柄の悪い竜と、強がりお嬢様   作:ゆゆゆい

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第五話

黒竜の影

 

 翌日の夕食も、月見荘(つきみそう)の食堂は騒がしかった。

 

「千隼。人の煮物を取らないでくださる?」

 

「一個だけだろ」

 

「その一個が、わたくしのですわ!」

 

「鶏肉一個くらいで騒ぐなよ、お嬢様」

 

「人のものを奪った側が言うことではありません!」

 

「もう食った」

 

烏丸千隼(からすま・ちはや)!」

 

「何でフルネーム!?」

 

 九条天音(くじょう・あまね)の声が食堂に響き、向かいの席にいた三枝灯莉(さえぐさ・あかり)が吹き出した。

 

 千隼は悪びれもせず、奪った鶏肉を白米と一緒に飲み込んでいる。返せと言われても、すでに腹の中ではどうしようもない。

 

 天音が箸を握ったまま睨んでいると、隣に座る狐塚小春(こづか・こはる)が、自分の皿を少しだけ寄せた。

 

「私の一個あげよっか?」

 

「結構です。小春さんの分まで減らす必要はありませんわ」

 

「遠慮しなくてもいいのに」

 

「遠慮ではありません。奪った本人に反省させることが重要なのです」

 

「してるしてる」

 

 千隼が軽い調子で言う。

 

「顔に出ておりません」

 

「心の中ではしてる」

 

「その心、ずいぶん深いところにあるようですわね」

 

 天音と千隼が睨み合う横で、真壁律(まかべ・りつ)は窓辺へ目を向けていた。

 

 そこには天音が張った虫よけの結界がある。朝に一度張り直したため、今夜も窓の外に集まる小さな羽虫は、見えない膜を避けるように進路を変えていた。

 

「持続時間は安定している」

 

「食事中まで観察しないでくださいませ」

 

「食事と観察は両立できる」

 

「しなくてよろしいです」

 

「術式そのものには干渉していないから、問題はないと思う」

 

「問題があるのは、律さんの会話の方ですわ」

 

 律は少しだけ首を傾げた。

 

 天音はため息をつきながらも、もう一度窓辺を見る。

 

 自分の結界が、今日もそこにある。

 

 戦いには使えない。人外も怪異も退けられない。九条家(くじょうけ)では術と呼ぶ価値すらないと笑われていた、小さな結界。

 

 それでも月見荘では、誰も虫を気にせずに食事をしていた。

 

 昨日ほど露骨に褒められることもない。灯莉も、小春も、すでに結界があることを当然のように受け入れている。

 

 天音には、その方が少しくすぐったかった。

 

 特別なこととして持ち上げられるのではなく、この場所で使われるものの一つになっている。それが嬉しいのだと認めるには、まだ少し抵抗があった。

 

「何ぼんやりしてんだ」

 

 低い声が飛んできた。

 

 振り返ると、黒瀬迅(くろせ・じん)が鍋を片手に立っていた。

 

「ぼんやりなどしておりません」

 

「箸止まってたぞ」

 

「考え事ですわ」

 

「飯食ってる時に考え込むな。冷める」

 

 迅は空いた場所に鍋を置くと、天音の皿を見た。

 

 先ほど千隼に奪われたせいで、煮物の中から鶏肉だけが一つ減っている。

 

「肉ねえな」

 

「そこの烏天狗に奪われました」

 

「一個だけだって」

 

「一個でも窃盗は窃盗です」

 

「物騒な言い方すんなよ」

 

「人の皿から勝手に取るからですわ」

 

 迅は千隼へ呆れた視線を向けた後、鍋から鶏肉を一つ取って天音の皿へ入れた。

 

「ほら」

 

「……子ども扱いしないでくださいませ」

 

「肉一個取られて騒いでた奴が言うな」

 

「騒いでいたのではなく、今後の秩序のために抗議していたのです」

 

「はいはい」

 

「はいは一回でよろしいですわ」

 

「はい」

 

「本当に一回にするなと、以前も言いましたわよね!?」

 

 食堂に笑いが起きる。

 

