蚊も殺せない結界
洗濯機は、思っていたよりも強敵だった。
電子レンジには、ボタンが多かった。
だが、洗濯機には水がある。
水。
それはつまり、失敗した時の被害範囲が広いということだった。
朝食後。
昨日、電子レンジを攻略した自分に隙はない。そう言いたいところだったが、目の前の洗濯機は、電子レンジとはまた違う圧を放っている。
白い本体。古い操作盤。洗濯、すすぎ、脱水。水量。標準。お急ぎ。毛布。槽洗浄。
またしても、選択肢が多い。
しかも今回は、間違えれば衣類が駄目になるかもしれない。
いや、今着ているのは借り物の灰色のスウェットである。九条家の娘らしさは、かなり薄れている。だが、それとこれとは別だった。
「……相手に不足はありませんわ」
「洗濯機相手に何言ってんの」
横で
「律さん」
「何?」
「なぜメモを取る構えなのです?」
「初めて洗濯機を使う旧家令嬢の反応記録は、生活適応の観察例として面白い」
「観察しないでくださいませ!」
「なら、支援に切り替える」
「最初からそうなさい!」
天音は洗濯かごを見る。
中に入っているのは、昨日まで着ていた借り物の服と、
失敗しても被害が少ないもの。
そう言われた時点で、すでに信用されていない気がする。
「じゃあ、まず洗濯物を入れてみよっか」
小春が言う。
「それくらい分かりますわ」
天音は洗濯機の蓋を開け、洗濯物を入れた。
ここまでは問題ない。
「次は洗剤だね」
「ええ」
天音は洗剤の箱を受け取る。
箱の裏には、使用量の目安が書いてある。水量三十リットルなら何杯、四十五リットルなら何杯。なるほど、これは分かりやすい。電子レンジよりもずっと合理的だ。
天音は付属のスプーンを手に取り、慎重に洗剤をすくった。
山盛り。
「多い多い」
小春が即座に止めた。
「まだ入れておりませんわ」
「入れる前に止めたんだよ」
「なぜですの。多い方がよく落ちるのでは?」
「泡が増えます」
灯莉が神妙な顔で頷いた。
「泡は怖いよ、天音ちゃん」
「経験者の顔ですわね」
「経験者だからね」
「洗剤は一定量を超えると、すすぎの効率が落ちる」
律が補足した。
「つまり、多ければいいわけではない」
「……なるほど」
天音は洗剤を少し戻した。
だが、今度は少なすぎる気がする。
スプーンの中の白い粉を見つめながら、天音は眉を寄せた。
「この程度で、本当に汚れが落ちますの?」
「落ちるよ」
「本当に?」
「落ちるってば」
「九条家の礼装についた墨汚れでも?」
「それは先に言ってほしいかな」
「今回はついておりません」
「じゃあ大丈夫」
小春の声は柔らかかった。
だが、譲る気はないらしい。笑顔のまま、天音が洗剤を増やそうとする手をしっかり見張っている。
天音は渋々、適量の洗剤を入れた。
次に水量を選ぶ。
標準コースを選ぶ。
最後にスタートボタン。
電子レンジの時と同じように、天音は一度深く息を吸った。
指先でボタンを押す。
低い音がして、洗濯機が動き始めた。
水が注がれる音。中で衣類が回る音。蓋の向こうで、生活の機械が淡々と働き始める。
天音はしばらく見つめていた。
「動きましたわ」
「動いたね」
小春が頷く。
「爆発は?」
「しないよ」
「水が溢れる可能性は?」
「今のところはないかな」
「怪異化は?」
「しないって」
「では、勝利ですわね」
「まだ洗い始めたところだよ」
灯莉が笑った。
天音はむっとしたが、洗濯機から目を離せなかった。
機械が働いている。
自分が入れた洗剤と、自分が押したボタンで、衣類が洗われている。
それだけのことなのに、妙な達成感があった。
九条家では、こんなことを達成と呼ぶ者はいなかっただろう。衣類を洗うことなど、使用人の仕事だと言われたはずだ。あるいは、そんなことも知らないのかと笑われただろう。
けれど月見荘では、灯莉が笑い、小春が見守り、律が余計な観察をし、そして迅が台所から声を飛ばしてくる。
「壊すなよ」
「壊しておりません!」
「ならいい」
