柄の悪い竜と、強がりお嬢様   作:ゆゆゆい

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第三話

月見荘の人外たち

 

 電子レンジとの第二戦は、天音の勝利に終わった。

 

 正確に言えば、勝利と呼ぶにはいささか疑問の残る結果だった。

 

 温め直した焼き魚は、今度こそ中心まで温まっていた。だが、時間を慎重に設定しすぎたせいで、天音は途中で三度も電子レンジを止めた。扉を開け、箸で魚をつつき、まだですわね、と呟き、また扉を閉める。その姿は、対人外用の封印儀式に臨む術者のように真剣だった。

 

 その様子を見ていた三枝灯莉(さえぐさ・あかり)が、途中で肩を震わせ始めた。

 

「笑うなら笑えばよろしいでしょう」

 

「ごめん。真剣すぎて逆に笑えなくなってきた」

 

「なら震えるのをやめなさい」

 

「無理」

 

 灯莉は口元を押さえていた。

 

 狐塚小春(こづか・こはる)も、食器棚の前で背中を向けている。あれは皿を片付けているのではなく、笑いを隠しているのだと天音にも分かった。

 

 腹立たしい。

 

 だが、温めには成功した。

 

 これは重要なことだった。

 

「見ましたか、黒瀬迅(くろせ・じん)。これが学習する九条の力ですわ」

 

 天音は胸を張った。

 

 灰色のスウェットの袖は、まだ指先を半分ほど隠している。その姿で胸を張られても、威厳というより迷子の子どもが背伸びをしているようにしか見えなかった。

 

 迅は台所の奥で鍋を洗いながら、ちらりと天音を見た。

 

「魚一切れ温めるのに何分かけてんだよ」

 

「慎重さは美徳です」

 

「飯が冷める」

 

「冷めたら、また温めればよろしいのでは?」

 

「電子レンジに味しめてんじゃねえ」

 

 天音はむっとした。

 

 けれど、昨日ならそこで言葉に詰まっていたかもしれない。今は違う。少なくとも、電子レンジに関しては一歩前進した。九条家では何の役にも立たないと言われた自分が、月見荘では焼き魚を温めることに成功した。

 

 あまりにも小さな進歩だ。

 

 それでも、天音にとっては奇妙なほど大きかった。

 

「では次は洗濯機ですわね」

 

「調子に乗るな。あれは泡が出る」

 

「泡くらい制御できますわ」

 

「さっきまで電子レンジ相手に機械の意思を読もうとしてた奴が言うな」

 

「黒瀬迅!」

 

 食堂に笑いが起きる。

 

 天音は顔を赤くしながらも、少しだけ不思議だった。

 

 笑われている。

 

 失敗をからかわれている。

 

 けれど、その笑いは九条家のものとは違った。

 

 あの家で向けられる笑いは、相手を下に見るためのものだった。失敗を証拠として突きつけるためのものだった。お前はやはり駄目だと、そう決めつけるためのものだった。

 

 月見荘の笑いは、違う。

 

 失敗は失敗のままだ。

 間違いは間違いとして指摘される。

 けれど、それが終わりにはならない。

 

 天音は、その違いをまだうまく言葉にできなかった。

 

 ただ、胸の奥にあった固いものが、少しずつ形を変え始めていることだけは分かった。

 

     ◇

 

 昼過ぎ。

 

 天音は食堂の長テーブルで、温くなった麦茶のグラスを前にしていた。

 

 グラスは小春が昼食の片付けのついでに置いていったものだ。氷はすっかり溶け、表面についた水滴だけが、ゆっくりと木のテーブルへ落ちている。

 

 昨日から、月見荘には分からないことばかりある。

 

 人間ではない者たちが、当然のように暮らしている。狐の半妖が台所で皿を拭き、鏡の怪異が廊下を歩き、普通の人間だという灯莉は怪異に好かれる体質だと言う。

 

 九条家で育った天音にとって、人外や怪異は警戒すべきものだった。

 

 正体を知り、性質を知り、弱点を把握し、必要なら封じる。討つ。退ける。家の者たちはそれを当然としていたし、天音もそう教えられてきた。

 

 だが月見荘では、誰も相手の正体を暴こうとしない。

 

 正体を隠しているというより、正体だけを見ていない。

 

