝子さんなので」
「説明を諦めないでくださいませ!」
硝子はゆったりと笑った。
「本体はあの姿見よ。でも、別に一歩も動けないわけじゃないわ。廊下を歩くくらいはできるし、食堂でお茶も飲むし、気が向けば外にも出る」
「……怪異とは、そういうものなのですか?」
「私がそういうものなのよ」
「もっと分かりませんわ……」
「大丈夫。そのうち考えるのをやめるから」
灯莉が隣で頷く。
「私も最初そうだった」
「あなたも諦める側ですのね」
「月見荘で生きるコツだよ」
天音は頭が痛くなってきた。
九条家で教わった怪異の分類に、硝子は収まらない。幽霊。付喪神。土地に縛られた怪異。鏡に憑いたもの。どれでもあり、どれでも足りない。
硝子はそんな天音の困惑を楽しむように、少し身を屈めた。
「昨夜はよく眠れた?」
「……ええ。おかげさまで」
「そう。追い出される夢でも見たかと思ったけれど」
天音の息が止まった。
小春が硝子を見る。
「硝子さん」
「意地悪で言ったわけじゃないわ」
硝子は天音の目を見ていた。
その視線は冷たくはない。けれど、誤魔化しも許さない。鏡というものは、映したものを勝手に綺麗にはしてくれないのだと、天音は妙なところで納得してしまった。
天音は袖の余った手を握る。
「……そのような夢は、見ておりませんわ」
「そう」
「ええ」
「なら、今夜も見ないといいわね」
硝子はそれだけ言うと、姿見の横に寄りかかった。
会話はそれで終わりらしい。
踏み込まれたようで、踏み荒らされたわけではない。
天音はどう反応すればいいか分からず、ただ小さく息を吐いた。
その時、食堂の方から迅の声が飛んできた。
「硝子。余計なこと言ってねえで、見張りしてろ」
「しているわよ。今のところ、九条の犬は近くにいないわ」
九条の犬。
その言葉に、天音の表情が強張る。
小春がそっと天音の肩に手を置いた。
「大丈夫。ここにいる間は、そう簡単には入ってこられないから」
「……なぜ」
「迅さんがいるから」
灯莉が当然のように言った。
「あと、硝子さんもいるし」
「ついでみたいに言わないでちょうだい」
「すごく頼りにしてます」
「ならいいわ」
天音は硝子を見る。
そして、食堂の方を見る。
月見荘。
宿とも寮ともつかない、古い建物。
人ではないものが住んでいて、鏡の怪異が廊下を歩き、狐の半妖が皿を拭き、普通の少女がトーストを食べる場所。
九条家で教わった常識とは、何もかもが違う。
なのに。
「……変な場所ですわ」
天音は小さく言った。
小春が笑う。
「昨日も言ってましたよ」
「何度でも言いますわ。変ですもの」
「すぐ慣れるよ」
灯莉が明るく言った。
「私も最初はそうだったし」
「あなたは人間なのですわよね?」
「うん。怪異に好かれやすいだけの普通の人間」
「その時点で普通ではないのでは?」
「よく言われる」
灯莉は気にした様子もなく笑った。
天音は少しだけ力が抜けた。
ここでは、普通でないことを隠さないらしい。
できないことも、知らないことも、変なことも、すぐに笑われる。
けれど、それだけだ。
追い出されない。
切り捨てられない。
昨日、迅が言った言葉がまた蘇る。
できねえなら覚えろ。
天音は袖の余った手を握った。
「……まずは」
「ん?」
灯莉が首を傾げる。
天音は顔を上げる。
「まずは、電子レンジを完全に攻略しますわ」
小春が目を瞬かせる。
灯莉が笑う。
硝子が楽しそうに口元を隠す。
食堂の奥から、迅の声がした。
「相手に不足はねえな」
「黒瀬迅! 馬鹿にしていますわね!?」
「してねえよ」
「しています!」
「じゃあ皿洗い終わったら第二戦な」
「望むところですわ!」
天音は胸を張った。
灰色のスウェット。余った袖。少し跳ねた髪。
どこからどう見ても、九条家の令嬢らしくはない。
けれどその顔には、昨夜よりほんの少しだけ、力が戻っていた。
月見荘の昼は、雨上がりの光の中で始まっていた。