柄の悪い竜と、強がりお嬢様   作:ゆゆゆい

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世間知らずのお嬢様があたふたするのがかわいいよねって話


第二話

お嬢様、電子レンジに敗北する

 

 九条天音(くじょう・あまね)は、知らない天井を見ていた。

 

 正確には、知らない天井と、知らない木目と、知らない染みを見ていた。

 

 畳の匂いがする。布団は九条家(くじょうけ)で使っていたものより薄く、枕も少し硬い。窓の外では、雨上がりの水滴が軒先から落ちる音を立てていた。

 

 豪華さなど、どこにもない部屋だった。

 

 けれど、目を覚ましても部屋は消えていなかった。

 

 昨夜のことは、熱で見た夢ではないらしい。

 

 泥の匂い。温かい卵粥。鏡の中から話しかけてきた女。狐の耳を出していた狐塚小春(こづか・こはる)。そして、火もつけていない煙草の先を指だけで焦がしていた黒瀬迅(くろせ・じん)

 

 思い返すほど、常識から外れたものばかりだった。

 

 それでも、天音が最初に感じたのは恐怖ではなかった。

 

「……まだ、ありますのね」

 

 自分の声が、思ったより小さく聞こえた。

 

 この部屋がまだある。

 布団がある。

 朝が来ても、追い出されていない。

 

 それが、天音には不思議だった。

 

 昨日までは、与えられた場所はいつでも取り上げられるものだった。食事も、服も、部屋も、言葉も。九条家で天音に与えられるものは、九条家の都合ひとつで簡単に消える。

 

 けれど、この古い六畳間はまだそこにあった。

 

 何もない部屋だ。

 畳は古いし、窓枠は少し歪んでいる。カーテンも安物で、ちゃぶ台には小さな傷がいくつも残っている。

 

 それなのに、天音はしばらく動けなかった。

 

 その時、古い木の扉が二度、軽く叩かれた。

 

「起きてるか、お嬢様」

 

 迅の声だった。

 

 天音は反射的に背筋を伸ばす。

 

「起きておりますわ」

 

「入るぞ」

 

「待ちなさい!」

 

 返事より先に扉の取っ手が動きかけた気配がして、天音は慌てて布団を整えた。髪は跳ねているし、借り物の灰色のスウェットは相変わらず袖が余っている。少なくとも、九条家の娘として人前に出られる姿ではなかった。

 

「入る前に返事を待つのが礼儀ではありませんの!?」

 

 扉の向こうで、面倒くさそうな息遣いがした。

 

「待ってるだろ」

 

「今まさに入ろうとしていたではありませんか!」

 

「まだ開けてねえ」

 

「開けようとしていたでしょう!」

 

「で、入っていいのか悪いのかどっちだ」

 

 天音は布団の端を握り、ほんの少しだけ悩んだ。

 

 昨夜の迅は、天音が嫌がることを無理にはしなかった。触れる時も、抱き上げる時も、必要な確認だけはしていた。雑で、無礼で、言葉は最悪だったが、乱暴ではなかった。

 

 そこだけは、認めてもいい。

 

「……よろしいですわ」

 

 扉が開いた。

 

 迅は片手に盆を持っていた。

 

 盆の上には茶碗と味噌汁、焼き魚、小鉢。簡素だが、湯気が立っている。昨夜の卵粥とは違う、朝の匂いがした。

 

 天音は思わず目を止める。

 

「朝食、ですの?」

 

「他に何に見えんだよ」

 

「……いえ」

 

 迅は部屋に入り、ちゃぶ台に盆を置いた。

 

 その動作は雑だったが、汁物がこぼれることはなかった。物の扱いに慣れている。掃除や料理を人任せにして生きてきた者の手つきではない。

 

 天音は、そんなことに少しだけ驚いた。

 

「食え。熱あるなら粥に戻す」

 

「熱などありませんわ」

 

「顔色は昨日よりマシだな」

 

 迅は天音の額を見た。

 

 触れようとはしなかった。

 

 天音はそれに気づいて、少しだけ目を伏せる。昨日、自分が触れられるのを嫌がったことを覚えているのだろう。それとも、元からそういう距離の取り方をする男なのだろうか。

 