 天音は顔を赤くしながら、追加された鶏肉へ箸を伸ばした。中まで味が染みていて、噛むと出汁の香りが広がる。

 

 やはり美味しい。

 

 それを口に出すのは悔しいので、天音は何も言わずに白米を食べた。

 

 迅も感想を求めなかった。

 

 いつもの食卓だった。

 

     ◇

 

 夜半。

 

 天音は喉の渇きで目を覚ました。

 

 枕元の水差しへ手を伸ばしたものの、中は空になっていた。寝る前、小春や灯莉と話している間に飲み切っていたことを思い出す。

 

 部屋は暗く、窓の外から差し込む月明かりだけが、古い畳の上に薄い形を作っていた。

 

 天音はしばらく布団の中で迷った。

 

 朝まで我慢できないほどではない。けれど一度意識すると、乾いた喉が余計に気になってくる。

 

 仕方なく起き上がり、灰色のスウェットの上に薄い上着を羽織った。

 

 古い木の扉を開けると、二階の廊下には夜の冷たい空気が溜まっていた。壁際に置かれた大きな姿見には、薄暗い廊下が奥まで映っている。

 

 いつもなら、どこかに朽木硝子(くちき・しょうこ)の姿が見えることもある。だが、今夜の鏡には天音しか映っていなかった。

 

「硝子さん?」

 

 小さく呼んでみたが、返事はない。

 

 怪異にも睡眠が必要なのか、それとも今は別の鏡へ移動しているのか。天音には判断がつかなかった。

 

 階段へ向かうと、足元で古い床板がわずかに軋んだ。

 

 九条家の屋敷は、夜になると音を失った。

 

 使用人たちは足音を立てず、扉を閉める時にも細心の注意を払っていた。広い屋敷の中に大勢の人間がいるはずなのに、誰もいないような静けさだけが残っていた。

 

 月見荘は違う。

 

 建物そのものが呼吸するように木が鳴り、どこかの部屋で住人が寝返りを打つ。風が吹けば窓枠が震え、配管の奥を流れる水の音が壁越しに聞こえてくる。

 

 人が暮らしている音だった。

 

 だからこそ、一階へ下りた天音は、そこに混ざった異質な音へすぐに気づいた。

 

 がり。

 

 裏口の方から、硬いものが木を引っ掻く音がした。

 

 天音は階段の途中で足を止める。

 

 少し間を置いて、また同じ音が響いた。

 

 がり、がり。

 

 猫や野良犬が立てる音よりも重く、一定の間隔で同じ場所を削っている。中へ入ろうとして、扉の弱い部分を探しているようにも聞こえた。

 

 天音は息を潜めながら、残りの階段を下りた。

 

 食堂には誰もいない。台所も暗く、冷蔵庫の動作音だけが低く続いている。

 

 裏口へ近づくにつれて、湿った息遣いが混じり始めた。

 

 何かがいる。

 

 九条家で叩き込まれた知識が、天音の中で勝手に組み上がっていく。

 

 夜間に人家へ近づき、戸口を繰り返し引っ掻くもの。音に一定の意思があり、内部へ侵入しようとしている。

 

 低級怪異か、獣に近い妖。

 

 少なくとも、普通の動物ではない。

 

 天音は指を組んだ。

 

 害意を弾くほどの強い結界は張れない。それでも音を和らげたり、扉の隙間を塞いだりする程度ならできる。住人を起こすまでの時間を稼ぐことくらいは――。

 

「何してんだ」

 

 背後から声をかけられ、天音は肩を大きく跳ねさせた。

 

「ひゃっ……!」

 

 振り返ると、階段の下に迅が立っていた。

 

 黒いシャツに部屋着のズボンという格好で、髪も少し乱れている。眠っていたところを起きてきたらしいが、足音はほとんど聞こえなかった。

 

「驚かせないでくださいませ!」

 

「勝手に驚いたんだろ」

 

「夜中に背後から声をかければ、誰でも驚きますわ!」

 

「叫ぶな。向こうに気づかれる」

 

 迅が裏口へ目を向ける。

 

 その一言で、天音も声を抑えた。

 