 そこが、天音にはよく分からなかった。

 

「難しい顔してるね」

 

 灯莉が向かいの席に腰を下ろした。

 

 手には自分の分らしい麦茶のグラスがある。天音の前に置かれたグラスをちらりと見てから、少しだけ笑った。

 

「それ、もう温くなってるでしょ。取り替える?」

 

「いえ。まだ飲めますわ」

 

「そっか」

 

 灯莉は自分の麦茶を一口飲む。

 

「何考えてたの?」

 

「……ここの方々についてです」

 

「うん」

 

「月見荘の方々は、ずいぶん不用心ですわ」

 

 灯莉はぱちぱちと瞬きをした。

 

「不用心?」

 

「ええ。相手が人外か、怪異か、半妖か。どういう性質を持ち、どれほど危険なのか。そういったことを把握せずに同じ場所で暮らすなど、本来なら危険です」

 

「なるほど」

 

 灯莉は怒らなかった。

 

 ただ、少し困ったように笑った。

 

「天音ちゃんは、そういう家の子なんだよね」

 

「そういう家、という言い方は少し引っかかりますが、九条家は対人外の名家です。人外や怪異への警戒は当然のことですわ」

 

「でも、小春さんのこと、怖い?」

 

 天音は言葉に詰まった。

 

 小春は台所で昼食の片付けをしている。今は耳も尾も隠れていて、見た目だけなら少し距離の近い明るい女性にしか見えない。だが、昨夜から何度も狐の耳や尾を見ている。半妖であることは疑いようがない。

 

 怖いか、と聞かれると、困る。

 

「……危険性がないとは言えませんわ」

 

「うん」

 

「ですが、今のところは、特に害意は感じません」

 

「そっか」

 

 灯莉は嬉しそうに笑った。

 

「じゃあ、それでいいんじゃない?」

 

「よくありません。害意がないように見える人外ほど危険な場合もあります」

 

「それ、迅さんにも言える?」

 

 天音は、また言葉に詰まった。

 

 迅。

 

 雨の中で拾ってくれた男。

 口が悪く、品がなく、すぐ舌打ちをする。

 それなのに、倒れていた天音を放っておかなかった男。

 

 そしておそらく、人間ではない男。

 

 天音はグラスの中の麦茶を見つめた。

 

「……黒瀬迅は」

 

「うん」

 

「危険では、あると思います」

 

「だろうね」

 

 灯莉はあっさり頷いた。

 

 それが意外で、天音は顔を上げる。

 

「否定しないのですか?」

 

「だって危険だもん、迅さん」

 

 灯莉は当たり前のように言った。

 

「でも、怖い人かって言われると、ちょっと違うかな」

 

「危険なのに?」

 

「危険なのと、怖いのは、たぶん別」

 

 灯莉は麦茶を一口飲む。

 

 その言葉には、妙な実感があった。普通の少女の言葉に聞こえるのに、月見荘にいる人間らしい経験の重さが少しだけ混じっている。

 

「怪異も人外も、危ない時は危ないよ。私も何回も巻き込まれてるし。でも、普通の人間だって怖い時は怖い。優しそうな顔して、ひどいことする人もいるし」

 

 灯莉はそこで、少しだけ視線を逸らした。

 

「だから、正体だけ見ても、たぶん分かんないんだと思う」

 

 天音は黙った。

 

 それは、九条家では聞いたことのない考え方だった。

 

 正体は性質を示す。

 性質は対処法を示す。

 対処法を知れば、危険を減らせる。

 

 それは正しい。

 

 だが、正体だけでは分からないものがある。

 

 灯莉は、それを当然のように言った。

 

「……あなたは、なぜここにいるのです?」

 

 天音は思わず聞いていた。

 

 灯莉は人間だと言った。怪異に好かれやすいだけの普通の人間。なら、なぜこんな場所にいるのか。

 

 灯莉は少し考えてから、笑った。

 

「怪異に好かれやすいから」

 

「そのままですわね」

 

「本当にそのままなんだよね。小さい頃から変なものを拾いやすかったり、見られやすかったり、ついてこられやすかったりして。普通の家にいると、私より周りが大変になるの」

 

「……それで月見荘へ?」

 