 どちらにせよ、九条家の人間とは違った。

 

 あの家では、天音が嫌がるかどうかなど、あまり意味がなかったからだ。

 

「何見てんだ」

 

 迅に言われ、天音ははっと顔を上げた。

 

「別に。品のない顔だと思っていただけですわ」

 

「朝から元気だな」

 

「わたくしはいつでも元気です」

 

「昨日落ちてた奴が言う台詞じゃねえ」

 

「落ちていたのではありません」

 

「はいはい」

 

「はいは一回でよろしいですわ」

 

「はい」

 

「本当に一回にしないでくださいませ! 腹立たしいですわ!」

 

 迅は鼻で笑った。

 

 天音は不満を顔に出しながらも、箸を取った。味噌汁を一口飲む。出汁がきいている。焼き魚も、皮が少し香ばしい。

 

 悔しいが、美味しい。

 

 昨日から、そこだけは本当に悔しい。

 

 迅は部屋の隅に置かれていた一枚の紙を指で弾いた。

 

「あとこれ」

 

「何ですの?」

 

月見荘(つきみそう)の決まり」

 

 天音は紙を手に取った。

 

 そこには、乱暴な字でこう書かれていた。

 

 一、住人の正体を勝手に詮索しない。

 二、人間を食べない。

 三、共有スペースで術式、呪具、怪異化を使わない。

 四、家賃は払える範囲で払う。払えないなら働く。

 五、台所を使ったら片付ける。

 六、迅が作った飯に文句を言うなら、自分で作る。

 七、外の揉め事を月見荘に持ち込むな。

 八、大切なものは自己管理。

 

 天音は、しばらく紙を見つめた。

 

 文字は乱暴だ。

 けれど、内容は思ったより具体的だった。

 

 もっとも、具体的であればあるほど、気になる項目も増える。

 

「……いくつか、気になる決まりがありますわ」

 

「だろうな」

 

「まず、二番」

 

「人間を食べない」

 

「なぜ、そのような決まりが必要ですの?」

 

「食う奴が来ることもあるからだよ」

 

「さらっと恐ろしいことを言わないでくださいませ!」

 

「今はいねえって言ったろ」

 

「今は、でしょう!?」

 

「そこ気にしてたら、ここじゃ暮らせねえぞ」

 

「気にしますわよ!」

 

 天音は紙を持つ手に力を込めた。

 

 改めて思う。

 やはり、ここはおかしい。

 

 九条家で教わった人外は、討つべきもの、祓うべきもの、封じるべきものだった。けれど月見荘では、それらしい存在が当然のように暮らしている。しかも規則の一番上は、正体を詮索するな、である。

 

 順番からしておかしい。

 

「それから三番。共有スペースで術式、呪具、怪異化を使わない、とは?」

 

「そのまんまだ。食堂でいきなり狐火出したり、廊下で呪符飛ばしたり、尻尾出して花瓶割ったりすんなってことだ」

 

「尻尾で花瓶を?」

 

「前科がいる」

 

「どなたですの?」

 

「小春」

 

「昨夜の狐耳の方ですわね」

 

「正体の詮索は禁止」

 

「あなたが言ったのではありませんか!」

 

「俺は管理人だからいい」

 

「横暴ですわ!」

 

「そういう宿だ」

 

 天音は紙を睨む。

 

 何度読んでも、真面目な決まりとふざけた決まりが混ざっている。特に六番は、どう見ても管理人の私情が入っていた。

 

「そして六番。迅が作った飯に文句を言うなら、自分で作る」

 

「重要だ」

 

「公私混同では?」

 

「飯炊きの機嫌を損ねると飯がまずくなる」

 

「理屈としては分からなくもありませんけれど……」

 

 天音はそこまで言って、味噌汁をもう一口飲んだ。

 

 やはり美味しい。

 

 悔しい。

 

「……まあ、料理の腕だけは認めてもよろしいですわ」

 

「だけ、ねえ」

 

「それ以外は品がありません」

 

「褒め言葉として受け取っとく」

 