「外に、何かおります」

 

「見りゃ分かる」

 

「なら、ほかの方も起こした方が」

 

「必要ねえ」

 

 迅は天音の横を通り、裏口の前に立った。

 

 いつもは気怠そうに細められている目から眠気が消え、扉の向こうにあるものだけを見据えている。

 

「二階へ戻れ」

 

「わたくしにも、できることがあります」

 

 天音は組んでいた指を見せた。

 

「強いものではありませんが、簡単な結界なら――」

 

「弱いから戻れって言ってんじゃねえ」

 

 迅は扉を見たまま答えた。

 

「お前が出る必要がねえから戻れって言ってんだ」

 

「ですが、月見荘の中へ入られたら」

 

「入れねえよ」

 

 扉の向こうで、何かが深く息を吐いた。

 

 獣に似た湿った音の奥に、細い人の声が重なる。

 

 ――あけて。

 

 天音の背筋を冷たいものが走った。

 

 裏口の下にあるわずかな隙間から、白い指が一本差し込まれてくる。

 

 人間の指に似ていたが、関節の数が明らかに多い。濁った皮膚の下で細い骨が不自然に折れ曲がり、その先についた黒い爪が、扉の内側を探るように動いていた。

 

「……あれは」

 

「見るな」

 

 迅が天音の前へ身体を入れ、視界を遮った。

 

 先ほどまで部屋着姿の管理人にしか見えなかった背中が、今は裏口そのものを塞ぐ壁のように見えた。

 

「二階へ戻れ。鍵かけてろ」

 

「黒瀬迅」

 

「終わったら声かける」

 

 反論を許さない声だった。

 

 怒鳴られてはいない。それでも、ここに残るなという意思だけは嫌というほど伝わった。

 

 天音は唇を結んだ。

 

「……分かりましたわ」

 

 そう答えた直後、扉が大きく震えた。

 

 向こうにいたものが、全身をぶつけたらしい。木枠が軋み、差し込まれていた指がさらに深く入り込んでくる。

 

 迅は天音が階段へ向かったことを確認すると、裏口の取っ手へ手をかけた。

 

 天音は二段目まで上がったところで、思わず振り返る。

 

 迅が扉を開けた。

 

 冷たい夜気とともに、白い腕が内側へ伸びてくる。濡れた黒髪の隙間から細長い首が覗き、その先についた女の顔が、四つん這いの身体を引きずるようにして裏口へ押し入ろうとした。

 

 人間に似てはいる。

 

 けれど、人間ではなかった。

 

 迅は伸びてきた腕を避けることもなく、怪異の顔を片手で掴んだ。

 

 鈍い音とともに、怪異の身体が扉の外へ押し戻される。そのまま迅は裏庭へ出ると、天音が立つ場所へ怪異が入り込まないよう、背中で裏口を塞いだ。

 

 扉が閉まる。

 

 天音は階段の途中に取り残された。

 

 戻れと言われた。

 

 部屋に入り、鍵をかけるべきだった。

 

 それが正しい。

 

 けれど、天音の足は二階へ向かわなかった。

 

 外から地面を擦るような音が聞こえる。続いて何かが叩きつけられ、土が低く震えた。

 

 天音は階段を下りた。

 

 自分でも、なぜ命令に逆らったのか分からなかった。

 

 心配だったのかもしれない。

 

 迅が何者なのか確かめたかったのかもしれない。

 

 火もつけずに煙草の先を焦がした指。雨の夜、天音を抱えて裏口へ運んだ迅の背後に一瞬だけ浮かんだ、獣のような黒い影。硝子が比喩だと言い張った「竜」という言葉。

 

 見なければならないと思った。

 

 天音は裏口へ近づき、音を立てないように扉をわずかに開けた。

 

 細い隙間から、月明かりに照らされた裏庭が見える。

 

 怪異は地面へ伏せていた。

 

 女に似た上半身から異様に長い四肢が伸び、黒い爪が土を掻いている。細長い首を持ち上げた怪異は、口を大きく裂くと、向かいに立つ迅へ再び飛びかかった。

 