「うん。迅さんに何回か助けられて、そのままここにいる」

 

「拾われたのですか」

 

「たぶん」

 

 灯莉は笑う。

 

「迅さんは『落ちてた』って言うと思うけど」

 

 天音は少しだけ目を伏せた。

 

 自分と同じだ。

 

 そう思いかけて、すぐに打ち消す。

 

 同じではない。灯莉は明るく、普通で、月見荘にも馴染んでいる。天音のような失敗作とは違う。

 

 だが、迅に拾われたという一点だけは、似ていた。

 

「ねえ、天音ちゃん」

 

「何ですの?」

 

「月見荘は変だけど、悪い場所じゃないよ」

 

 灯莉はそう言った。

 

 軽い言葉だった。

 

 けれど、妙に真っ直ぐだった。

 

「だから、分からないことは聞けばいいよ。たぶん、みんな変な答え方するけど」

 

「それは困りますわ」

 

「でも、誰も怒らないと思う」

 

 天音は答えなかった。

 

 怒らない。

 

 それがどれだけ奇妙なことか、灯莉は分かっているのだろうか。

 

 分からない。

 

 けれど、彼女の笑顔は嘘には見えなかった。

 

     ◇

 

 その日の午後、天音は新たな住人と遭遇した。

 

 場所は食堂。

 

 天音が小春に教わりながら布巾の畳み方を練習していた時だった。玄関の方から足音がして、古い扉が開く音がした。

 

 続いて、廊下を歩く軽い足音。

 

 天音が顔を上げると、食堂の入口に一人の青年が立っていた。

 

 年齢は二十代前半ほど。細身で、無造作な黒髪。眼鏡をかけている。片手にはコンビニの袋、もう片方の手には分厚い本。服装は地味だが、視線だけが妙に鋭い。

 

 人間に見える。

 

 だが、天音はすぐに違和感を覚えた。

 

 気配が混じっている。

 

 人間のものと、人外のもの。どちらか一方ではない。無理やり継ぎ合わせたような、どこか不自然な気配だった。

 

 青年は食堂に入るなり、天音を見た。

 

 そして、特に驚いた様子もなく言った。

 

「新しい入居者?」

 

「落ちてたお嬢様です」

 

 小春が答える。

 

「落ちていたのではありません」

 

 天音は反射的に訂正した。

 

 青年は眼鏡の奥の目を少しだけ細めた。

 

「新しい入居者にしては、姿勢が硬い。所作も生活慣れしていない。旧家の子?」

 

「……ずいぶん失礼な観察ですわね」

 

「否定しないんだ」

 

 天音は背筋を伸ばした。

 

「九条天音です。九条家の娘ですわ」

 

「九条」

 

 青年の視線が、わずかに鋭くなる。

 

「対人外の旧家か」

 

 その言葉に、天音の肩が少し強張った。

 

「そうですわ」

 

真壁律(まかべ・りつ)

 

 青年は簡潔に名乗った。

 

「一応、ここの住人。分類としては人工半妖」

 

 天音の手から、布巾が落ちた。

 

 ぱさり、と床に広がる。

 

 小春が「あ」と小さく声を漏らした。

 

 律は特に気にした様子もなく、コンビニの袋をテーブルに置く。

 

「その反応は妥当だと思う」

 

「人工、半妖……?」

 

 天音はかすれた声で繰り返した。

 

 知識としては知っている。

 

 人間の身体に人外の因子を移植し、人為的に半妖に近い性質を作り出す研究。九条家でも禁忌に近いものとして扱われていた。倫理的にも、術式的にも、失敗例が多すぎる。人間にも戻れず、人外にもなりきれない、歪な存在。

 

 それが、目の前にいる。

 

 普通にコンビニ袋を持って。

 普通に月見荘の食堂に入ってきて。

 普通に自分のことを人工半妖だと言った。

 

 天音は言葉を失った。

 

「……なぜ、そのようなことを自分から言いますの?」

 

「隠すほどでもないから」

 

 律は椅子に座り、袋から紙パックのコーヒーを取り出した。

 

「月見荘では、隠したいことは隠せる。でも自分で言う分には自由」

 

「それは、そうかもしれませんけれど」

 

「あと、九条家の人間なら人工半妖という言葉で警戒すると思った。先に言った方が反応を観察しやすい」

 