「信用がありませんわね!」
「昨日、電子レンジと決闘してた奴を信用しろって方が無理だろ」
「決闘ではありません。攻略です」
「どっちでもいい」
迅の声は雑だった。
だが、台所から出てこない。
任せている、ということなのかもしれない。あるいは、単に朝食の片付けで忙しいだけかもしれない。
どちらにせよ、天音は少しだけ背筋を伸ばした。
「見ていなさい、黒瀬迅」
「あ?」
「わたくしは洗濯機も攻略しますわ」
「だから壊すなって言ってんだよ」
◇
洗濯機との戦いは、最終的に天音の勝利で終わった。
途中、脱水の音に驚いて一歩下がったり、蓋を開けて中を確認しようとして小春に止められたり、洗い終わった洗濯物を取り出す時にタオルが絡まって苦戦したりはした。
だが、洗濯物は洗えた。
泡も溢れなかった。
水浸しにもならなかった。
つまり勝利である。
天音は洗い終わったタオルを両手で持ち、物干し場へ向かった。
月見荘の裏手には、小さな庭と物干し台がある。庭と言っても、手入れの行き届いたものではない。隅には伸びた草があり、古い鉢植えがあり、用途のよく分からない木箱が置かれている。
けれど、雨上がりの空気は悪くなかった。
土の匂いがする。
濡れた木の匂いがする。
古い住宅街の向こうから、遠く車の音が聞こえる。
天音は洗濯かごを置き、物干し竿を見上げた。
「……高いですわね」
「踏み台使う?」
灯莉が聞く。
「不要です。届きます」
天音は背伸びをした。
届かない。
もう一度、背伸びをする。
届かない。
灯莉がそっと踏み台を差し出した。
「……使って差し上げますわ」
「うん」
「笑っていません?」
「笑ってないよ」
「声が笑っていますわ」
「気のせいだよ」
天音は踏み台に乗り、タオルを干した。
意外と難しい。
真っ直ぐかけたつもりでも、少し傾く。洗濯ばさみで留めようとすると、片方が落ちる。風が吹けば布が揺れる。水を含んだタオルは思ったより重い。
生活というものは、どうしてこうも細かいところで天音の知らない動きを要求してくるのか。
それでも、何枚か干すうちに少しずつ形になってきた。
「お、いい感じいい感じ。最初の一枚より、だいぶ真っ直ぐになったね」
小春が隣で別のタオルを干しながら言った。
「当然です。一度理解すれば、この程度」
「最初の一枚、なかなか芸術的な斜め具合だったけどね」
「成長の過程ですわ」
「便利な言葉覚えたねえ」
「ええ。今覚えました」
灯莉が声を上げて笑った。
その時、天音の足元に小さな虫が飛んできた。
蚊だった。
雨上がりの庭に、細く高い羽音が混じる。
灯莉が「あ」と顔をしかめる。
「出た」
「蚊ですか」
「この時期、雨上がりだと多いんだよね。月見荘の庭、草も多いし」
灯莉は手で払った。
だが、別の蚊が腕のあたりへ寄ってくる。
小春も尾を揺らしながら眉を寄せた。
「草、そろそろ刈らないとだねえ」
「迅さんがやるんですの?」
「迅さんがやると、庭ごと更地になりかねないからなあ」
「なぜですの」
「面倒くさがって、すぐ力技にしようとするから」
小春は当然のように言った。
灯莉も、否定するどころか真顔で頷いている。
「黒瀬迅は、草刈りで庭を更地にする方なのですか……?」
「やりかねない人ではあるかな」
灯莉が答えた。
「やりかねないんですのね……」
天音はまだ、迅が何者なのかを知らない。
火もつけていない煙草の先を焦がしたこと。壁に、人とは思えない影が映ったこと。その程度しか分かっていない。
けれど月見荘の住人たちが、小春の言葉を誰一人として冗談扱いしていないことだけは分かった。
蚊がまた一匹、天音の手元に寄ってきた。
天音は反射的に指を動かした。
術式を編む。
大きなものではない。
符も、陣も、道具も要らない。指先と呼吸だけで組める、ごく小さな結界。
天音の指先に、薄い光が走った。
それはほんの一瞬だけ、空気の表面を撫でるように広がる。
庭の物干し場を包むほどの、小さな膜。
強い術ではない。
