黒竜の影
翌日の夕食も、
「千隼。人の煮物を取らないでくださる?」
「一個だけだろ」
「その一個が、わたくしのですわ!」
「鶏肉一個くらいで騒ぐなよ、お嬢様」
「人のものを奪った側が言うことではありません!」
「もう食った」
「
「何でフルネーム!?」
千隼は悪びれもせず、奪った鶏肉を白米と一緒に飲み込んでいる。返せと言われても、すでに腹の中ではどうしようもない。
天音が箸を握ったまま睨んでいると、隣に座る
「私の一個あげよっか?」
「結構です。小春さんの分まで減らす必要はありませんわ」
「遠慮しなくてもいいのに」
「遠慮ではありません。奪った本人に反省させることが重要なのです」
「してるしてる」
千隼が軽い調子で言う。
「顔に出ておりません」
「心の中ではしてる」
「その心、ずいぶん深いところにあるようですわね」
天音と千隼が睨み合う横で、
そこには天音が張った虫よけの結界がある。朝に一度張り直したため、今夜も窓の外に集まる小さな羽虫は、見えない膜を避けるように進路を変えていた。
「持続時間は安定している」
「食事中まで観察しないでくださいませ」
「食事と観察は両立できる」
「しなくてよろしいです」
「術式そのものには干渉していないから、問題はないと思う」
「問題があるのは、律さんの会話の方ですわ」
律は少しだけ首を傾げた。
天音はため息をつきながらも、もう一度窓辺を見る。
自分の結界が、今日もそこにある。
戦いには使えない。人外も怪異も退けられない。
それでも月見荘では、誰も虫を気にせずに食事をしていた。
昨日ほど露骨に褒められることもない。灯莉も、小春も、すでに結界があることを当然のように受け入れている。
天音には、その方が少しくすぐったかった。
特別なこととして持ち上げられるのではなく、この場所で使われるものの一つになっている。それが嬉しいのだと認めるには、まだ少し抵抗があった。
「何ぼんやりしてんだ」
低い声が飛んできた。
振り返ると、
「ぼんやりなどしておりません」
「箸止まってたぞ」
「考え事ですわ」
「飯食ってる時に考え込むな。冷める」
迅は空いた場所に鍋を置くと、天音の皿を見た。
先ほど千隼に奪われたせいで、煮物の中から鶏肉だけが一つ減っている。
「肉ねえな」
「そこの烏天狗に奪われました」
「一個だけだって」
「一個でも窃盗は窃盗です」
「物騒な言い方すんなよ」
「人の皿から勝手に取るからですわ」
迅は千隼へ呆れた視線を向けた後、鍋から鶏肉を一つ取って天音の皿へ入れた。
「ほら」
「……子ども扱いしないでくださいませ」
「肉一個取られて騒いでた奴が言うな」
「騒いでいたのではなく、今後の秩序のために抗議していたのです」
「はいはい」
「はいは一回でよろしいですわ」
「はい」
「本当に一回にするなと、以前も言いましたわよね!?」
食堂に笑いが起きる。
天音は顔を赤くしながら、追加された鶏肉へ箸を伸ばした。中まで味が染みていて、噛むと出汁の香りが広がる。
やはり美味しい。
それを口に出すのは悔しいので、天音は何も言わずに白米を食べた。
迅も感想を求めなかった。
いつもの食卓だった。
◇
夜半。
天音は喉の渇きで目を覚ました。
枕元の水差しへ手を伸ばしたものの、中は空になっていた。寝る前、小春や灯莉と話している間に飲み切っていたことを思い出す。
部屋は暗く、窓の外から差し込む月明かりだけが、古い畳の上に薄い形を作っていた。
天音はしばらく布団の中で迷った。
朝まで我慢できないほどではない。けれど一度意識すると、乾いた喉が余計に気になってくる。
仕方なく起き上がり、灰色のスウェットの上に薄い上着を羽織った。
古い木の扉を開けると、二階の廊下には夜の冷たい空気が溜まっていた。壁際に置かれた大きな姿見には、薄暗い廊下が奥まで映っている。