「観察?」

 

「うん」

 

 律は紙パックのストローを刺しながら頷いた。

 

「君は分かりやすいね」

 

「失礼ですわ!」

 

「失礼な意図はない。反応が素直だと言っている」

 

「それを失礼と言うのです!」

 

 天音は顔を赤くした。

 

 だが、その怒りは長く続かなかった。律の表情には、本当に悪意が見えない。彼はからかっているのではなく、ただ事実を述べているようだった。

 

 それが余計にやりづらい。

 

「律くんはだいたいこういう感じだから、気にしない方がいいですよ」

 

 小春が落ちた布巾を拾いながら言った。

 

「説明はしてくれるんですけど、観察、分類、検証、みたいな言い方をするんです。人の会話というより、理科室の実験記録みたいになるというか」

 

「理科室……」

 

「僕としては、曖昧な表現を避けているだけなんだけど」

 

 律は少しだけ首を傾げた。

 

「その説明だと、僕が冷たい人間のように聞こえる」

 

「そういうところです」

 

 小春が即答した。

 

 天音は少しだけ眉を寄せた。

 

 九条家で教わった人工半妖は、危険なものだった。

 

 人間と人外の境界を壊し、制御できない力を持ち、研究施設や術式事故の産物として忌避される存在。少なくとも、普通の食堂で紙パックのコーヒーを飲みながら、理科室呼ばわりされて首を傾げるようなものではなかった。

 

 天音は、律の手元を見る。

 

 指は普通の人間のように見える。だが、ふとした瞬間、爪の根元に薄い鱗のようなものが見えた。光の加減かと思ったが、違う。律自身が隠していないのだ。

 

「怖い?」

 

 律が聞いた。

 

 天音は息を呑む。

 

 小春が少しだけ表情を変えた。

 

「律くん」

 

「確認」

 

 律は小春にそう言ってから、天音を見る。

 

「九条家の人間なら、人工半妖に対して警戒するのは自然だ。怖いなら怖いと言っていい」

 

 天音は答えられなかった。

 

 怖い。

 

 そう言えば、律を傷つけるのだろうか。

 

 怖くない。

 

 そう言えば、嘘になるのだろうか。

 

 九条家なら答えは簡単だった。危険なものを危険と言うだけだ。怪異を怪異と呼び、人外を人外と分類し、危険度を測る。そこに相手の感情など必要ない。

 

 けれど今、目の前にいる律は、分類ではなく住人だった。

 

 コンビニ袋を置いて、紙パックのコーヒーを飲み、天音の反応を観察している、月見荘の住人だった。

 

「……分かりません」

 

 天音はようやく言った。

 

「知識としては、警戒すべきものだと知っています。ですが、あなたが今すぐわたくしに危害を加えるようには見えません」

 

「なるほど」

 

 律は少しだけ目を細めた。

 

「かなり正確な答えだと思う」

 

「……馬鹿にしていますの?」

 

「していない。怖い、怖くないの二択にしなかったのは良い判断だと思う」

 

 天音は困惑した。

 

 褒められたのだろうか。

 

 それとも分析されたのだろうか。

 

 たぶん、両方だ。

 

「律。新入りを実験台みてえに見るな」

 

 台所の奥から迅の声がした。

 

 律は悪びれずに答える。

 

「見ていない。観察している」

 

「同じだ」

 

「違う」

 

「同じだっつってんだろ」

 

「では、今後は控える」

 

「今後じゃなくて今やめろ」

 

 律は紙パックのコーヒーを飲み、天音から視線を外した。

 

 それだけで、天音は少しだけ息がしやすくなった。

 

 迅は台所から出てくると、律の前に置かれたコンビニ袋を見た。

 

「また栄養ゼリーか」

 

「効率がいい」

 

「飯食え」

 

「後で」

 

「今」

 

「昼は食べた」

 

「それは食ったうちに入らねえ」

 

 迅は袋を取り上げ、かわりにテーブルの上へ小鉢を置いた。昼食の残りらしい煮物が入っている。

 

 律は少しだけ不満そうに眉を動かしたが、抵抗はしない。

 

 天音は、そのやり取りを見ていた。

 

 人工半妖。

 