 迅は避けなかった。

 

 怪異の爪が、右腕へ振り下ろされる。

 

 肉を裂く音を覚悟した天音の耳に届いたのは、硬い金属同士をぶつけたような甲高い音だった。

 

 迅の腕を覆っていたのは、皮膚ではない。

 

 指先から肘の上まで、濡れた夜のような黒い鱗がびっしりと浮かび、その先では人間のものより鋭く伸びた爪が、怪異の腕を掴み止めていた。

 

 顔を上げた迅の瞳には、獣じみた赤い光が宿っている。

 

 天音は息をすることさえ忘れた。

 

 迅が怪異の腕を引く。

 

 四つん這いの身体が宙へ浮き、そのまま地面へ叩きつけられた。土が沈み、怪異の喉から甲高い悲鳴が漏れる。

 

 それでも怪異は動きを止めず、もう片方の腕を迅の首へ伸ばした。

 

 次の瞬間、迅の背中から黒いものが開いた。

 

 肩甲骨のあたりから太い骨組みが伸び、その間を黒い皮膜が埋めていく。片側だけ現れた大きな翼が月明かりを遮り、月見荘の壁に人間ではあり得ない影を落とした。

 

 雨の夜、天音が意識を失う前に見た黒い影。

 

 あれは、熱に浮かされた自分が見た幻ではなかった。

 

 迅が翼を振るうと、裏庭の空気が爆ぜた。

 

 怪異の身体は地面を離れ、庭の隅まで吹き飛ばされる。古い木箱が砕け、その破片と土埃が周囲へ散った。

 

 扉の隙間から覗いていた天音の髪も、吹き込んだ風に大きく揺れる。

 

 迅が振り返った。

 

 赤い目が、天音を捉える。

 

 天音は一歩、後ろへ下がった。

 

 考えるより先に、身体が動いていた。

 

 目の前にいるものは、人間ではない。

 

 九条家で繰り返し教え込まれてきた、人外だった。

 

 人とは異なる身体を持ち、人間を簡単に壊せる力を持つもの。警戒し、性質を見極め、必要なら封じ、討つべきもの。

 

 怖い。

 

 胸の奥から湧き上がった感情を、天音は否定できなかった。

 

 迅の表情から、わずかに力が抜けた。

 

 怒ったのではない。

 

 天音を責めるような顔でもなかった。

 

 ただ、そうなることを最初から知っていたような、妙に乾いた諦めが浮かんでいた。

 

「……見んなっつっただろ」

 

 声は、いつもの迅のものだった。

 

 けれど、普段よりも遠く聞こえた。

 

 迅の腕を覆っていた黒い鱗が、ゆっくりと皮膚の下へ沈んでいく。背中の翼も形を崩し、夜の暗がりへ溶けるように消えた。

 

 瞳から赤い光が失われる。

 

 そこに立っているのは、いつもの柄の悪い管理人だった。

 

 右袖は怪異の爪で裂かれていたが、その下の腕には傷一つ見当たらない。

 

「二階戻れ」

 

 迅は天音から視線を外した。

 

「残り片付ける」

 

「……黒瀬、迅」

 

「いいから」

 

 倒れていた怪異が、木箱の破片の中で身じろぎする。

 

 まだ動けるらしい。

 

 迅はそちらへ向き直った。

 

 天音は裏口に立ったまま、動くことができなかった。

 

 違うと言いたかった。

 

 後ろへ下がったのは、迅を拒絶したからではないと伝えたかった。

 

 だが、怖くなかったと言えば嘘になる。

 

 喉の奥が震え、言葉にならない。

 

「……ごめんなさい」

 

 ようやく出た声は、あまりにも小さかった。

 

 迅の足が一瞬だけ止まる。

 

 それでも振り返らなかった。

 

「謝んな」

 

「ですが、わたくしは」

 

「怖ぇなら、それでいい」

 

 責める響きはなかった。

 

 だからこそ、その言葉が天音の胸に深く刺さった。

 

「よくありません」

 

「何が」

 

「分かりません」

 

 天音は握った手を胸元へ押し当てた。

 