人外を退けることはできない。怪異を封じることもできない。まして、戦いになど使えない。
けれど、蚊や小さな羽虫を寄せつけない程度ならできる。
羽音が遠ざかった。
灯莉が瞬きをする。
「あれ?」
小春も尾を揺らしながら辺りを見回した。
「虫、いなくなった?」
「……虫よけの結界ですわ」
天音は、何でもないことのように言った。
言ったつもりだった。
だが、声は思ったより硬かった。
灯莉がぱっと顔を明るくする。
「え、すごい! 本当に蚊が来ない!」
「すごくありません」
天音は即座に言った。
「この程度、九条家では術とも呼べませんわ。虫を寄せつけないだけです。蚊も殺せない結界ですもの」
言い慣れた言葉だった。
何度も言われた言葉だった。
綺麗なだけの術。
実戦では役に立たない。
蚊も殺せない結界。
天音は、自分で言ってから胸の奥が少し冷えるのを感じた。
月見荘の庭は、さっきまでより静かだった。
羽音が消えている。
風に揺れる洗濯物の音だけがする。
灯莉は自分の腕を見た。さっきまでまとわりついていた蚊が、もう近寄ってこない。
「いや、めちゃくちゃ助かるよ。私、ほんとに刺されやすいんだよね」
「怪異にも好かれて、虫にも好かれるのですか?」
「そうなんだよ。自分でも困ってる」
「体質として問題が多すぎませんこと?」
「私もそう思う」
灯莉は笑いながら、天音の張った結界の内側で手を振った。
「でも、本当に来ない。これすごいよ」
「だから、すごくは」
「これ、かなり助かるよ」
小春が物干し竿にタオルをかけながら言った。
灯莉のように声を上げて喜ぶのではなく、結界の端を確かめるように目を細めている。
「月見荘、夏場は虫が多いからねえ。台所の窓とか、物干し場とか、毎年ちょっと困ってたんだ」
「この程度で、ですの?」
「この程度じゃなくて、今ほしいものにぴったりってこと」
「……」
「人外を祓う結界が必要な時もあるだろうけど、今困ってたのは蚊だからね」
小春は柔らかく笑った。
「だから、ちゃんと役に立ってるよ」
役に立っている。
その言葉は、天音の胸の内側で妙に大きく響いた。
何かを返さなければと思う。
違いますわ、と言うべきだと思った。大したことではありません、と笑うべきだと思った。九条家の娘としては、この程度で喜ぶべきではないのだと、いつものように胸を張るべきだと思った。
けれど、声が出なかった。
代わりに、天音は洗濯ばさみを握る。
「……当然ですわ」
ようやく出た言葉は、いつも通りの強がりだった。
「この程度、わたくしにかかれば造作もありません」
「じゃあ、あとで台所にもお願いしていい?」
灯莉がすぐに食いついた。
「台所?」
「夕方になると、小さい虫が窓の方に来るんだよね。ご飯の時に飛んでくると、すごく嫌で」
「……まあ、そこまで言うなら、張って差し上げてもよろしいですわ」
「やった!」
灯莉が素直に喜ぶ。
「じゃあ台所の方は、窓枠だけでいいかな。無理しない範囲でお願いね」
小春が付け加えた。
「無理などしておりません」
「うん。ならよかった」
小春はそれ以上踏み込まず、また洗濯物へ手を伸ばした。
天音は顔を背ける。
顔が少し熱かった。
◇
夕方。
台所の窓辺に、天音の小さな結界が張られた。
物干し場で使ったものより、さらに小さい。窓枠に沿うように薄く張っただけの結界だ。外から入ってくる小さな羽虫を避ける程度のもので、術として見れば本当に弱い。
だが、効果はあった。
窓の外では小さな虫が灯りに寄ってきているのに、内側へは入ってこない。網戸の隙間に向かっていた虫も、途中で進路を変えるように離れていく。
「すごい。ちゃんと避けてる」
灯莉は窓際で、虫の動きを飽きずに見ていた。
「だから、すごくありません」
「でも、これで夕飯中に虫が飛ばないよ」
「……それは、まあ」
天音は言い淀んだ。
台所では迅が夕飯の支度をしていた。
今日の夕飯は、鶏肉と野菜の煮物らしい。鍋から出汁と醤油の匂いが立ち上っている。横では小春が米をよそい、律が律儀に箸を並べている。