 危険な存在。制御すべき対象。研究資料の中にしかないはずの、歪なもの。

 

 その律が、今、迅に栄養ゼリーを取り上げられている。

 

 その光景があまりにも日常的で、天音はどう反応すればいいか分からなかった。

 

     ◇

 

 小春が拾った布巾を、そっと天音へ返した。

 

 天音はそれを受け取ったものの、皿を拭くことはできなかった。白い布の端を握りしめたまま、ぽつりと言う。

 

「……そもそも」

 

 食堂の空気が、ほんの少しだけ止まった。

 

 小春が手を止める。灯莉が麦茶のグラスを持ったまま瞬きをする。律は小鉢の煮物を箸でつまんだところで、天音へ視線を向けた。

 

「なぜ、わたくしをここに置いているのです?」

 

「なぜ、というのは?」

 

「言葉通りですわ。わたくしは九条家の者です。あなた方にとっては、面倒の種でしかありません。警察なり病院なり、あるいは九条家に連絡するなり、方法はいくらでもあったはずです」

 

 言ってから、天音は自分の声が少し硬くなっていることに気づいた。

 

 問いただしたかったわけではない。

 

 責めたかったわけでもない。

 

 ただ、分からなかった。

 

 どうして自分は、まだここにいるのか。

 どうして朝食が出て、部屋があって、皿洗いを教えられているのか。

 どうして誰も、九条家へ連絡しようとしないのか。

 

 小春が困ったように笑う。

 

「まあ、普通はそう思いますよね」

 

「普通なら」

 

 律が言った。

 

「九条の人間を普通の病院に運べば、半日もかからず九条家に情報が戻る。警察も同じ。対人外の旧家は、そういう網を持っているから」

 

 天音は黙った。

 

 否定できなかった。

 

 九条家には、そういう力がある。表の機関に直接命令できるわけではなくとも、情報を拾う手段はいくらでもある。九条の者が外で保護されたとなれば、家に届かないはずがない。

 

「だから、迅さんは連絡しなかったんだと思います」

 

 小春が言う。

 

「九条家に戻した方がいいなら、そうしたかもしれません。でも天音ちゃん、戻りたそうな顔じゃなかったから」

 

 天音の指が止まった。

 

 胸の奥が、ひやりと冷える。

 

 戻りたそうな顔ではなかった。

 

 その言葉は、思っていたより深く刺さった。

 

「……わたくしは」

 

 声が出にくかった。

 

 九条家の娘としてなら、いくらでも言えることはある。迷惑をかけるつもりはない。恩は返す。長居するつもりはない。そういう綺麗な言葉なら、いくらでも並べられる。

 

 けれど、そのどれも今は違う気がした。

 

 天音は布巾を握りしめる。

 

「帰りたく、ありません」

 

 食堂が静かになった。

 

 言った瞬間、自分の声があまりにも小さかったことに気づく。けれど、聞こえなかった者はいなかった。

 

 天音は顔を上げられなかった。

 

「理由は」

 

 小春が静かに言いかける。

 

 天音は首を振った。

 

「今は、言えません」

 

 それは逃げだった。

 

 分かっている。

 

 けれど、今ここで口にしてしまえば、自分が九条家で何だったのかまで認めなければならない。失敗作。不要な娘。捨てられたもの。そういう言葉を、自分の口で出さなければならなくなる。

 

 まだ、無理だった。

 

「言えませんけれど」

 

 天音は、震えそうになる声を押さえた。

 

「帰りたくありません」

 

 台所の奥で、鍋の蓋が小さく鳴った。

 

 迅がこちらを見ていた。

 

 目つきは悪い。表情も相変わらず読みにくい。けれど、そこに驚きはなかった。まるで最初から知っていたような顔だった。

 

「なら帰んなきゃいいだろ」

 

 迅は言った。

 

 あまりにも雑だった。

 

 あまりにも簡単だった。

 

 だから天音は、反応が遅れた。

 

「……よろしいのですか?」

 

「あ?」

 

「わたくしは、九条家の者です。ここに置けば、面倒になりますわ」

 

「もうなってる」

 

「なら」

 

「面倒だからって、飯食わせた奴を外に放るほど暇じゃねえよ」

 

「暇は関係ありませんわ」

 