「何と言えばいいのかも、分かりません。ですが……それでいいとは思えませんわ」

 

 迅はしばらく黙っていた。

 

 裏庭には怪異が土を掻く音だけが続いている。

 

 やがて迅は面倒くさそうに頭を掻いた。

 

「今は考えなくていい」

 

「でも」

 

「夜中だぞ。寝ろ」

 

「そういう問題では――」

 

「明日、顔見て無理そうなら食堂来なくていい。飯は部屋の前に置く」

 

 天音は目を見開いた。

 

「なぜ、そうなりますの?」

 

「俺が怖ぇなら、無理して同じ部屋で飯食う必要ねえだろ」

 

「わたくしは、そこまで言っておりません」

 

「手ぇ震えてる奴が言うな」

 

 指摘されて初めて、天音は自分の指先が震えていることに気づいた。

 

 握り込んでも、完全には止まらない。

 

「……これは」

 

「無理すんな」

 

 迅の声が少し低くなった。

 

「九条の人間が、人外見て怖がるのは普通だ」

 

「普通だからといって、正しいとは限りませんわ」

 

「別に正しいとも間違ってるとも言ってねえよ」

 

 迅はそれ以上話すつもりがないように、怪異へ歩いていく。

 

「戻れ。今度こそな」

 

 天音は呼び止められなかった。

 

 迅は怪異の首元を片手で掴み上げ、そのまま庭の奥へ引きずっていく。細長い四肢が土の上を擦り、やがて暗闇の向こうへ消えた。

 

 天音は一人、開いた裏口の前に残された。

 

     ◇

 

 部屋へ戻っても、天音は眠れなかった。

 

 布団に入って目を閉じるたび、暗闇の中に赤い瞳が浮かんでくる。黒い鱗に覆われた腕と、月明かりを遮った大きな翼も、鮮明に思い出せた。

 

 怖かった。

 

 それは否定できない。

 

 迅は、人間ではなかった。

 

 その腕力も、身体も、背中から現れた翼も、九条家で教えられてきた人外の特徴と重なる。天音程度の術では傷一つつけられず、その気になれば抵抗する間もなく殺されるだろう。

 

 けれど迅は、天音へ爪を向けなかった。

 

 裏口で怪異が入り込もうとした時も、天音の前に立って視界を塞いだ。外へ出る時には自分の背中で入口を塞ぎ、怪異が天音のいる場所へ向かわないようにしていた。

 

 あの鱗も、翼も、赤い目も。

 

 月見荘と、そこにいる天音を守るために現れたものだった。

 

 頭では分かる。

 

 それでも身体は後ろへ下がった。

 

 迅は、それを見た。

 

「……最低ですわ」

 

 天音は布団の端を握りしめた。

 

 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。

 

 九条家の教えを捨てきれない自分へなのか。

 

 守られた直後に、守った相手を怖がった自分へなのか。

 

 それとも、天音が怖がることを簡単に受け入れ、自分から距離を取ろうとした迅へなのか。

 

 悔しくて、苦しくて、胸の奥が落ち着かなかった。

 

 その時、扉の外で床板が小さく鳴った。

 

 天音は顔を上げる。

 

 足音はすぐに止まり、続いて何かが床へ置かれる控えめな音がした。

 

 天音は布団から出ると、古い木の扉へ近づいた。

 

 すぐには開けられなかった。

 

 扉の向こうに迅がいるかもしれないと思うと、指先がまたわずかに震える。

 

 それでも天音は取っ手を掴み、ゆっくりと扉を開けた。

 

 廊下には誰もいなかった。

 

 足元に、水の入ったコップが置かれている。

 

 喉が渇いて一階へ下りたことを、迅は覚えていたらしい。

 

 その横には小さな皿があり、切り分けられた林檎が数切れ並んでいた。

 

 食欲がないと思ったのかもしれない。

 

 あるいは、単に夜食として用意しただけかもしれない。

 

 迅は何も言わず、姿も見せずに立ち去っていた。

 

 怖がらせないために。

 

 そう考えた瞬間、天音の胸がまた痛んだ。

 