いつもなら、どこかに
「硝子さん?」
小さく呼んでみたが、返事はない。
怪異にも睡眠が必要なのか、それとも今は別の鏡へ移動しているのか。天音には判断がつかなかった。
階段へ向かうと、足元で古い床板がわずかに軋んだ。
九条家の屋敷は、夜になると音を失った。
使用人たちは足音を立てず、扉を閉める時にも細心の注意を払っていた。広い屋敷の中に大勢の人間がいるはずなのに、誰もいないような静けさだけが残っていた。
月見荘は違う。
建物そのものが呼吸するように木が鳴り、どこかの部屋で住人が寝返りを打つ。風が吹けば窓枠が震え、配管の奥を流れる水の音が壁越しに聞こえてくる。
人が暮らしている音だった。
だからこそ、一階へ下りた天音は、そこに混ざった異質な音へすぐに気づいた。
がり。
裏口の方から、硬いものが木を引っ掻く音がした。
天音は階段の途中で足を止める。
少し間を置いて、また同じ音が響いた。
がり、がり。
猫や野良犬が立てる音よりも重く、一定の間隔で同じ場所を削っている。中へ入ろうとして、扉の弱い部分を探しているようにも聞こえた。
天音は息を潜めながら、残りの階段を下りた。
食堂には誰もいない。台所も暗く、冷蔵庫の動作音だけが低く続いている。
裏口へ近づくにつれて、湿った息遣いが混じり始めた。
何かがいる。
九条家で叩き込まれた知識が、天音の中で勝手に組み上がっていく。
夜間に人家へ近づき、戸口を繰り返し引っ掻くもの。音に一定の意思があり、内部へ侵入しようとしている。
低級怪異か、獣に近い妖。
少なくとも、普通の動物ではない。
天音は指を組んだ。
害意を弾くほどの強い結界は張れない。それでも音を和らげたり、扉の隙間を塞いだりする程度ならできる。住人を起こすまでの時間を稼ぐことくらいは――。
「何してんだ」
背後から声をかけられ、天音は肩を大きく跳ねさせた。
「ひゃっ……!」
振り返ると、階段の下に迅が立っていた。
黒いシャツに部屋着のズボンという格好で、髪も少し乱れている。眠っていたところを起きてきたらしいが、足音はほとんど聞こえなかった。
「驚かせないでくださいませ!」
「勝手に驚いたんだろ」
「夜中に背後から声をかければ、誰でも驚きますわ!」
「叫ぶな。向こうに気づかれる」
迅が裏口へ目を向ける。
その一言で、天音も声を抑えた。
「外に、何かおります」
「見りゃ分かる」
「なら、ほかの方も起こした方が」
「必要ねえ」
迅は天音の横を通り、裏口の前に立った。
いつもは気怠そうに細められている目から眠気が消え、扉の向こうにあるものだけを見据えている。
「二階へ戻れ」
「わたくしにも、できることがあります」
天音は組んでいた指を見せた。
「強いものではありませんが、簡単な結界なら――」
「弱いから戻れって言ってんじゃねえ」
迅は扉を見たまま答えた。
「お前が出る必要がねえから戻れって言ってんだ」
「ですが、月見荘の中へ入られたら」
「入れねえよ」
扉の向こうで、何かが深く息を吐いた。
獣に似た湿った音の奥に、細い人の声が重なる。
――あけて。
天音の背筋を冷たいものが走った。
裏口の下にあるわずかな隙間から、白い指が一本差し込まれてくる。
人間の指に似ていたが、関節の数が明らかに多い。濁った皮膚の下で細い骨が不自然に折れ曲がり、その先についた黒い爪が、扉の内側を探るように動いていた。
「……あれは」
「見るな」
迅が天音の前へ身体を入れ、視界を遮った。
先ほどまで部屋着姿の管理人にしか見えなかった背中が、今は裏口そのものを塞ぐ壁のように見えた。
「二階へ戻れ。鍵かけてろ」
「黒瀬迅」
「終わったら声かける」
反論を許さない声だった。