「ある。面倒ごとを増やすにも順番があんだよ」

 

 迅は小鉢を一つ取り、天音の前に置いた。

 

「戻りてえなら戻れ。出ていきてえなら出ていけ。けど、帰りたくねえ奴を俺がわざわざ届ける理由はねえ」

 

 天音は言葉を失った。

 

 迅の言葉は、優しい言い方ではなかった。慰めでもなかった。大丈夫だと抱きしめるようなものでもない。

 

 けれど、それで十分だった。

 

 帰りたくない。

 

 そう言った自分を、誰も叱らなかった。

 理由を言えと詰め寄らなかった。

 九条家の娘が何を甘えたことを、と笑わなかった。

 

 ただ、帰らなくていいと言われた。

 

「……変な方ですわ」

 

「昨日から何回言うんだよ」

 

「何度でも言いますわ。変ですもの」

 

 天音はそう返した。

 

 声は少し震えていた。

 

 それでも、最後まで言えた。

 

 小春が小さく息を吐く。

 

 灯莉は、何か言いたそうにして、けれど何も言わなかった。

 

 律だけが、淡々と口を開く。

 

「現時点での滞在意思を確認」

 

「記録しないでくださいませ」

 

「していない。記憶はした」

 

「余計に嫌ですわ!」

 

 食堂に、少しだけ笑いが戻った。

 

 迅は天音の前の小鉢を指で押す。

 

「食え」

 

「今は昼食の時間ではありませんわ」

 

「味見だ」

 

「なぜわたくしが?」

 

「住むなら働け」

 

「味見は労働に含まれますの?」

 

「含む」

 

「雑ですわ!」

 

 天音は文句を言いながらも、小鉢を受け取った。

 

 温かい。

 

 手のひらに伝わる熱が、妙に現実的だった。

 

     ◇

 

 夕方が近づく頃、月見荘の廊下に大きな音が響いた。

 

 どん、と何かが壁にぶつかる音。

 

 続いて、誰かの舌打ち。

 

 天音は食堂で皿を拭いていた手を止めた。

 

「今の音は?」

 

「たぶん千隼くんですね」

 

 小春が平然と言った。

 

「千隼くん?」

 

「烏天狗の末裔です」

 

「また新しい情報が増えましたわ……」

 

 天音がそう呟いた直後、食堂の扉が勢いよく開いた。

 

「痛ってぇな、あの廊下。狭すぎんだろ」

 

 入ってきたのは、十代後半から二十代前半くらいの青年だった。

 

 やや乱れた黒髪。鋭い目つき。動きは軽く、姿勢にはどこか獣じみたしなやかさがある。服装はラフで、肩には斜め掛けのバッグ。背中には何もない。少なくとも見た目には、翼のようなものはない。

 

 だが、天音にはすぐ分かった。

 

 風の気配がする。

 

 青年が一歩動くだけで、食堂の空気がかすかに揺れる。人間の身体に収まっているはずなのに、その周りだけ風が薄く巻いているようだった。

 

 青年は天音を見て、ぴたりと足を止めた。

 

「誰?」

 

「昨日迅さんが拾ってきた天音ちゃん」

 

 灯莉が答える。

 

「拾った?」

 

「落ちてた」

 

 台所から迅の声が飛ぶ。

 

「いや、落ちてた女連れ込むなよ、おっさん」

 

「誰がおっさんだ、烏丸千隼(からすま・ちはや)

 

 迅が低い声で言った。

 

 千隼は一瞬だけ肩を跳ねさせたが、すぐにそっぽを向く。

 

「実年齢で言えばおっさんどころじゃねえだろ」

 

 食堂の空気が止まった。

 

 小春が「あー」と小さく呟く。

 

 灯莉が、言いかけた言葉を飲み込んだような顔をした。

 

 律が興味深そうに千隼を見る。

 

 次の瞬間、迅が台所から出てきた。

 

 顔は笑っていない。

 

「千隼」

 

「……はい」

 

「飯抜きな」

 

「横暴だろ!」

 

「おっさんに作ってもらう飯は食えねえよな」

 

「すみませんでした迅さん」

 

「切り替え早ぇな」

 

 千隼は即座に頭を下げた。

 

 その動きがあまりにも素早く、天音は思わず目を瞬かせた。

 