「褒めておりません」

 

 天音は再び紙に視線を落とした。

 

 最後の項目で、目を止める。

 

「八番。大切なものは自己管理」

 

「ああ」

 

「これは、具体的にどういう意味ですの?」

 

「財布、鍵、スマホ、洗濯物、貴重品。なくしたくねえもんは自分で管理しろってことだ」

 

「なるほど」

 

 天音は真剣に頷いた。

 

「名前を書けばよろしいのですね」

 

「何でそうなる」

 

「大切なものには名前を書くと、幼少期に聞いたことがありますわ」

 

「間違っちゃいねえけど、全部に書くな」

 

「鍵には?」

 

「書くな。落とした時危ねえだろ」

 

「財布には?」

 

「書くな」

 

「食器には?」

 

「共有じゃねえやつならまあ」

 

「布団には?」

 

「書くな」

 

「では、あなたには?」

 

「俺に書くな」

 

 迅が即答した。

 

 天音は不思議そうに首を傾げる。

 

「大切なものには名前を書くのでは?」

 

「俺は備品じゃねえ」

 

「ですが、月見荘の管理人でしょう?」

 

「備品じゃねえ」

 

「重要物品では?」

 

「人間扱いしろ」

 

「人間なのですか?」

 

 言ってから、天音はしまったと思った。

 

 部屋の空気が、ほんの少しだけ変わった。

 

 迅の目が細くなる。怒鳴られたわけではない。睨まれたわけでもない。けれど、その一瞬だけ、部屋の温度が下がったように感じた。

 

 昨夜、煙草の先を焦がした指。

 雨の中、壁に映った獣のような影。

 ほんのわずかに赤く光った目。

 

 思い出した途端、天音の指が紙の端を強く掴んだ。

 

 迅はしばらく黙っていた。

 

 けれど、すぐにいつもの面倒くさそうな顔に戻る。

 

「正体の詮索は禁止」

 

「……今のは」

 

「禁止」

 

「あなたが人間扱いしろと」

 

「それとこれとは別だ」

 

「横暴ですわ」

 

「そういう宿だって言ったろ」

 

 迅は立ち上がった。

 

「食ったら下に来い。皿洗い教える」

 

「本当にやらせる気ですの?」

 

「飯代払えるのか?」

 

「……今は持ち合わせがありませんわ」

 

「なら働け」

 

「わたくしは九条家の娘ですのよ」

 

「今は月見荘の居候だ」

 

 天音は言い返そうとした。

 

 だが、言葉が出なかった。

 

 月見荘の居候。

 

 その言葉は、なぜか胸の奥で少しだけ引っかかった。

 

 九条家の娘。

 失敗作。

 不要なもの。

 

 それ以外の呼ばれ方を、天音はあまり知らない。

 

 迅はそんな天音の顔を見て、少しだけ眉をひそめる。

 

「嫌なら出ていけ、とは言わねえよ」

 

「……」

 

「できねえなら覚えろって言っただろ」

 

 迅はそれだけ言って、扉へ向かった。

 

 足音は雑だった。扉の閉め方も上品とは言いがたい。けれど、部屋の中には朝食の湯気と、さっきの言葉だけが残った。

 

 できねえなら覚えろ。

 

 九条家なら、できないものは不要だった。

 

 失敗は終わりだった。

 不足は欠陥だった。

 役に立たないものは、置き場を失うだけだった。

 

 けれど迅は、覚えろ、と言った。

 

 それが優しい言葉なのか、単に雑な言葉なのか、天音にはまだ分からない。

 

 ただ、その言葉は、食べ終えた後も耳に残り続けた。

 

     ◇

 

 食堂に降りると、すでに何人かの住人がいた。

 

 月見荘の食堂は、昨日の夜に見た時よりもずっと生活感があった。長い木のテーブルには揃いではない椅子が並び、壁際の棚には住人ごとに分けられた茶碗や湯呑みが置かれている。隅には新聞。窓辺には枯れかけの観葉植物。誰かが置き忘れたらしい靴下が、椅子の背に引っかかっていた。

 