「……黒瀬迅」

 

 暗い廊下へ向かって呼びかける。

 

 返事はない。

 

 ただ、階段の方で古い床が一度だけ軋んだ。

 

 まだ遠くには行っていない。

 

 けれど、戻ってくることもなかった。

 

 天音はコップを持ち上げる。

 

 水は冷たかった。

 

 いつもの水だった。

 

     ◇

 

 翌朝。

 

 天音は食堂へ下りるべきか、長い時間迷っていた。

 

 迅は、無理なら来なくていいと言った。

 

 食事は部屋の前へ置くとも言った。

 

 ならば、ここにいればいい。

 

 怖いものから距離を取り、性質が分かるまで警戒する。九条家で教えられた通りに考えれば、それが正しい選択だった。

 

 ちゃぶ台の上には、昨夜の空になったコップと皿がある。

 

 迅が置いていったもの。

 

 怖がらせないよう、扉を叩くことすらしなかった男が置いたものだった。

 

 天音はそれを見つめたまま、布団の上で膝を抱えた。

 

 迅が人外であることと、迅がこれまで天音へしてきたことは、どちらも事実だ。

 

 卵粥を作った。

 

 部屋を用意した。

 

 皿の洗い方を教えた。

 

 電子レンジや洗濯機を使えなくても、追い出さなかった。

 

 役に立つ術を、役立たずのように言うなと叱った。

 

 そして昨夜、怪異から守った。

 

 あの黒い翼だけを見て、それまでのすべてをなかったことにするのは、本当に正しいのだろうか。

 

 答えは出ない。

 

 怖さも消えていない。

 

 それでも天音は、部屋の中に閉じこもったままでは何も分からないと思った。

 

 立ち上がり、扉を開ける。

 

 階段を下りるにつれて、食堂から住人たちの声が聞こえてきた。

 

「千隼、寝ながら食うな」

 

「寝てねえ」

 

「目開いてねえだろ」

 

「心の目で食ってる」

 

「朝飯で修行すんな」

 

 迅の声だった。

 

 昨夜と変わらない、柄の悪い管理人の声。

 

 食堂の入口まで来た天音は、そこで足を止めた。

 

 長いテーブルには、いつもの住人たちがいる。

 

 灯莉はトーストへジャムを塗り、小春は湯呑みを両手で包んでいる。律は新聞を読みながら味噌汁を飲み、千隼は半分閉じた目で白米を口に運んでいた。

 

 硝子は窓際の席で、朝の光を浴びる湯気を眺めている。

 

 迅は台所に立っていた。

 

 昨夜と同じ男だ。

 

 けれど天音には、もうただの人間には見えない。

 

 あの背中から黒い翼が現れた。右腕は鱗に覆われ、瞳は赤く光った。

 

 思い出しただけで、足が少し竦む。

 

 迅が振り返った。

 

 目が合う。

 

 食堂の音が、一瞬だけ遠くなったように感じられた。

 

 迅は天音の顔と、入口から動かない足元を見た。

 

「朝飯、部屋に持ってく」

 

「待ちなさい」

 

 天音は反射的に声を上げた。

 

 迅の動きが止まる。

 

 食堂にいた住人たちも、会話をやめて天音を見た。

 

 天音はその視線に怯みそうになりながら、背筋を伸ばす。

 

「ここで食べますわ」

 

「無理すんな」

 

「無理などしておりません」

 

「手、震えてんぞ」

 

 天音は自分の手を見る。

 

 上着の裾を掴んでいる指が、わずかに震えていた。

 

 隠せているつもりだった。

 

 悔しかった。

 

 それでも、食堂から逃げる理由にはしたくなかった。

 

「……震えていても、食事くらいできます」

 

「九条」

 

「怖くないとは言いません」

 

 天音が口にすると、食堂の空気が静まった。

 

 昨夜と同じように喉が乾く。

 

 それでも今度は、目を逸らさなかった。

 

「昨夜のあなたは、怖かったです。普通の人間ではないことも分かりました」

 

「そうだな」

 

 迅は否定しなかった。

 