怒鳴られてはいない。それでも、ここに残るなという意思だけは嫌というほど伝わった。
天音は唇を結んだ。
「……分かりましたわ」
そう答えた直後、扉が大きく震えた。
向こうにいたものが、全身をぶつけたらしい。木枠が軋み、差し込まれていた指がさらに深く入り込んでくる。
迅は天音が階段へ向かったことを確認すると、裏口の取っ手へ手をかけた。
天音は二段目まで上がったところで、思わず振り返る。
迅が扉を開けた。
冷たい夜気とともに、白い腕が内側へ伸びてくる。濡れた黒髪の隙間から細長い首が覗き、その先についた女の顔が、四つん這いの身体を引きずるようにして裏口へ押し入ろうとした。
人間に似てはいる。
けれど、人間ではなかった。
迅は伸びてきた腕を避けることもなく、怪異の顔を片手で掴んだ。
鈍い音とともに、怪異の身体が扉の外へ押し戻される。そのまま迅は裏庭へ出ると、天音が立つ場所へ怪異が入り込まないよう、背中で裏口を塞いだ。
扉が閉まる。
天音は階段の途中に取り残された。
戻れと言われた。
部屋に入り、鍵をかけるべきだった。
それが正しい。
けれど、天音の足は二階へ向かわなかった。
外から地面を擦るような音が聞こえる。続いて何かが叩きつけられ、土が低く震えた。
天音は階段を下りた。
自分でも、なぜ命令に逆らったのか分からなかった。
心配だったのかもしれない。
迅が何者なのか確かめたかったのかもしれない。
火もつけずに煙草の先を焦がした指。雨の夜、天音を抱えて裏口へ運んだ迅の背後に一瞬だけ浮かんだ、獣のような黒い影。硝子が比喩だと言い張った「竜」という言葉。
見なければならないと思った。
天音は裏口へ近づき、音を立てないように扉をわずかに開けた。
細い隙間から、月明かりに照らされた裏庭が見える。
怪異は地面へ伏せていた。
女に似た上半身から異様に長い四肢が伸び、黒い爪が土を掻いている。細長い首を持ち上げた怪異は、口を大きく裂くと、向かいに立つ迅へ再び飛びかかった。
迅は避けなかった。
怪異の爪が、右腕へ振り下ろされる。
肉を裂く音を覚悟した天音の耳に届いたのは、硬い金属同士をぶつけたような甲高い音だった。
迅の腕を覆っていたのは、皮膚ではない。
指先から肘の上まで、濡れた夜のような黒い鱗がびっしりと浮かび、その先では人間のものより鋭く伸びた爪が、怪異の腕を掴み止めていた。
顔を上げた迅の瞳には、獣じみた赤い光が宿っている。
天音は息をすることさえ忘れた。
迅が怪異の腕を引く。
四つん這いの身体が宙へ浮き、そのまま地面へ叩きつけられた。土が沈み、怪異の喉から甲高い悲鳴が漏れる。
それでも怪異は動きを止めず、もう片方の腕を迅の首へ伸ばした。
次の瞬間、迅の背中から黒いものが開いた。
肩甲骨のあたりから太い骨組みが伸び、その間を黒い皮膜が埋めていく。片側だけ現れた大きな翼が月明かりを遮り、月見荘の壁に人間ではあり得ない影を落とした。
雨の夜、天音が意識を失う前に見た黒い影。
あれは、熱に浮かされた自分が見た幻ではなかった。
迅が翼を振るうと、裏庭の空気が爆ぜた。
怪異の身体は地面を離れ、庭の隅まで吹き飛ばされる。古い木箱が砕け、その破片と土埃が周囲へ散った。
扉の隙間から覗いていた天音の髪も、吹き込んだ風に大きく揺れる。
迅が振り返った。
赤い目が、天音を捉える。
天音は一歩、後ろへ下がった。
考えるより先に、身体が動いていた。
目の前にいるものは、人間ではない。
九条家で繰り返し教え込まれてきた、人外だった。
人とは異なる身体を持ち、人間を簡単に壊せる力を持つもの。警戒し、性質を見極め、必要なら封じ、討つべきもの。
怖い。
胸の奥から湧き上がった感情を、天音は否定できなかった。
迅の表情から、わずかに力が抜けた。