 宿というより、寮。

 寮というより、妙に人の気配が濃い家。

 

 九条家の屋敷は広かったが、音は少なかった。

 

 月見荘は狭いのに、音が多い。台所で水が流れる音、皿の触れ合う音、誰かが階段を下りる音、壁の向こうで何かが軋む音。どれも整ってはいないのに、不思議と不快ではなかった。

 

 小春は台所の前で食器を拭いていた。

 

 今日は頭の狐耳は見えない。昨夜のことが夢だったのではないかと思いかけたが、彼女の腰のあたりでふわふわした尾が揺れているのを見て、天音は考えるのをやめた。

 

 考えても疲れるだけだ。

 

「あ、天音ちゃん。おはようございます」

 

「おはようございます。……その、尾が出ておりますわ」

 

「出てます?」

 

「出ております」

 

「まあ、ここだと楽なので」

 

「昨日も同じことをおっしゃっていましたわね」

 

「便利な言葉なんです」

 

 小春は笑う。

 

 天音は食堂を見回した。

 

 長いテーブルの端に、見慣れない少女が座っている。

 

 天音と同じくらいの年頃だろうか。癖のある髪を肩で跳ねさせ、パーカー姿でトーストをかじっている。片手にはスマホ。もう片方の手には、ジャムのついたスプーン。いかにも普通の少女という顔で、いかにも普通ではない場所の朝食を食べていた。

 

 目が合うと、少女はぱちぱちと瞬きをした。

 

「あ、新しい人?」

 

 その声は明るかった。

 

 警戒ではなく、好奇心。値踏みではなく、ただの興味。九条家で浴びてきた視線とは違うものに、天音は一瞬だけ返事が遅れる。

 

「昨夜迅さんが拾ってきた子です」

 

「拾ってきた」

 

 少女の目が輝いた。

 

「え、また? 今度は何系? 妖怪? 半妖? 呪物憑き? それとも人間?」

 

「わたくしは人間ですわ!」

 

 天音は即座に言った。

 

「九条天音。九条家の娘ですの」

 

「九条?」

 

 少女は少しだけ首を傾げる。

 

 その名に、恐れも敵意も見せなかった。知らないのか、知っていても気にしていないのか。どちらなのかは分からない。

 

 だが、次に彼女が浮かべたのは、拍子抜けするほど普通の笑顔だった。

 

「私は三枝灯莉(さえぐさ・あかり)。よろしくね」

 

「……三枝さん」

 

「灯莉でいいよ。月見荘で名字呼びしてると、なんかよそよそしいし」

 

「では、灯莉さん」

 

「さん付けなんだ」

 

「初対面ですもの。当然ですわ」

 

「お嬢様だ」

 

 灯莉は楽しそうに言った。

 

 天音は少し胸を張る。

 

「ええ。わたくしは九条家の娘ですから」

 

「へえ」

 

 灯莉はトーストをかじりながら、じっと天音を見る。

 

 悪意のある視線ではない。珍しいものを見る、純粋な好奇心の目だった。

 

 それが余計に落ち着かない。

 

「九条家の娘って、電子レンジ使える?」

 

「電子……?」

 

 天音は固まった。

 

 灯莉が小春を見る。

 

 小春が微笑む。

 

 迅が台所の奥から顔を出す。

 

「あー」

 

 その声だけで、天音は嫌な予感を覚えた。

 

「使ったことねえのか」

 

「知識としてはありますわ」

 

「使ったことは」

 

「知識としてはあります」

 

「ねえんだな」

 

「ありますわ。箱に入れて温める機械でしょう」

 

「ざっくりしすぎだろ」

 

「間違ってはいませんわ」

 

 迅は冷蔵庫から昨日の残りの焼き魚を出した。

 

 皿に乗せ、天音の前に置く。

 

「じゃあ温めてみろ」

 

「よろしいですわ」

 

 天音は立ち上がった。

 

 小春と灯莉が、なぜか少し楽しそうに見ている。

 

 天音はそれに気づいたが、無視した。

 

 電子レンジ。

 

 九条家にも存在はした。使用人が使っているのを見たことはある。仕組みも、理論上は理解している。電磁波で食品中の水分子を振動させ、加熱する機械。

 