「あなたがその気になれば、わたくしでは何もできないことも」

 

「……」

 

「ですが、あなたがわたくしを傷つけなかったことも分かっています。怪異を月見荘へ入れなかったことも、わたくしを先に逃がそうとしたことも」

 

「だから何だ」

 

「だから、分からないのです」

 

 天音は正直に答えた。

 

「あなたの姿は怖い。ですが、あなたが怖い方だとは、まだ思えません」

 

「思いたくねえだけかもしれねえぞ」

 

「そうかもしれません」

 

 迅を信じたいから、自分に都合よく考えているだけなのかもしれない。

 

 それでも、最初から結論を決めてしまうよりはましだと思った。

 

「ですから、確かめます」

 

 迅の眉がわずかに動いた。

 

「何を」

 

「あなたが何者なのか。どれほど危険なのか。何を考えて、わたくしたちをここに置いているのか」

 

「面倒くせえこと言い出したな」

 

「あなたが何も説明しないからでしょう!」

 

「聞かれてねえ」

 

「正体を尋ねれば、どうせ誤魔化しますわ」

 

「分かってんじゃねえか」

 

「開き直らないでくださいませ!」

 

 思わず声を張ると、張り詰めていた食堂の空気がわずかに緩んだ。

 

 灯莉が口元を押さえ、小春も安心したように小さく笑っている。

 

 天音は一度息を整え、迅を見た。

 

「知らないまま怖がるのは、九条家で教わったことと同じですわ」

 

「警戒すんのは悪いことじゃねえぞ」

 

「ええ。ですから警戒はします」

 

「するのかよ」

 

「当然でしょう。あなたは危険ですもの」

 

 迅が顔をしかめる。

 

 天音は震える指を握り込んだ。

 

「怖さが消えるまでは、少し時間がかかると思います。ですが、部屋に閉じこもっていても、何も分かりません」

 

「……」

 

「ですから、ここで食べます」

 

「理屈になってねえ」

 

「わたくしの中ではなっております」

 

「頑固だな」

 

「あなたに言われたくありませんわ」

 

 迅はしばらく天音を見つめた。

 

 赤くない、いつもの目だった。

 

 それでも、その奥に昨夜の光を思い出してしまう。天音の身体はまだ完全には安心していない。

 

「いいんじゃない」

 

 窓際から、硝子が静かに口を挟んだ。

 

 天音がそちらを見ると、硝子は湯呑みを手にしたまま、朝の光が差す窓へ目を向けていた。

 

「怖いなら、怖いままで。無理に消そうとすると、余計に目を離せなくなるものよ」

 

「硝子」

 

 迅が低く呼ぶ。

 

「何かしら」

 

「余計なこと言うな」

 

「余計かどうかは、天音が決めることでしょう」

 

 硝子はようやく天音を見た。

 

「迅が人間ではないことと、あなたに飯を作ったことは、どちらも本当。それだけ覚えておけば十分よ」

 

 天音はすぐには答えられなかった。

 

「……硝子さんは、怖くありませんの?」

 

「迅が?」

 

「ええ」

 

 硝子は少しだけ考えるように目を細めた。

 

「怖いわよ」

 

 あまりにもあっさりと言われ、天音は目を瞬かせた。

 

「怖いものと一緒に暮らせないなら、私はとっくに月見荘を出ているわ」

 

「お前も大概怖ぇだろうが」

 

「お互い様ね」

 

 硝子は涼しい顔で湯呑みに口をつけた。

 

 張り詰めていた食堂の空気が、そこで少しだけ緩んだ。

 

 迅は面倒くさそうに息を吐く。

 

「勝手にしろ」

 

「ええ。そうします」

 

 迅は台所へ戻り、用意していた朝食を天音の席へ運んだ。

 

 白いご飯。味噌汁。卵焼き。小さな焼き魚。

 

 昨日までと変わらない朝食だった。

 

 天音はいつもの席へ向かいかけ、足を止める。

 

 その席は、迅が料理を運ぶ台所に比較的近い。

 

 昨夜のことを思い出すと、すぐそばに座る勇気はまだなかった。

 