天音は台所の隅で、窓辺の結界を見ていた。
あまり見られたくない。
けれど、誰かが気づいてくれないのも、それはそれで落ち着かない。
自分でも面倒な感情だと思う。
「おい」
迅の声がした。
天音は肩を跳ねさせる。
「何ですの?」
「それ、どれくらい保つ」
「……この程度の結界なら、半日ほどですわ。強度を上げれば一日程度は保ちますけれど、そこまでするほどではありません」
「ふうん」
迅は鍋をかき混ぜながら、窓辺を見た。
それだけだった。
何か言うわけでもない。
褒めるわけでも、けなすわけでもない。
天音は少しだけ落ち着かなくなる。
「何ですの」
「いや」
「言いたいことがあるならおっしゃい」
「便利だなと思っただけだ」
天音は固まった。
迅は特に大きな反応を期待していないらしい。鍋の火加減を見て、蓋を少しずらしている。
便利。
さっき小春にも言われた言葉。
九条家なら、きっと言われなかった言葉。
天音は唇を結んだ。
「……便利、ですか」
「ああ」
「この程度の術が?」
「虫入ってこねえなら便利だろ」
「人外には通じませんわ」
「今は虫の話してんだよ」
迅は当然のように言った。
「人外相手に使えねえから何だ。飯食う時に虫が入ってこねえなら、それはそれで役に立つ」
「……」
「役に立つもんを、いちいち役立たずみてえに言うな。ややこしい」
天音は何も言えなかった。
その言い方は、ひどく乱暴だった。
けれど、胸の奥にある固いものを、無理やりこじ開けられたような気がした。
役に立つものを、役立たずみたいに言うな。
そんなことを言われたのは、初めてだった。
「……わたくしは」
天音は言いかけて、止まる。
九条家で何を言われてきたのか。
なぜ自分が、この程度の術を馬鹿にするようになったのか。
どうして帰りたくないのか。
言おうと思えば、言えたかもしれない。
だが、喉が詰まった。
まだ、言えない。
迅は無理に続きを促さなかった。
ただ、鍋を混ぜながら言う。
「言いたくねえなら言わなくていい」
「……」
「でも、自分の術を馬鹿にすんな。聞いてて飯がまずくなる」
「そこですの?」
「そこだ」
天音は少しだけ笑いそうになった。
だが、うまく笑えなかった。
代わりに、小さく息を吐く。
「……覚えておきますわ」
「そうしろ」
迅はそれ以上何も言わなかった。
台所には、煮物の匂いが満ちている。窓の外では、羽虫が灯りに引かれて飛んでいるが、結界の内側には入ってこない。
天音はその光景を見ていた。
自分の術が、そこにある。
弱くて、小さくて、蚊も殺せない結界。
けれど今、それは月見荘の夕飯を守っていた。
◇
夕飯の時間になると、天音の結界はすぐに住人たちへ知れ渡った。
「虫が入ってこないって、地味にありがたいな」
千隼が窓辺を見ながら言った。
「地味とは何ですの」
「褒めてる」
「褒め言葉に聞こえませんわ」
「じゃあ、実用的?」
「それなら、まあ」
「扱い難しいな、お嬢様」
「あなたほどではありません」
千隼は笑った。
律は窓辺を眺めながら、感心したように言う。
「術式の構成はかなり綺麗だと思う。出力は低いけど、持続性と範囲指定が安定している。生活用の結界としては優秀」
「生活用……」
「うん。戦闘向きではないけど、生活向き」
天音は複雑な顔をした。
戦闘向きではない。
その言葉は、今でも胸に刺さる。
だが、生活向きと言われると、どう反応すればいいか分からなかった。九条家では評価されなかった方向に、律は当たり前のように価値をつけている。
「それは、褒めておりますの?」
「褒めている」
「分かりにくいですわ」
「改善する」
「改善できるのですか?」
「努力はする」
「律くんにしては、かなり褒めてる方だよ」
小春が笑いながら茶碗を並べる。
「そうなのですか」
「うん。たぶん本人の中では、満点に近い褒め方」
「満点ではない」
律が訂正した。
「まだ改善の余地はある」