 問題はない。

 

 問題があるはずがない。

 

 天音は皿を持って、電子レンジの前に立った。

 

 扉を開ける。

 皿を入れる。

 扉を閉める。

 

 ここまでは完璧だった。

 

 問題は、その後だった。

 

「……」

 

 ボタンが多い。

 

 あたため。解凍。牛乳。弁当。オーブン。トースト。時間設定。ワット数。スタート。取消。

 

 なぜ、温めるだけの機械にここまで選択肢があるのか。

 

 九条家の術式盤ですら、用途ごとの刻印はもう少し整理されていた。少なくとも、使用者を迷わせることを目的に作られてはいなかった。

 

 天音は眉を寄せた。

 

「どうした」

 

 迅が後ろから言う。

 

「問題ありませんわ」

 

「手止まってんぞ」

 

「確認しているだけです」

 

「何を」

 

「……機械の意思を」

 

「ねえよ」

 

 灯莉が吹き出した。

 

 小春も口元を押さえている。

 

 天音は耳まで赤くなった。

 

「笑わないでくださる!?」

 

「ごめん、機械の意思はずるい」

 

「この機械が複雑すぎるのが悪いのです!」

 

「温めるだけだろ」

 

 迅が言う。

 

 天音は振り返った。

 

「では、あなたがやればよろしいではありませんか」

 

「お前が覚えるんだろ」

 

「……」

 

 逃げ道を塞がれた。

 

 天音は電子レンジに向き直る。

 

 まず、あたため。

 

 これだろう。

 

 天音はボタンを押した。

 

 電子レンジが、低く唸り始める。

 

 その音に、天音はわずかに肩を震わせた。だが、すぐに背筋を伸ばす。

 

「動きましたわ!」

 

「そりゃ動くだろ」

 

「見ましたか、黒瀬迅。これが九条家の娘の実力ですわ」

 

「電子レンジ動かして家名背負うな」

 

 天音はふふんと胸を張った。

 

 数十秒後。

 

 電子レンジが音を立てて止まった。

 

 天音は扉を開ける。

 

 皿を取ろうとして、

 

「あつっ」

 

 指先を引っ込めた。

 

 迅が無言で布巾を差し出す。

 

「……最初から出しなさい」

 

「最初から素手で行くな」

 

「庶民の機械は罠が多すぎますわ」

 

「お前の警戒先がズレてんだよ」

 

 天音は布巾で皿を取り出した。

 

 焼き魚は温まっていた。

 

 だが、一部だけ妙に熱く、一部は冷たい。箸で触ってみると、端の方は湯気が出ているのに、中央近くはまだ昨日の冷たさを残している。

 

「……なぜですの?」

 

「置き方と時間が雑」

 

「機械が未熟なのでは?」

 

「使い手だ」

 

「このわたくしが?」

 

「お前が」

 

 迅は皿を受け取ると、魚を軽くほぐし、もう一度電子レンジに入れた。今度は短い時間で設定する。

 

 その手つきは、やはり慣れていた。

 

 天音は横でじっと見る。

 

「なぜ今、時間を変えましたの?」

 

「温めすぎると固くなる」

 

「なるほど」

 

「あと、こういうのは一回で完璧にやろうとすんな。様子見て足せ」

 

「……様子を見て、足す」

 

「そうだ」

 

 天音は少しだけ黙った。

 

 料理の話のはずだった。

 

 電子レンジの話のはずだった。

 

 けれど、その言葉はなぜか、別のものにも聞こえた。

 

 一回で完璧にできなくてもいい。

 様子を見て、足せばいい。

 

 そんなやり方を、天音はあまり知らなかった。

 

「……覚えましたわ」

 

「じゃあ次から自分でやれ」

 

「そこは手伝う流れではありませんの!?」

 

「一回教えただろ」

 

「雑ですわ!」

 

「覚える気あんなら十分だ」

 

 天音はむっとしたが、言い返せなかった。

 

 灯莉がにこにこしている。

 

「天音ちゃん、電子レンジ初勝利だね」

 