怒ったのではない。
天音を責めるような顔でもなかった。
ただ、そうなることを最初から知っていたような、妙に乾いた諦めが浮かんでいた。
「……見んなっつっただろ」
声は、いつもの迅のものだった。
けれど、普段よりも遠く聞こえた。
迅の腕を覆っていた黒い鱗が、ゆっくりと皮膚の下へ沈んでいく。背中の翼も形を崩し、夜の暗がりへ溶けるように消えた。
瞳から赤い光が失われる。
そこに立っているのは、いつもの柄の悪い管理人だった。
右袖は怪異の爪で裂かれていたが、その下の腕には傷一つ見当たらない。
「二階戻れ」
迅は天音から視線を外した。
「残り片付ける」
「……黒瀬、迅」
「いいから」
倒れていた怪異が、木箱の破片の中で身じろぎする。
まだ動けるらしい。
迅はそちらへ向き直った。
天音は裏口に立ったまま、動くことができなかった。
違うと言いたかった。
後ろへ下がったのは、迅を拒絶したからではないと伝えたかった。
だが、怖くなかったと言えば嘘になる。
喉の奥が震え、言葉にならない。
「……ごめんなさい」
ようやく出た声は、あまりにも小さかった。
迅の足が一瞬だけ止まる。
それでも振り返らなかった。
「謝んな」
「ですが、わたくしは」
「怖ぇなら、それでいい」
責める響きはなかった。
だからこそ、その言葉が天音の胸に深く刺さった。
「よくありません」
「何が」
「分かりません」
天音は握った手を胸元へ押し当てた。
「何と言えばいいのかも、分かりません。ですが……それでいいとは思えませんわ」
迅はしばらく黙っていた。
裏庭には怪異が土を掻く音だけが続いている。
やがて迅は面倒くさそうに頭を掻いた。
「今は考えなくていい」
「でも」
「夜中だぞ。寝ろ」
「そういう問題では――」
「明日、顔見て無理そうなら食堂来なくていい。飯は部屋の前に置く」
天音は目を見開いた。
「なぜ、そうなりますの?」
「俺が怖ぇなら、無理して同じ部屋で飯食う必要ねえだろ」
「わたくしは、そこまで言っておりません」
「手ぇ震えてる奴が言うな」
指摘されて初めて、天音は自分の指先が震えていることに気づいた。
握り込んでも、完全には止まらない。
「……これは」
「無理すんな」
迅の声が少し低くなった。
「九条の人間が、人外見て怖がるのは普通だ」
「普通だからといって、正しいとは限りませんわ」
「別に正しいとも間違ってるとも言ってねえよ」
迅はそれ以上話すつもりがないように、怪異へ歩いていく。
「戻れ。今度こそな」
天音は呼び止められなかった。
迅は怪異の首元を片手で掴み上げ、そのまま庭の奥へ引きずっていく。細長い四肢が土の上を擦り、やがて暗闇の向こうへ消えた。
天音は一人、開いた裏口の前に残された。
◇
部屋へ戻っても、天音は眠れなかった。
布団に入って目を閉じるたび、暗闇の中に赤い瞳が浮かんでくる。黒い鱗に覆われた腕と、月明かりを遮った大きな翼も、鮮明に思い出せた。
怖かった。
それは否定できない。
迅は、人間ではなかった。
その腕力も、身体も、背中から現れた翼も、九条家で教えられてきた人外の特徴と重なる。天音程度の術では傷一つつけられず、その気になれば抵抗する間もなく殺されるだろう。
けれど迅は、天音へ爪を向けなかった。
裏口で怪異が入り込もうとした時も、天音の前に立って視界を塞いだ。外へ出る時には自分の背中で入口を塞ぎ、怪異が天音のいる場所へ向かわないようにしていた。
あの鱗も、翼も、赤い目も。
月見荘と、そこにいる天音を守るために現れたものだった。
頭では分かる。
それでも身体は後ろへ下がった。
迅は、それを見た。
「……最低ですわ」
天音は布団の端を握りしめた。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