 先ほどまでの生意気な態度はどこへ行ったのか。月見荘の住人たちは、迅に対する距離感がおかしい。雑に言う。茶化す。けれど、踏んではいけない線を知っている。

 

 あるいは、飯を握られているだけかもしれない。

 

 千隼は顔を上げると、改めて天音を見た。

 

「で、九条天音だっけ?」

 

「ええ。九条家の娘ですわ」

 

「ふーん」

 

 千隼は遠慮なく天音を見た。

 

 値踏みするというより、珍しいものを見る目だった。灯莉の好奇心よりも、もう少し尖っている。

 

「対人外の名家のお嬢様が、何でこんなとこにいるんだよ」

 

 その言葉に、天音の喉が詰まる。

 

 食堂の空気が、ほんの少しだけ変わった。

 

 千隼はすぐにそれに気づいたらしい。気まずそうに眉を寄せる。

 

「……あー。悪い。聞いちゃまずい感じか」

 

「いえ」

 

 天音は背筋を伸ばした。

 

「別に、隠すようなことではありませんわ」

 

 そう言いながら、胸の奥が冷える。

 

 帰りたくない。

 

 それは、さっき言えた。

 

 けれど、なぜ帰りたくないのかまでは言えない。

 

 捨てられた。

 

 追い出された。

 

 失敗作だから、要らなくなった。

 

 言葉にすれば、それだけだ。

 

 だが、その言葉を食堂で口にすることができなかった。小春や灯莉や律や千隼の前で、自分が九条家に要らなかったのだと認めるのが、どうしてもできなかった。

 

 迅が口を開いた。

 

「聞くな。言いたくなったら言うだろ」

 

 それだけだった。

 

 千隼は迅を見て、少しだけ目を伏せる。

 

「……了解」

 

 天音は迅を見た。

 

 迅はもうこちらを見ていない。台所へ戻ると、夕飯用に切っていたらしい野菜をまな板の端へ寄せた。

 

「千隼。つまみ食いしたら飯抜きな」

 

「まだ何もしてねえだろ!」

 

「する顔してた」

 

「顔で処罰すんなよ!」

 

 さっき飯抜きと言っていたくせに、結局は夕飯の席に座らせるつもりなのだろう。月見荘の住人たちは、その辺りを誰も疑っていない顔をしていた。

 

 乱暴で、雑で、矛盾している。

 

 だが、さっきの一言で、天音は少しだけ救われていた。

 

 千隼は椅子に腰を下ろしながら、気まずさを誤魔化すように言った。

 

「じゃあ、こっちも聞かれそうなこと先に言っとく。俺は烏天狗の末裔。飛べる。速い。偉い」

 

「最後は違う」

 

 小春が即座に言った。

 

「偉いだろ」

 

「若い」

 

「似たようなもんだろ」

 

「違いますね」

 

 律が淡々と言う。

 

「うるせえ理科室」

 

「理科室呼びは定着していない」

 

 律が紙パックのコーヒーを持ったまま言った。

 

「今から定着させる」

 

「却下する」

 

「本人に拒否権あんのかよ」

 

「ある」

 

 千隼は不満そうに言った。

 

 天音は、少しだけ口元を緩めかけた。すぐに引き締めたが、灯莉には見られていたらしい。灯莉がにこにこしている。

 

「で、九条のお嬢様は人外嫌いなのか?」

 

 小春が「千隼くん」と止めようとする。

 

 しかし、天音は今度は黙らなかった。

 

「……分かりません」

 

「あ?」

 

「嫌うべきだと、教えられてきました。警戒すべきだと。討つべき時は迷うなと」

 

 天音は自分の手元を見る。

 

 皿を拭いていたせいで、指先が少し湿っている。九条家の儀礼用の手袋ではなく、月見荘の布巾の感触がそこにあった。

 

「ですが、ここにいる方々は、わたくしが教わった人外とは違います」

 

 小春が少しだけ目を細める。

 

 律は無表情に聞いている。

 

 灯莉は何も言わない。

 

 千隼は椅子に座ったまま、じっと天音を見ていた。

 

「だから、分かりません」

 

 天音は顔を上げる。

 

「今はまだ、それしか言えませんわ」

 

 沈黙が落ちた。

 