「勝利というには釈然としませんわ」

 

「最初はそんなもんだよ。私もここ来た時、洗濯機で洗剤入れすぎて泡まみれにしたし」

 

「あなたも?」

 

「うん。小春さんは炊飯器の予約をミスって、朝五時にご飯炊きあがってたことある」

 

「それは別に良くありませんこと?」

 

「迅さんに『朝飯には早ぇんだよ狐』って怒られてた」

 

「理不尽ですわ」

 

「でしょう?」

 

「俺を悪者にすんな」

 

 迅が言った。

 

 灯莉と小春が同時に笑う。

 

 天音は、その様子を少しだけ不思議な気持ちで見ていた。

 

 失敗の話を、笑っている。

 

 怒鳴られた話を、笑っている。

 

 失敗したのに、追い出されていない。

 

 泡まみれにしても、予約を間違えても、ここにいる。

 

 天音は、温め直された焼き魚を見下ろした。

 

 湯気が立っている。

 

「……変な場所ですわね」

 

「よく言われる」

 

 小春が笑った。

 

     ◇

 

 朝食の後、天音は皿洗いを教わった。

 

 教える役は迅だった。

 

 不安しかなかった。

 

 台所に立つと、流し台の高さが思ったよりも現実的だった。九条家の台所は、天音にとって立ち入る場所ではなかった。そこは使用人たちの領域であり、天音が足を踏み入れれば、場違いなものを見る目で見られる場所だった。

 

 けれど月見荘では違う。

 

 迅は当然のように天音を流し台の前に立たせ、当然のようにスポンジを渡してきた。

 

「まず水で流す」

 

「それくらい分かりますわ」

 

「洗剤つける」

 

「当然です」

 

「つけすぎるな」

 

「……これくらい?」

 

「多い」

 

「では、これくらい?」

 

「少ない」

 

「加減が難しすぎますわ!」

 

「九条の術式理論より簡単だろ」

 

「術式には規則がありますもの!」

 

「皿洗いにもある」

 

「本当ですの?」

 

「油汚れは先に拭く。米粒は乾く前に流す。洗ったら泡を残すな。伏せる時は水が切れる向きに置く。終わったら台所も拭く」

 

「……意外と規則がありますのね」

 

「生活なめんな」

 

 天音は言い返せなかった。

 

 皿洗いは思ったより難しかった。

 

 皿は滑る。泡は残る。袖は濡れる。水が跳ねる。洗ったはずの茶碗に米粒が残っている。

 

 九条家で叩き込まれた対人外儀礼の方が、まだ分かりやすかった。あちらは式次第と型がある。順番を間違えれば叱られるが、正解は明確だ。

 

 生活は違う。

 

 正解らしきものはあるのに、手の中で滑る。力の入れ方も、水の量も、洗剤の加減も、誰も細かく数値で示してくれない。

 

 天音は、濡れた袖を見下ろして顔をしかめた。

 

「袖まくれ」

 

「これ以上まくると落ちてきますわ」

 

「服でかいからな」

 

「あなたが出したのでしょう!」

 

「生きるのに必要な布だ。文句言うな」

 

「最低限すぎますわ……」

 

 天音は袖を必死に押さえながら、皿を洗った。

 

 その横で、小春と灯莉が何やら楽しそうにしている。

 

「似合ってるよ、その服」

 

「どこがですの!?」

 

「袖余ってるのがかわいい」

 

「かわいさを求めて着ているわけではありません!」

 

「じゃあ今度、服買いに行こうよ」

 

 灯莉が言った。

 

 天音は手を止める。

 

「服を?」

 

「うん。さすがにそのスウェットだけだと困るでしょ。下着とか靴下とかも必要だし」

 

「……」

 

 天音は少しだけ顔を伏せた。

 

 服。

 

 自分で選んだことなど、ほとんどない。

 

 九条家で用意されたものを着ていた。役割に合った服。家格に合った服。失敗作でも、外聞を保つために必要な服。

 

 自分の好きな服、などと考えたことはなかった。

 

「どうしたの?」

 

 灯莉が首を傾げる。

 