九条家の教えを捨てきれない自分へなのか。
守られた直後に、守った相手を怖がった自分へなのか。
それとも、天音が怖がることを簡単に受け入れ、自分から距離を取ろうとした迅へなのか。
悔しくて、苦しくて、胸の奥が落ち着かなかった。
その時、扉の外で床板が小さく鳴った。
天音は顔を上げる。
足音はすぐに止まり、続いて何かが床へ置かれる控えめな音がした。
天音は布団から出ると、古い木の扉へ近づいた。
すぐには開けられなかった。
扉の向こうに迅がいるかもしれないと思うと、指先がまたわずかに震える。
それでも天音は取っ手を掴み、ゆっくりと扉を開けた。
廊下には誰もいなかった。
足元に、水の入ったコップが置かれている。
喉が渇いて一階へ下りたことを、迅は覚えていたらしい。
その横には小さな皿があり、切り分けられた林檎が数切れ並んでいた。
食欲がないと思ったのかもしれない。
あるいは、単に夜食として用意しただけかもしれない。
迅は何も言わず、姿も見せずに立ち去っていた。
怖がらせないために。
そう考えた瞬間、天音の胸がまた痛んだ。
「……黒瀬迅」
暗い廊下へ向かって呼びかける。
返事はない。
ただ、階段の方で古い床が一度だけ軋んだ。
まだ遠くには行っていない。
けれど、戻ってくることもなかった。
天音はコップを持ち上げる。
水は冷たかった。
いつもの水だった。
◇
翌朝。
天音は食堂へ下りるべきか、長い時間迷っていた。
迅は、無理なら来なくていいと言った。
食事は部屋の前へ置くとも言った。
ならば、ここにいればいい。
怖いものから距離を取り、性質が分かるまで警戒する。九条家で教えられた通りに考えれば、それが正しい選択だった。
ちゃぶ台の上には、昨夜の空になったコップと皿がある。
迅が置いていったもの。
怖がらせないよう、扉を叩くことすらしなかった男が置いたものだった。
天音はそれを見つめたまま、布団の上で膝を抱えた。
迅が人外であることと、迅がこれまで天音へしてきたことは、どちらも事実だ。
卵粥を作った。
部屋を用意した。
皿の洗い方を教えた。
電子レンジや洗濯機を使えなくても、追い出さなかった。
役に立つ術を、役立たずのように言うなと叱った。
そして昨夜、怪異から守った。
あの黒い翼だけを見て、それまでのすべてをなかったことにするのは、本当に正しいのだろうか。
答えは出ない。
怖さも消えていない。
それでも天音は、部屋の中に閉じこもったままでは何も分からないと思った。
立ち上がり、扉を開ける。
階段を下りるにつれて、食堂から住人たちの声が聞こえてきた。
「千隼、寝ながら食うな」
「寝てねえ」
「目開いてねえだろ」
「心の目で食ってる」
「朝飯で修行すんな」
迅の声だった。
昨夜と変わらない、柄の悪い管理人の声。
食堂の入口まで来た天音は、そこで足を止めた。
長いテーブルには、いつもの住人たちがいる。
灯莉はトーストへジャムを塗り、小春は湯呑みを両手で包んでいる。律は新聞を読みながら味噌汁を飲み、千隼は半分閉じた目で白米を口に運んでいた。
硝子は窓際の席で、朝の光を浴びる湯気を眺めている。
迅は台所に立っていた。
昨夜と同じ男だ。
けれど天音には、もうただの人間には見えない。
あの背中から黒い翼が現れた。右腕は鱗に覆われ、瞳は赤く光った。
思い出しただけで、足が少し竦む。
迅が振り返った。
目が合う。
食堂の音が、一瞬だけ遠くなったように感じられた。
迅は天音の顔と、入口から動かない足元を見た。
「朝飯、部屋に持ってく」
「待ちなさい」
天音は反射的に声を上げた。
迅の動きが止まる。
食堂にいた住人たちも、会話をやめて天音を見た。