 失礼なことを言ったかもしれない。

 

 そう思った。

 

 だが、千隼は少しだけ口の端を上げた。

 

「ふーん。まあ、最初にしちゃ上等じゃねえの」

 

「上から目線ですわね」

 

「実際、俺の方が先輩だし」

 

「月見荘歴が?」

 

「そう」

 

「それは誇ることですの?」

 

「ここじゃ結構重要」

 

 千隼は得意げに言った。

 

 迅が台所から低く言う。

 

「先輩なら後で皿洗い手伝え」

 

「うっす」

 

「返事だけいいな」

 

「迅さんの飯食ってる時は素直になるって決めてる」

 

「今は食ってねえだろ」

 

「じゃあ後で素直になる」

 

「普段からそうしろ」

 

「それは無理」

 

 迅は舌打ちした。

 

 それでも、食堂の空気はさっきより柔らかかった。

 

 天音は、その中に座っている自分を少しだけ不思議に思う。

 

 人工半妖。

 烏天狗の末裔。

 狐の半妖。

 鏡に憑いた怪異。

 怪異に好かれる人間。

 そして、おそらく人間ではない管理人。

 

 九条家なら、一つひとつに分類と対処法がある。

 

 危険度。

 封印手順。

 討伐可否。

 利用価値。

 

 けれど月見荘では、彼らはそれぞれ茶碗を持ち、皿を洗い、電子レンジを使い、飯のことで迅に怒られている。

 

 天音の知っている世界とは違う。

 

 違いすぎる。

 

 けれど、ここには朝食があった。

 部屋があった。

 失敗しても、次があった。

 

 天音は小さく息を吸った。

 

「……黒瀬迅」

 

「あ?」

 

「明日、洗濯機の使い方を教えなさい」

 

 食堂にいた全員が、微妙な顔をした。

 

 小春が言う。

 

「明日ですか?」

 

「ええ。電子レンジの次は洗濯機ですわ」

 

 灯莉が少し心配そうに言った。

 

「泡、出るよ?」

 

「泡くらい、わたくしに制御できないはずがありません」

 

 千隼が笑った。

 

「それ、失敗する奴の台詞じゃん」

 

「失礼ですわね!」

 

 律が紙パックのコーヒーを飲みながら呟く。

 

「洗剤量と水量の関係を理解すれば失敗率は下がる」

 

「律さん、後で詳しく教えてくださいませ」

 

「いいよ」

 

 迅が深くため息を吐いた。

 

「洗濯機相手に作戦会議すんな」

 

「相手を知ることは大切ですわ」

 

「相手は洗濯機だ」

 

「油断は禁物です」

 

「電子レンジで変な自信つけやがった……」

 

 小春と灯莉が笑う。

 

 千隼もつられて笑い、律が静かに頷く。

 

 その時、廊下の向こうから、くすりと笑う声がした。

 

「洗濯機に挑む令嬢なんて、長く生きていてもなかなか見ないわね」

 

 壁にもたれるようにして、朽木硝子(くちき・しょうこ)が立っていた。

 

 いつの間にそこにいたのか、足音は聞こえなかった。鏡から出てきたのか、廊下を歩いてきたのかも分からない。

 

「見世物ではありませんわ」

 

「ええ。挑戦者ね」

 

「言い方!」

 

 硝子は楽しそうに目を細めた。

 

「いいんじゃない。洗濯機でも電子レンジでも、勝てるものから勝っていけば」

 

 天音は言い返しかけて、少しだけ黙った。

 

 からかわれているのは分かる。

 

 けれど、今の言葉には、不思議と嫌な響きがなかった。

 

「……当然ですわ」

 

 天音は胸を張った。

 

「わたくしに攻略できない家電などありません」

 

「おい、洗濯機壊すなよ」

 

 迅が台所から低い声を飛ばす。

 

「壊しませんわ!」

 

 月見荘の夕方は、騒がしい。

 

 天音はその騒がしさの中で、自分の胸の奥にあった警戒が、ほんの少しだけ緩んでいることに気づいた。

 

 それが良いことなのか、悪いことなのかはまだ分からない。

 

 けれど少なくとも、今は。

 

 この場所で洗濯機に挑む明日を、少しだけ考えてもいい気がした。

 

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