 天音はすぐに顔を上げた。

 

「べ、別に。庶民の店がどの程度のものか、見て差し上げてもよろしいですわ」

 

「決まりだね」

 

 小春がにこりと笑う。

 

「迅さん、お金」

 

「何で俺が」

 

「必要経費ですよ。拾ったんですから」

 

「落ちてた」

 

「落ちてた子にも服は必要です」

 

 迅は舌打ちした。

 

 だが、否定はしなかった。

 

「安いとこにしろ」

 

「黒瀬迅」

 

 天音が口を挟む。

 

「借りは、いつか返しますわ」

 

「返せるようになってから言え」

 

「……必ず返します」

 

「じゃあまず皿洗い覚えろ」

 

「今とても真面目な話をしていましたわよね!?」

 

「生活は真面目な話だ」

 

 天音はぐっと詰まる。

 

 迅の言い方は乱暴だった。

 

 けれど、不思議と馬鹿にされている感じはしなかった。

 

 できないことを笑われはする。

 だが、不要だとは言われない。

 

 それがまだ、うまく理解できない。

 

     ◇

 

 昼前。

 

 天音は、月見荘の共有スペースを小春と灯莉に案内されていた。

 

 一階には食堂、台所、共同浴室、洗面所、物置。

 二階には住人の部屋と、廊下の奥に古い姿見。

 裏手には物干し場と小さな庭。

 玄関脇には靴箱と、名前の書かれた傘立てがある。

 

 建物は古いが、不思議と手入れは行き届いていた。

 

 いや、行き届いている部分と、諦められている部分の差が激しい。

 

「この柱、傷だらけですわね」

 

「千隼くんが壁走りの練習して怒られた跡ですね」

 

「壁走り?」

 

「烏天狗の末裔なので」

 

「……」

 

 天音は考えるのをやめた。

 

 廊下の奥にある姿見の前を通り過ぎようとした時、天音は足を止めた。

 

 昨夜、あの鏡の中で女が笑っていた。

 

 そう思った瞬間、背後から声がした。

 

「そんなに見つめられると、照れるわね」

 

「ひゃっ!?」

 

 天音は飛び退いた。

 

 振り返ると、そこには黒髪の女が立っていた。二十代後半か、三十代前半ほどに見える、落ち着いた雰囲気の女。昨日、鏡の中にいた女と同じ顔だった。

 

 けれど今は、鏡の中ではない。

 

 廊下に、普通に立っている。

 

「あなた……鏡の中の方ではありませんの!?」

 

「鏡にもいるし、外にもいるわ」

 

「説明になっておりません!」

 

「怪異の説明なんて、だいたいそんなものよ」

 

 女――朽木硝子(くちき・しょうこ)は、楽しそうに目を細めた。

 

 昨日は鏡越しだったせいで気づかなかったが、近くで見ると彼女の存在感は奇妙だった。足音がないわけではない。影がないわけでもない。けれど、どこか薄い。そこにいるのに、触れようとすると指先が冷たい水面を掠めるような、そんな気配がある。

 

 天音は一歩、小春の後ろに下がる。

 

「この方は……」

 

「朽木硝子さん。月見荘の古参です」

 

 小春が言う。

 

「姿見に憑いている怪異だけど、悪い人じゃないですよ」

 

「姿見に憑いているのに、外に出ていますわよ」

 

「硝子さんなので」

 

「説明を諦めないでくださいませ!」

 

 硝子はゆったりと笑った。

 

「本体はあの姿見よ。でも、別に一歩も動けないわけじゃないわ。廊下を歩くくらいはできるし、食堂でお茶も飲むし、気が向けば外にも出る」

 

「……怪異とは、そういうものなのですか?」

 

「私がそういうものなのよ」

 

「もっと分かりませんわ……」

 

「大丈夫。そのうち考えるのをやめるから」

 

 灯莉が隣で頷く。

 

「私も最初そうだった」

 

「あなたも諦める側ですのね」

 

「月見荘で生きるコツだよ」

 

 天音は頭が痛くなってきた。

 