天音はその視線に怯みそうになりながら、背筋を伸ばす。
「ここで食べますわ」
「無理すんな」
「無理などしておりません」
「手、震えてんぞ」
天音は自分の手を見る。
上着の裾を掴んでいる指が、わずかに震えていた。
隠せているつもりだった。
悔しかった。
それでも、食堂から逃げる理由にはしたくなかった。
「……震えていても、食事くらいできます」
「九条」
「怖くないとは言いません」
天音が口にすると、食堂の空気が静まった。
昨夜と同じように喉が乾く。
それでも今度は、目を逸らさなかった。
「昨夜のあなたは、怖かったです。普通の人間ではないことも分かりました」
「そうだな」
迅は否定しなかった。
「あなたがその気になれば、わたくしでは何もできないことも」
「……」
「ですが、あなたがわたくしを傷つけなかったことも分かっています。怪異を月見荘へ入れなかったことも、わたくしを先に逃がそうとしたことも」
「だから何だ」
「だから、分からないのです」
天音は正直に答えた。
「あなたの姿は怖い。ですが、あなたが怖い方だとは、まだ思えません」
「思いたくねえだけかもしれねえぞ」
「そうかもしれません」
迅を信じたいから、自分に都合よく考えているだけなのかもしれない。
それでも、最初から結論を決めてしまうよりはましだと思った。
「ですから、確かめます」
迅の眉がわずかに動いた。
「何を」
「あなたが何者なのか。どれほど危険なのか。何を考えて、わたくしたちをここに置いているのか」
「面倒くせえこと言い出したな」
「あなたが何も説明しないからでしょう!」
「聞かれてねえ」
「正体を尋ねれば、どうせ誤魔化しますわ」
「分かってんじゃねえか」
「開き直らないでくださいませ!」
思わず声を張ると、張り詰めていた食堂の空気がわずかに緩んだ。
灯莉が口元を押さえ、小春も安心したように小さく笑っている。
天音は一度息を整え、迅を見た。
「知らないまま怖がるのは、九条家で教わったことと同じですわ」
「警戒すんのは悪いことじゃねえぞ」
「ええ。ですから警戒はします」
「するのかよ」
「当然でしょう。あなたは危険ですもの」
迅が顔をしかめる。
天音は震える指を握り込んだ。
「怖さが消えるまでは、少し時間がかかると思います。ですが、部屋に閉じこもっていても、何も分かりません」
「……」
「ですから、ここで食べます」
「理屈になってねえ」
「わたくしの中ではなっております」
「頑固だな」
「あなたに言われたくありませんわ」
迅はしばらく天音を見つめた。
赤くない、いつもの目だった。
それでも、その奥に昨夜の光を思い出してしまう。天音の身体はまだ完全には安心していない。
「いいんじゃない」
窓際から、硝子が静かに口を挟んだ。
天音がそちらを見ると、硝子は湯呑みを手にしたまま、朝の光が差す窓へ目を向けていた。
「怖いなら、怖いままで。無理に消そうとすると、余計に目を離せなくなるものよ」
「硝子」
迅が低く呼ぶ。
「何かしら」
「余計なこと言うな」
「余計かどうかは、天音が決めることでしょう」
硝子はようやく天音を見た。
「迅が人間ではないことと、あなたに飯を作ったことは、どちらも本当。それだけ覚えておけば十分よ」
天音はすぐには答えられなかった。
「……硝子さんは、怖くありませんの?」
「迅が?」
「ええ」
硝子は少しだけ考えるように目を細めた。
「怖いわよ」
あまりにもあっさりと言われ、天音は目を瞬かせた。
「怖いものと一緒に暮らせないなら、私はとっくに月見荘を出ているわ」
「お前も大概怖ぇだろうが」
「お互い様ね」
硝子は涼しい顔で湯呑みに口をつけた。
張り詰めていた食堂の空気が、そこで少しだけ緩んだ。
迅は面倒くさそうに息を吐く。
「勝手にしろ」