「ほら、そういうところ」
小春が肩をすくめる。
その時、廊下の方から涼やかな声がした。
「いいじゃない。蚊も殺せない結界」
振り返ると、
いつの間に来たのか分からない。足音は聞こえなかった。鏡から出てきたのか、廊下を歩いてきたのかも分からない。
硝子は窓辺の結界を見て、薄く笑う。
「殺さないで遠ざけるなら、後始末も要らないもの」
「……馬鹿にしていますの?」
「褒めているのよ」
「その言い方で?」
「私なりに」
硝子は食堂の壁に背を預ける。
「強い術だけが便利なわけじゃないわ。壊す術、祓う術、封じる術。そういうものは派手だけれど、毎日の暮らしには向かない。暮らしには、壊さない術の方が合うこともある」
天音は硝子を見た。
硝子の声は、からかうようでいて、どこか静かだった。
「……壊さない術」
「ええ。あなたらしいんじゃない?」
「わたくしらしい?」
「少なくとも、迅よりは台所向きね」
「おい、聞こえてんぞ」
迅が台所から言った。
「聞かせているのよ」
「うるせえ鏡女」
「竜に台所を任せている時点で、この家も相当変だけれど」
天音は、ぴたりと動きを止めた。
「今、竜と」
食堂の空気が一瞬だけ止まる。
硝子は迅を見る。
迅も硝子を見る。
「……比喩よ」
硝子が何事もなかったように言った。
「柄が悪くて、頑固で、食べ物にうるさい男を竜に喩えただけ」
「ずいぶん具体的な比喩ですわね」
「そうかしら」
硝子は微笑んだ。
迅は深く息を吐き、鍋をテーブルへ運ぶ。
「くだらねえこと言ってねえで座れ。飯だ」
天音はまだ少し引っかかったものを感じたが、皆が平然としているせいで、それ以上は聞けなかった。
竜。
昨夜、壁に映った黒い影を思い出す。
けれど、確かなことは何も分からない。
天音は一度だけ迅の背中を見てから、窓辺の結界へ視線を戻した。
壊さない術。
そんな言い方をされたのも、初めてだった。
九条家では、足りない術だった。
弱い術だった。
実戦に耐えない術だった。
けれど、月見荘では違う名前がつく。
便利な術。
生活向きの術。
壊さない術。
言葉が変わるだけで、こんなにも見え方が変わるのか。
天音は窓辺の結界を見る。
薄く、弱く、ほとんど誰にも見えない膜。
それでも、そこにある。
「……なら」
天音は小さく言った。
皆の視線が集まる。
天音は少しだけ胸を張った。
「明日の朝まで保つように、少しだけ強度を上げておきますわ」
灯莉が顔を明るくした。
「ほんと?」
「ええ。夕飯中だけでは不十分でしょう。朝も虫が入る可能性がありますもの」
「助かる!」
「無理はしなくていいからね」
小春が穏やかに付け加える。
「しておりませんわ。わたくしが張る以上、中途半端な結界にはしません」
「お、出た。お嬢様の自信」
千隼が茶化す。
「自信ではありません。責任感です」
「言い方の問題じゃねえ?」
「大事ですわ」
天音は指先を上げる。
台所の窓辺に張った小さな結界へ、ほんの少しだけ術式を足す。光は薄く、すぐに消えた。けれど、結界は確かに安定した。
律が小さく頷く。
「補強も綺麗」
「当然ですわ」
天音は今度こそ、少しだけ笑えた。
ほんの少しだけ。
だが、それは強がりだけではなかった。
「飯だ」
迅の一言で、食堂の空気が一気に動いた。
灯莉が席に着き、小春が茶碗を配り、千隼が真っ先に箸を取ろうとして迅に睨まれ、律が煮物の匂いを分析しようとして小春に止められた。硝子は壁際からふらりと席へ近づき、当然のように湯呑みを手に取る。
騒がしい。
雑で、まとまりがなくて、九条家の食卓とは比べものにならない。
けれど、窓辺には天音の結界があった。
虫は入ってこない。
誰かがそれを当たり前のように受け入れている。
天音は席に着きながら、そっと指先を握った。
蚊も殺せない結界。
そう呼ばれてきた術が、今夜の月見荘の食卓を守っている。
それは、とても小さなことだった。
けれど天音には、まだうまく飲み込めないほど、大きなことだった。