 九条家で教わった怪異の分類に、硝子は収まらない。幽霊。付喪神。土地に縛られた怪異。鏡に憑いたもの。どれでもあり、どれでも足りない。

 

 硝子はそんな天音の困惑を楽しむように、少し身を屈めた。

 

「昨夜はよく眠れた?」

 

「……ええ。おかげさまで」

 

「そう。追い出される夢でも見たかと思ったけれど」

 

 天音の息が止まった。

 

 小春が硝子を見る。

 

「硝子さん」

 

「意地悪で言ったわけじゃないわ」

 

 硝子は天音の目を見ていた。

 

 その視線は冷たくはない。けれど、誤魔化しも許さない。鏡というものは、映したものを勝手に綺麗にはしてくれないのだと、天音は妙なところで納得してしまった。

 

 天音は袖の余った手を握る。

 

「……そのような夢は、見ておりませんわ」

 

「そう」

 

「ええ」

 

「なら、今夜も見ないといいわね」

 

 硝子はそれだけ言うと、姿見の横に寄りかかった。

 

 会話はそれで終わりらしい。

 

 踏み込まれたようで、踏み荒らされたわけではない。

 

 天音はどう反応すればいいか分からず、ただ小さく息を吐いた。

 

 その時、食堂の方から迅の声が飛んできた。

 

「硝子。余計なこと言ってねえで、見張りしてろ」

 

「しているわよ。今のところ、九条の犬は近くにいないわ」

 

 九条の犬。

 

 その言葉に、天音の表情が強張る。

 

 小春がそっと天音の肩に手を置いた。

 

「大丈夫。ここにいる間は、そう簡単には入ってこられないから」

 

「……なぜ」

 

「迅さんがいるから」

 

 灯莉が当然のように言った。

 

「あと、硝子さんもいるし」

 

「ついでみたいに言わないでちょうだい」

 

「すごく頼りにしてます」

 

「ならいいわ」

 

 天音は硝子を見る。

 

 そして、食堂の方を見る。

 

 月見荘。

 

 宿とも寮ともつかない、古い建物。

 人ではないものが住んでいて、鏡の怪異が廊下を歩き、狐の半妖が皿を拭き、普通の少女がトーストを食べる場所。

 

 九条家で教わった常識とは、何もかもが違う。

 

 なのに。

 

「……変な場所ですわ」

 

 天音は小さく言った。

 

 小春が笑う。

 

「昨日も言ってましたよ」

 

「何度でも言いますわ。変ですもの」

 

「すぐ慣れるよ」

 

 灯莉が明るく言った。

 

「私も最初はそうだったし」

 

「あなたは人間なのですわよね?」

 

「うん。怪異に好かれやすいだけの普通の人間」

 

「その時点で普通ではないのでは?」

 

「よく言われる」

 

 灯莉は気にした様子もなく笑った。

 

 天音は少しだけ力が抜けた。

 

 ここでは、普通でないことを隠さないらしい。

 

 できないことも、知らないことも、変なことも、すぐに笑われる。

 けれど、それだけだ。

 

 追い出されない。

 

 切り捨てられない。

 

 昨日、迅が言った言葉がまた蘇る。

 

 できねえなら覚えろ。

 

 天音は袖の余った手を握った。

 

「……まずは」

 

「ん?」

 

 灯莉が首を傾げる。

 

 天音は顔を上げる。

 

「まずは、電子レンジを完全に攻略しますわ」

 

 小春が目を瞬かせる。

 

 灯莉が笑う。

 

 硝子が楽しそうに口元を隠す。

 

 食堂の奥から、迅の声がした。

 

「相手に不足はねえな」

 

「黒瀬迅! 馬鹿にしていますわね!?」

 

「してねえよ」

 

「しています!」

 

「じゃあ皿洗い終わったら第二戦な」

 

「望むところですわ!」

 

 天音は胸を張った。

 

 灰色のスウェット。余った袖。少し跳ねた髪。

 どこからどう見ても、九条家の令嬢らしくはない。

 

 けれどその顔には、昨夜よりほんの少しだけ、力が戻っていた。

 

 月見荘の昼は、雨上がりの光の中で始まっていた。

 

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