 結局、天音は長いテーブルの端へ腰を下ろした。

 

 迅から最も離れた席だった。

 

 自分でも分かっている。

 

 迅も気づいているだろう。

 

 それでも、誰も何も言わなかった。

 

 小春は天音に必要以上の気遣いを見せず、灯莉も無理に話しかけない。律は新聞へ視線を戻し、硝子は湯呑み越しに静かに天音を見ていた。

 

 千隼だけは、半分眠ったまま天音の皿へ視線を送っている。

 

 天音は箸を取った。

 

 まだ少し指が震えている。

 

 卵焼きを掴むのに一度失敗し、皿の上へ落とした。

 

「力入りすぎじゃね?」

 

 千隼が眠そうな目のまま言った。

 

「黙って食べなさい」

 

「俺、親切で言ったんだけど」

 

「あなたの親切は信用できませんわ」

 

「昨日の鶏肉、まだ根に持ってんの?」

 

「当然です」

 

 言い返す声は、思ったよりいつも通りに出た。

 

 灯莉がほっとしたように笑い、小春も湯呑みの向こうで目を細める。

 

 天音はもう一度箸を動かし、今度こそ卵焼きを口へ運んだ。

 

 ほのかに甘い。

 

 昨日までと同じ味だった。

 

 黒い鱗を持つ腕で作られたのかもしれない。大きな翼を隠した男が焼いたものかもしれない。

 

 それでも、この味まで嘘になるわけではなかった。

 

「……少し甘すぎますわ」

 

 天音が言うと、台所にいた迅が振り返った。

 

「昨日は何も言わずに食ってただろ」

 

「昨日は昨日です。今日は少し甘い気分ではありませんの」

 

「面倒くせえ客だな」

 

「客ではありません。居候ですわ」

 

「威張るな」

 

「事実を述べただけです」

 

 迅は呆れたように鼻を鳴らした。

 

 けれど、部屋へ食事を運ぶとはもう言わなかった。

 

 天音が座っているのは、迅から最も遠い席だった。昨夜までと同じ距離には、まだ戻れない。

 

 怖さも消えていない。

 

 迅が少し大きく腕を動かすだけで、黒い鱗を思い出す。背中を向けられれば、そこから翼が開く光景が浮かんでしまう。

 

 それでも、天音は食堂にいる。

 

 灯莉がパンを食べ、小春が湯呑みを傾け、律が新聞を読み、千隼が天音の焼き魚へ視線を向けている。

 

「今、わたくしの焼き魚を見ていましたわね」

 

「見ただけだろ」

 

「目が盗人のものでした」

 

「どんな目ですの、それ」

 

 灯莉が笑う。

 

「わたくしが知りたいですわ!」

 

「いや、取らねえって。今日は」

 

「今日は?」

 

「明日は分かんねえ」

 

「やはり盗人ではありませんか!」

 

 天音の声に、食堂のあちこちから笑いが返った。

 

「千隼」

 

 迅が台所から低く呼ぶ。

 

「何すか」

 

「天音の皿に手ぇ出したら、明日の肉なしな」

 

「俺だけ!?」

 

「前科があるからだ」

 

「横暴だろ!」

 

「自業自得ですわ」

 

 天音が胸を張ると、千隼は不満そうに頬を膨らませた。

 

 迅は台所へ戻りながら、ほんの少しだけ肩の力を抜いたように見えた。

 

 天音はそれに気づいたが、何も言わなかった。

 

 知らなかった時には戻れない。

 

 けれど、知ったからといって、すべてを捨てなければならないわけでもない。

 

 今はまだ怖い。

 

 それでも明日の朝も、この食堂へ来よう。

 

 天音はそう思いながら、千隼に取られないよう焼き魚の皿を少しだけ自分の方へ寄せた。

 




月見草のメンバーは迅さんの本来の姿を見たことがあるんですが、みんな大なり小なり驚いたり怯えていました。

灯莉ちゃんは普通の人間なのに全然怖がってないですが…
ちなみに伏線とかなんでもなくただ図太いだけです、超合金ニューZαぐらいカチカチメンタルです
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