「ええ。そうします」
迅は台所へ戻り、用意していた朝食を天音の席へ運んだ。
白いご飯。味噌汁。卵焼き。小さな焼き魚。
昨日までと変わらない朝食だった。
天音はいつもの席へ向かいかけ、足を止める。
その席は、迅が料理を運ぶ台所に比較的近い。
昨夜のことを思い出すと、すぐそばに座る勇気はまだなかった。
結局、天音は長いテーブルの端へ腰を下ろした。
迅から最も離れた席だった。
自分でも分かっている。
迅も気づいているだろう。
それでも、誰も何も言わなかった。
小春は天音に必要以上の気遣いを見せず、灯莉も無理に話しかけない。律は新聞へ視線を戻し、硝子は湯呑み越しに静かに天音を見ていた。
千隼だけは、半分眠ったまま天音の皿へ視線を送っている。
天音は箸を取った。
まだ少し指が震えている。
卵焼きを掴むのに一度失敗し、皿の上へ落とした。
「力入りすぎじゃね?」
千隼が眠そうな目のまま言った。
「黙って食べなさい」
「俺、親切で言ったんだけど」
「あなたの親切は信用できませんわ」
「昨日の鶏肉、まだ根に持ってんの?」
「当然です」
言い返す声は、思ったよりいつも通りに出た。
灯莉がほっとしたように笑い、小春も湯呑みの向こうで目を細める。
天音はもう一度箸を動かし、今度こそ卵焼きを口へ運んだ。
ほのかに甘い。
昨日までと同じ味だった。
黒い鱗を持つ腕で作られたのかもしれない。大きな翼を隠した男が焼いたものかもしれない。
それでも、この味まで嘘になるわけではなかった。
「……少し甘すぎますわ」
天音が言うと、台所にいた迅が振り返った。
「昨日は何も言わずに食ってただろ」
「昨日は昨日です。今日は少し甘い気分ではありませんの」
「面倒くせえ客だな」
「客ではありません。居候ですわ」
「威張るな」
「事実を述べただけです」
迅は呆れたように鼻を鳴らした。
けれど、部屋へ食事を運ぶとはもう言わなかった。
天音が座っているのは、迅から最も遠い席だった。昨夜までと同じ距離には、まだ戻れない。
怖さも消えていない。
迅が少し大きく腕を動かすだけで、黒い鱗を思い出す。背中を向けられれば、そこから翼が開く光景が浮かんでしまう。
それでも、天音は食堂にいる。
灯莉がパンを食べ、小春が湯呑みを傾け、律が新聞を読み、千隼が天音の焼き魚へ視線を向けている。
「今、わたくしの焼き魚を見ていましたわね」
「見ただけだろ」
「目が盗人のものでした」
「どんな目ですの、それ」
灯莉が笑う。
「わたくしが知りたいですわ!」
「いや、取らねえって。今日は」
「今日は?」
「明日は分かんねえ」
「やはり盗人ではありませんか!」
天音の声に、食堂のあちこちから笑いが返った。
「千隼」
迅が台所から低く呼ぶ。
「何すか」
「天音の皿に手ぇ出したら、明日の肉なしな」
「俺だけ!?」
「前科があるからだ」
「横暴だろ!」
「自業自得ですわ」
天音が胸を張ると、千隼は不満そうに頬を膨らませた。
迅は台所へ戻りながら、ほんの少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
天音はそれに気づいたが、何も言わなかった。
知らなかった時には戻れない。
けれど、知ったからといって、すべてを捨てなければならないわけでもない。
今はまだ怖い。
それでも明日の朝も、この食堂へ来よう。
天音はそう思いながら、千隼に取られないよう焼き魚の皿を少しだけ自分の方へ寄せた。
月見草のメンバーは迅さんの本来の姿を見たことがあるんですが、みんな大なり小なり驚いたり怯えていました。
灯莉ちゃんは普通の人間なのに全然怖がってないですが…
ちなみに伏線とかなんでもなくただ図太いだけです、超合金ニューZαぐらいカチカチメンタルです